第2話 白狼の声
「四月からそちらに赴任する赤山修二です」
「ああ、あなたが赤山先生ですか」
三月、修二は白岩小学校校長・青木正の家を訪ねた。
「青木先生は白岩小に務めてどれほどに」
「十年ですね。ただしあくまでも名誉職的校長としてですがね」
六十歳で定年退職した後再就職として白岩小学校校長に就任し現在七十一歳の青木は、豊かな白髪を蓄えた好々爺と言った風情で器の大きそうな人物であった。
「失礼ながら、白岩小学校について一部から不評が」
「まあ一応私の耳にも入ってはいます。だけどまあ気にする事はありませんよ」
「失礼しました、でもどうしても確かめたい事が一つ。私は本当に一年生のクラスを」
「一年三組を頼みます」
「そう、それが心配でした」
「現場第一主義と言う噂は本当だったんですな、まあとにかくそういう事だから安心してくれれば有り難いです」
修二にとって重大な不安は白岩小の悪評よりクラスを持てなくなる事、児童と触れ合えなくなる事であった。現場一筋を貫き通す事が、児童たちにとって有益だったのか否かはわからない。でも自分にはこの生き方しかできなかった。
「それから」
「何でしょうか」
「最近はこんなご時世ですからね、学校近辺を歩く時は気を付けて下さい。まあ赤山先生ならば問題ないと思いますがね」
「まあ私も五十五ですからね、不埒な輩が出ないとも限りませんし」
「……大体はそんな所です」
最後の間には何の意味があったのか。修二はわずかに首を傾げたものの、結局それ以上問う事はなく青木の家を後にした。強盗、変質者、薬物。修二の頭を霞めたのはそんな言葉であった。いずれにせよ教育者としてもっとも児童に近付けさせたくない類の輩。青木がそういう下劣な物について口にしたくないのもお説ごもっともだなと修二は自分一人で納得していた。
「お父さんの私物はこれでいいの?」
「ああ」
「でも大丈夫ですか?」
「何か不安でもあるのかね」
「いや別に何も……………」
「そうです何もありませんよ」
単身赴任に向け準備を進める修二に対し、信江と悟はまだ抵抗したげであった。二十七と二十五の大人の男女が、大人の男女らしく声高に叫ぶ事はせずかつきっちりぶれない本音を伝えようとして来る。
「でもさ、お父さん退職したらどうする気?」
「ああそれか、これでも先生たちと一緒にスポーツもやって来たし。色々な所へ旅をしてみるのもいいかなと思ってるよ」
「ならいいんだけど……」
確かに仕事一筋で歩んで来た企業戦士の老後が淋しい物である事は多い。何か没頭できる趣味がないと老後を無為に過ごす事になる、自分の父親にそうなって欲しくないと考えるのは当然であろう。
「もしかして、まだ私に白岩小学校に行って欲しくないのか」
しかし、その当然である発言をした割に信江は随分歯切れが悪い、にもかかわらず修二がそう言うと信江は先程とは別人かのように勢いよく頷いた。
「事前の悪評を恐れていては何もできんぞ。お前は今の施設に就職するに当たり評判を調べ上げたとでも言うのか?」
「そりゃ勿論」
時代が変わったのか、それとも最初から教師一本で就職活動などほとんどやっていなかった自分を物差しにするのが間違っているのか。
「いや俺も相当調べましたよ、労働環境はちょっとでもいいに越した事ないでしょ、まあもちろん贅沢は言えませんけど可能な範囲では……ってかみんなやってますよ」
悟も信江に呼応するかのようにそう答えた。慎重なのか、臆病なのか、成熟なのか、それとも単なる時代の変化なのか。自分が二十歳そこそこの時代にパソコンや携帯があれば同じ事をしたのであろうか。確かに人間誰だって辛い思い悲しい思いはしたくない、だけどそういう思いをしなければ人間は成長できないのではないか。修二の心に、わずかに寂寥の念が芽生え始めていた。
四月六日、公立小学校の始業式の日。修二は白岩小の校長室で再び青木と向かい合っていた。
「まあご存じとは思いますが、長い話って嫌われるんですよ。最近は特にでしてね」
「そうらしいですね」
「大丈夫だとは思いますが…でも赤山先生は教師歴三十年でも管理職となられるのは今回が初でしょう。児童を目の前にしてお話になられるのは今回が初ではないですか」
「私にとってこの学校は三校目です、二度の離任式と一度の着任式を経験して来ました」
「ですがその時はあくまで一般教師、今度は副校長と言う立場で、さらに今回は着任式と言う事もありましてかなり長くなるかと、予定はとりあえず十分ほどかと」
「私一人の為にそこまで時間をお割きになるんですか」
「それはもちろん、いや毎年そうしてますから」
「もちろん言うべき事は言いますが、言いきったら私は引っ込みますよ」
「尺は」
「そんなの知りませんよ」
「まあそういう姿勢はいいと思いますがね」
「余ったら余ったで別にいいじゃないですか、児童たちの雑談なり何なりに」
