唯一之章
1 吹く風に予感を覚えて
夕方、日が落ち始める頃。公園のブランコに座って赤から紫に、紫から黒に変化する空を見上げていた。すると、どうしてか涙が溢れてきてしまう。それは強い孤独感を感じるからかもしれない。
涙をぬぐいもう一度見上げる。
時間の変化と共に移り変わる空は美しい。この場においてはわたしが独占している景色だ。だから優越感に浸れるかというと、そうではない。かえって自分が独りであることを突き付けられてしまう。
「今日はまた……かなぁ……」
母は時間外勤務。父は既に帰らぬ人となっている。家に帰っても凍えるだけ。今日は、独りぼっち……。
少し顔を上げれば視界に太い樹の枝が入ってくる。この樹はこの公園で一番大きく、その堂々とした佇まいは安心感を得られる。まるでお父さんみたいだと常に思っていた。そのお陰か、どうしようもないほどの孤独感を感じることはない。ここにいればこの樹が寄り添っていてくれるように思えるからだ。
「恵美里ー! エミ、またここに来ていたのか。探したよ。今日はおばさんは遅いだろ? 家で食べていけよ」
「爽くん……」
涙も引っ込み、のんびりしていると聞き慣れた声が近付いてきた。彼はわたしの幼なじみで、アパートの隣の部屋に住んでいる。だから母が遅くなるとき、こうして自分の家に誘ってくれる。
「いいの……? 邪魔じゃない?」
「邪魔じゃないって。母さんが今日も作りすぎちゃったからたくさん食べてってさ」
「それ……毎回言ってる……」
「まぁな。そう言っておけば気兼ねなく食べられるだろ? 母さんも父さんも息子の俺よりエミが好きなんだよ」
「それは……言い過ぎ。でも、ありがとう」
自分でも強ばっていると思うが、一応笑顔らしきものを向けてお礼を言う。しかし、彼はそっぽを向いてしまう。また笑顔作り、失敗したかな……。
「あ……ちょっとだけ、待って」
そう言って樹の元に向かう。手を合わせてから礼をしていつもの挨拶をする。
「……お邪魔しました。また来ます」
「丁寧だね。じゃ、俺も。いつもエミといてくれてありがとうございますっ。お邪魔しました」
「爽くん……」
「間違っていないだろ。この樹のおかげでこの場所にいてもどん底まで気持ちが落ちることはないって前に言っていたし。恵美里のお父さんだって」
「よく、覚えているね……」
かなり昔に話したことだった。本当によく覚えているものだと思う。少し恥ずかしくてうつむいてしまう。だからか爽太が呟いたことを聞き逃してしまった。
「……好きな子のことは忘れられるはずないだろ」
「爽くん、今何か言った?」
「いや、何でもない。家へ帰ろうか、エミ」
二人は寄り添って公園を去って行く。その背中へ大樹が手を振るように枝を揺らしていた。
それは、いつもの光景。大樹が見守るなかでも特に心暖まる……大変じれったい姿だった。
***
来留芽は五月初めの大型連休を祖父のいる山で過ごした。細の護符頼りの生活を改善するために修行を行ってきたのだ。しかし、成果は芳しくない。そもそも、来留芽の能力は古戸家の女児が代々受け継いでしまう力なので呪いに近いものがある。そして代を重ねて力を増してきた能力なので来留芽一代でどうにかしようともそう簡単にはできないのだ。分かっていることも少ないので手探りでいくしかないのもその一因だろう。
「ふぅ……」
机に抱き付くようにして来留芽はふにゃりと力を抜いた。何とかしなくてはならないのは分かっていても、諦めの方がよく顔を出してくるのだ。
「お疲れだね、来留芽ちゃん」
「まぁね。今、細兄……じゃない、京極先生の護符なしで過ごす訓練をしていて。山の中は人の気配がないし、清浄だったからそんなに大変じゃなかったけれど人の社会はやっぱりきつい。日常生活の恨み辛みがどうしても聞こえてしまうから。慣れれば適度にシャットアウトできるらしいけど……私はまだその境地に至っていない」
