愛綴之章

1 作曲家の彼と病弱な私


 去年の夏頃のこと。わたしに最高の出会いがあった。


 わたしは虚弱体質で病院から出ることがなかなか出来なかった。来る日も来る日も真っ白い病室しか見られない。朝起きたとき最初に見えるその白に……変わらない、変えられない白にわたしは毎回溜息をついていた。それでも、起き上がれそうなときは起き上がる。

 この日、必ず確認する窓の外は夏らしい緑に覆われていた。


「あら、神無かんなさん、今日は起き上がれたようね」

「はい。今日は体調が良いみたい」

「良かったわね。じゃあ、少し出歩いてみる?」

「はい。少しは直接お日様に当たりたいかな」

「今日は良い天気だからね~。あら? 誰かしら、こんなことをして……」

「どうしたの?」


 カーテンを開けた看護師さんが窓枠を見て呟いた。わたしのところから見えないので何があるのか聞く。


「ふふ。葉っぱでね、夏って書かれているのよ」

「葉っぱで? ここってそんな不思議なことが起こるんだ」

「あら、神無さんって意外と純粋? 私は誰かのいたずらだとしか思わなかったわ」

「あ、いえ、その……いたずらだと決まっちゃうともう出来ないように対処しちゃうから……」

「動揺しすぎよ。そうねぇ……これくらいの無害なものなら咎めたりしないわよ」


 その日は久しぶりに外に出た。とは言え、病院の敷地内だったが。しかし、太陽の日差しが気持ちいいと思う。病室でも太陽の光を浴びることが出来るが、外に出て直接浴びるのとは少し違うのだ。さらに、今日は一人で出てきている。開放感も素晴らしい。


「あ、雨だ……」


 どうやら、晴れていても大気は不安定だったようだ。わたしは慌てて立ち上がり、病院へ駆ける。雨に濡れてしまうと必ず熱が出てしまうのだ。また寝込むのは嫌だった。慌てて病院の中に入り、部屋まで歩いて行くが、出会う人は皆濡れ鼠のわたしに驚いてか声を掛けてくる。しかし、部屋もそう離れているわけではないので大丈夫と呟いて早足に移動した。

 そして濡れた服を着替え、ベッドに入って温まる。そうしていると自然と寝てしまったようだ。それに気付けたのは息苦しさと暑さに目が覚めたからだった。もう動くのもしんどい。


「神無さーん。お見舞いが……神無さん!? 大変。熱が出てるわ。息苦しい?」


 動けないので耐えていると看護師さんが丁度来てくれた。見舞いが来ているとのことだったが、それどころではない。その日はもう誰とも会うことはなかった。


「おはよう、神無さん。熱は……ないわね。息苦しさは?」


 気が付けば朝だった。看護師さんに聞かれてわたしは何となく横になっている自分の体を見る。


「大丈夫」

「そっか。実は昨日ね、神無さんに見舞いのお客さんが来ていたの」

「見舞い? 誰だろ……」

静谷しずや光久みつひささんという方なんだけど、聞き覚えない?」

「あ……みっちゃんか」

「あら、渾名で呼ぶほど親しいのね」

「うん」

「……どういう関係? もしかして恋人、とか?」


 そう言われた瞬間、わたしの顔が熱くなった。看護師さんは冗談交じりにいったのだろうが光久……みっちゃんはわたしの恋人だ。今でこそ病院から出られないが、少しだけ退院出来た時があった。そのときに知り合ったのだ。こんなに体の弱いわたしでも良いと言ってもう三年くらい付き合っている。まだこの看護師さんには知られていなかったのかと少しだけ驚くが、すぐに無理もないと納得した。彼女はつい最近見るようになった人だからだ。産後復帰と言っていたような気がする。


「恋人か~。なら会いたかったわよね……でも、メッセージが届いているのよ。ほら、窓の外を見てごらんなさい」

「あ……」


 窓の外には看護師さんの言う通り、メッセージがあった。“夏”と同じように葉っぱで書かれている。今度は“ガンバレ”。わたしが倒れたのを知っているのは看護師さんとちょうど見舞いに来ていたというみっちゃんくらいだろう。そして、こんなことをするのは彼氏かいない。


「良い彼氏じゃない。何をしている人なの?」

「作曲家だよ。あ、ちょうどほら……」


 ――毎日の中に ガンバレのメッセージ

 どんなときも そばにいるよ 最愛の君へ――


「あら、この曲って……『STINA』の新曲じゃない。し・か・も……」

「うう……こっちみないで良いよぅ」


 STINAは穂坂ルイ率いる音楽グループの名だ。みっちゃんによると期待の新人らしい。彼等のデビュー曲を聞いてみてものすごく表現力のある子達だなと思った。そんな子達にみっちゃんの歌詞を歌ってもらっている。この新曲はわたしにも向けられたメッセージだと思うと心が温かくなる。


「熱々ねぇ」

「からかわないで~!」


 あの夏にわたしはSTINAの新曲としてみっちゃんの愛が込められた歌に出会った。彼の歌詞と歌手……STINAの歌唱力・表現力がマッチしてとても素敵な仕上がりだと思った。