「もちろんお話の時間を決めるのは貴方の権限の範囲内ですから」
惰性という言葉が似つかわしい話である。白岩小学校の指導者は無気力であると言う噂は案外正確であったなと修二はわずかに気を落とした。
青木の最後の言葉も、聞きようによってはその結果何が起きても知りませんよ勝手にどうぞと取れなくもない。もちろんさすがに修二もそこまで心がささくれ立っていた訳ではなく、先刻承知ですとさらりと流しただけで終わった。
「それで九日の入学式なのですが」
修二にとって問題なのはむしろそちらだった。副校長であると同時に一年三組の担任兼任である修二にとって―――――もちろん一年生ばかり気にしてよい物ではないのだが――――直に触れあう事になる児童の姿を見る事になる入学式の方が始業式より重要だった。
「話が短かったと好評らしいですよ」
始業式において、着任式として予定されていた十分の尺の所を修二は五分で済ませた。五分とは言え話が早く終わって児童たちは上機嫌であったらしい。
「今度の入学式もその調子で頼みますよ」
「手前味噌ながら、私が退職した後もこの調子で行ってもらいたいんですが」
自分はいつも通りの長話をしたくせに青木も現金な物である。
「もちろんその旨は今後申し付けますので」
そして修二もまたそんな定型句を言ったきりであった。いつも通りの話であり、いつも通りの始業式。ただそれだけだった。帰りに商店街の肉屋でコロッケを二個買いながら、修二はこれまた毎年のように悠々と道を歩いた。この30年で初めてと言うべき単身赴任であったが、それでも何の事はないつもりだった。この時代にしてはやけに発展している商店街をたどりながら、後日ゆっくりと巡ってみるのもいいなと笑みを浮かべていた。
四月九日、入学式である。新入生の数は在校生の五分の一、およそ九十人。
「三日前に比べ随分と広く見えますね」
とか当たり障りのない事を修二は言い、
「私の後が赤山先生の出番ですから」
そして青木がこれまた毒にも薬にもならない事を言いながら壇上に立ち、在校生にやったのと変わりない長話をした。
次はいよいよ修二の出番である。
(どうも怪しいな…早めに切り上げよう)
壇上に上がった修二の目は早速児童たちに向いた。そして早速、何人か挙動不審な児童がいる事に気付いた。
(緊張であればいいが多分違うな)
青木の話の最中から両手を股間に向ける児童が出始めた。最初から緊張してそうしているのであればそれまでの話だが、そうでないとなると想起される回答は一つしかない。その回答から導かれる最悪の結果を生みださないためにも、早く切り上げようと決めた。
「一年三組の担任の赤山修二です、皆さんと一緒に勉強しましょう」
その結果副校長と言う部分まで省き、頭を下げて幕間に引っ込もうとした。
「ちょっと赤山先生」
「いや今言うべき事は言い終わりました」
「もう少し児童の皆さんにお話を」
「説教は川から上がって後でもできるんです」
「でもせめて副校長だって事は、それに児童たちももう六年間生きてる訳ですし」
青木は修二を引き留めにかかったが、それでもなお修二はイソップ寓話を持ち出して下がろうとした。
(晴れの入学式におもらしでもされたら一生もののトラウマになるじゃないか、少なくともこの小学校で過ごす六年間の最悪のスタートだ)
(そんなのは式の前にしっかりトイレに行っておかなかったのが悪いんだ、自己責任って言う物を学ばせるべきだ)
どっちも正論である。修二が前者を取り、青木は後者を取ったと言うだけの話である。
「早く終わりにして下さい」
「そんな事言ったってこの後まだ……」
だが焦燥に駆られていた修二は青木の唱える正論に耳を傾けようとしなかった。こんな押し問答をしている時間すらもどかしい。
そんな時である。体育館に、突如何かの叫び声が鳴り響いた。いや、叫び声と言うよりは遠吠えと言うべきそれが。
「何だこれは!」
「ああ……」
修二が慌てふためく中、青木を始め他の教師陣は平然としていた。
「ああじゃないでしょ!誰ですかこんな音を出したのは!放送室で何が」
「放送室?白狼ですよ」
ハウリングでも起きたのかと思った修二に対し、青木は白狼などと言う単語を言い出した。白狼――――白い狼だとでも言うのか。アニメや漫画ならともかく、現実にそんな物がいるのだろうか。少なくともニホンオオカミはとうの昔に絶滅したはずだ。
「いるんですかそんなのが!」
「ああはいいますよ」
余りにも淡々と話す青木に呆れながら修二が壇上に戻ると、体育館に集った児童の大半が泣き喚いていた。そして、立ち尽くす一人の男子児童と股間から手を離していない一人の女子児童の足元が濡れていた。
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