境界のその先は「  」

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事の始まりは何気ない一日の気の緩みから



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 例えば、夢はあるだろうか。

 将来就きたい職業、一度は行ってみたい場所、やってみたいこと。

 少なくとも俺には、他人へ昂然と語れる夢はない。

 強いて言うなら、金、恋人、権力が欲しい。でもそれは、大抵の人間が欲するものであり、夢ではないだろう。

 そういえば、一つだけあった。

 大きなこととは言わない。何かを成し遂げて、死にたい。何を目安にマイナスなのかわからないけれど、トータルでマイナスの人生だったとしても、何かを成し遂げ、満足感に満たされたまま死にたい。そして、老いる前に死ねれば本望だ。

 俺はいつしか、同じような一日を繰り返し、気が付けばそんな生活を数年も続けてしまっている。何一つ成長せずに、生き長らえている。

 それが自分自身であって、現代を生きる人間というものでもある。

 いや、俺以外の人間もそうであってほしいという、願いだろうか?

 ……あぁ、不毛だ。そろそろ起きるとしよう。

 まだ少し寒さの残る四月も、残り数週間。世間では、何かを卒業し、新しい環境に慣れ始めたころだろうか。

 そんな俺、廿浦柊涼(つづうらしゅうすけ)は、大きな変化なんてない、いつもの生活を今日も送っている。

「今日のメンバーは誰だろう…………」

 アルバイト先である近所のドラッグストアへ向かう前、シフト表を手に取り時間の被る人間を確認し、仕事内容を粗方想像する。愛想が良く、容姿端麗な人間の主な業務はレジ。要するに女性が多い日は、品出しであったり力仕事を任される。

 今日は男の多い日であり、恐らく俺にもレジ業務があるだろう。嫌いではないが、もしも打ち間違いや、見落とし、勘違いでレジ誤差を出してしまったら……と思うと、率先してやりたいとは思えない。体力こそ使わないが、精神をすり減らす仕事である。

「あああぁー…………」

 オンオフを切り替えるのが一番辛いと個人的に思っている。アルバイトが始まってしまえばそこまで苦じゃないものの、これから仕事をしなければいけないという未来に辟易とする。

 だがしかし、アルバイト開始まで一時間を切った。気はまだ乗らないが、空腹を満たし、着替え、いつものように仕事場まで向かうとしよう。

 冷凍食品のパスタを電子レンジに放り込んで、待っている間に洗顔する。そして着替えを済まし、髪を軽く梳かせば、調理完了の合図が鳴り響く。

「さて、と……いただきます」

 今日は蟹のトマトクリームを選んだ。理由は簡単、冷凍庫から一番取りやすかったからだ。

「バーニャカウダー仕立ては美味しいんだけど、バイト前に食べるのは駄目だな」

 過去に一度、にんにく臭を漂わせてアルバイトに行ったことがある。当然、その口臭に突っ込まれ、口を濯いだり、お茶を飲んだりして消臭に勤しんだが、果たしてその臭いは消えていたのだろうか。

「うーん、結構時間ないなぁ。急ごう」

 今日のアルバイトは十八時から、通勤時間は車で約十分、タイムカードの打刻は五分前。単純計算で、家を四十五分に出ればギリギリ間に合うはずだ。

 そして今、四十分。信号待ちなどを考慮して、そろそろ家を出たいので、急いで片付けて出発する。

 車にエンジンを掛けて、忘れ物の最終チェックをしてからドライブギアに入れて、軽くアクセルを踏んだ。

 鼻歌交じりで常に青信号であることを願いながらいつものように走っていると、日が長くなり、気温が高くなったのを実感する。本当に十八時前なのかと思えるほどに景色は明るく、遊び終えて帰宅する小学生や、部活を終えた中学生がちらほらと見受けられる。

 特に信号に引っ掛からず、十分も経たずに店へと到着することができたので、安心して、今日も頑張ろうと意気込んで車を降りる。

「月曜だけど、そんな混んでない……かな」

 他の客と同じように通常の入り口から入店し、控え室へと向かう。その間に会った従業員へ挨拶を交わし、それだけで仕事をしているような気分が沸々と湧いてきて、歩みが自然と早くなっていく。

 そのまま早足気味で休憩室に到着して、普段と変わらない挨拶をすると、俺と同じ立場であるアルバイト、矢吹梨恵(やぶきりえ)と八木奏人(やぎかなと)が談笑を繰り広げていた。

「今日はポイント二倍の日だけど、店長いないから嬉しいわー」

 跳ねた毛一本ない艶やかで長い黒髪を縛りながら、俺たちへ向けて毎度のように店長嫌いを吐露するのは矢吹梨恵。オープニングスタッフである彼女は大学四年生であり、この店に勤めて約二年半。憂鬱な就職活動を四月早々無事に終え、休みがちだったアルバイトに復帰した。