 そして、彼の言葉に出さないメッセージは途切れることがなく


「あら、今日はどんぐりね。でも、適当に並べたみたい」

「え? みっちゃんにしては珍しいね……あ、違うよ。これ、スマイルだと思う」

「スマイル? どう見てもミステリーサークルだけど」

「ふふっ。わたしに宛てたメッセージだからわたしが分かればいいの」

「ほんと、熱々ねぇ。それに、良い彼氏さんだ。欲しくなっちゃうわね」

「あげませんよっ!?」

「ふふふ。分かっているわよ。それに、私はちゃんと夫がいるんだから」


 時々は体調を崩してしまったけれど、それでも外に出ていられる限界は伸びていたし改善が見られた。


「もう冬ねぇ。神無さん、寒くはないわね? 体調はどお?」

「大丈夫です。ちゃんと暖房入っているし」

「そっか。じゃあ、恒例の彼氏さんからのメッセージ確認といきましょうか」


 カーテンに手を掛けて悪戯っぽく笑った看護師さんに頷く。さっと開けられたカーテンの先から差し込む白い光に目を細める。そして、白い光の理由を知って目を輝かせた。


「わぁ、まぶし……雪景色だ」

「ほら、いつものところを見てごらん」

「あれは……雪うさぎ?」

「同じ大きさの雪うさぎね。何かを暗示しているんじゃない? 例えば……あなたと彼の仲睦まじい様子とか?」

「あ……そっか……」

「真っ赤よ、神無さん。ふふ……彼の方も二人になりたいと思っているのかもね」

「体調はだんだん良くなっているけど、退院出来るとかの話は聞かないなぁ。やっぱり難しいのかなぁ」

「そうでもないわよ。神無さん、朗報があるわ。春には普通に日常生活を送ってみましょうという話が出ているのよ」

「本当!?」

「ええ。通院はすることになるだろうけど」


 秋が来て……冬を越して……その間、一日も欠けることなく窓越しのメッセージは続いていた。春にはわたしの体調も改善が見られ、退院出来るまでになった。みっちゃんとの同棲生活が始まり、わたしは幸せだった。


 ジューンブライドを夢見るわたしのために挙式は六月に決まった。わたしがまだ入院していた冬はみっちゃんが結婚式のために右往左往したらしい。春からはわたしも結婚式に向けた準備を手伝い始めた。式場の下見など忙しくしていたけれど、奇跡的に体調が悪くなることはなかった。幸せが呼んだ奇跡だと笑い合った。


「六月にさ、僕の作った歌詞を贈るよ」


 ポツリと微笑んでそう言ってもらえた。小さい約束。


「ほんと? あ、でもSTINAに歌ってもらいたいかも」

「ああ、彼等、良いよねぇ。表現力あって、将来性抜群で。絶対にここから一気に伸びていく子達だよ。だからまぁ、可能だったらね……」


 このやりとりは冬のことだった。この時点でみっちゃんは少しだけ歌を作っていたようだったけれど、結婚するまでは秘密だと照れくさそうに笑っていた。


 そして結婚式まであと一ヶ月とカレンダーに刻んだ五月の中旬のことだった。わたしのもとに一つの凶報が届いたのは。


「静谷さーん! 奥さん! 大変だよ!」

「ど、どうしたんですか、おばさん。何かあったんですか?」


 わたしが家に居るとき、隣に住んでいるおばさんが泡を食って駆け込んできた。その慌てように驚いて手に持っていた植木鉢を取り落とす。そのあと、おばさんの息が整って教えてもらったことにわたしは何かで殴られたような衝撃を受けた。


「ハァ……ハァ……あんたんとこのご主人が事故に遭っちまったみたいなんだよ! 遠目に見ただけだが……あれは静谷さんだよ!」

「みっちゃんが……事故、に?」

「ああ。救急車で運ばれたみたいだから……市の病院だったかね。さ、行くよ! 保険証はどこだい!」

「あ……タンスの……」

「これだね!? 奥さん! 呆けてないで行くよ!」


 何も考えられなくなっていたわたしに発破を掛けて、おばさんは私を連れて病院に向かった。どうやらおばさんの旦那さんが救急車に同乗してくれたらしい。


「神無ちゃん……」

「あんた、言われた通りに来たんだけど……ここは……」


 霊安室だった。それが意味しているのはただ一つ。


「あぁ……うぅっ……」


 静谷光久の死


「神無ちゃん……お別れをしておいで。私らは外にいるから。それとも付き添った方が良いかい?」

「うぅっ……っ、いい、です……」


 わたしは崩れ落ちて泣いた。みっちゃんの顔を覆う布を取れなかった。あまりにも突然のことで彼の死を受け入れられなかったからだ。布を取り去り、青ざめて石のように動かない様子を見てしまうと彼の死を受け入れざるを得なくなる。それが、怖かった。


「みっちゃん……どうして……」


 それでも立ち上がって布をずらす。顔に大きな傷はなかった。眠っているようにさえ見えた。でも、そこに生命の鼓動はない。本当に死んでしまったんだ、と理解した。涙がまた一筋、頬を流れ、床に落ちる。その途端に襲い来る悲しさ、虚無感、絶望が構成する暗闇に放り込まれた。



 ***



「神無さん……」


 神無は再び病院生活に戻っていた。光久を失ったことによるストレスで倒れてしまったのだ。しかも、外界の何もかもを拒絶しているようで、話しかけても反応しない。家族と引き合わせても……彼女の顔に感情の一つも浮かぶことはなかったのだ。

 神無が再び入院することになったのは前と同じ病院だった。以前に彼女と良く話していた看護師は再入院を知ってそちらも担当するようになったが、変わり果てた彼女を見てやるせない思いを感じていた。前を思い出して彼女に話しかけたりしているが、何の反応も引き出せないままだった。


「本当ならこの日に結婚式のはずだったらしいのよね……」


 静谷光久が亡くなってから一ヶ月が経っている。誰の悲しみも関係なく時は無情に過ぎていた。


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