8 重なる記憶

 「入れ」という声に応じてハインツは入室し、後ろ手に扉を閉める。

 城館の三階の端に位置するその書斎は、たよりなげな壁の燭台の灯火と、開いた窓から差し込む眩しいほどの満月の光に照らされていた。普段着に着替えたジェラルドは窓辺に立ったまま、ハインツを近くに呼び寄せた。


「お呼びでしょうか」


 ジェラルドはハインツの声に鷹揚に頷いただけで、そのまま視線を窓の外の月に、そして眼下に広がる闇に溶け込んだ森に落とした。三階ともなれば城壁の外に広がる森が見渡せる。この大地の全てを飲み込んでしまったかと思わせるような、深く、濃い、針葉樹の大森林。

 僅かに、風に乗ってきたのだろう。遥か遠くから獣の遠吠えが聞こえた気がした。


 ハインツがじっと待っていると、やがてジェラルドは振り返った。やや細い目をさらに細めると、淡褐色の瞳に光が増す。月明かりに鈍い光をたたえて、ハインツを見つめる視線は鋭かった。


 今年三十三歳になるジェラルドは背もそれほど高くはなく、今の姿のような絹服はもちろん、甲冑をまとった時もやや細身に見える方だが、実際は全身が鋼のような筋肉に包まれていて、剣の腕も槍の腕もこの国の騎士を統括する騎士団長の名に恥じぬ技量を持っている。

 国一番の騎士と呼ばれ、外国からもウルムヴァルドにこの戦士ありと噂される豪傑だが、今は――月の青い光のせいだろうか。その表情にいつもの不敵さは無かった。むしろなにか儚くもろいものが感じ取れる。


 やがて、ゆっくりとした口調で、ジェラルドはハインツに尋ねた。

「お前、この城砦に来て何年になった。覚えているか」

「五年です」

 抑揚の無い声で、ハインツは答えた。

「そうだな。お前を森で拾ったのはユッテとカミルがまだアマリエの腹の中にいた頃だった。がりがりに痩せていたチビだったが、大きくなったものだ」

「縁もゆかりもない浮浪児であった僕を、ここまで育てて頂いたご恩、忘れてはおりません。旦那様から、『ハインツ』というこの名も頂きました」


 目礼するハインツを、じっとジェラルドは見つめている。月夜に光る白金色の髪が、一束さらりと耳元から流れた。


「……その前に会ったのは、いつか、分かるか」


 顔を伏せたまま、ハインツは動きを止めた。だが一呼吸後に無表情でジェラルドを見上げる。琥珀色の瞳がやや赤みを帯びた。


「その、三年前です」

「そうだ。森の奥深く。粗末な小屋の中で、お前は俺に吠え立てていた――小さな仔狼の姿で」


 ジェラルドは一歩進み出た。手を伸ばして、ハインツの頭髪を一房すくう。白金色。あの仔狼のたてがみと同じ色。八年前の森の奥の風景が、ジェラルドの瞼の裏に蘇った。おそらくは、ハインツにも。


「お前は、あの魔女の使いなんだな? あの時約束した『代価』を受け取りに来たんだな?」

 それは問いではなかった。ハインツは顔色を変えず、こくりと頷く。

「……はい。旦那様は最初から知ってたんでしょう?」

「そりゃ一目で分かるだろう。こんなにも同じ色で」

 言い切るジェラルドに、ハインツはやや首を傾げた。

「変わった方だって、ずっと思っていました。分かっていながら、なんで放っておくどころか、こんな厚遇までしてくださったんです? 拾ってくださったとき、回りはみな僕を知恵遅れの浮浪児と思ってたんです。何か理由をつけて斬って捨てることだってできたでしょうに」


 しかし五年前のジェラルドはそのままハインツを連れ帰り、食事に着物、日々の仕事、名前を与えた。そして今では当たり前のように夕食の席に呼ばれるほどに、家族同然の扱いを受けている。そのため幼子の子守役まで任されて――とまでハインツは言わなかったが。


「約束は、約束だからな」

 小さくジェラルドは息を吐いた。

「魔女の薬は、約束通りアマリエの病を癒してくれた。約束通り、ローザが嬉しそうに母親の胸に飛び込む姿を、俺に見せてくれた。ならば俺も、約束の『代価』は払う。それは当然の話だろう。それにあの時はな……」

