白狼小学校
@wizard-T
第1話 白狼小学校
神は社会主義国の国民に対し、賢さ・誠実さ・共産党への忠誠心と言う三つの資質を用意した。だが一人の人間に同時に三つの資質を与える事はしなかった。
つまり共産党に忠実で誠実な人間は賢くなく、共産党に忠実で賢い人間は誠実ではなく、誠実で賢い人間は共産党を信用しない――――。
「心苦しい話なんだがね」
「何でしょうか」
二月末、ある小学校の校長室に呼ばれた赤山修二は校長の重たい表情とそれにふさわしい重々しい口調に僅かに戦慄した。
赤山修二は五十五歳、わずかに白髪の混じった頭と濃紺のスーツが年輪の刻まれた顔に実によく似合う教師歴三十年の男であり、経歴相応に腹は据わっていた、最悪解雇を命じられてもそうですかと受け入れるだけの余裕はあった。
「実は異動の話なんだが。此度、副校長をやってもらう事になった」
「え」
現場一筋を標榜していた修二に、出世欲はない。普通の教師ならば喜びそうな副校長への出世と言う言葉に対しても、なぜに私がと思う方が先であった。
「落ち着いてくれ、この学校とは言っていない」
「いやそれにしたって」
「大丈夫、その点は危惧しなくていい。危惧しなくていいんだが…」
「いいんだがと申されますと」
出世して児童たちと直に関われなくなったら嫌だ。その赤山の思いを察するかのように校長は言葉をたどたどしく回した。
「君も聞いた事があるんじゃないかな、白狼小学校って名前を」
「白狼小学校?」
白狼小学校と言う名前は、もちろん正式名称ではない。正式名称は白岩小学校である。そしてその白岩小学校と言う名前や白狼小学校と言う通称も修二も知っていた。
「君にはその白岩小学校の副校長をやりつつ一年生のクラスも持ってもらう事になる」
「なるほど、それならば」
「引き受けてくれるか…感謝する」
校長の声は始終重苦しく、そして話の最中ずっと苦虫を噛み潰したような表情を変える事はなかった。
事実上の辞令を受けた修二が帰宅すると、二人の男女がいた。
「信江、悟君」
女性は修二の一人娘の赤山信江、男性は修二公認の彼氏である鳥山悟。二人が交際を始めて二年半、修二公認となってからは二年である。悟が深々と頭を下げる中、修二は何事もなかったかのように靴を脱ぐ。
「お邪魔しています」
「気にする事はない。悟君ももう二十七、立派な大人なのだからな。私は信じているよ」
「ありがとうございます」
「で、いつ籍を入れるのかね?」
早く孫の顔が見たいとか言う訳でもないが、もうそろそろと思わないわけではない。この辺で一つの決着を付けるべきではないのか、修二自身いささかやきもきしていた。
「いやでもね、マジで介護職って金入らなくってそれで結婚資金までは何とかなるにしても結婚生活ってのがですねえ」
「もちろん私も仕事は続けるつもりだけど」
悟は老人介護施設の実務担当、信江は悟と同じ施設で事務をしている。一応共働きであるが、この時勢それだけでは厳しい。その厳しい状況を思いながら、修二は仏壇に手を合わせた。
「知っての通り私もあと五年で定年だ。もちろん三十幾年の経験を活かして教育界にしがみ付き続けるつもりではあるがな」
「お父さんほどの経験がある人を放っておくほど世の中馬鹿の集まりじゃないって」
「いやー本当信江は修二さんの事が好きですね」
「まあな、信江には淋しい思いもさせて来たからな」
修二の妻は信江が五歳の時に病でこの世を去っている。以来二十年間、修二は男手一つで信江を育てて来た。信江が父親大好きになるのも当然であっただろう。
「それでどうにも踏み切れなくて」
「まあそう気にする事はない。五年間だけならばこの家を使っていいぞ」
「五年間?」
「実はだな、今度白岩小学校に赴任する事になった」
穏やかだった父と娘とその彼氏三人の空気は、その一言をきっかけに急に引き締まった。白岩小学校と言う五文字には、娘も彼氏も凍り付かせるだけの魔力があった。
「本気ですか?」
「ああ本気だ、副校長にしてくれるそうだから少しは給料も上がるだろう」
「お父さん、やめた方がいいって。白岩小学校ってあの白狼小学校の事でしょ」
「確かあそこって先生を含め指導者が無気力な事で有名でしょ」
「それを何とかするために派遣されるのだろうな」
自分に腐敗している学校を変えろと言っているのだろうと、修二は自信に満ち溢れた表情をしていた。だが信江と悟の表情は曇ったままである。
「その白狼、いや白岩小学校ってどこにあるかご存知ですか?ここからめっちゃ遠いとこですよ」
「ああそうだな、この家からは二時間半あるそうだ。流石に通勤は無理だから単身赴任と言う事になるだろう」
「いや今でも体育の授業をきっちりこなせるお方ですから体力面に関しては全く心配してませんけど、料理とか」
「私は二十年信江を育てて来た、家事も世間一般の男以上にこなして来た。悟君を引き合いに出すのはどうかと思うが、君よりずっと家事は上手いと思っているぞ」
「でも場所とかが」
「学校から徒歩十分の場所にマンションがある」
「そうですか…………」
最近の若者はうんたらかんたら言うつもりはないが、悟がやけにしつこく絡み続けるのを見ていると修二はだんだん不可解に思えて来た。指導者が無気力で有名だからって、自分まで無気力になるとでも思っているのだろうか。
「君も案外しつこいな、私はもう決めたのだ。信江、私も男なのだ。私の教員生活ももうそう長くはない、最後に賭けてみたくなったのだよ」
「賭け…」
酒は一日コップ一杯、たばこは三十五年間一本も吸わない、賭け事と言えば年末ジャンボ宝くじと年一回のダービー千円だけ。そんな絵に描いたような真面目人間から賭けてみたいなどという言葉が出るとは信江も悟も意外であった。そして、二人とももう止めても無駄だと悟った。
「それでも現場一筋のお父さんに」
「案ずるな、一年生の教室を一つ受け持つ事になっている」
父の意志の強さを悟りながらも、でも信江は抵抗してみた。戦地に赴く父の脚に泣いて縋り付く娘、構図としてはそんな物かもしれない。無駄とわかっていながら必死に駄々をこね愛しい父を引き留めようとする、年齢が一桁の幼い娘ならばまだ絵にもなるが嫁入り直前の二十五の大人の女では流石に問題だった。その事は信江本人にもよくわかっている、それでも不安だった。
「(そこまで心配される必要があるのか…)」
修二は疑念を抱いた。校長の重苦しい物言い、必死に引き留めようとする愛娘とその彼氏。確かに無気力な教員たちの元で教えを受ける事は生徒たちにとってプラスにはならない。だがそこまで反応するほどひどい物なのだろうか。
(噂と言うのはそういう物だ)
百聞は一見にしかず、中に飛び込んでみてみない事には何も始まらない。三十年間、毎年毎年新たにやって来る児童を受け入れて来た。多少の事態では動じない程度に肝は太くなっている。それに大体、噂なんていう物は大方尾ひれがついて大きくなる物である。相手を弱いと思い込んで強敵が出た場合は一大事だが、相手が強いと思って戦いに臨んで弱かった場合は何だそんな物かで終わる。
(戦は常に初陣と思えと言ったのは誰だったか…まあその心がけで行けば大丈夫だろう)
修二は意気を高めつつも、どこか楽観していた。なぜ白狼小学校などと呼ばれているかなどまったく気にする事もなく、単身赴任のために必要な荷物を考えていた。
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