10 月色の選択肢
空から落ちそうなほど大きく、飲み込まれてしまいそうなほど近い場所に真円の月があった。少し視線を下げてみれば鏡のように揺らぎのない湖面がそれを写し取っている。手を伸ばせば触れられそうなのに、夜に浮かぶあの月とは確かな距離がある。それでも、現世の月よりは近い。不思議な気分だ。おそらくここは妖界だ。
そしてこれは、夢なのだと思う。これほど大きな月を現実で見られるはずがないのだから。
しゃんしゃんと涼やかな音が聞こえてきて振り向いた。合わせて重みのある、落ち着いた祝詞も聞こえる。何かの儀式へと混ざり込んでしまったのだろうか。しかし、神楽の中心を見て驚きに目を見開く。
「あれは……妖狐?」
人の
そのとき、唐突に祝詞と鈴の音が途切れ月の光量が落ちた。何が起こっているのかとあやかしの巫女を見れば、どうやら苦しげに胸を押さえるようにしてうずくまってしまったようだ。
『あぁ、人の想いは斯くも強きものであったか……』
人の想い……と呟く。人の想いが強く残っているのは幽霊のような存在だ。しかし、彼等は現世を彷徨うことしかできず妖界へと向かうことはない。では、彼女が言う人の想いとは一体何なのか。
近付けば、分かるだろうか。
そう思って一歩踏み出してみる。その時のことだった。突然背後に何らかの気配を感じて体を強ばらせる。霊力や妖力とは異なる強い力がそこにあった。果たして、今の時代にこれほどまで強い存在が姿を現すことなどあるのだろうか。そのような疑問を持たざるを得ないほど強烈な気配だった。
「……っ」
振り返ってその姿を目に入れる寸前にその存在はスッとすれ違うように背後へ移動してしまう。見ることができたのは供をしている中性的な男性一人だけ。通り様にちらりと見えた瞳は……月の色をしていた。
『おぅ、そうだ。これはそなたの抱える記憶の主が望む相手ぞ』
これ、と指されたのはお供の男だ。ひどく整った顔立ちをしており、それが人ならざる者の気配を際立たせる。無表情に、無感動に、無感情に佇む彼はまるで本来あったものを削ぎ落とされた人形のようだ。見る者に底知れない恐怖を覚えさせる人形。
そんな彼を見て湖月は複雑な表情を浮かべていた。喜び、悲しみ、苦しみ、安堵。それぞれが適当に混じり合ったような、処理のしきれない感情の渦を。
『――ところで、湖月よ。今宵は人の子の訪れを許したのか』
この場を支配していた気配がこちらへと向けられる。それは強い圧力となって襲われ、体が縫い止められたかのように固まってしまった。強烈な気配の持ち主には供をしている男を遙かに上回る畏れを抱かされる。とても強い神様の一柱だろう。
『おぅ、おぅ、よう見れば夜神の領域の子だ。選択を任された愛し子であったか』
ふわりと緩められたその口が紡いだ言葉に不思議な安堵と不吉な予感を覚える。それを最後に意識が遠のき、現世にあらざる景色も美しき異形の者達も見えなくなってしまった。二人がまとう月の色をした衣だけがまぶたの裏に残る。
***
来留芽は朝にはあまり強くない。それは夜遅くまで起きているからでもあるし、もともと爽やかな朝というものが気質に合わないからでもあるのかもしれない。しかし、たまに気分爽快なまま目が覚めることもある。
「昨日の妖酒のおかげかな……」
朝日に目を細めながらぐぐっと伸びをする。何となくいつもよりも体が軽い気がする。そして、昨日ぼんやりと聞こえていた社長の言葉を思い出す。それと同時に視界いっぱいまでの大きさの月が脳裏を過ぎったが……きっと、夢の欠片だろう。
「月命酒に酔ったということは、白鬼の里での儀式には関われない……なら、私は月白の捜索一本で動くことになるわけだ」
あと二日。その時間内に何らかの成果が出ると良い。
自分が成果を出すことについては一切考えのない来留芽は寝ぼけ眼のまま着替え、顔を洗うとダイニングへ向かった。
「おはよう」
「ん、おはよ、守叔父さん」