護符は来留芽にとっては能力を抑える補助的な役割をする。それがないと見えすぎたり聞こえすぎたりするのだ。今、来留芽は完全に護符を使わないようにしていた。だからあちこちにいる黒いもやが学校生活の恨み辛みを呟いているのもはっきりと聞こえるし、それが形を取りそうなのも見えてしまう。流石に形を取られると面倒なので早いうちに何とかしないといけないな、と現実逃避気味にぼんやりと思う。
「本当に大丈夫なのですか?」
「まぁ、たぶん。無理そうなら京極先生を頼るから」
「そうですか。とりあえず、移動しませんか? 次は確か体育だったはずです」
「体育で間違いないよ。もうみんな行っちゃったみたいだね」
「そうだね。急ぐよ」
鳥居越学園の体育において五月は体力テストの季節である。今日は持久走の計測だった。
「ふぅ……ふぅ……」
持久走は学園近くの川の土手を利用する。少しは日陰があるのでグラウンドを走らされるよりはずっと楽……かもしれない。運動嫌いの人にとってはどちらにせよ地獄らしい。
来留芽はトップではないがトップ集団の最後尾辺りをキープしている。よく祖父の山に行くので体力はそれなりにあるのだ。ちなみに八重は陸上部の子とトップ争いをしている。
「三分五〇、五一、五二……」
「ふぅ……」
「あ、お疲れ、来留芽ちゃん」
「……そっちもね、八重」
来留芽の記録は三分五十一秒だった。もう少し頑張れば十点だったが、今の記録も悪くない。休日にしか運動してないことを考えれば良い方だ。軽く汗をぬぐうと邪魔にならないように階段を下りて下の小さな公園で軽くストレッチをする。これは今やっておかないと後が怖いのだ。筋肉痛で悶絶する羽目になる。
「四分三七、三八、三九……」
「あ、千代だ。三九秒か。六点だったっけ」
千代も下りてきた。まだ息が荒いようだったので来留芽は座っていたブランコを譲る。
「……ハァ、ハァ……来留芽さんもずいぶんと早いのですね」
「お疲れ様、千代。まぁ、私は休日に山に行ったり仕事で動いたりしているからね。体力はあると思う」
このタイムになるとほとんどの人がゴールしている。しかし、先生のカウントは続いていた。
「まだゴールしていない人がいるのかな」
「……日高さんではないでしょうか。だいぶ遅れているように見えました」
千代はどうやら走りながらも自分以外を気にする余裕があったらしい。おそらく、残っているのは彼女一人だろう。だからか先生が戻りたい人は戻って水分補給しているようにと声をかけたのでほとんどの人は戻ってしまった。しかし、まだ少し千代の呼吸が乱れていたので来留芽達はもう少し残ることにした。そのままどうせならと日高さんを待つ。
「六分五九! よく頑張った、日高」
「……はぁ、はぃ……」
二人が下りてくる。まだそこにいた来留芽達に驚いたように目を張り、驚きが高じたのかげほげほと勢いよく咳き込む。八重は慌てて駆け寄ってその背中を撫でていた。
「大丈夫? 無理に話そうとしないで良いよ」
「ケホ……ううん、皆を待たせてしまって……申し訳ないと……」
「いや、運動の得意不得意はどうしてもあるものだし、申し訳なく思うことはないと思う」
「そうですよ、私も二人を待たせてしまいましたし」
「うん……でもやっぱり、ごめんね……」
来留芽達は苦笑いで顔を見合わせると日高に向けて頷いた。そうしないと目の前の少女はいつまでも謝っていそうだと思ったからだ。
学校にはすぐに着いた。既に他の皆は思い思いの場所で涼んでいる。持久走は二組合同かつ男女混合で行っていたので、もう涼める日陰がなかった。大の字になって大地の力を補給している姿もちらほらと見られる。それを横目に、来留芽達はとりあえず水分補給しようと水道のそばに向かった。
「日高さん、今つらいでしょ。水分補給してこようよ」
「あ、わたし水筒持ってきているから……」
「そっか。こっちは普通に水だよ。水道水だよ。私もそろそろ水筒を携帯しようかなぁ」
日高とはそこで離れた。しかし、あのつらそうな様子を見ると大丈夫だろうかとつい視線で追ってしまう。
