伯爵家嫡男の華麗なる日常 ~実際はそうでもない~

沢丸 和希

第1章 歩いていただけなのに

1-1  巷で噂の三人組


 西洋文化が入り混じるモダンな時代、明治。


 特に東京の変化は著しく、街並みや生活の外国化だけでなく、教育面でも大いに影響を受けていた。

 初等教育の充実、教育の機会均等、師範学校や女学校、各分野の専門学校などが次々に設立されていく。


 日本最高峰の教育機関として、東京帝国大学も本郷に設けられた。

 お陰で全国から立身出世を夢見る若者が集まり、本郷界隈には下宿屋が立ち並んだ。他にも書店や勉学に必要なものを取り扱う店が集まり、学生街として知られるようになる。


 そんな学生街の大通りに集まる若い娘達。三・四人ずつ固まり、通りの両端に点々と佇んでいる。

 内緒話をするように顔を突き合わせているものの、目だけは一様に同じ方向を窺っていた。



「あ、いらっしゃったわ」



 とある女子集団が色めき立つ。黄色い声は、通りの反対側からも小さく上がった。



 彼女達の視線の先にいるのは、帝国大学の学生服に身を包む、三人の青年。



 一人は朗らかな顔で笑い、楽しそうに口を動かしている。

 一人は呆れ顔で鼻を鳴らし、語られる話に茶々を入れていく。



「あぁ、不破ふわ様ったら。今日も笑顔が可愛らしいわ」

近嵐ちからし様も、相変わらずやる気がなさそう。子爵様にこんな事を言うのも失礼だけれど、なんだか安心するわ」

「でもそこがいいのよ。いかにも頑張っていませんよという顔をしておいて、平然と難しい問題を解いてしまわれるのだから。流石は裁判官の頂点である、大審院だいしんいんちょうのお孫さんよね」

「それを言うなら、不破様だって凄いわ。あまりの武術の才能に、武功で成り上がった男爵家へ引き取られたという話なんですもの。あんなに母性を擽る愛らしさで、そんなにお強いだなんて。はぁ、素敵」



 また別の女学生達が、通りを進む男子学生三人を盗み見る。



「うーん。私、やっぱり近嵐様派かなぁ」

「えー、絶対不破様の方がいいよ。一緒にいて楽しそうだし」

「そうだけど、でも、近嵐様の不意に見せる笑顔が、なんか、いいなーって思って」

「あ、分かる。分かるけど、でも私は不破様派。浮気はしない。絶対」

「じゃあ、もし近嵐様が、一緒にお茶でもしないかって誘ってきたら、どうする?」

「勿論断るよ。だって私は不破様一筋だもん。この気持ちは揺らいだりしないんだから」

「そっかぁ。ならさぁ」


 と、女学生は、徐に視線をずらす。



 笑顔の学生と呆れ顔の学生の間にいる、涼しげな顔をした学生を、見つめた。




御先みさき様に、一緒にお茶でもしないかって誘われたら?」




 もう一人の女学生も、同じ方向を見つめる。


「それは勿論……行くよ」

「行くんだっ」

「だって御先様だよ? 容姿端麗。成績優秀。性格も穏やかで、しかも伯爵家の次期当主だよ。そりゃあ行くでしょ。不破様を捨ててでもさ」

「うわぁ、酷い女」



 笑いを押し殺す女学生達の向かい側では、小間物屋の影から幼い姉妹が様子を窺っていた。



「ねー、お姉ちゃーん。早く行こうよー」

「ちょ、ちょっと待って。まだ、心の準備が……」

「そんなのいらないでしょー? ただ御先様達の前に行って、『先日は、危ない所を助けて下さって、ありがとうございました』って言うだけでしょー?」

「そ、そうだけど、それでも、心の準備は必要なのっ」

「もー。破落戸ごろつきに囲まれた時の威勢はどこにいったのー? いいからほら、行こうってー。うだうだしてたら、御先様達行っちゃうよー?」


 妹の言い分に、姉は言葉を詰まらせる。それでも中々足は前へ出なかった。



 周りから、自分と同じく学生街で待機していた娘達の声が、聞こえてくる。




「知ってる? 御先様って、学内の武術大会では負けなしらしいわよ?」


「でも全然乱暴じゃないし、寧ろ物静かで、控えめな方なんだって。ご自分の身分をひけらかしたりもしないし、伯爵家を継ぐにふさわしい清廉潔白な方だってもっぱらの噂でさ」


「御先様に助けて頂いた、という子も沢山いるよね。颯爽と現れ、狼藉者をあっという間に追い払ったのだとか」


「二十人を相手に大立ち回りをしたっていう話もあるし、警察も真っ青な腕前らしいよ」


「凄いわよねぇ。流石はこのご時世に、あれだけ各方面で活躍しては、繁栄の一途を辿っている一族の生まれなだけあるわよね。しかも総本家よ、総本家。そこの嫡男なの」


「神田にある御先邸には、大きな桜の木が植えられているんですって。春になると、それはそれは綺麗な花を咲かせるんだとか」


「御先の血を引く方々が一同に集まり、お花見をするという噂も聞いた事があるけれど」


「御先一族が一挙に集まるとか、想像しただけで壮観だわー」




 嘘か誠か分からない話を聞けば聞く程、姉の腰は引けていった。

 遂には一歩後ずさる。


「ちょっとー、お姉ちゃんなに逃げようとしてんのさー。ほら、前出て前出てー」

「で、でも、やっぱり、私如きが、話し掛けるだなんて……」

「じゃあ、あたし一人で行ってくるからねー。お姉ちゃんはここで待っててー」

「ちょ、ちょちょちょっ。待って待ってっ、置いていかないでっ。私も行くからっ」

「もー、なら早くしてよー。はい、はーい」

「わぁっ。ま、待ってっ、押さないで押さないでっ。心の準備がまだっ、うわぁぁぁっ!?」


 小間物屋の影から飛び出そうになった姉は、慌てて壁にしがみ付いた。どうにか踏み止まれ、ほっと息を吐き出す。



 すると、件の御先という学生が、振り返った。



 端正な顔に静かな表情を浮かべ、じっと幼い姉妹を見つめる。



 目が合った姉は、控えめな声を零し、妹に身を寄せた。

 その頬は、ほんのりと赤く染まる。




 男子学生は、ゆっくりと瞬きをすると、己の学帽の鍔を摘まんだ。

 軽く持ち上げ、目を伏せると、流れるように前を向いた。




 姉は目を丸くしたまま、遠ざかる三つの背中を見つめる。


「……今の、見た?」

「うん、見た見たー。御先様、あたし達に帽子をこーやって持ち上げてくれたねー」

「あれって、さ。つまりは、その……」

「あたし達に、挨拶してくれたって事じゃないのー? やったねお姉ちゃーん。御先様、あたし達の事覚えててくれたみたいだよー」


 茫然とする姉の顔に、じわじわと気色が浮かんでいく。



 賑やかな歓声が、通りに響き渡った。


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