10 夢は叶えるもので浸るものじゃない


 アリスエディション白雪姫の物語に演じられていた鏡の世界は、彼女の部屋とはまったく違う女王様の部屋という場所から始まっていた。しかし、今来留芽達が歩いている場所はとても鏡の中の世界であるとは思えなかった。ひたすら暗闇が続いていたのだ。それはそれで鏡映しの世界であると思わなくもないが、やはり違うと感じる。


「非正規の方法で入っているからやっぱり抵抗が強いな~。はぐれたらごめんね、来留芽」

「うん……というか、薫兄は?」


 来留芽への名指しでの声にふと後ろを歩いているはずの薫を思い出す。振り返っても見えないのだが、つい確認してしまう。


「それがどうもとっくにはぐれているっぽいんだよね~」

「え……」


 あっけらかんと言われたそれに来留芽は絶句した。確かに声が聞こえないとは思っていたが、まさか本当にはぐれてしまっているとは思わなかった。黙っているのも周囲を警戒しているからだとばかり思っていたのだ。


「まぁ、薫のことだから何とか生き残っているはずだよ~」

「確かに。ただ、勢い余っていろいろと壊してしまっていないかが心配」


 来留芽の懸念には何も返ってこなかった。樹も否定しきれなかったのだろうか。

 ――いや、違う


「樹兄? 樹兄っ!」


 予感のまま、来留芽は樹の名を呼ぶ。しかし、返答はなかった。そっと腕を前に伸ばしてみるが、その手は何も触れる物はなくただ空を掴むのみだ。来留芽は完全に足を止めてしまう。


「こんな唐突に……はぐれた?」


 信じられない思いのままそう呟いた。薫とはぐれたというのは樹の言葉によって気が付いたのだが、その時点で来留芽達は鏡に入ってからそう時間が経っていなかった。そして、立て続けに樹ともはぐれてしまっている。……来留芽の方がはぐれたのかもしれないが、とりあえず今は来留芽一人だけで闇の中にいるということは確かだった。


「ここからは……自分の身は、自分で守らないと」


 来留芽はポケットから数珠を取り出し、緩く握る。また、呪符の位置も確認した。今持っている呪符は呪符師である細のお墨付きだ。来留芽自身は呪術を得意とする呪術師なのだが、呪符もそれなりに使えるようになっている。呪符は呪術より応用を利かせにくいが、その代わり使う霊力が少なくて済むという利点があった。いつ何が起こるか分からないこの状況では呪符を使った方が、後々余裕ができると考えられる。


 〈~♪〉

「……音楽?」


 一寸先すらも見えない暗闇の中。そこを当て所なく歩いていたら、どこからか音楽が聞こえてきた。来留芽は音の聞こえる方を割り出してそちらへ歩く方向を変える。

 この音楽は聞いたことがあった。それも、つい最近に。


「演劇部の、アリスエディション白雪姫……」


 そう気付いてみれば、来留芽の周囲の闇が徐々に晴れていき、気付けばどこかの舞台の観客席に座っていた。来留芽以外にも見慣れぬ姿の観客で席はもう埋まっていた。

 そして、目の前で舞台の幕が上がって行く。


「白鳥先輩……?」


 目の前の舞台でアリスは白鳥先輩が演じていた。もともとアリス役だったという話なので、その演技はずいぶんと慣れたものだ。来留芽が知っている白鳥先輩はアリスというには静かで大人っぽい女性だったのだが、今目の前にいるアリスは間違いなく白鳥先輩なのに『アリス』だった。違和感なく馴染むまで稽古を重ね、完成させていったのだろう。劇の主役として立っている先輩は自信と誇りに満ちた姿で、舞台を、観客席を含めたその空間を支配している。眩しいまでの力強さがそこにあった。


「でもそれは……まやかし」


 来留芽がそう呟くと、自信に満ちて演技していた『アリス』がさっと砂になって崩れてしまった。アリスだけではない。舞台も、来留芽が座っていた観客席も、何もかもがサラサラと消えていく。

 そして、後に残ったのは一人蹲って顔を伏せた白鳥先輩だった。


「どうしてここに来たの」


 無理に押し出したような苦しげな声に来留芽は足を止めた。白鳥先輩は返事を求めていたわけではなかったようで、さらに苦しみを漏らす。


「どうして気付いちゃったの。どうして……」

「白鳥先輩……」


 来留芽がその前で片膝をついてしゃがむと白鳥先輩が顔を上げた。苦しげに歪めた顔に涙が伝っている。ここに来る前に鏡に映ったものと同じような表情だった。


「ただ夢に浸っていられれば良かったの。現実の私じゃ主役はもうできないけど、夢なら理想の私でいられるもの」

「でも、ずっと夢の中にいたって良いことはない、です」

「知っているわ!」


 来留芽の言葉に噛みつくようにして先輩は叫ぶ。その瞳に攻撃的な色を読み取って、失敗したかと内心で焦った。白鳥先輩の意識を現実に戻すにはやはり本人の意思が大切になる。難しいとは思うのだが、それが最も良い結果となるだろう。


