4 『アリスエディション白雪姫』

 

 ***



 昔々、冬の最中のことでした。雪が鳥の羽のようにヒラヒラと天から降っていましたときに、一人の女王さまが黒檀の枠のはまった窓のところに座って、縫い物をしておいでになりました。

 女王さまは、縫い物をしながら、雪を眺めていらしたところチクリと指を針でお刺しになられてしまいました。すると、雪の積もった中にポタポタポタと三滴の血が落ちました。まっ白い雪の中で、そのまっ赤な血の色がたいへん綺麗に見えたものですから、女王さまは一人で、こんなことをお考えになりました。

「どうかして、わたしは、雪のように体が白く、血のように赤い美しいほっぺたを持ち、この黒檀の枠のように黒い髪をした子が欲しいものだ」と。

 それから少し経ちまして、女王さまは一人のお姫様をお産みになりました。けれども、女王さまはこの姫様がお生まれになったあと、すぐにお亡くなりになりました。

 あとに残されたお姫様は色が雪のように白く、頬は血のように赤く、髪は黒檀のように黒く艶がありました。名を、白雪姫とされました。



 ――これから演じます物語には、もう一つのプロローグがあります。これより、お見せいたしましょう……。あぁ、私はしがない黒猫。ただの進行役にございます。どうぞよしなに。



 この世の中に不思議なことは一体どれ程あるのでしょう。不思議なことは分からないこと。あなたが分からないならそれは不思議なこと。そう考えればこの世の中は不思議ばかりだわ!

 まぁ! 私をばかだとお思いになっていらっしゃるの? それならあなたは分かるのかしら。例えば――そうね、雲が空全部を覆ってしまうときと、ふわふわと千切れたものが青空に浮かぶときとがある理由を!

 でもね、でも確かなことは一つあるの。あなたの頭の中に限れば――私だってそうなのだけど――いくらでも不思議を作り出せるのよ!

 ほら、鏡の向こうに部屋が見えるでしょう――あっちの部屋はこっちの部屋と同じように見えるけど、何でもあべこべなのよ。それはね、鏡が私を騙そうとしているからに違いないわ! 鏡の向こうには、本当は全く別の部屋があるの――女王様の豪華な部屋だったら素敵ね。どう、これは“不思議”なことでしょう? それで、向こうに行くには呪文が必要なのよ。女王様が鏡に命じるようにね!


「鏡よ鏡――向こうの世界へ通しておくれ」



 ☆★☆★



「あら――ここは、どこなのかしら?」


 何ということでしょう。アリスは、気が付けば今まで見たことがないほど豪華な部屋に立っていました。触れるのも躊躇われるような高価なオーラをまとう調度品の数々は、もちろんアリスの部屋の鏡写しの姿ではありません。


「やっぱり、あの鏡は私を騙していたのかしら。でも、この鏡の向こうに私の部屋があるのかは分からないわ」


 壁にかかっていた鏡を見て呟き手を伸ばしたそのとき、後ろ側の扉が開くとこれまた豪華な扇子を持った、美しいという言葉が陳腐に思えるほど眩い容姿の女性がやって来ました。アリスはその姿を鏡越しに見て女王様だわ! と口元に手を当てて驚くと慌てて振り返ります。


「小娘、どこから来たのじゃ」


 柳眉をひそめた女王様の前でアリスはレディらしくスカートをつまむと丁寧に礼をしました。そして、自分がどこからやって来たのか――鏡を通ってこちらへやって来てしまったのだと説明します。


「ふむ……ワタクシの鏡は魔法の鏡だからさようなことが起こってもおかしくはない」

「そうなのですか。でも、その、私――」


 アリスの鏡は魔法もかかっていない普通の鏡でした。では、アリスがここにいるのは目の前の美しい女王様の鏡のせいなのでしょうか。

 そのことをはっきりと言うわけにもいかず――鏡を悪く言って処罰されてはたまりませんから――口ごもっていると、女王様はパチンと扇を鳴らします。


「口をきくときにははきはきと。それと必ず“陛下”をつけよ」


 アリスは深くお辞儀をすると願いを述べました。


「もとの部屋へ戻りたいのです、陛下」

「小娘の言うもとの部屋とはどこの部屋じゃ」

「もちろん、鏡の向こうにある部屋ですわ、陛下」


 鏡を通ってやって来たと説明した矢先のその言葉にアリスはイライラとしていました。返答したすぐあとにその感情が混ざってしまったかもしれないと思い、謝罪の意味を込めてまたお辞儀をします。


