8 あの偽物のことだ


『……来たか。Iの坊、Kの坊、Sの坊よ』


 仏壇の前で碓井祖父があぐらをかいて座っていた。その姿はだいぶ薄くなっており、消えてしまうまでそう長くないことが分かる。


「最後くらい奥さんと一緒にいれば良かったのに」

『そういうわけにもいかなかったのだ』


 せっかく気を回したのにフイになってしまったことが面白くないのか、唇をとがらせていた樹に向けて彼は苦笑してみせる。


「おたきさんは、良かったのですか?」

『ええ。夫がそう言うなら私は従うだけだよ。それに、私達の間ではもう別れが済んでいるからね。言いたいことはほら、こうやって……拳で』

「拳で語り合うってどこのバトル漫画だ、オイ。他になかったのかよ」


 思わずといったように薫がツッコミを入れる。

 彼は先程まで六条美沙の様子を見に行っていたのだが、ちょうど下へ降りてきたところで仏間へ向かう三人と会ってしまい、そのまま一緒に連れてこられたのだ。夜食を逃し、グゥ~っとお腹が抗議をしても黙殺されてしまっていた。だからふてくされて黙っていたのだが、ツッコミどころを無視することは出来なかったようだ。


『ふふ……もちろん、冗談だよ』

『イヤ、わしは冗談ではなく殴られたのだが……』

『あんた、何か言ったかい?』

『イエ、ナンデモアリマセン』


 仏間を離れた少しの時間に一体何があったのか。気になるが、知ってはいけない気もする。おたきと碓井祖父の関係はしっかり者の女房と女房に弱い亭主ということになるだろうか。決して鬼よ(言ってはならない最後の言葉)……と弱亭主ではないだろう。


『それならいいんだよ。……もう別れは済んだんだから、私は戻るとするよ。あんた達の話の邪魔になりたくないからね』


 軽やかに碓井祖父に近寄るとおたきはその頬をぺちりと挟み、チュッと口づけた。


『お、おたき……!』


 彼は腰を下ろしたまま後退り、背後の仏壇に頭を突っ込んでしまった。数拍後に戻って来たその顔はリンゴのように真っ赤だった。何とも初心な反応だ。


『あははっ。幽霊でも赤くなるんだねぇ。可愛いこと。……それじゃあ、お別れだ。今までありがとうね、あんた』


 それだけ言うと彼女はくるりと回って消えてしまった。病室にいる彼女自身の体へ戻っていったのだろう。今は普通の夢を見ているか、夢など見ない深い眠りの中に居るはずだ。


『コホン。みっともない場面を見せてしまったな』


 咳払いして威厳をまとった声で謝罪する碓井祖父だが、その顔はまだ茹で蛸のように真っ赤だった。


「いやいや~、心温まる光景だったよ~。うんうん。碓井さんは果報者だよね。間際でも知れて良かったんじゃないかな」

「良い奥様ですね、碓井さん」


 完璧なのだが却っておどろおどろしいものが背後にありそうな笑顔を浮かべた樹と細が次々におたきを褒める。出会いはあろうともなかなか家庭を築けない者がほとんどの霊能者だが、碓井祖父のような例も存在する。その奇跡にはどうしても妬みの気持ちを抱かずにはいられない。


『そうだろう、そうだろう。存分に嫉妬するがいい。ハッハッハ!』


 彼自身も同じ畑に生きていたのだからそのことはよく分かっていた。二人の反応に満足して大きく笑ったとき、その姿がぐにゃりと歪む。

 それを感じ取った碓井祖父は表情を真剣なものに戻し、その場にはピリッとした緊張が走った。


『おっと……消えかけているのだったな。三人とも、そこに座ってくれ。わしの時間も無いようだし、そう長くはせん。わしが話しておきたいのはあの偽者のことだ』


 碓井祖父が三人に伝えたかったこと。それは、彼の偽物が今さらになって現れた理由だった。


『もうすでに予想は付いているだろうが、わし等に籠上からの接触があった。あの家は裏警察の上層であれども、付き従う者達が減っているのだそうだ。無理もなかろう。わしが所属していた当時から制御が出来ていなかった。信心も時の長官に持って行かれておったわ』


 そして、今や三笠を中心とした反勢力が水面下で展開している。


『奴はなぁ……焦ったのだろう。その焦りのまま思いついたのが力を増やすこと、手駒を増やすことだ。それで、わしを……正確にはわしの力に目を付けたのだろうな。奴はわしを抑え、その隙に力の一部を切り離して仮の人格を与えた。そしてそいつに命令したのだ。「残りの力を手に入れてみせよ、さすれば貴様を我等の要としてやっても良いだろう」とな。あいつは甘言に乗せられてあのような行動に出たのだ。空間に干渉したのはあいつがそれしかできなかったからで、力を振るえたのはあいつ自身が力だったからだ』