「そろそろ打刻の時間だ…………」

 そんな矢吹梨恵の言葉に反応せず、パソコン画面を注視するのが八木奏人。

「無視すんなし!」

「えっ? あ、聞いてませんでした」

 本人に悪気があるわけではない。どこか抜けているところがあって、それを指摘されることもしばしば。それでいて予想外の行動を起こすから、全く行動が読めない変わり者。

 そんな八木奏人も俺より年上なのだが、見た目も相俟って先輩とは思えない。

「廿浦くんも聞いてないの? 総スルーなの?」

「いや、そんなことないっすけど…………」

「まぁいいや。ささ、仕事仕事」

 こうして、本日のアルバイトは始まった。




「あの、すみません……ちょっといいですか?」

 折りたたみコンテナの中に入った商品の品出しをしていると、客から声を掛けられた。

「あ、はい!」

 返答しながら振り返ると、見覚えある顔の女性が笑うのを堪えて立っていて、辟易する。

「……うっく、くくっ、ハハハハハ! 引っ掛かってやんのぉ! 私だよ!」

「はぁ…………、どうも」

 同じアルバイトの一人である彼女の名前は御沓沙絵(みくつさえ)。アルバイトのリーダー的存在である御沓沙絵だが、過去に一度辞表を持って現れ、慰留も虚しく夏にこの職場を去った。

 が、一年もせずにその年の冬、再度アルバイトとして雇われた。茶髪のセミロングヘアだったはずが、冬に再度現れた時、金髪に近い色のショートヘアになっていて、本人曰く、働く上で許される髪の明るさと日々戦っているらしいが、本当の理由は他にあるのだろう。

「元気ないねぇ! そんな私は買い物に来ましたー。それじゃ!」

「…………お疲れ様です」

 いきなり来ては暴風雨を撒き散らし、過ぎ去ったあと、静寂が残る。評するなら、御沓沙絵は嵐と同義だ。

「さて、仕事仕事…………」

 御沓沙絵が立ち去ったことを確認してから仕事へと戻る。退屈な作業ではあるが、品切れを起こしている売り場があったらと思うと、手を抜いていられない。意外と、店への愛着はあるのだ。他のアルバイトよりも、店の売上や接客について意識していると自負している。

「あ、あの…………」

 そんなに店が混んでいる印象はないのだが、またしても声を掛けられる。

「はい、何でしょうか?」

 同じように返答をして振り返るが、結果は変わらなかった。

「あはははははっ! だから私だって! さすがに二回も引っ掛かるとは思わなかったよ!」

「…………………………………………」

 面倒なので無視して仕事へ戻る。

「あ、無視された! まっ、いいやー。仕事頑張って!」

「…………うっす」

 既に買い物を済ませているようで、レジ袋をぶら下げていた御沓沙絵は、そのまま踵を返して帰っていった。その後ろ姿を見ながら、気を引き締め直して仕事へと戻る。

 しかし、馴れ馴れしいというか、親しみ易いというか、こんな人が一人いるだけで職場の空気がガラッと変わるとつくづく思うし、それでいて御沓沙絵は空気を読むのに長けている。人間関係を構築するのが得意なのだろう。

 俺にはそんな芸当、真似できない。

「いかんいかん、早く終わらせないと」

 仕事と無関係なことに時間を使いすぎた。あと三十分も経てばレジ業務が待っているので、それまでに折りたたみコンテナを空にしなければいけない。

 すると、三度目が訪れる。

「すみません……」

 内心イラッとしたのは言うまでもない。二度あることは三度ある、だろうか。空気を読むのに長けていると言ったが、どうやら勘違いだったようだ。

「しつこいですよ、御沓さん。買い物済ませたならもう帰って下さい」

「あ、え……? えっと…………?」

「…………あれ?」

 まず第一印象を語らせてもらうと、ショートヘアではなく、ミディアムヘア。それでいて限りなく黒に近い茶色で、それだけで御沓沙絵ではないとわかる。次に、モデルのような体型が印象深く映った。百七十はないだろうが、それに近い身長で身体も細い。