「小娘がここにいるのだから、鏡の向こうには確かに部屋があるのかもしれぬ。しかし、向こう側が間違いなくそなたの部屋であるとは言い切れぬであろう」

「でも、私は確かに鏡を通ってやって来たのです、陛下――」

「ふむ。らちが明かぬな。これは聞いた方が早かろう」


 女王様は鏡の前に立ちます。


「鏡よ、鏡――……そなたが繋げる世界を見せておくれ」

「はい、女王様」


 鏡写しの女王様とアリスがぐにゃりと歪んだかと思うと、次の瞬間にはまったく違う場所がいくつも映りました。鏡面はアリスの部屋に良く似ていて、しかし間違いなく違う場所が映ったすぐあとにまったくわけの分からない景色に切り替わるなど、実に目まぐるしく変化していきました。本物の部屋――つまりはアリスが本物だと認識している部屋になるのでしょうが――は映りはしたのかもしれませんがあっという間に目を滑っていきました。


「そんな――」

「これで分かったであろう。鏡が特定の世界へ繋げるのは砂漠に落とした宝石を見つけるようなもの。しばしの時を必要とするのだ。幸い、小娘はワタクシほど美しくもない。ここへの滞在を許可しよう。その代わり、ワタクシの手足として仕事をしてもらおうぞ」

「……はい、陛下――」


 女王様のご意向に逆らってはいけないと判断したアリスは「また別の世界に行くのも楽しそうだわ」という思いはおくびにも出さずに深く頭を下げました。


「それでは早速、第一の命令じゃ。ここからいくつも山を越した先で、初めに出会った“ワタクシには劣るがそれなりに美しく若い女”にこれを渡してきなさい」


 女王様は絹糸で編まれたしめ紐を取り出すとアリスの手を取って握らせます。魚のような細い手がアリスの手を上から覆い、ギュッと握りました。アリスは目を潤ませて必死に頭を縦に振ります。「泣いているんじゃないわ。女王様が怖いなんて思っていないんだから!」そんな言葉を何度も胸の内で呟いていました。


「渡したら、すぐに走って帰ってくるのじゃ。速く、速く――ワタクシを待たせるでないぞ」


 気が付けばアリスはお城を背にして立っていました。そして目の前には高い高い山があります。まず一つ、二つと山を走り抜けたらアリスは汽車に乗っていました。


「山越え線だよ。切符を拝見させてもらえるかい」

「私、切符を持っていないんです」

「買わなかったのかね?」

「買わなかったのではなくて、買えなかったんです。気が付いたらここに座っていたのだもの!」

「ではここで切符を買うかね? ちょうど良さそうな紐を持っているじゃないか」


 指さされてアリスは握りしめていたしめ紐を見つめます。「物で切符を買うということは物で時間を買うことね。汽車は私が歩くよりもずっと速いのだもの。でも、この紐が時間に対する正当な対価となるのかしら」とまで考えたところで慌てて頭を振りました。


「この紐は私の物ではないんです。対価としては差し出せません」

「そうだよ、それに、子どもに大人のルールを課すのかい?」

「いやいや子どもも大人も同じ“時間”を過ごすのだから区別することはおかしいだろう」

「しかし何も持たぬ者に要求できるものはない」

「いやいや、小さなレディでも小人と一緒に働けるのではないかね」

「そうだそうだ。少なくとも命は持っているじゃないか」

 

