2 夏休み


 一年十二ヶ月のうち八番目にやって来る葉月。学生が今か今かと待っていた日がやって来た。そう、終業式だ。

 鳥居越学園では八月に入ってすぐのその日がそうだった。


「いーよっしゃああああ! 夏休みだぜ!」


 終業式を終えて教室に戻ってきたときに一足気が早く思いの丈を叫んだのは穂坂ルイだった。数人の男子がその叫びと一緒に拳を天井に向けて突き上げている。その叫びは当然生徒達を追いかけるようにやって来た教師にも聞かれていた。


「こーら、穂坂。テンションが上がるのは分かるが、まだ終わっていないからなー」

「いてっ」


 彼のそばを通りながらそう言って軽く小突いたのは細だ。副担任である彼は教室の後ろで見守ることにしたらしい。


「では、夏休みの注意事項を言っていきましょうか」


 タロちゃん先生の話は皆ほとんど聞き流していた。内容は今まで何度となく聞いていたものとほとんど同じだったからだ。ただ、鳥居越学園では今年から新たに加えられたものがあった。


「夏休み中、鳥居越学園は基本的に閉まっています。今年からは各部活も活動できるのは午後五時までとすることになりました」


 普通の生徒は知らないが、そうして出来た五時以降の時間は来留芽達の調査に充てられるのだ。もっとも、来留芽達とて夏休みは多くの仕事をいれて忙しくなるので学園だけに時間を割くことは出来ないのだが、校長先生の厚意はありがたく受け取っておくことになった。


「さて、先程先走って夏休みモードになっていた穂坂君」

「は、はいっ!? ……いや、おれ一人じゃねぇけどっ」


 集中を切らしていたところに突然指名がいって穂坂は裏返った声で返答する。その様子を見てもにっこりと変わらない笑顔でいるタロちゃん先生に何かを感じたのか、穂坂はぶるりと震えた。

 一体何が起こるのかとクラスメイトは興味津々に様子を見守る。来留芽も頬杖をつきながらそちらに視線を向けた。


「今期の反省と来期に向けた決意表明をどうぞ。テストのことでも構いませんよ」

「え、それ何て公開処刑……」


 まさかそんなことを言われるとは思わなかったのだろう。穂坂は唖然とする。しかし、すぐに表情を真剣なものに変えると勢いよく立ち上がった。


「今期の反省――それは、STINAの活動休止でファンに心配させてしまったこと! そして来期の決意はもっとSTINAを世界に広めること! とりあえず夏の新曲楽しみにしていてください!」

「「宣伝かよっ!」」


 即座にされたツッコミに笑いが沸き起こる。STINAのファンになったと公言している人もこのクラスには多く、彼らは笑いながらも期待に瞳が輝いていた。


「よし、それではホームルームもこれで終わりとしましょう。良い夏休みを過ごしてください。京極先生、何かありますか?」

「いえ。まぁ……遊び呆けて宿題を忘れるんじゃないぞとだけ。テスト直しもな」

「「うへぇ」」


 宿題の話が出た途端に何人かの生徒が嫌そうな声を漏らして机に突っ伏す。宿題嫌いは学生の常である。

 来留芽は肩をすくめると窓から青く広がる空へと視線を向けた。

 ――いい天気だ

 来留芽自身は先日のテストで失敗することはなかった。そのため、テスト直しという追加の宿題はない。しかし、共通の宿題は出されていた。そして「鬼か」と文句を言いたくなるほど裏の仕事の予定が入ってしまった来留芽は宿題を終わらせる目処が立っていなかったりする。