「一体いつから偽者は人格を持っていたのでしょうか」

『さてな。少なくともあのお嬢さんがこの家に来る前には目覚めていたはずだ。わしが何とか起きたのはお嬢さんが来て少し経った頃のはずだからな。さて、そろそろ限界だな』


 彼がそう言ったとき、その姿は透明に近くなっていた。


『今を生きる若き霊能者達よ、気を付けろ。不名誉な呼ばれ方をしている世代だが、ここまで生き残ってきた奴等だ。中途半端な覚悟では闇に飲み込まれるだけだろう』

「肝に銘じておきます」


 それが聞こえたかどうか。今度こそ、彼はこの世を去ったのだろう。感謝の意を込めて一礼した細達が顔を上げたときにはもうその姿はなかった。


「……いってしまったか。本音を言えばもっと話を聞きたかった」

「籠上のこととか~?」

「そうだな。それもある」


 霊能者として家族を守りながら生き抜く覚悟の持ち方だとか、柵の取り除き方、力の封じ方。

 それ以外には……“計画”がどこまで漏れているかも、だな。

 樹や薫に聞こえないようにそう呟いてから細は徐に仏間から出て行こうとする。その背に薫が疑問を投げかけた。


「どこに行くんすか?」

「……最初にお前が荒ぶる羽目になった原因の元だ。もう忘れたのか? 案外行儀の良い腹なんだな、薫」

「は……?」


 細の返答の意味が理解出来ず、薫はぽかんと口を開けていた。回りくどい言い方なので分からなかったのか。だが思い出して欲しい。薫が始め異様に不機嫌だったその理由を。


「思ったより食いつかないな。薫、腹は減っていないのか? 食べる前に呼び出されて怒っていただろ。随分時間が経っているから麺は伸びているだろうが、食べられないわけじゃない」

「あ、そっすね」


 ようやく自分達がまだ夕食を食べていないことに気が付いたらしい。薫の腹が思い出したかのように鳴り出した。


「伸びたまずいラーメンを食って、今日は休むとしよう」

「うへぇ。想像すると食欲がなくなりそうっす」

「まぁ、それは仕方ない」


 それからは碓井祖父や六条美沙以上におかしなものは現れず、平穏なものだった。

 樹が空間で遊び始める程度には。


「あれ……ここって今狭間と同じ空間なのかよ!?」


 薫が寝る間際にはっきりと気が付いたようで、跳ね起きた。空中に魚が泳ぎ始めれば誰だって何かおかしいと気付くだろう。


「今更~?」


 樹は呆れたように薫を見た。そして、その手から噴水のように魚を出して見せる。それは、樹が空間を完全に自分のものにしている証左だ。


「あ~、でも薫はおじいさんの偽者に思いっきり影響を受けていたから……僕がこうして空間を掌握したことをしっかり認識していなかったのかな~?」

「正直、展開が早すぎて何がなんだか分かっていないぜ。あのじいさんの件は解決したってだけは理解しているけどな」


 それを聞いた樹は大きくため息を吐いてから寝転んだ。そうして視界に入ってきた天井付近には悠々とカラフルな魚が泳いでいる。


「まぁ~、それだけ分かっていればほとんど問題ない気もするけどね~。碓井家の空間は今、僕のもの。それは六条美沙さんを抑えるためだよ」

「え……そんなこと出来んのかよ」


 狭間は何が起きてもおかしくない空間だ。しかし、そこまで細かい事象を起こせるという話は聞いたことがなかった。


「普通は無理だよね~」


 あはは~という気が抜けそうな笑いと共に樹ははっきりと無理だと言い切った。しかし、今は六条美沙のために空間を掌握しているのだという。

 つまり、“普通は無理”なことを実行しているのである。


「おい、それって大丈夫なのかよ!?」


 途端にこの空間にいることが危険だと思えてきた薫は慌てて樹の両肩を掴んで揺さぶった。霊能者というもの、基本的に怪異には図太いのだが、知らずして囚われていれば焦りもする。


「だ~い~じょ~う~ぶふっ」


 樹は何とかして薫を落ち着かせようと口を開いたのだが、それが災いした。話した拍子に舌を噛んでしまったのだ。その時ようやく薫が止まった。いや、樹の顔を見て固まったと言った方がいい。


「話を聞けよボケが」


 ドスの利いた低い声が、いっそ可愛らしささえ感じるような童顔から漏れ出てきた。

 あまりにも似合わなさすぎて今の言葉は一体どこから出てきたのかとつい思考を飛ばしてしまう。

 間違いなく目の前の、この見た目だけは癒し系の男が発した言葉である。


「わ、悪ぃ……」


 樹を見て薫は後退った。分かりやすい怒りの表情が浮かんでいたからだ。


「あのね、僕が仲間である薫を危険な目に遭わせるとでも?」

「いや、それは……」

「ないよ。僕がオールドアの皆を危険にさらすことなんて。……そこは信じていてもらいたかったな~」

「……悪ぃ」


 表面的には一応怒りを引っ込めた樹を前にして薫はもう一度謝っていた。よるべきところも何もなかった昔ならいざ知らず、今の薫にはオールドアという“家”があり、その仲間は家族のように思っている。それは樹も同じはずだ。

 だが、心の奥底では完全に信じることができていなかったのだろうか。


「ま、家族のように親しくても信じきれない部分ってあるからね~。それに、僕としても信じては欲しかったけど信じきられても、ね……困るかな」

「矛盾、してねぇかそれ……」

「あはは~そうかもね。信じる度合いの問題だよ。僕らは結局他人で……絶対的な信頼なんて無い方がいいんだ」 


 そう言っていつものように笑ってみせた樹は、どこか寂しげで泣きそうに見えた。


「あー……お嬢に会いてぇな……」


 自分の髪をぐしゃぐしゃと掻き乱しつつ呟く。

 何となく、来留芽のそばにいれば樹の不安定さも、薫の中で溢れそうになった不信感も収めることが出来るような気がした。

 樹も薫も来留芽のおかげで精神的に救われたことがある。その共通部分が仲間意識を芽生えさせたのだ。

 だが薫は樹と一緒に仕事をすることが滅多になかった。だから日常生活においてはともかく仕事をしている樹について知らないのだ。今回はそういったことも関係しているのかもしれない。


「……先、寝るな、樹」

「うん」


 それ以上交わせる言葉はなかった。


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