相変わらず容姿のせいで爽やかさが似合わない叔父だが罪は無い。それに、十年近く目にし続けた光景だ。今さら驚きも無い。そう思いながら既に用意されていた朝食を黙々と食べる。この朝食を用意したのはおそらく細だろう。生徒よりも早い内から学園にいる彼は出勤時間も早めだ。自分の朝食を準備するついでに来留芽の分も作ってくれるのだ。ちなみに、社長は朝食は食べない派で朝は珈琲を一杯飲むだけだ。
「社長、今日は鍵になりそうな噂の場所へ行っても良い? 言葉様によれば二日以内に何らかの動きがあるらしいけど」
ふと、食事の手を止めて来留芽はそう尋ねた。仕事の話なので「守叔父さん」ではなく「社長」と呼ぶ。
「ああ、報告は見た。そうだな……遺跡を廃墟へと言い換えて探してみてくれ」
「廃墟?」
「そうだ。私達は人目を避ける。遺跡などという観光地となり得る場所は万が一を考えれば避けるべきところだ。その点、廃墟であれば……余程妙な噂が立たない限りは誰も興味は持たない上に、人の縁からも外しやすい。うってつけの場所なんだ」
「確かに。何で昨日の私は思いつかなかったんだろう。蓮華原市周辺の廃墟……分かった、調べてみる」
来留芽はそう言うと頭の中で予定を組み立てた。廃墟の場所はオールドアでもいくつかは把握している。社長の言ったように、裏的には使いやすい場所だからだ。来留芽がそれについて思考がいかなかったのはおそらく中隠居の話にあった空き家の方が印象に強かったからに違いない。
「そういえば……恵美里と翡翠はどちらに加わるの? 月命酒を飲んでいないはずだけど」
「ああ、その二人については今日試してもらう予定だ。一応、連絡は入れてあるが来留芽からも恵美里へ言ってもらった方がより確実だな。頼めるか」
「分かった。……でもそれだと、今日私は一人での行動になる?」
この物騒な時期に単独行動は例え慣れていたとしても避けるべきなのだが、相棒がいないなら仕方がないというものでもある。しかし、来留芽であれば完全に一人での行動にはならなかったりする。式神がいるからだ。
「いや、今日は薫が時間取れるらしいから、時間を見計らってあいつを遣わせる」
「薫兄か……明日に備えなくても良いの?」
「薫の場合は体を動かしていた方がパフォーマンスも向上するからな。どうせならあいつの嗅覚を利用すれば良い」
にやりと笑ってそう言われたのだが、来留芽は呆れたような顔をしてしまう。嗅覚云々は薫がひどく嫌がっていたと記憶している。社長まで同じ事を言っていると薫が知ったらしばらく拗ねてしまいそうだ。
「まぁ、仮に薫が行けなくても誰かしら手が空いている者を送るから心配は必要ない。そろそろ時間じゃないのか、来留芽」
「そういえば」
はっと時間を思い出した来留芽は慌てて朝食を切り上げると身だしなみを整え、これもまた細が丁寧に作ってくれたお弁当を鞄に詰め込むとオールドアから駆け出した。
鳥居越学園が見えてきてようやく息を吐く。どうやら間に合いそうだ。補習の分早く向かわなくてはならなかったのを忘れていた。
「来留芽ちゃん! おはよっ!」
「おはよう、八重」
一時間の補習を終え、教室まで後少しのところで八重と行き会う。そしてそのまま一緒に向かうことにした。その途中で昨日話した噂話の話題になる。
「中隠居くんの話、役に立ちそう?」
「役に立てた。だから、お礼言わないと」
「うーん、そうだね。でも私、昨日のことで何か中隠居くん苦手になっちゃった」
八重はハァ、と溜め息を吐いた。確かに、良く分からないツボを持っている人物なのだろうとは思う。今まで出会った中でも特に振り切った嗜好の持ち主だ。しかし、正直に言えばそこまで害があるわけでもないので、来留芽は彼を個性的な人物群へと分類している。
「相手とどうしても合わないことは、やっぱりあると思う」
「だよね。付き合い方悩むなぁ。あ、でも来留芽ちゃんはあまりそういうのなさそうだね」
「仕事に人の好き嫌いはあまり持ち込めないから、そう見えるだけだと思う。それより、八重は中隠居くんと付き合っているの?」
話の流れで何となく聞いてみる。好き好き同士ではないように見えたのだが、付き合い方に悩むのならひょっとしてカップルが成立していたりするのだろうか。
そんな想いがふと浮かんで尋ねてみれば、全力で否定された。
