5 続『アリスエディション白雪姫』


 道なき山はどうして道がないのでしょうか。「きっと、まだ誰も入ったことがないからだわ」とアリスは思いました。この山には人はおろか、動物もひょっとしたら虫もいないのです。それに、どうやら生えている木が動いて道を消してしまうようでした。

 そんな不思議な山を越えて見えたのはまたしても、山。この五つ目の山でも不思議な光景を目にしました。


「川が下から上へ向かっているわ!」


 山の半分を覆っているのではないかと思うほど広い川が物理法則を無視して流れているのが見えます。それにびっくりしたせいでしょうか。アリスは手に持っていたしめ紐を落としてしまいました。紐はそのまま藪に引っ掛かりましたが、持ち上げるときにビリッと切れてしまいます。さぁ、大変なことになりました。これでは女王様の命令を果たせません。


「困ったわ。これでは女王様に叱られてしまう。あんな怒ったらうるさそうな人の前にすごすごと戻るわけにはいかないわ」


 そのとき、ぽつんと寂しく建っている小さな建物が目に入りました。アリスは近寄るとその看板を見上げます。


「『Borrow or rob』ですって。変な名前! お店なのかしら。借りるか盗むかだなんて、お店だったら『Buy or sell』でしょうにね!」


 扉に手をかけたら、アリスは雑貨屋の小さなカウンター前に立っていました。奥にはのんびりと編み物をしている羊のおばあさんが見えます。どれだけ集中しているのか分かりませんが、やって来た客に目を向けもしません。


「あの……すみません」


 雑貨屋ならば切れてしまった紐を直すための針と糸が売っているかもしれません。いえ、間違いなくこのお店には置かれています。しかし、不思議なことにそれらがここにあることは分かるのですが手を伸ばしても掴むことができませんでした。


「あの、針と糸をいただきたいのですが」

「欲しいものは勝手に持っていきな。対価はちゃんといただくけどね」


 おばあさんはのんびりとそう言いましたが、持っていけないからアリスは頼んでいるのでした。


「私、針と糸が欲しいんです。でも、この店のものは掴めなくて」

「それが本当に必要なら――」


 おばあさんは編み物の手を止めてアリスをまっすぐに見つめます。そして、こう言葉を続けました。


「お前さんの手にちゃんと収まるはずさ。それがないなら、きっと真に必要としているものが違うということだ。もう一度よく考えなさい」


 真に必要としているとは、一体どういうことでしょうか。ひょっとしたら針と糸は今のアリスが本当に必要としているわけではないのかもしれません。

 しかし、紐を直すのに針と糸が要らないなんてことがあるでしょうか。「そもそも針と糸があったとして、が直せるとは限らないわ」とアリスは自分の過去の刺繍作品を思い出します。


「でも、私はただ――この紐を直したいのよ」


 そう言ったら、紐を持つアリスの手に羊のおばあさんの手が重ねられました。そして「分かっているじゃないか」と言うとアリスの指を緩め、紐を露にします。


「お前さんは何のためにこの紐を持っているんだい?」

「私、この紐を届けに行くのよ。山を越えた先にいる女の人のところへ。……その、女王様の命令なの」

「知っているさ。赤がお好きな女王様だね。この紐はあたしが直してあげよう。本当に必要としているのはそれらしいからね」


 次の瞬間には、アリスとおばあさんは一艘の小舟に乗って川を進んでいました。アリスが漕ぎ手のようです。

 小舟はゆっくりと川を進みます。下から、上へ。不思議な気持ちになりながらもアリスは景色を楽しんでいました。

 そして五つ目の山の頂上に差し掛かったときのことです。羊のおばあさんが不意に手を伸ばしてきました。見れば、完成した紐があるではありませんか!


「完成したのね! ありがとう。お代はおいくらかしら?」

「お代というものはね……お金とは限らないのさ。ときに、お前さんはここまでの川上りは楽しかったかね?」

「え? ええ、楽しかったわ」

「ならそれを対価としようかね」


 それは一体どういう意味なのかと尋ねる間もなくアリスは小舟から落ちていました。そして瞬く間に流されてしまいます。「信じられないわ――あの羊、私を突き落としたのよ!」と後にアリスはそう言って怒りました。「あのことがあったから――楽しい川上りのことなんて吹き飛んでしまったわ」とも。

 さてさて、対価とは何だったことやら。


 流されていくアリスは同じように川をぷかぷかと浮かんでいるものを見つけてすがりました。しかし水を吸った服は重く、そのまま上がるのはとても難しかったので何とか浮かぶだけして一息つきます。