彼女は隅の方に水筒を置いていたようだ。水分補給し、落ち着いた様子を見て一安心する。何とはなしに眺めていたら彼女に一人の男の子が近付いた。何か話すと彼女の持っていた水筒を取り上げ、ごくごくと美味しそうに飲み出す。普通はこの時点で怒るだろうに、彼女は顔を赤くして慌ててはいたが嫌がっている様子はなかった。それを見て、来留芽は何となくもやもやとしたものが胸をせり上がってくるような感覚を覚える。
「……何と甘ったるい光景か……」
「ん? 何が」
「日高さんと二組の男の子」
それだけで八重と千代の二人ともが何を指しているのか分ったようだった。
「あれは
「付き合っているのかなぁ。千代は何か知ってる?」
「付き合っているかどうかは知りませんが、幼なじみではあるそうです。それにしては距離が近いように思えますが」
もう一度二人を見る。日高が赤くなった顔で控えめに抗議しているようだ。だが、男の子……東の方は笑っていなしている。どう見てもカップルの無自覚ないちゃつきだった。
「……え?」
東が水筒を返し、日高の頭を撫でる。そのとき、来留芽は妙に強い緑の匂いを感じた。ドロドロと淀んだ雰囲気はなく、むしろ清涼さを感じる。悪いモノではないはずだ。負の心は全くといっていいほど感じなかったから。ちなみに今、来留芽は護符を使っていないので感覚はいつも以上に鋭敏になっている。それでも感じた気配は一瞬だったため、確証はないのだが……。
来留芽は考えを振り払うように頭を振った。少なくとも害意はなかったから大丈夫だろう。この程度のものにいちいち反応していたらきりがない。
「どうかしたの?」
「何でもない」
その後、全体で簡単なストレッチをして授業を終える。ちょうど正午を迎え、昼食の時間になった。流石に今日は屋上の独占はしない。それをしたら恐らく花丘ファン(兄弟問わず)に闇討ちされる予感があった。
「でも、いつも花丘ファンに占領されているわけじゃないからね。事実、今日はこうして使えているわけだし」
八重がフェンスに寄りかかりながらそう言う。
「確実に押さえられているのは金曜日だったよね」
「そうです。全体ミーティングをやっているらしいですよ」
花丘兄弟も大変だ。まかり間違ってもあのような立場にはなりたくないと思う。
「顔がいい人って得しているように見えて意外と大変だよね」
そして周りにもその余波が襲いかかって来たりする。例えば、来留芽達はたまに花丘(弟)のグループと一緒に食べる。その後は必ずと言って良いほど関係を邪推してきょうは……お話を聞かれるのだ。あまりにも酷いようであれば悪夢を見せて報復するのも吝かではない。
「あれは……?」
肩越しにフェンスの向こうをちらりと見た八重が何か気になる物を見つけたようで体を反転させて眼下をじっと見つめた。
「何かあったの?」
「何か、日高さんがいたような気がしたんだよね。あそこって木が陰になって見えにくいから不良系の子が結構いて、あまり近付かないんだけど……」
来留芽も八重のように下を覗く。今はもう日高の姿は見えないように思えるが……。
「あら……あれは、日高さんではありませんか?」
木の陰から数人の女子が出てきて、少ししてから日高が出てきたのを見つけた。どことなく憔悴しているように見える。
「いじめかな。嫌な光景を見ちゃったよ」
「確かに。気分のいいものじゃない」
その可能性が高いと首肯する。事実、日高が出てくる前に現れた女の子達には黒いもやが纏わり付いていた。日高にも少し移っているようだ。
黒いもやは人の負の心が生み出す。あのグループの中で特にもやをまとっていた彼女は日高に対して酷く暗い感情を抱いているのだろうと分かる。
来留芽は顔を険しくさせた。あそこまで濃いもやを形作れるとなると……要警戒対象だ。手に負えなくなる前に何とかしないといけない。しかし、ああいったものは根本の原因を取り除かないと再発してしまうのが常だったりする。
全く以て、人の社会は面倒くさい。
しかし、面倒くさい“人”であるのは来留芽も同じだった。
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