 端的に言って、人違いだった。

「申し訳ございません! 人違いでした! 本当に申し訳ございません!」

 災難だ。確認を怠ったせいで、不味い事態に陥った。この人がクレーマー気質ならば、ネチネチといびられるに違いない。その結果、店長にこっぴどく叱られるだろう。

「私は大丈夫です。えっと、聞きたいことがあるんですけど、目薬ってどこにありますか?」

「め、目薬ですか?」

 首の皮一枚で助かった気分だ。今度こそ失礼のないように接客しなければいけない。

 こちらです、と言いながら先導する。

「御沓ってさっきの人ですか? なんかすごい笑ってた女の人」

「うちの従業員でして、ちょっと悪ふざけがすぎたというか……申し訳ないです」

「いやいや、面白かったから許します!」声のトーンが下がる。「……楽しそうでいいなぁ」

 面白くなければ許されなかったのだろうか。

「目薬コーナーはあちらです。本当にすみませんでした。今後気を付けます」

「本当大丈夫ですって! ありがとうございます」

 誘導を終え立ち去ろうとすると、この客は俺のことを見ていた。

 語弊があるかもしれないので正確に伝えると、俺の胸元を見ていた。

 つまり名札だ。

「廿浦柊涼、さん。それでは失礼します」

 軽く頭を下げてから、この場から立ち去った。

「俺の名前、よく読めたなぁ」

 ただでさえ珍しい苗字に、涼という字をすけと読ませる名前。フルネームを間違えず読めた人間に今まで出会ったことがなかったので、少し驚いた。

「まぁ……」無事にこの場を離れることができたので胸を撫で下ろす。

 災難続きで苦労が絶えないな、と今日の自分を嘆いても仕事は待っている。思考を巡らせる前に身体を動かそうと頬を軽く叩いた。




 本日も無事に閉店作業を終え、店を後にして、それぞれ通勤手段の乗り物へと向かう。

 アルバイトメンバーの通勤手段は銘々異なっている。矢吹梨恵は親の車である空色のミニバンを借りて通勤していて、八木奏人は自宅が近いという理由もあって、自転車通勤だ。

「いやー、今日も疲れたわ。二人は明日休み?」

 矢吹梨恵が溜息混じりに予定を尋ねる。俺は休みだったはずだが、挙手せずに動向を見守ることにした。

 すると、八木奏人が立ち止まって口を開いた。

「自分、明日もバイトだったと思います。他に誰がいるのかわからないですけど」

 それを聞くと矢吹梨恵は、八木奏人の肩を叩いて破顔する。

「おっ、そうなん? 私も明日いるからよろしく!」

「はい、よろしくお願いします。じゃあ、自分こっちなんで、お疲れ様です」

 そのまま八木奏人は駐輪場へと向かい、俺たちと別れを告げた。

「明日副店長もいるんでしたっけ?」

 矢吹梨恵はしつこいほどに明日のメンバーを確認する。

「いやー、僕は休みだよ。悪いね水を指すようで」

 明らかな不満顔をしてから俺の肩を叩き、副店長に聞こえないよう小さな声でささやく。

「…………副店長が休みってことは、店長がいる。ねぇ、明日、私とバイト変わらない?」

 店長に対してそこまでの不平不満があるのだろうか。

「じゃあ、僕は先に失礼するよ。お疲れ様ー」

 いつの間にか副店長は俺たちと離れていて、車のすぐ側で立っていた。

「あ、お疲れ様です」

「副店長、お疲れ様でしたー!」

 副店長は車へと乗り込み、エンジンを掛ける。何というか、存在感のない人だ。

「で、廿浦くん。明日暇なの? 暇でしょ? 暇だった気がしない? バイト変わってよ」

「俺、嫌っすよ。そんな理由じゃ変われないです」

 当然、その要望には答えない。店長と共に働きたくないならなぜここで働くのだろうか。やめろとは言わないけれど。

「ケチだな廿浦! バーカ! お疲れ!」

 そのまま走って車へと向かってしまった。その元気があれば明日は乗り越えられるはずなので、反論せずにその姿を見守ることにした。

 そして、駐車場に残された俺は、夜空の星を見つめながら緩慢に車へと向かった。微かに肌を撫でる風のせいで、寒々とした寂寞感に蝕まれるようだ。そのせいで人肌が恋しくなるけれど、友人と会うことはできない。

 その理由は単純明快である。皆、学生であるか、会社員なのだ。日が昇り始める時間帯に眠り、西日が差す時間に起きる人間は身近にいない。

 堕落している。

 敷かれたレールを一度脱線してしまうと、再び同じ線路へ戻るのは至難の業だ。それだけでなく、例え戻れたとしても、周りからかなりの遅れを取ってしまう。

 成功者が語っていた。敷かれたレールを自ら外れて得意な分野に没頭し、新たにレールを形成することで、周りに追いつくどころか、軽く追い越すことだって可能なのだ、と。

「得意な分野、ねぇ…………」

 即座に思い浮かばないのだから、そんなものはないのだろうと思う。

 結局、明確な目標もなければ、少ない金を稼いで日々を生き延び、いつか死ぬ。充実感も達成感もないまま、死ぬ。憂鬱なまま、死ぬ。

 ――――それは、駄目だろう。

「寒くなってきたな」

 温度は変わらないはずなのに、妙に寒く感じるのは、心が冷えてきたからだろうか。

 車のドアの解錠をし、車内で風を遮ろうとした矢先に「わっ」と女性の声がする。矢吹梨恵は車で走り去っていったし、副店長や八木奏人は男。

「誰だ? …………誰か、いるのか?」

 冷静に、いや冷静に考えなくても、その女性は客か何かで、解錠音に驚きの声を漏らしたのだろう。

 その声がした場所、車のフロント部分に恐る恐る近付くと、予想通り頓狂な声を上げた女性が座り込んでいる。

 自身が持つスマートフォンの光に照らされている目を丸くした女性は、今日声を掛けてきた女性客のようだ。

「えーっと…………こんなところで、何をしてるんでしょうか」

 接客時と違い、冷静な状態で彼女を見ると、不思議と安心する。何がそうさせるのかは不明瞭だが、究明したい域ではないし、声の正体を知ることができて安堵しているだけだろう。

「…………いきなりウインカーが光って、鍵が開く音がして、びっくりしました」

「人がいると気付きませんでした…………すみません」

「いや! 謝られても困るし、というか私が驚かせちゃいましたよね? すみません」

 そもそも質問に答えていない。

「…………………………………………」

 沈黙が続く。

 再度ここで何をしているのか尋ねようと思ったが、一度途切れた会話を再開させるのは勇気がいる。この沈黙は時間に換算すると、数秒は続いたのではないだろうか。

 だが、さすがに痺れを切らして口を開くと、「あの」と運悪く同時に喋り始めてしまって言葉が続かなかったが、彼女は噛みながらも続ける。

「あ、あの、あのですね、廿浦柊涼さん。私はあなたの連絡先を知りたいんです」

 その言葉に戸惑いを隠せず、後退って天を仰いだ。

 連絡先を知りたい? 初対面に等しい人間が、俺の連絡先を知りたい?

