4 出現

 見えぬはずの森の風景が幻覚のように視界に映る。


 木々の合間を走り抜ける黒い光。陽の光を通さぬ幹の間を、閃光となって駆け抜ける、影。

 一つではなかった。幾つもの黒光りする影があちらに、そしてこちらに。群れとなって流れる様は流星群のようだ。


 光は森を抜け、岩山を駆け上り、薄曇りの空に向かって牙を剥く。そう、その光は――獣であった。


 はっとなったハインツの耳を、その咆哮は揺さぶった。


 ……ウォオオオオオオ………ォン。 


 明らかに空気の音とは異質な、生命の温もりを内包したかのような鳴き声。

 今一度、風がうなりを上げる。再び、その声が風の芯となって響き渡った。




 ――くい、っと手を引かれてハインツは我に返った。


 がくんと視界が傾きそして元に戻ったかのようだ。意識そのものが正しくあるべき場所からずれてしまった、そんな違和感を覚えたとき、目の前の情景はいつもの城砦の内側に戻っていた。


 幻覚――。だが、ハインツは完全にもといたこちら側に戻れたように思えない。


 もう一度、手を引かれる。彼の両の手を引く小さな二つの手のひら。その持ち主が、じっと緑の双眸を見開いてハインツを見上げていた。

 もう一度、風が唸る。大きく、鋭く。

 その音が止んだとき、ハインツは小さな声で双子達に囁いた。


「お二人にも……分かるんですね」

 しばらく押し黙った後に、ユッテとカミルは同時に頷いた。

「おそと……ざわざわしてたの」

「いっぱいいたのよ。すごくはやく、走ってた……」

「だから、外を見たかったんですか? 塔の上からなら、見えると?」

 うん、と答えた二人は、何度も瞼を瞬かせていた。


 その時、ざわっとした空気が一瞬にして周囲に広がった。

 城砦の中央、城館と呼ばれる館の手前で人馬が行き交う姿がやけに目につく。その多くは武装した騎士たちで、彼らが手綱をとる馬たちもやや興奮気味にいなないている。

 背後のホルガーの表情と姿勢が一瞬で変わった。


 この城砦はウルムヴァルド王国騎士団の駐留地だが、平時は練兵場で行われる訓練以外、このような物々しい雰囲気に包まれることはまずない。だが今、騎士たちは剣を帯び槍を手にし、列を成して東の門へ馬首をめぐらせている。

 それらの騎士の一人が、城主の子息であるユッテとカミル、そしてホルガーの姿を認めたのだろう、馬を下り駆け足に寄ってきて、皆に城館へ入るように告げた。


「何事じゃ?」

 ホルガーの問いかけに、騎士は一言鋭く言い切った。

「はっ。狼の大群が森に現れました。街道にかなりの数が出没し、軽微ですが被害も出ているようです」

「狼?」

「ただいまよりジェラルド騎士団長自ら兵を率い、掃討のため出陣いたします。――大丈夫ですよ。城砦の中は安全です」

 言葉の後半は、真剣にその騎士を見つめていたユッテとカミルに向けられたものだった。騎士はホルガーに敬礼すると、すぐに馬の元へ戻り東の門へと向けて去って行った。


 カミルがその背を見ながら、ぼそりと呟く。

「かいどう? おおかみ?」

 そしてユッテと視線を交わして、はっとなってホルガーを見上げた。


「ねえ、かあさまは? いま帰ってきてるところでしょ?」

「かあさまとねえさま、おおかみにおそわれちゃう?」


 やや表情に渋いものを浮かべたホルガーだったが、なんの、と自前の大声で二人に力強く言い切った。

「そのようなこと、万に一つもございません! ジェラルド閣下――お父上御自らがお出ましになられるのですぞ。お父上はこの国で並ぶ者無き勇者にござる。お二人とも安んじて、皆様のお帰りをお待ちあれ!」

 ホルガーの言葉に、ユッテもカミルもややホッとしたように息を吐いた。そんな中、ハインツはもう一度、城壁と、その奥の目には映らぬ森のざわめきを見つめていた。

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