 そのとき、パチリと開いた目に気が付きました。


「お嬢さん、水泳かね?」

「いいえ!」

「そりゃあそうだ。お嬢さんは“水泳”というものではなく、人間だからな。簡単な、なぞなぞだ。では、何か聞きたいことでもあるかな?」


 今、アリスと川を流れているのは言葉を話す何かであったようです。びっくりしましたが、とりあえず今一番求めているものの場所を尋ねることにします。


「ええと……岸はどの方向にあるのでしょうか?」

「きし? きしにはいずれ会えるさ。わしを助けに向こうからやって来るだろう」


 向こうからやって来る岸とは一体何なのか分からず、アリスは混乱していました。言葉遊びなのでしょうか。今すがっている彼の形をよく見てみますと、ふと有名な詩が浮かんできました。


「ハンプティ・ダンプティ……」

「いかにも! 間違いなくわしを表す名前だ――だが、敬称を忘れてはいかんよ……わしはお嬢さんよりもずっと偉いのだからな! 何と、王様が直々にわしとある約束なさってくださったのだ。普通は会えもしないような方だがね! たぶん、御子息も近くにいるはずだ――」


 川を流されながらたいそうもったいぶった様子で話すのでアリスは笑い出して力が抜けてしまいそうでした。


「でも、私、女王様にはお会いましたのよ」

「ふん、本物の女王様か怪しいものだ。しかもなぞなぞではないな……そもそも、そのようなことはあまり喧伝すべきではなかろう」


 アリスは笑わないように澄ましつつ言いました。


「お言葉ですが――王様のことを持ち出したのはあなたが先だわ」

「それもなぞなぞではないな。他に何かないのか?」


 その会話にならない会話に腹を立てたアリスはしばらく黙っていました。ハンプティ・ダンプティもぴったりと目を閉じてしまい、どこが目なのか口なのか分からなくなってしまいます。


「もう知らないわ……岸がやって来るまで待つなんてのんびりしてはいられないもの」


 アリスは息が整うとハンプティ・ダンプティをそのままにして泳ぎ始めました。少し泳いだ先で休憩として足を下ろしてみると、地面についたではありませんか。そして、顔を上げればもう目の前は岸でした。


「何とか溺れ死なずに済んだわね」


 そうして息を吐いたときのことです。後ろからばしゃばしゃと水を跳ねる音が聞こえたかと思うとアリスは地面から足を離していました。


「大変だ! 大変だ!」

「ハンプティ・ダンプティが川に落ちた」

「いくら騎士が集おうが」

「ハンプティ・ダンプティを起こせない!」


 アリスは騎士の一人に抱えられていたのです。そう、まるで小麦の袋を小脇に抱えるかのように。決してレディに対する扱いであるとは言えないその抱え方に一言でも文句を言わなくては気が済まないとアリスは騎士に声をかけます。


「こんな荷物みたいな持ち方をしないでちょうだい!」

「うわぁっ! ご、ごごごめんなさいっ!?」


 たいそう驚いた様子を見せる騎士ですが、素早くアリスを子ども抱きにしました。頭の血が下がったアリスは騎士に走っている理由を尋ねます。


「どうして走っているの?」

「応援を、呼びに行くためさ! 私たちじゃ起こせなかったからね」

「ハンプティ・ダンプティ……さんのことかしら?」

「もちろん! 氏にも困ったものだ――このままでは仕事に差し障る!」


 アリスを抱えている騎士とは別の騎士がそう叫びます。確かに、ハンプティ・ダンプティが倒れた(今回は水に落ちたようですが)だけでいちいち行かなくてはならないのは大変でしょう。


「騎士の仕事ってどのようなものがありますの?」

「ふ……小さなレディ。僕たちは王子殿下の護衛騎士をしているんですよ」

「おい」


 一番先頭を先導するように走っている騎士がちらりと振り返ると不機嫌な顔を向けます。顔で叱られた騎士は軽く手を振りますが、そこに反省の色はありませんでした。


「ところで、私はどうして運ばれているのかしら?」


 アリスは今さらながら抱き上げている騎士に尋ねました。


「ちょうど進路にいたからさ!」

「小さなレディ。君の目的地が近いならそこまで送ろう」

「ええと……詳しい場所は知らないのよ。山を越えた先に若い女の人がいるそうなの。私が目指しているのは彼女のところよ」

「おつかいの途中だったんだね」


 そのとき、アリス達がいる場所から谷を挟んだ向こう側に小さな家が見えました。


「あそこの家までは送ろうか。そこからはレディ一人でも頑張れるかい?」

「ええ、もちろん!」


 そのあとは、小さな家の前で騎士達と別れました。アリスは彼らを見送ると家の扉をとんとんと叩きます。


「どなたかいらっしゃいませんか?」


 アリスがそう尋ねると窓から女性が顔を出しました。彼女は“それなり”どころではない美しさを持っていました。アリスは「女王様より劣るなんて思えないわ! 千倍も美しい人よ」と思いながら、おそらく女王様の目的の人物であろう女性を見つめます。