 連絡先なんて教えて減るものではないので秘匿する気は皆無だが、他人に説明できないほど希薄な関係の相手に連絡先を教えることの意味があるのか問う。

「あーっと…………俺の連絡先を教えることで、どのようなことがあるのでしょうか?」

「うーん、そうですね…………」頭を抱え込みながら、眉間に皺を寄せている。「教えてもらうための理由が思い浮かばないみたいです。となると、教えてはもらえないですか?」

 取って付けたような理由一つでも述べれば教えようと思っていたけれど、思った以上に深く受け止めているようだ。どうにかして納得させようと、思考を巡らせている様子が伺える。

「えっと、…………えっと、ちょっと待って下さい……………………」

 ちょっと、では済まなそうなので話題を変える。

「この辺りにお住まいですか?」

「へっ? あ、はい、住んで、います?」

 なぜ疑問形なのだろう。

「ところでその口調、やめてくれませんか? 私のほうが年下なんですから」

 年下、か。第一印象だけなら年上の可能性も秘めていたが、大人びたスタイルとは裏腹に、顔の幼さを隠せていない節がある。高校生、それも一年生や二年生だろうか。

「わかった。それで聞くけど、もし近所に住んでるなら、また店に来てくれれば理由聞くよ。明後日の水曜日、の夜は店にいるから」

「はい! 水曜日の夜、またお店に行きます!」

 笑顔でそう答えて、立ち上がった。

「じゃあ俺帰るけど、君は歩き? もしよければ送っていこうか?」

 正直、他人を乗せるのは気が進まないが、日付が変わろうとしている時間に女性一人で徒歩で帰れと言えるほど性根は腐っていない。近所のようだし、むさいおっさんではないし、むしろ美少女なのだから、喜ぶべきだろう。

 しかし、「いや、大丈夫です。一人で帰れます」断られてしまった。それはそれで悲しい。

「あ、あぁ、そう。まぁ無理強いはしないけどさ」

「そういえば、名乗り忘れてました。私は吉場未冬(よしばみふゆ)。じゃあ、また水曜日に会いましょう」

 別れの言葉を切りだす前にそのまま歩き出してしまった。散々待たせておいて、いざ帰宅となると早い。

「俺も帰るとするか…………。もう、火曜日じゃないか」

 腕時計で時刻を確かめると、長針が十二を指していた。ということは、退社してから約三十分経過したことになる。

 ふと、御沓沙絵の話を思い出した。

 人と親密になる方法の一つとして、次に繋がる約束をするということ。例えば、気にしている人間は仕事が終わらないとしよう。それを、自分が困っている時は助けてほしい、との名目で手伝うのだ。

 つまり、連絡先を教えて終わり……ではなく、次に会う約束をしてから別れることで、約束が破られない限り会うことができる。連絡先を尋ねるほどの相手だから、そのまま終わるとも思えないけれど。

 まぁ、それを意識して次の約束をしたわけじゃなく、ただ単に早く帰りたい気持ちだとか、話題を提供する意味合いで切り出した“住居の在り処”でしかないのが事実だが。

 車のドアを開け、シートに深く腰を下ろしてエンジンを掛けると、出社時に聞いていた曲が途中から再生される。深夜であるのを考慮し、少しボリュームを落としてから発進させて、自宅へと向かった。




 水曜日の夜。いつものように閉店作業を行い、店の出入り口を施錠し、別れの挨拶を交わしてから車へと向かっていく。

 そう、いつものように。

「何か、様子が変だったけれど」

 俺の微妙な差異を指摘してくる。

 宮島碧(みやじまあおい)。彼女は矢吹梨恵と同じく大学四年生のオープニングスタッフだ。感情の起伏が乏しいせいか、大抵真顔で、接客中の白々しい笑顔以外見た者はいない。

「まぁ、俺でも、一つや二つ思うことはありますよ」

「…………そう。空元気で作為的な笑顔が似合っているのに、そこへ戸惑いも追加された様子だったわ」

 何を考えているのかわからない宮島碧だが、他人の洞察力には優れているようだ。

「何があったか気にならない……と言ったら嘘になる。私でよければ、相談に乗るけれど」

「相談、っすか…………」

 振り返ると、宮島碧は歩む速度を緩めて目を逸らしている。そして直後、何かを思い出したのか、目を丸くしながら俺を見て再度口を開く。

「…………今日はお父さんが迎えに来る日だった。廿浦くんに気を取られてすっかり忘れてしまったわ。それではまた」

 そういえば、“見慣れた見慣れない外車”が停まっている。

 メーカーの名前はど忘れしたが、宮島父が所有しているイタリア車である。「一万円が千枚じゃ買えないんだよ……」と羨望の眼差しで車を見ながら御沓沙絵が言っていたことを思い出す。

