掌編
@highredin
鐘、鐘、鐘
ある朝、新井田幸治がなにか気がかりな夢から目をさますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な虫に変って……というわけではないけれど、不穏な空気が漂っていた。
どんよりとしたねずみ色の雲がレースのカーテン越しに見えて、大きな鉄の蓋をされているような気分だ。しかし、それだけではなかった。何やら違和感がある、それも、重大な違和感が。
さっきからビリビリと、アラームが鳴り響く携帯電話。四角い黄色の電波時計。そして、ロフトで買った灰色の小さな丸時計。
いつもの朝、この3つが頭の上にある。
眼鏡をかけていないので電波時計のデジタル数字は見えないが、丸時計の針が、普段の起き抜けには見慣れない角度を作っているのに気付く。
嘘であってくれ。きっと丸時計は右に傾いているんだ。7時を指す短針が、8時に見えただけなんだ。そんな事を思いながら眼鏡をかける。
果たして、丸時計は12の数字が上になって置かれており、電波時計の正確なデジタル数字は、現在の時刻が「8:17」であることを示していた。
事態を寝坊け頭で察知し、一瞬。
「遅刻だ!!!!!」
布団を引っぺがし、てんやわんやの大騒ぎが始まった。
目をこじ開け、顔を洗いながら確認する。
朝ご飯は食べる?食べない。
ひげは剃る?剃る。
ゴミは出す?時間がない。
服は着る?当たり前だ。
かくして、鏡の前には若く勤勉実直な1単位の社会人がたつことになる。見るからにマジメな顔である。誰も彼も、始業28分前に目を覚ましたとは思わないようなそれだ。そう思いたい。そう考えている間にも、時間は過ぎる。
家を出る。走る。走る。新井田は走った。目的地に無二の友人は居ないが、信頼に報いねばならぬ。義務遂行の希望である。路行く人を押しのけ、跳ねとばし、……
どこをどう通ったのか分からないが、目の前にはいつものビルが躍り出た。玄関を突っ切り、階段を上る。職場は3階だ。エレベーターを待つより早い。2階から3階への階段に差し掛かった時、耳に慣れた音が響く。スローモーションが掛かっていつもより遅く鳴っているようだ。
キーン……コーン……
音に顔を歪ませつつ、3階だ。自分の机に置いているハンコを掴み、移動しながら、押せるように蓋を開ける。少し奥の共有机に置いてある出勤簿は、既に自分の欄以外は押印されているだろう。まだチャイムは鳴り止んでいない。間に合ってくれ。蓋を開けたハンコが出勤簿の真上に舞う。そして、回転印の音がした。
カチャッ
ピピピピピ……
「うわあっ!!」
飛び起きた。辺りを見回すと、開けたままのカーテンから日が差し込んでいた。眩しく、遠くまで見渡せそうな空が見えた。
丸時計を寝坊け眼で確認した。よし。間に合う。ひどい悪夢だった。なんで夢でまで、追い立てられなければならないのか。
そう不平しつつも悠々と準備をこなす彼は、丸時計が左に傾いていたことに、まだ気付かないのであった。
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