9 呼び起こされる予感
恵美里の家から程近い場所にまほろばがある。天を覆うほどの大きさを誇る大樹がその中心であり、土地神様の本体だ。清涼な風をその顕現の予兆とし、簡素なワンピースを着た少女の姿を見せることが多い。そんな土地神様は日高家の二人に加護を与えており、彼女達を雇うオールドアとも最近になって親交を持つようになっていた。
『今宵もまた街の見回りをしておったのか。精が出るのぅ』
「土地神様。私の場合はこれが仕事なので。今は特に――必要なことですから」
悪意のない風を感じて振り向けば土地神様が浮かんでいた。ほんの数ヶ月前にこの場所でたいそう危険な呪詛との戦いが繰り広げられたのは記憶に新しい。そのときに土地神様の力というものを知った。決して弱くはないこの神様は、この日は妙に神様らしい、何かを見通しているかのような瞳を向けてきていた。
『そうであったか。人は、悪い予感を成立させまいとしてよう動くものよ。そなたのそれもその一環であろうか? 動かぬよりも良き結果を得られることもあり、しかして、避けられぬ
それは、まるで託宣のような言葉だった。人には見通せぬものを見ているかのような静かで底の知れない瞳が来留芽を捉えている。目の前にいるのは紛れもなく人智を越えた存在であるのだとまざまざと見せつけられている気分だ。
「分かり、ました……」
呼び起こされた予感に声が震える。
『ほほ……何、恐れることではない。そなた達ならば何事もなく乗り越えてしまいそうでもあるからのぅ。とはいえ、仮にどうしようもなくなったらまたこの場所へ来るが良い』
来留芽は震える心を何とかして押さえつける。そんな様子に苦笑した土地神様は自身の言葉で包み込むように述べた。恵美里がこの大樹を父親のようだと言っていた意味を何となく察する。この大樹の心象は覆うもの、そして守るもの。頼もしいまでの威容がそこにあるのだ。
来留芽は深く礼をしてその心遣いをありがたく受け取ることにした。土地神様は頭を上げる前にふっと消えてしまったが、きっと来留芽の言いたいことは受け取ってもらえたはずだ。
「来留芽、待たせたか」
しばらく公園のベンチに座っていると一羽の大きな鳥が降り立った。その背中を滑り台の要領で降りてくるのは細だ。鳥は厳密には生きているものではなく、式神だ。今日は黒いフクロウらしい。夜は白など明るい色が目立ってしまうので黒系の暗い色が選ばれる。フクロウ型はそこまで速さは出ない代わりに高級なもこもこのソファのように乗り心地が良いものになっている。
「細兄、そこまで待ってはいない。……今日はフクロウなんだ」
「まぁ、急ぐ必要はないと思ったからな。来留芽もフクロウ型は好きだろう?」
「乗り心地が良いから、好き」
来留芽がそう言えば、細は何に驚いたのかぎくりとして一瞬だけ体に力が入っていた。何だろうと思い少し見上げるが、誤魔化すかのように頭にぽんぽんと手を乗せられる。またいつもの子ども扱いだろうか。
「まぁ、乗ると良い」
背中に手を回されフクロウの上へと誘われる。このフクロウ型の式は滑り降りやすい一方で登り難かったりする。とはいえ、術者の細の指示があれば乗りやすいように伏せさせることもできるのだ。羽を階段状にすることも可能で、細は専らこちらの運用にしてくれる。
そして細もふわりと乗り、後ろから来留芽を抱え込むように座るとフクロウへ飛ぶようにと指示を出した。バッサバッサと大きく羽ばたいた後、フクロウはすぅっと夜空へと舞い上がる。
「ところで、来留芽。何か収穫はあったのか?」
「あった。帰ってから報告する予定だけど、細兄なら言っても良いかな……」
星を近くに、街を眼下に見ながら二人は言葉を交わす。来留芽は今日集まった情報をまとめつつ話した。詳細な報告はどのみちオールドアに戻ってから行うのでここでは特に重要だと感じたいくつかのものだけだ。