 そこそこの積載量があって、燃費が悪くなければ何でもいいだろうと思っているが、あの車を見てしまうと気持ちが揺らぐ。当然、高級車が買えるような金はどこにもないのだが。

 恐らく既に聞こえない距離の宮島碧に「お疲れ様」と言ってから明らかに見劣りする黒の愛車へと向かい、ドアへ手を伸ばすと、排気ガスと共に上品な音色を響かせて高級車は去っていった。

「あれ、凄いですね」

「うわっ!」

 いきなり聞こえた声に思わず声を上げる。

「あ、驚かせてごめんなさい! 私です」

 一昨日と同じように例の女性、吉場未冬が現れた。今日はさすがに学んだのか、車のドアの解錠に驚かなかった様子だが、俺が吉場未冬の声に驚いてしまった。

「店に来なかったから、どうしたんだろってずっと思ってたよ。まさか、またここにいるとは思わなかったから…………」

 何を隠そう、吉場未冬が来店しなかったせいで、妙な心配をしていたのだ。事故や事件に巻き込まれていたらどうしよう、と。だが、その心配も杞憂に終わった。

「いや、会う理由も理由ですし、仕事の邪魔になったら悪いので」

「あぁ、なるほど。気を使わせちゃって悪いね」

「そんなことないですよ! それで、連絡先を教えるメリットなんですけどね…………」

 耳を傾けるが、そのまま吉場未冬は何も喋らない。困惑した表情を見せている。

「……………………もしかして」思い付かなかったのだろうか。

 その言葉に瞠目して重い口を開いた。

「その、もしかして、です…………」

 吉場未冬は申し訳なさそうに俯き、俺の言葉を待っている。その従順な態度に、まるで後輩や部下ができたかのような錯覚に陥られ、しかし、その感覚を短い人生の中で味わったことがないので、確証は得られない。

「なんだろう、その……熱意は十分伝わったというか、理由なんて元々求めていなかったというか…………」

 ありがちな言葉を見繕って納得させるのだと勝手に思っていたが、連絡先を欲する熱は予想以上のものだった。恐らく、完全なる答えを求めすぎたがゆえに、答えを見つけることができなかったのだろうと予想した。

「つまり、教えてくれるってことですか…………?」

「はい、これ」

 事前に用意しておいたメモ書きを胸ポケットから取り出して渡す。もちろん、内容は電話番号とメールアドレスだ。

 そのメモ書きを受け取ると、慌ててスマートフォンを取り出して、登録を開始した。

 吉場未冬を突き動かすその思いは何なのか。客観的に考えれば、それは恋心、一目惚れである。恋に生きている人間ならば、惚れた相手にどんな行動でも起こせるだろうし、連絡先を聞くことなんて容易いだろう。

 だが、相手は俺だ。目と目が合うだけで惚れさせるような甘いマスクでなければ、他人のために自己を犠牲にするほど寛大でもない。身長こそ平均以上だが、そんな男、どこにでもいるだろう。こんな男に一目惚れする女性が、果たして身近にいるのだろうか。

 そして、身近であればあるほど、将来性という最大の欠点に気が付いてしまう。

 …………頭が痛くなってきた。

「登録できました。……大丈夫ですか?」

 右手中指と親指でこめかみを押していたら、心配されてしまった。

「少しばかり現実と戦って頭痛がね…………大丈夫、勝てないことは知っているからさ」

「……………………?」

 眉間に皺を寄せながら顔を傾け、目線を逸らした。俺の言葉の意味がわからなかったのだろうが、俺もよくわからない。

「じゃあ、俺、帰るよ。次に会う日はわからないけど、その日が来るまで元気で」

 車へ乗り込もうとすると、服の裾を掴まれる。

「休みの日って…………いつですか? 一緒に、遊び行きませんか?」

 振り返ると、少し俯きながらスマートフォンを握り締めている。

 休みの日、か。まず、休みというのが何を指しているのかが問題だ。アルバイト、それとも学業か。少なくとも、スケジュール帳には学業のがの字もない。アルバイトだって、大半は夜であることを考えると、昼間ならば毎日空いている。