「ないない! 絶対無いって! 中隠居くんは友達っていうか、善き隣人っていうか……知り合い、顔見知り?」
「何かどんどん心の距離が遠くなっているよ……? 八重ちゃん」
「わきゃ!? ……いつつ……」
いつの間に近寄っていたのか、恵美里が八重のすぐ横で会話に混ざる。しかしあまりにも不意を突かれて八重は驚きに足を滑らせていた。そして、そのまま廊下へ尻餅をつく。自分事のように痛みを思って来留芽は反射的に目を閉じた。受け身も取れなかったようなので、とても痛いだろう。
「ご……ごめんね! 八重ちゃん」
恵美里が慌てて手を差し出し、助け起こしている。来留芽は目を開け、頭上に迫っていた八重の鞄を何とか腕に収めると安堵の息を吐いた。高等部の分厚い教科書が入った鞄が頭に当たったら洒落にならない。身体的には普通の来留芽ではきっと昏倒して仕事に支障が出ていたことだろう。回避できて良かった。
「恵美里~気配薄すぎっ! いつつつ……尾てい骨ヒビ入ってそう」
「本当に……ごめんなさい……」
本気で反省している様子の恵美里に、それ以上は怒れなかったのか八重は仕方なさそうに笑っていた。それでもまだ臀部が痛むようで、摩っている。
「身体能力が高い君にしては珍しいひっくり返り具合だったね、常磐さん? とはいえ、この場所は水道の近く。水で濡れていることが多いのだから君自身も気を付けておくべき事ではあった」
「噂をすればって本当にあるんだね。よりによって中隠居くんに見られたかー」
来留芽達の様子はちょうどやってきたらしい中隠居に見られていたようだ。八重の表情は引きつった笑みへと移行し、眉間を押さえると天を仰いだ。恵美里も「よりによって」と彼女が言った意味を察して、困った顔になる。
どこか警戒している雰囲気がしっかり出ていたのだが、中隠居は大して気に留めずに右手の人差し指を立てて真剣な表情になり口を開く。
「僕個人としては、二人とももう少し近い位置の方が麗しくて良いけどね……おや、常盤さん、その振り上げた拳はどのような運用を予定しているのかな」
「自称アームチェア・ディテクティブなら分かるよね」
「ふっ、言葉を持つ人間たるもの暴力に訴えてはいけないよ。落ち着きたまえ。そして日高さん、そのまま一歩横へ……」
「まだやるか」
「おっと、それだけ元気なら問題はなさそうだ」
ぷちっとキレた八重の鋭い拳が中隠居を狙う。しかし、運動音痴のきらいがある彼だが、思ったよりもあっさりといなしてそのまま逃げて行った。そして何かのスイッチが入ってしまったのか八重も彼を追いかけて走って行く。途中でちらりと振り返った中隠居と目が合った。あのへたくそなウインクは一体誰に向けられたものだろうか。
「恵美里、私達も行こう。時間があまりない」
「あ……確かに」
「でもちょうど良かったかもしれない。仕事の方の連絡がある」
来留芽は声を潜めてそう言うと人払いの呪符を使う。ひょっとしたら使わなくても既に人払いがなされていたのかもしれないが、念のためだ。
「仕事の連絡……」
「もう知っているかもしれないけど、今日は放課後からオールドアに向かってもらいたいって話」
「ああ……うん、分かった。お母さんも……だよね?」
特に驚いた様子も無いことから、どうやら連絡はしっかり確認していたようだと分かる。慌ただしいはずの学園の朝に、術の影響があるとはいえとても静かな廊下に違和感を覚えているのか恵美里はきょろきょろと忙しない。
「そう。それで、明日がたぶん山場だからいろいろと準備しておいた方が良いと思う」
戦いの予感がある。月白の誘拐という行動を先に起こされてしまった以上、生半な決着は許されない。だからきっと、これまでのように言葉を交わして互いの主張を調整するといったことでの解決は望めないだろう。
高校生になってからすぐにこちら側へと引きずり込まれた恵美里には酷なことかもしれないが、覚悟を決めてもらわなくてはならない。そして、来留芽も覚悟を決めなくてはならない。
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