「……」

「……知っているの。分かっているのよ」


 掛ける言葉が見つからない来留芽の沈黙の後、小さな声で先輩はそう言った。自分に言い聞かせているかのような様子だ。


「私は先輩を否定することはできません。鏡が反応するほど強い願いを持っていたということなので、その夢を見てしまったら現実がとても辛く思えるのだということは分かっています。戻りたくないという気持ちもとても良く分かります」


 ただの同情や口先だけの言葉だったのなら白鳥先輩はこれに強い拒絶感を覚えたことだろう。しかし、文面だけなら軽くなってしまうその言葉には来留芽の実感がこもっていた。


「……だったら放っておいてちょうだい」


 現実に生きる自分の苦しさが、悔しさが、悲しさが、本当に分かるというならば……ずっと夢に浸っていたいという気持ちも理解できるというのならば、そのままにしておいて欲しかったのだと言う。

 来留芽はそれでも頭を横に振った。


「それは、できません。白鳥先輩がこのままここにいると、現実の体がどんどん衰弱していって、目覚めないまま死んでしまいますから」

「……夢などない抜け殻のような意識だろうけど、体には残っているはずよ。だから、死にはしないわ」


 ――意識が残っている?

 来留芽は眉をひそめた。細が念のために待機しているはずの倉庫を思い出す。白鳥先輩は呼吸こそしていたが意識についてはまったくなかったはずだ。急いで意識を引き戻さないと衰弱死する未来が見える程度には危機的な状況にあったと記憶している。


「白鳥先輩は鏡の前に倒れていました。私達が確認したところ、意識らしい意識はなくて……このままでは死んでしまうと思う程度には危険な状態だったんです」

「そんな……」


 流石に自分が死んでしまうと聞いて平常ではいられなかったのか、白鳥先輩はその一言を呟いたきり、視線を落として沈黙してしまった。

 来留芽の言葉を信じるに値する根拠などない。口から出任せを言って自分から帰ろうと言い出すように誘導している可能性も考えられる。しかし、それでも自分の死というものを考えさせられてしまった。死は全てを断つ。自分がこれまで蓄えてきた知識も、築いてきた縁も、これから先の未来も全て。


「人の縁が続く限り。不幸はほんの匂わせ程度でしかないんです」

「……でも……」


 前を向く勇気が出ない。しかし、心の中には演劇部の仲間の顔が次々に浮かび上がる。もう卒業してしまった先輩達、今年が最後の舞台だと張り切っている同じ三年生のメンバー、これからの演劇部を任せる一、二年生のメンバー。妙に自分に懐いている子犬のような後輩。そして、彼等とともに今まで作り上げた舞台での記憶が蘇った。


 ――死んでしまったら、皆と二度と会えなくなる


 そう思うと、ぽたぽたと雫が落ちていった。顔を手で覆って拭うが、涙は絶えることなく流れてしまう。


「誰だって死にたくはないと思います。ここで夢に浸るのは抗いにくい魅力があるかもしれません。でも、それはあまりにも今まで生きてきた努力を無下にしている」


 来留芽がここに来てから見た『アリス』。あれは理想の演技者としての白鳥先輩だったのだろう。しかし、現実の白鳥先輩にできないとは思えなかった。ここで諦めなければいずれ到達する演技力のレベルなのだ。それは今までの努力があってこそ。


「夢は叶えるものであって、浸るものではないんです。……白鳥先輩には現実の舞台で、これから先の未来で夢を胸に輝いていって欲しいと私は思います」


 その言葉が先輩に届いたのかどうかは分からない。しかし、彼女は顔を上げて涙を零しながらも小さな笑みを見せた。


「そうね――現実で、もう少し頑張ってみようかしら」

『それが一番だと思うよ、白鳥』


 その言葉と共にパァッと明るくなったその空間には来留芽と白鳥先輩以外にも人がいた。ここまでのやり取りも聞かれていたのだろう。その姿を見て、白鳥先輩はハッと息を飲んだ。


蓑口みのぐち先輩……?」

「樹兄、薫兄!」


 白鳥先輩と来留芽はそれぞれ驚きに目を開く。暗闇で見えなかった位置に三人がいたのだ。蓑口先輩と呼ばれた一人は鳥居越学園の制服を着た、王子様然とした男子生徒だった。今三年生である白鳥先輩が“先輩”と敬称を付けたのだから、今はもう卒業しているのだろう。その少し後ろに控えるようにして樹と薫が立っている。