 引き受けたのは自分で、言わばこの状況は自業自得というものではあるのだが、改めて考えると現実逃避の一つでもしたくなる。


「あっはっは。やらなくて夏休み明け後悔するのはお前達だからな。テストを楽しみにしておけよー」


 細は笑って止めとなる夏休み明けテストの告知をしていた。


「「はーい」」

「……何故だろう。良い返事なのにかえって心配になってきたな」

「くふふっ」「あはは」

「「あっはっはっはっは!」」


 首をひねる細に数人の生徒が思わず笑いを漏らし、それが次第に伝染して笑いの渦となる。

 鳥居越学園の夏休みはこうして始まった。



 ***



 オールドアの会議室。そこには基本的に会社の業務を回しているメンバーが集まっていた。


「ここに集まってもらったのはもちろん仕事の話だが、堅苦しい場にする気は無い。楽にしてくれ。さて、八月の中旬、十二日から二十日まで社員旅行がてら海の調査へ向かうことになっているのは皆既に知っているだろう」


 社長の言葉に来留芽達は次々に頷く。実は、この話は巴と薫が本部から取ってきた依頼が発端だった。


「確か、夜の海水浴場で奇妙な影を見るという内容だったよね~。奇妙な影って何?」


 樹はあざと可愛らしく小首を傾げて視線を横に向けた。その方向には巴と薫が座っており、片方は呆れたように首を振ってもう片方は顔を引き攣らせていた。微妙に受け流せなかった方が薫だ。


 ――年季の違いかな


「来留芽ちゃん……?」


 恐ろしいほどの察知能力を発揮した巫女が般若の笑みを浮かべて視線を向けてくる。来留芽は頬杖をついていた手からゆっくりと顔を離し、ピシリと姿勢を正して座り直した。ただ、その間決して巴の目は見ない。


「何でもない。それで、影はどんなもの?」

「……はぁ。影についてだけどね、本部が調べたところだとやけに黒々とした巨大な何かが浜辺に寄ったり引いたりしているのを見たという証言がいくつかあったらしい。調査員も目撃したそうだよ」

「ええと……夜の海で影、ですか……?」


 巴の説明ではよく分からなかったのか、恵美里がそう尋ねた。星明かりしか光源がない夜、海は影など分からないほど黒くなる。そのイメージがあるのですぐにはうまく思い浮かべられなかったのだろう。


「あー、夜って言っても夕方かなあれは。夏だし、時間的には夜と言っても良かったんだけど、まだ明るかったんだよ」


 だから、気付けたのだという。

 証言をした人も初めは見間違いだと思ったらしい。


「巨大ってどれくらいの大きさなんだ?」

「五メートルはあったらしいっす」


 細の問いには薫が答えた。本部出張組の巴と薫の二人はきちんと情報を確認しているようだった。


「それは巨大だな。海でそれだと……海坊主か?」


 細が一先ずの予想を立てる。実際に調査しないと分からないことがあるだろうが、ある程度当たりをつけていた方が調べやすい場合もあるのだ。もっとも、その逆もありうるため判断が難しいところではある。

 しかし、海坊主という予想はほとんど全員が思い付いていたようで、来留芽も同意するように頷く。巴もゆっくり首を縦に振って口を開いた。


「あやかしであればその可能性が高いだろうね。でもそうでなければ単なる見間違いだ。大きな亀でもいたのかもね? 流石にそれを見間違えることはないはずだけど。霊能者だったら、ねぇ?」

「巴」


 社長から鋭い言葉と視線が飛ぶ。巴は一瞬そちらを向くと口を閉じて少し乗り出していた身を引いた。


「……もしかして、嫌いな相手と一緒の仕事?」

「“だった”ね。調査したのが一色の現当主を中心としたウチの者達で、情報の受け渡しの時に延々と関係のないことばかり。仕事に私事を持ち込むなってどれだけ言ってやりたかったか」


 来留芽の言葉によって一旦収まっていた怒りがまた現れたかのように怒濤の勢いで文句が飛び出す。

 一色の現当主は巴の父親だが、彼のことを嫌っている彼女は決して父という言葉を使わない。本部で遭遇することがあっても他人行儀に挨拶をする程度で基本的には避けていたらしい。