 乗り合わせた客達が口々に好き勝手言い出し、話が怖い方へ進みそうだったのでアリスは慌てて声を上げます。


「私、降ります。切符代もないので……」

「それはいけない! 走っている汽車から降りるなんて、命を対価に切符を買うよりもったいないことだ」


 アリスはどちらも同じことだと思ったのですが、乗客達は明確に違うと主張します。どうも考えが食い違っているようでした。


「あの、命を対価にするとはどういう意味なのか教えていただけます?」

「そんなの――」


 そのとき、突然ガクンと汽車が止まり、アリスの問いかけに答えようとしていた声が消えてしまいました。


「降りる準備に入ったようだ」


 一人の乗客が窓を開けて外を見るとそう言いました。誰が、もしくは何が、どこからどうやって降りる準備に入ったというのでしょうか。


「私を降ろしてくれるのですか?」

「まさか! 一度乗ったなら途中下車はきかないよ。降りるというのは我々のことさ……いや、厳密にはこの汽車ということになるのかな――」


 一体どういうことなのでしょうか。アリスも彼にならって窓を開けて外を見てみました。


「道の先が無いわ!」


 汽車のレールはあとほんの三メートル程のところで途切れており、その先は地面もありませんでした。汽車は崖っぷちに停まっていたのです。


「お嬢さん、窓は閉めた方が良いですよ――投げ出されたくなかったらね!」


 アリスがその言葉に返答する間もなく乗客達はドンドンと足を踏み鳴らし、汽車が小刻みに震えます。


「それ、行くぞ!」

「行くぞ」「行くぞ」「行くぞ……」

「「「そぉーれっ!」」」


 一際大きな掛け声が聞こえたかと思うとビョンっと汽車が動き出し、アリスは椅子から浮かび上がりました。汽車は降りて――いえ、落ちているのです!


「ああっ!」


 閉じる間もなかった、つまり開いていた窓からアリスは放り出されてしまいました。そして、恐ろしい速さで近付いてくる地面を見ながら「この高さから落ちたのなら、どう考えても助からないわ」と思いつつも衝撃に備えて体を固くし、近付く地面も、まるで体を包み込むような空も一切を視界から追い出します。

 しかし、一向に予想した衝撃が訪れません。アリスはそうっと片目を薄く開いて周りを見るとびっくりして立ち上がり、すぐにぺたんと地面に座り込んでしまいました。


「森だわ。私、ちゃんと地面に立っているのね」


 座り込み、樹にもたれながらアリスはふぅと息を吐いて緊張を解きます。


「おやお嬢さん。こんなところに座ってどうしたんだい」

「このお嬢さんはここに座りに来たのではないかな。正解を聞くなんてナンセンスだ」

「いや、決めつけはよくないだろう?」


 アリスの目の前には鏡写しのような二人が立っていました。互いが互いに対してどこか刺々しい態度を取るところまでそっくりです。


「お気遣いなく。ここに座っているのは――ええ、少し休んでいただけですわ」


 アリスはそう言うと立ち上がって二人と目線を合わせます。


「あの、一つ、お聞きしたいのですが」

「答えられるならば答えよう」

「ただし答えられぬものに答えはない」


 アリスは「言葉遊びをしている暇はないのよ」と言いたげに少し顔をしかめましたが、気を取り直して一つ、こほんと咳払いをします。


「この山を越える道を教えていただけませんか。ご存知であれば、ですが」

「もちろん知っているさ。だけど、知らないとも言える。この山は道なき山なんだ」

「歩いた後が道となる。進むべき道なんて示されない。だから知っているとは言えないのさ」

「あー、ええ、そうなのですか」


 アリスは分かったような分からなかったようなはっきりしない返事をしました。それが彼等の気に障ったなんてことはなかったようで、そっくりな二人のうち一人がにやりと笑うと付け加えるようにこう言いました。


「Where there is a will, there is a wayさ」


 アリスはまだ分かったような分からなかったような気持ちでいましたが、「道があると思えば道ができるのかしら」と一応納得しましたので「ありがとう」と一言だけお礼を言います。


「いやいや、とんでもない!」

「こちらこそ、感謝、感激だ!」


 大げさなほど喜び、そして、二人は穏やかな目をアリスに向けて異口同音に言いました。


「「進むことで得られるものもある。だけど進むことだけが正しいわけじゃない」」


 アリスは「分かっているわ、そんなこと」と思いましたが、口に出さずに黙っていました。

 会話が途絶え、座りの悪い思いをしていたそのとき、立っている場所にほど近い樹の上でがさがさと音が聞こえてきました。アリスのいる位置からは分からなかったのですが、二人にはその正体が見えていたようで、顔を青ざめさせるとブルブルと震え出します。「一体何が怖いのかしら。ただ何かが樹の上にいるだけよ」とアリスの心の中では勇敢な声が上がっていましたが目の前の男の子二人の様子を見て段々不安になってきました。


「「逃げろ!!」」


 二人はそう叫ぶと背を向けて走り去ってしまいます。その後を黒く大きな影が追っていきました。


「今日はひと味違うぞ!」

「覚悟しろ、怪物ガラスめ!」


 二人は近くの樹のうろから武器を取り出すと勇敢に立ち向かっています。その相手を良く見ればただの大きなカラスでした。彼等は戦いながら離れていき、ついには見えなくなってしまいます。「でも、あれだけ大きいのだから“ただの”カラスとは言えないわね」と呟くとアリスは二人と一匹が去った方とは逆へ踏み出しました。


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