「あの時は?」

「ちょうどアマリエが身重で、館の家事の切り盛りに人手が足りなかった。それだけだ」

「は?」

 ハインツの表情から、緊張がころりと転がり落ちた。

「お前がその場で俺の命を奪っていくのでないのなら、じゃあちょっと家事を手伝ってもらうかと、そう思っただけだ。ただ飯を食わせたつもりはない。事実お前は掃除、洗濯、料理に武具の手入れ、馬の世話から薬草園の手伝いまで、何をやらせても素直によく働いてくれたろう。今では子ども達の遊び相手も」

「それが一番の重労働なんですけど」

「感謝している」

 大きな音を立てて、ジェラルドはハインツの肩を叩いた。にやりとわずかに口元を歪ませたが、やがてすぐに表情を戻す。叩かれた肩が若干痺れたのを手で摩り、ハインツはジェラルドに向き直った。


「――で? わざわざそれを確認するためにお呼びになったのですか? グリータ――貴方のいう『魔女』のことですけど、僕がそのグリータの使いだと」

「いや。それだけじゃない。……狼の話は聞いただろう。今日、アマリエとローザが襲われかけた」

「聞きました。耳を塞いだって聞こえてきますよ。旦那様自ら兵を率いて出陣されたんですから、そりゃ城砦内は大騒ぎです」

「お前も知ってるだろうが、ウルムヴァルトの森は昔から狼の生息地でもある。人里を襲うこともそう珍しいことじゃない」


 だが、もともと狼は人とは距離を置いた生物だ、とジェラルドは言った。よほど飢えたとき以外は人間を見れば逃げ出すし、集落を襲う目的は家畜や人間の残飯だ。群れで行動するが、大抵は一群でも十数匹程度である。


「それが、今日のように百匹近く一度に現れ、それも最初からあのように人間に敵意を向けるなど、聞いたことがない」


 ハインツは黙ったままだ。ジェラルドは樫の木で作られた机に、城砦周辺の地図を広げた。

 狼の群れが現れたのは今日の一件だけではなかった。数ヶ月前から時折周辺の人里で、黒狼の群れを見かけたとの通報がこの城砦に入っていたのだ。ジェラルドは地図の上を次々に指さしていく。二月前にはゼルプ村、その十日後にグーベン・キュルツの街、今から十二日前に、ハーナウ村。その指の軌跡は北の山岳地帯から徐々にこの城砦に伸びていた。


「……それでも不思議なことに今までほとんど被害はなかった。人死にはもちろん、家畜にもだ。今日も、狼の出現に驚いた隊商が慌ててこの城砦に逃げ込んできたので出撃したが、隊商と対峙していた狼たちは追い払うとすぐに逃げていった。だがな、その後の、アマリエ達を取り囲んでいた狼たちは違った」

 ジェラルドは一瞬、眼光鋭くハインツをねめつけた。月に陰ったハインツの表情は静かである。

「アマリエも護衛につけてた兵士達も、狼たちの血に飢えたような戦意を感じ取っていた。事実、俺の隊が駆けつけ矢を射かけても、半数は逃げるどころか反対に牙を剥いてきた。狙いは、分からん。アマリエとローザだったからなのか、それとも、俺自身が行ったからか」

「……なぜ、そんな話を僕に?」

「狼はお前も含め、『魔女』の眷属だろう」


 ――古くからウルムヴァルドの伝承の一つ。

 『魔女』はかつて薬草学に長けた人間の乙女であった。薬を巡るいざこざで人々に生きながら焼かれそうになったところを、かつて病から救った白金色の大狼に救い出され、森の奥に隠れ住むようになった。

 ウルムヴァルドの民ならば子どもの頃に一度は聞かされるおとぎ話。だが八年前、アマリエを襲った熱病に万策尽きたジェラルドは、架空の物語と覚悟しつつ単身森の奥へ赴き、その魔女から薬をもらい受けた……。


 ハインツは、空気の重苦しさを感じたのか、払うように頭を軽く振った。

「はあ、まあ、そうです。確かにあの『黒狼』は僕の親戚みたいなものですけど、実際はちょっと違って……」

 もごもごと、説明しづらげにハインツは言葉を濁す。ジェラルドが静かに続きを促した。

「あの黒狼たちも、お前と同様『魔女』に使わされてここに来てるんじゃないのか?」

「……さあ、どうでしょう」

 はぐらかしたかのような回答に、ジェラルドはかえって確信を持った。


「お前が、俺の元に来てもう五年。その間いっこうに『代価』を得て森に帰ろうとしなかったから、それに痺れを切らして、新たな使いを俺の所に寄越した。違うか?」


 鋭いジェラルドの眼光は、しかしハインツには無言のまま、柔らかく跳ね返された。ハインツは頭の中で言葉を選ぶように考え込んでいたが、ちらちらと何度かジェラルドの顔を見やって、ようやく口を開いた。

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