「あ、そうだ。恵美里が山際で獣道を見つけて、よく見たら妖気をまとった糸が落ちていたの」
「へぇ。月白のものか?」
「それは分からないけど、妖気があるなら追うことはできるかと思って」
「そうだな。俺と……樹もできるか」
社長は言わずもがな。社長ができないことは果たしてあるのだろうかという疑問を浮かべざるを得ないほどの万能を誇る。
来留芽は、細が妖気の追跡をできるのならと懐から糸を封じたものを取り出した。
「これが見つけたもの」
細は来留芽からそれを受け取るとそっと中を見る。細く短い糸が一本だけある。風に飛ばされては困るのでほんの少しだけ確認するとすぐに元に戻してしまう。しかし、たったそれだけでも分かったことはある。
「確かに、妖気があるな。絡みついているような感じだから……もしかしたら、意図的に残したものかもしれない」
しかし、今いるような上空ではそれが分かってもどうもできない。これを活用するのは地上に戻ってからになるだろう。
フクロウは夜の闇を切り裂きオールドアへと向かう。手の中にある鍵が何に合致するのかは未知数なままだった。
***
オールドアに戻ってからも来留芽はまだやることがあった。今夜は寝られないかもしれない。げんなりとしながらベランダから部屋へと入り、社長室へと向かう。細が言うには、今回関われるメンバーがちょうど揃っているらしい。もっとも、日高親子は除いてのことだが。
「失礼します」
礼儀として一応そう言ってから部屋へ入る。社長室にいたのは、社長はもちろんのこと薫に巴、そしてなぜか来留芽の式のはずの茄子。珍しく人に変化した状態だ。若い青年の姿だが、黒い耳と尻尾が出ているので茄子だと分かる。どうやらお酒が入っているらしく、巴は普段より少し上機嫌で茄子はへべれけに酔っている。
「おっかえり~、来留芽ちゃん」
『お嬢~おせぇよぉ』
酔っ払いが一人と一匹。社長も一応カップを持っているからお酒を飲んではいたのだろう。そして、薫も何かを飲んでいるようだが、よく見ればノンアルコールだった。酔うつもりはなさそうだ。酔っ払いを見て薄く笑いながら飲んでいる辺り、少しどうなのかと思わなくもないが……。
「というか茄子、どうしてここにいるの?」
『あ~……何つぅの、伝令的な? 白鬼頭んとこの湖月姐さんって妖怪界隈じゃ有名なのよ、頼まれたら断れねぇの』
茄子は来留芽の式だが、妖界での生活もしている。今回はどうやらその方向のしがらみによるものだったらしい。とはいえ、伝令的な役割を負ってこの場所へやって来たというならどうしてこのようにへべれけに酔っているのだろうかという疑問は浮かんでも仕方が無いのではなかろうか。湖月という名前は確か、白鬼の頭である白皇の奥方のものだったように思う。つまり、茄子は月白の誘拐に関する話を持ってきたのではないだろうか。
「伝えることはもう伝えたの、茄子」
『無論伝えたぞ、お嬢。守からお嬢達へ話が行くはずだぜ』
守から、ということは少なくとも社長は知っているということか。巴や薫は知っているのだろうか? そう思って二人を順繰りに見る。巴と目が合うと、にっこりと機嫌の良いときの笑顔を向けられた。
「話はね、皆が揃ってからだって。社長~、来留芽ちゃんも帰ってきたわけだし話してもらえないの?」
「そうだな。樹は戻れないという連絡が入っているし、話そうか。だが、その前に……来留芽と細も飲むと良い」
未成年を酒の席に誘うか、普通? と思ったのだが、コップと合わせて差し出された瓶を見て思い直した。社長が来留芽へ差し出した瓶は妖界のものだったからだ。妖酒は酔えるがアルコール分が全くないので飲んでも構わないという分類になる。よく考えれば危険な気もするのだが危ない成分は一切入っていない、らしい。酔うというのは霊力が満ちる幸福感というか満足感といったものを指しているのだ。
「これは……『月命酒』?」
『湖月姐さんからの差し入れだ、お嬢。滅多に外へ流れねぇ上物だぜ』