「……ごめんね、皆には関係ないことだった。これじゃあ、あたしも同じ穴の何とやら、だね。ええと、影が海坊主だとしたら海の中に狭間の入口があるってことになる。海中での戦闘も考えられるから各自何らかの手立てを考えておいて欲しいね」


 急にトーンダウンした巴はさらっと話を戻す。今日の彼女はどこか不安定だと思いつつもあまり突っ込むことはせずに来留芽達は頷いた。


「あの……一つ聞いても……いいですか?」


 おずおずと遠慮がちに恵美里が手を上げる。その途端に集まった視線に彼女はびくりと肩を跳ね上げたが、一つ深呼吸すると落ち着きを取り戻した。


「その……無知で申し訳ない……のですが、海坊主とは……どのようなあやかしでしょうか……?」

「ああ、海坊主というのはたいていは大きな坊主頭をしていて、突然海の中からにゅっと現れるあやかしと言えばいいかな」


 まだ霊能者歴二ヶ月の日高親子は流石に知らないことが多い。これこそ年季の差だろうから焦らずに知識を蓄えていってもらいたいものだ……と来留芽が思考を飛ばしているうちに巴が海坊主とは何か話していた。


「それは……人に危害を加える……のですか?」

「気分次第では攻撃してくる」

「え……それじゃあ……海水浴場に遊びに来た人が危ない……!」


 来留芽が端的に付け加えた一言に恵美里はぎょっとして体を揺らした。その隣に座っている翡翠も口元に手を当てて目を丸くしている。


「そうだな。それに、一般人に見つかっても困る」


 依頼は夏の繁忙期に海を監視し、海坊主の存在が明らかとなったら即座に捕獲、妖界へ戻すというものだ。もちろん、一般の人に気付かれないように動かなくてはならない。また、黒い影が海坊主でなくとも原因を解明し取り除くまでを期待されている。

 社長は今日集まった面々を見回した。比較的制御が効き、休暇がてら長時間の出張も可能なメンバーだ。


「基本的には本部からの依頼達成を目指す。ただ、今回はちょうど同じ地域からの依頼があった。そちらにも携わってもらうかもしれないことは覚えておいてくれ」

「了解~」「分かりました」

「了解っす」「分かった」


 泊まりがけの長場になることが予想されるが、皆大して気負う様子はなかった。


「翡翠、恵美里。大丈夫そう?」


 社長が退出するのを見送ってから来留芽は隣に座っていた新人二人に尋ねた。


「来留芽ちゃん……あのね、正直に言うと……心配かな。戦闘になったらちょっと困るかも……苦手だし……」

「それに、人である以上、水中での行動は厳しいですよね。どう対策したものかと悩みます」


 恵美里は争い事が苦手な質なので戦闘があるかもしれないというだけで躊躇ってしまうようだ。翡翠は娘ほど戦いを忌避する意識はないようだが、今回予想される海中戦について懸念を漏らした。

 それを来留芽は顎に手を当てて少し考える。


「……戦いについてはどうしても直接対峙することが嫌ならサポートに徹してもらうことも可能。どうせ日中だと人の目を誤魔化さないとならないし」


 人払いなどは来留芽の呪や樹の能力で行っているが、負担に感じることはある。だから恵美里が出来ると言うならば任せてしまって良いだろうと思う。


「ああ……それなら、わたしでも何とか出来そう……だね」

「うん。それで、水中戦をやる覚悟があるなら私か細兄の呪符で何とかなるはず。翡翠、恵美里、一人で出来ないことは周りを頼れば良いから」

「ええ……そうですね。頑張るわ」


 特に長年一人でも頑張ってきた翡翠はなかなか素直に人に頼ることが出来ないようだった。

 一人で出来ることなどそう多くなく、裏においては一人で何もかもやろうとする方が危険を呼び寄せることもある。頼って良いのだということに気付いてもらいたいという思いはきっと共通しているだろう。

 リラックスした様子で話している“先輩”達をちらりと見て来留芽はそう思った。


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