「バイトだったら明日もあるし、土曜日も入ってる。逆に、君はいつ時間を取れるの?」

「私は…………いつでも大丈夫です!」

 少し躊躇したように見えた。

「うーん、なんか無理してない? 駄目な日は素直に駄目って言ったほうがいいと思うけど」

 高校生か大学生だとして、平日は学校だ。例えば、明日の昼を指定した場合、学校を休んでまで俺と会うつもりだろうか。

「明日の昼だったら何も予定ないって言ったら、どうする?」

「えっと、廿浦さん、大学は?」

 質問を質問で返される。正直に大学生ではないことを告げるべきか、適当な理由で誤魔化すべきか。隠す必要はないのだが、現状を恥じているから、矜持が許さないのだろう。

 しかし、そんな些細な隠しごとが、後に重大な亀裂を生む原因へと変貌する可能性があるかもしれない。さすがに大げさだろうか。

「その、俺……大学行ってないんだよね。要するにフリーターってわけ。だからバイトのある夜を除けば時間はいくらでもあるわけで…………」

「そうなんですか! 実は私も学生じゃないんですよ! しかも、アルバイトすらしてないという……似た者同士なんですね」

 どうしようもない自身の立場を上機嫌で語る。

 似た者同士、か。経緯は知らないが、お互い学生からの就職という最低限のラインを下回る最底辺というわけだ。

「せめて、バイトくらいはしようよ…………。お金に困ってないの? あと、親に就職だ、将来だ、色々と言われたりしないの? あぁ、でも、男と女じゃ違うの、か?」

「親……………………」

 吉場未冬の表情が変わるのを見逃さなかった。明らかに表情が曇り、唇を指で撫で始めた。

 触れてはいけない部分に触れた気がする。迂闊だった。俺も親に触れられるのは不愉快だというのに、そんなことを気にせず接してしまった。

 恵まれた境遇であれば高校生活を放棄するとは思えないし、放棄する以前に、学力の問題があったとしても、名前を書くだけであったり、金さえ払えば入学できる高校はある。目に余るような非行少女ならば、中退や、そもそも入学する意思さえ見せなかったのかもしれないが、少なくともそんな風には見えない。

 つまり、高校を中退、退学せざるを得ない理由があり、主に家庭環境に何かがある。親という言葉に引っ掛かるということはつまり、そういうことなのだろう。

「ごめん、ずけずけ言って。そんなの人それぞれだ。うん」

「…………いえ」

 下手なフォローだと自覚はしている。しかし、そうやって誤魔化すしかないだろう。

 それにしても親、か。もしかしたら、俺と似たような環境で育ったのかもしれない。もしくは、簡単明瞭に劣悪な環境。後者ならば、当然触れてはいけない。その可能性が少しでも残っているのなら、深く尋ねることはできない。

「えっと、じゃあさ…………金曜日。金曜ならバイトなくて、一日フリーだから。その日にしようか」

 自責の念に駆られて提案したわけではなく、単純に吉場未冬への興味が湧いたからだ。

「はい! 金曜日ですね。時間とか待ち合わせ場所とか、あと…………」

「時間も時間だし、それはさっき教えたばかりのメールアドレスでやり取りしようよ」

「そっか……すっかり忘れてました!」

 吉場未冬は屈託のない笑顔で白い歯を見せ、それに釣られて俺も顔が綻ぶ。

「じゃあ、そろそろ帰るとしよう。家まで送っていくけど、乗る?」

「本当にごめんなさい…………大丈夫です」

「そっか」

 そわそわと落ち着かない態度で温情を断る、その理由が未だにわからない。他人が運転する車に乗せてもらって帰宅するのが許されないのか、家の外観に何か問題があり、それを見られてしまうのが気になるのか。どちらにせよ、家の場所が完全にわからない、おおよそ近所まで乗車すればいいと思うのだが、その考え方が万人共通ではないだろうし、そもそも、今パッと思い浮かんだ理由だけでそれを全てと考えるのは間違っている。

「帰り、気を付けてね」

「はーい、さようなら!」

 そして、笑顔で手を振りながら歩いてこの場を去り、俺も車へと乗り込んだ。




 帰宅し、遅い夕飯を食べ、シャワーを浴びてから部屋でパソコンを起動するのがアルバイト後の習慣だった。芸能人のツイッターやブログをチェックして、ニュースサイトや動画投稿サイトを閲覧していると、時刻は午前三時を過ぎる。

「うーん…………疲れた。そういえば、メール来てないな」

 吉場未冬と別れてから三時間以上が経過しているにもかかわらず、メールは一通も届いていない。深夜なので眠ってしまった可能性も否めないが、メール一通送らずに眠ってしまうとも思えないので、彼女の身に何か起きたと考えるべきなのだろうか。

 しかし、そんな彼女にしてあげられることは何一つないのだから、思いを巡らせても無駄なのは間違いない。こんなことなら、メールアドレスを教えるだけではなく、教わっておけばよかったが、後の祭りだ。

 このまま、受信する可能性の低いメールを待っていても無意味なので、眠る準備を始める。

 そういえば、眠る前、二時間以内にスマートフォンやパソコンを使うと眠りを妨げると聞いたことがある。スクリーンの光……最近よく耳にするブルーライトが、眠りを誘うホルモンを抑制してしまうからだとか。

 だからといって、やめられるものではない。現代を生きる人間にとって、スマートフォンやパソコンは必需品である。以前、電子機器には無縁と思われる老人が、鞄からタブレット端末を取り出し、巧みな操作を誇示していた時はさすがに驚いたが。