それならば大切に飲まないと、と思いながらこぽこぽとコップの半分程までその酒を入れる。そして、月という言葉が入る妖酒ということで、何となく月明かりの下へ持って光を透かしてみた。すると、コップの液体はまるで月の光を取り込んだかのように、ほんのりと温もりを灯したように光るではないか。それは、思わずほぅ、と溜め息を吐いてしまいそうなほど不可思議で幻想的な変化だった。
「きれい……」
「月命酒という妖酒は俺も飲んだことないな」
細も酒を注いだコップを手に月光が差し込む窓際へとやって来て同じように光らせた。来留芽のガラスのコップよりも細の白いコップの方が少しばかり明るい気がする。とはいえ、漏れる光の質は変わらない。二人は合わせたように同じタイミングでコップを傾けた。こくりと喉が動き冷たい液体が伝い落ちていく。それに合わせて霊力と、それとはどこか異なる力が流れ込んできた。
それを認識すると同時に、来留芽の視界が斜めに揺れる。
「おっ……と。社長、月命酒って普通の妖酒ではないんですか?」
ふらり、と傾いだ来留芽の体を支えながら細は肩越しに振り返ってそう尋ねた。彼自身も酔いを覚えているようで、熱い息を零している。妹分の手前、無様に倒れるわけにもいかずに意地で立っていたのだが、それでも酔いは誤魔化せなかったようで顔半分を掌で覆い隠して耐えていた。少し飲んだだけでこの様とは、月命酒とやらはそれだけ強い酒だったのだろうか、それとも酔いを加速させる何らかの要素が含まれていたのだろうか。
「まぁ、人によっては酔いやすい酒ではあるな。今回は一種の試金石として飲んでもらったわけだが……」
社長が言うには、今回の『月命酒』は湖月に頼んで月の神様の力をほんの少しだけ混ぜてもらった特別製だったらしい。これを試金石としたのは明後日に白鬼の里で行われる儀式に帯同できるかどうかを調べるためだった。
「飲んで酔ってしまった者は月白の捜索に回すことになる。酔わなかった私と薫は儀式の護衛だな」
社長の解説を来留芽はどこか水の中でたゆたうような心地で聞いていた。これも酔っているからだろうかと頭の片隅でぼんやりと考えるが、すぐにその思考はどこかへ押し流されてしまう。
月命酒に酔うということ。それは月の神様の力との親和性が高いということになるらしい。今回湖月が行う儀式は月の神様の力を取り込み一部を宝玉へ、一部を大地へと加護として流すというものだ。月の力が最も高まる秋の時期に最大の力が動くのだという。ほんの少しの力が混じっただけでも酔ってしまった来留芽達はきっとその儀式の場にいても飲まれてしまって戦力にならないのだろう。
「……どうやら、来留芽が一番酔いやすかったようだな。酔うと眠くなってしまうタイプか」
「来留芽ちゃんは酔うのに慣れていないから、今つらいでしょ。細、歩けるようなら部屋に連れて行ってあげたら?」
どこか気遣わしげな声が聞こえてくる。社長と巴だろうか。そう思っていると、さらりと髪を撫でられるような感触があった。
「酔うのに慣れていたら困るだろう。来留芽はまだ未成年なんだから。だいたい、俺だってだいぶ酔ってるんだが……」
「あらまぁ、珍しく教師っぽい台詞。ま、歩けないんだったら薫に運ばせれば」
「……いや、やっぱり俺が連れて行こう」
その言葉の後にふわりと体が浮かび上がる。体の安定を求めて手近なものに掴まればしっかりと抱き締められた。
「ん……細兄?」
「ああ、来留芽。寝てても大丈夫だからな。細かい話は明日にでも。今日は疲れただろう」
「ん……」
一応、報告は簡単にしてある。話していないのは恵美里が見つけた糸だけだったが、それは細から話してくれるのだろう。来留芽は背中に自室のベッドの感触を受けて、意識を手放した。
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