 雪のように白い肌に血のように赤い頬、そして黒檀のような黒髪。そうです、小さな家にいたのは白雪姫だったのです。


「まぁ、小さなレディでしたのね。どうしたのかしら? 迷子になってしまったの?」

「私、迷子ではないわ。届け物があって来たのよ」


 アリスがそう言いますと、白雪姫は困ってしまいました。それというのも、彼女はこの家の主達に言い含められていたことがあったからです。


「届け物? それは窓から入るほどの大きさかしら。この家に他の人をいれてはいけないと言われているの」


 白雪姫は継母の命令で殺されそうになったことを居候させてもらっているこの家の主達に話していました。そして「家のなかには誰もいれてはいけないよ」と言われたのです。


「もちろん、届けに来たのはただの紐ですもの」


 アリスはその紐を白雪姫に差し出します。しめ紐は虹のような不思議な魅力のあるものでした。白い手がそうっと差し出され紐を持ちますと、その紐はひときわ妖しい光を放ちました。


「まぁ、きれいね」


 じっくりと見ようとして顔を近付けたその時のことでした。紐がするりと白雪姫の首に巻き付き、きつくしめてしまったのです。急に空気の道を絶たれた白雪姫はそのまま倒れてしまいました。


「えっ! どうしたらいいの」


 アリスはおろおろと周りを見回しました。扉は固く閉ざされており、唯一の出入り口と言える窓はアリスには高く、とても上れそうにありませんでした。


「おまえさん、何をしているのかな」


 アリスは振り返るとアッと驚きました。後ろにいたのは少しずつ違いがある七人の小人でした。ここにきてようやく今いる世界が白雪姫の世界だと気づいたのです。


「わ、私が届けた紐が勝手に動いて白雪姫の首をしめてしまったのよ! このままじゃ死んでしまうわ!」

「何と!? それはいけない。急いで助けに向かわねば」


 小人の一人が鍵を取り出して扉を開きました。そしてアリスと七人は急いで白雪姫の元へ向かいます。


「おお、白雪姫。かわいそうに、今助けてあげよう」


 小人の一人がはさみを取り出し、首の紐を切ってしまいます。すると、白雪姫は少し息をしはじめてだんだんと頬に赤みが戻ってきました。


「これでもう、大丈夫だろう」


 アリスもほっと息を吐きました。しかし、完全に気を抜くにはまだ早かったのです。


「ところで、この紐を持ってきたのはお前さんで間違いないな?」

「え、ええ……はい、私が命令されて持ってきたものです」


 七対の瞳がアリスを囲みます。意外にも、咎めるような感じはありませんでした。ただ真実を見抜かんとするかのような真摯な目に、アリスは嘘偽りなく話すことを決めます。


「誰に命令されたのだ?」

「その、女王様なんです。不思議な鏡を持った……」


 アリスがそう言うと七人は互いに目をやり、相談します。


「鏡とな」

「白雪姫の話にはなかったが」

「女王様というからにはあの女王のことだろう」

「こんな子どもを利用するとは」

「鬼のような女王だ」

「お前さんも、もう関わってはいけないよ」

「帰る家はあるかい? ないならば白雪姫の話し相手としてここにいても構わない」


 次々とかけられる声にアリスは何と言っていいのか分からず、おろおろとします。


「私――、女王様のところに戻らなくてはならないのです。私が帰るには女王様の魔法の鏡が必要なのですもの」


 それを聞いた七人は頭を抱えます。


「ああ、それは大変なことだ」

「機嫌を損ねては帰れぬだろう」

「この子は女王の駒に成り下がるしかなかったのか」

「しかし、白雪姫は助かっている。今戻ったところで……」

「ああそうだ、処分されてしまうだけかもしれぬ」

「ああ、なんということだ」

「家があるならば帰してやりたいが、女王の元へ行かせるのは気が進まない」


 彼等は女王様をひどく警戒し、恐れているようでした。漏れ聞いたところによると、アリスがこのまま戻ったとしても身の安全は保証できないということです。

 それならば、と七人はアリスに女王のもとを逃げ出しここにいればいいと言ってくれます。アリスもあの女王様のところへ戻るのは気が進まなかったものですから、その提案を素直に受け入れました。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る