「タブレットかぁ…………お幾ら万円するんだ?」

 スリープ状態のパソコンを再度立ち上げて、ブラウザを開く。

「とまぁ……こんなことだから寝るのが遅くなるんだよなぁ…………」

 予想以上に安い値段で購入可能だが、その金額分の働きをするのか疑問だ。こういう物を必要とする職種でもなければ、今の電子環境に不満を抱いているわけでもないからだ。

 結論、不必要。

「ん」

 スマートフォンが震える。アルバイト後だったのでマナーモードのままであり、音楽が流れないので電話かメール、瞬時に判断できなかったが、震え続けているので電話だろう。

 しかし、こんな時間に着信? 画面を覗き込むと、名前が表示されておらず、電話番号のみが表示されている。つまり、連絡先に登録されていない人物からだ。

 思い当たる人間が一人しかいない。そう、吉場未冬だ。

「…………もしもし」とはいえ、吉場未冬だと決めつけず、控えめに対応する。

『あ、も、もしもし。吉場です……連絡遅くなってごめんなさい』

 やはり吉場未冬だった。なぜメールではなく電話なのか尋ねようと思ったが、尋ねる必要はなかった。

『実は、メールが送れなくてですね…………何度送信しても、リターンメールが届いてしまうんです。しっかり、確認もしたんですけど』

「あぁ、あぁー……なるほど。書き間違えたのかな? それとも、大文字と小文字の区別がつかなかった部分があるとか……。どちらにせよ、俺の責任でもあるし、もっと短いアドレスにしておけばよかったよ」

 例えば、Pとpや、Iとlなど。アルファベットを書き慣れていないせいで、曖昧になってしまったのかもしれない。

「でも、せっかく電話番号を書いておいたんだから、SMSで送ってくれればよかったのに」

『あっ! 確かに…………SMSってあまり使わないから、すっかり忘れてました』

「番号書いておいて言うのもあれだけど、まさか電話が掛かってくるとは思わなかったよ。時間も時間だし」

『もしかして、寝てましたか? そうだったらごめんなさい』

 何かあるとすぐに謝る。他人の顔色を常日頃気にして、相手の気分を害さないよう生きてきたのだろう。

 だが、その低姿勢は間違いだと感じる。謝られるようなことをしたのならまだしも、小さなことにまで謝られると、まるで威圧し、萎縮させているような気分になるから、心地悪い。

「俺はいつも明け方に寝てるから大丈夫。君のほうこそ、眠かったりしないの?」

『正直、ちょっと眠いです。でもそれは、安心感のせいというか……送信できないメールに四苦八苦していたら時刻は三時で、このままじゃいつまで経っても連絡できないと思って、迷惑を承知で電話したんです。無事に廿浦さんと繋がれた今、一気に睡魔が襲って…………』

 メール一通送れないだけで普段よりも夜更かしをして、メールの問題こそ完全には解決していないが、電話という双方向通信を行えたことで安堵している。健気なものだ。

「……………………ん?」

 吐息こそ聞こえるが、声が聞こえなくなる。まさか、とは思うが「寝落ち? もしもし、もしもーし」

 やれやれと終話し、可愛らしさに思わず口角が上がる。

 結局、時刻や待ち合わせ場所については何一つ進展しなかったが、心の距離は多少近付いたのではないだろうか。

「んじゃ、俺も…………」いつ届くかわからないメールや電話に備えて眠ることにしよう。パソコンをスリープ状態にして部屋を暗くすると、瞼が自然と重くなる。

 布団の中へ潜り込み、電話番号の登録を済ませた辺りから意識は遠くなり、思考は途切れ、ただ自然に深い眠りへ達した。




「それってデートじゃないっすか! やりますね廿浦さん!」

 自他共に認めるチャラ男、篠田伶(しのだれい)が少し気にかけてほしい音量で笑いながら言い放つ。

「デートって言えばデートかもしれないけどさ、こういう時ってどこ行けばいいのかねぇ?」

 異性との交遊に慣れているであろう篠田伶に助言を求めてみた次第だ。

「んー、そうっすね……相手のことをどう思っているか、相手がこっちをどう思ってるかで変わると思うんすけど、廿浦さんはその子をどう思ってるんすか?」

 吉場未冬に関して知っていることが少なく、特殊と思われる家庭環境など、興味が湧く部分があるのも確かだが、趣味や特技、好きな食べ物やスポーツ……恋心を抱く人間へ対しての興味というものが今はあまりないというのも事実。

「正直わかんないだよ。興味はあるけど、それは異性に対する興味じゃなくて、人間としてっていうか…………」

「で、向こうはどんな感じなんすか? 好き好き光線放ってるとか、感じますか?」

「いやいや、なんだよそれ。でも客観的に考えてさ、初対面の女の子がグイグイ来るってことはだよ? 好意があると思いつつも裏がありそうって思うわけよ。本当にそれだけ好きなのかもしれないけど、有り得るのかって」

 例えば俺が、漫画やアニメの主人公ならば有り得るかもしれないが、現実世界にそんなことがあるのだろうか。

「いやいやいや、廿浦さん。その考え、甘いっす。有り得るんすよ。事実は小説より奇なりって言葉があるじゃないっすか。つまり、そういうことっす」

「どういうことだ」

「持論なんすけど、一目惚れの力って凄まじいと思うわけっす。人それぞれだとは思うんすけど、俺の場合、例えば学校とかで一目惚れしたら、そこまで昂ぶらないわけっす。なんでかって言うと、会おうと思えばいつでも会えるからで、この学校の生徒なんだなってわかってるわけじゃないっすか。でも、電車の中とか町中で一目惚れした場合って次に会える確証がどこにもないから、声を掛けておかないと……彼女の記憶に刻んでおかないとって思うわけっす」