「蓑口先輩は、どうしてここに……?」

『君と同じだよ、白鳥。僕もこの鏡に囚われてしまったのさ。今の僕は夢の欠片、とでも言えば良いかな。本人じゃないんだ。本人の大切な部分ではあったとは思うけど』


 闇が晴れて来留芽達は抜けるような青空に囲まれて立っていた。しかし、蓑口先輩はそんな清々しさとはほど遠い理由で存在しているようだ。それにしては重苦しさといったものは一切感じさせない。


「夢の欠片ということは……やはり、蓑口先輩も囚われて取り戻せなくなっていたんですね」

『そうだよ。だから、現実の僕はきっと抜け殻のようだったんだろうね』


 来留芽は蓑口先輩が言った“抜け殻のようだった”という言葉に引っ掛かるものがあった。白鳥先輩も“抜け殻のような意識”と言っていた。この抜け殻という言葉。何か根拠があるのだろうか。


「あの、なぜ二人とも現実の自分が“抜け殻のよう”になっていると言えるのですか?」

「昔から、有名なのよ。あるとき突然演劇に対する情熱を失ってしまったような生徒が現れるという話が。それで、そうして残った彼等を私達は“抜け殻”と称していたの」


 それが本当ならこの鏡には二人以外にも囚われている夢があるはずだ。


「来留芽、一応予想通りだったと言っておくね~。実は、他の子は既にこの簑口将生くんと解放したから問題はないんだよ」

「そう。薫兄も何かしたの?」

「いや、俺が何かする間もなく樹とそこのが手早く解放していった」


 大したことができなくてふてくされているのだろうか。

 来留芽は肩をすくめると放置する形になってしまった蓑口先輩と白鳥先輩に向き直った。


「蓑口先輩が今まで残っていた理由は何ですか?」

『もちろん、白鳥が心配だったからさ。僕があの話をしたのは美舞と白鳥だけだったんだけど、美舞はともかく白鳥の方は少し危うげだと感じていてね。心配していたらこっちまで来ちゃって……』

「すみません」


 白鳥先輩は向けられた視線に体を縮めて謝る。


『いや、謝る必要はないさ。僕も人のこと言えないからね。でも、君は現実へ戻れるかい?』

「はい。なぜか現実の私の体は衰弱死してしまうそうですし。戻らなくてはならないんです」

『衰弱死? ああ、もしかしたら鏡の仕様が変わったのかもしれないね。僕達が逃れようとしていたから……永久に閉じ込めてしまうために。現実の体が死んでしまったら流石に逃げられないからね』


 話を聞いているだけでも鏡の凶悪さがよく分かる。白鳥先輩は本当に危ういところだったのだろう。


「さて、いつまでも鏡の中にいるわけにもいかないし、帰ろうか~」

「うん。薫兄、お願いできる?」

「ああ、もちろん」


 そう言うと薫は腕を鬼化させて抜けるような青天井へ突き出した。来留芽達が見上げている先で青空にヒビが入り、穴が開く。その先は見通せぬ闇のようだったが、樹は平然として言った。


「あれが、出口だよ~。閉じないうちに行っちゃおう」


 あんな空高くまでどのようにして行くというのか。現世ならばそんな疑問も正しいだろうが、今いる場所においてはそんな疑問を挟む必要は無い。ただ目指す。それだけで道ができるだろう。


「階段、かな」


 想像すれば空を飛んでいくことも可能だろうが、この場にいる誰もが想像しやすく安全なのはやはり階段だろう。そう思って来留芽が呟くとその場から空に開いた穴まで続く、半透明の螺旋階段が現れた。


『なるほど、こうやって現実に戻るのか』

「そうなるね~。それじゃあ、先頭は僕、殿は薫に頼むよ~」


 来留芽は階段を上りだした樹の後に白鳥先輩が続くように促す。彼女は躊躇わずに現実への道に足をかけた。夢に浸る必要など無く、現世には大切なものが残っているのだと気付いたからだろうか。


『白鳥!』


 しばらく上ったところで下から声が響いてきた。


「え……先輩?」


 蓑口先輩は階段を上ることなく、ずっと下にいた。先程よりも存在感が薄くなっている。今すぐにも消えてしまいそうなほど服も体も透けていた。

 彼は白鳥先輩の戸惑いを気にせずに大きく手を振る。


『――頑張れよ!』


 そして、本当に消えてしまった。


「な、何で……」

「あれは、夢の欠片だからね~。鏡に囚われたばかりの君や無理にこじ開けてここまで来た僕らよりもずっと縛りが少ないから、一足先に現世へ戻ったんだよ」


 来留芽達も早く戻ろうと止まっていた足を進める。黒い穴の先にも階段は続いており、気が付けば現世の倉庫に戻って来ていた。


「おかえり、来留芽、樹、薫」

「ただいま、細兄」


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