 胸を張り、人差し指を立て、堂々とした表情でそっとささやく。

「つまり、愛の力は偉大……っす」

 満足したのか、笑顔でその場から立ち去っていく。

「いや、待て待て、これからバイトだろ」

 いずれ気が付いて戻ってくると思うので後を追わず、十八時からのアルバイトに備えて休憩室で準備をし、待機する現在、十七時五十三分。

「失礼しまーす」

 扉をノックして、休憩室へ入ってくるのは篠田伶ではなく矢吹梨恵だ。

「おはようございます」

「おはよう。いるのは廿浦くんだけ?」

「篠田くんがどっか行きました」

「どっか行きましたって…………」と矢吹梨恵は苦笑して、ロッカーへと向かう。

「…………………………………………」

 吉場未冬の相談をしようか迷っている。女性の意見は貴重だが、見境なく相談していいものだろうか。

「じゃあ今日は、私と廿浦くんと篠田くんと沙絵ちゃんがラストかー」

 いつもより人数が多いのは、今日がポイント三倍だからだ。予め休みを取っておかないと、間違いなくアルバイトを入れられてしまうほど、一週間で一番忙しい日である。

「俺、毎週入ってるんですよね。たまには木曜日休みたいんですけど」

「まぁまぁまぁ、頑張って乗り切ろうよ。ていうか、篠田くんはどこまで行ったのさ」

 そんなことを知らなければ、その過程を話してしまうと、吉場未冬の存在を隠すことはできない。正直、相談しても構わないと思っているが、意見を乞う時間が足りない。中途半端に助言をされてすっきりしないのならば、余裕がある時に相談すればいい。

「いずれ戻りますよ。そんなに馬鹿な男じゃないと思いますし」

 タイムカードの打刻、一分前だけれど。

「って、ちょっとちょっとー!」

 ノックもせずに休憩室の扉を思い切り開いて、篠田伶が戻ってくる。そして、扉はその勢いのまま止まらず、「いったあああああああああああ!」急な扉の開閉に不意を突かれ、避けるどころか防ぐことすらできずに打刻をしようとしていた矢吹梨恵の顔面へ激突する。

 鼻ではなく額に命中していたようで心を撫で下ろすが、勢いはかなりのものだったので、間違いなく激痛だったはずだ。

「あ、いたんすか! すいません! 大事な顔を傷物にしちゃいました…………」

 悪気があるならもう少し真面目に謝れと密かに思った。

「篠田、あとで死刑だから…………」

「勘弁して下さい! 何か奢るんで……!」

「しょうがない、ハーゲンダッツのアイスで手を打とう」

「はいっ! 何味がいいっすか? 休憩の時に買っておきますんで!」

「任せた」と肩を叩いて、親指を立てる。

「了解っす!」

 こんな他愛のない会話を小耳に挟みながら、今日のアルバイトが始まったのだった。




 本日も特に変わりなく営業を終えた。店長と副店長、そして篠田伶の三人はレジ精算の仕事がまだ残っているため、御沓沙絵、矢吹梨恵と共に三人を残して退社する。

 出入り口の自動ドアを施錠するため後を付いてきた篠田伶が、「お疲れ様っした!」と挨拶に続けて余計なことを言ってしまう。

「じゃあ廿浦さん、デートの報告よろしくお願いしますよ。期待してるんで!」

 後ろを振り向かなくても粗方予想できる、二人の反応。今を全て投げ出して車へ逃げても構わないが、結局後日喋らなければいけないだろうから、得策ではないとこの場に留まる。

「柊涼…………今、聞き捨てならない言葉を聞いた気がしたんだけど…………?」

「デートの報告って言ってたよね、聞き間違いじゃなければ! 廿浦くん、詳しく聞かせてもらうから! 今!」

 予想通り、二人して興味津々だ。

「矢吹さん、篠田くんは何味買ってきてくれたんですか?」

「チョコレートブラウニー。それで、デートはいつ? 誰と? バイトの誰かとかじゃないよね? そうだとしたら、碧ちゃん? 紅葉ちゃん? まさかの

浅見さんとか…………」

 まさかの浅見さんとは、フルタイムパートの浅見由佳梨(あさみゆかり)である。年齢は確か、二十後半。歳相応、というより歳以上に妖艶さを振りまいている美しい女性であり、彼氏いない歴とやらは短いらしいが、一年中彼氏が欲しいと愚痴っているのは、長続きしないからだそうだ。

「とりあえず車まで行きましょうか…………ここで話すのもあれなんで」

「そのまま車で逃げないように」

 御沓沙絵に釘を刺されるが、逃げる気は毛頭ないので安心してほしい。

「そっかー、そっかそっかー、廿浦くんに春がきたのかー」

「矢吹さんには春がこないんですか」

「いらんお世話だ」と肩を殴られる。

 そんな会話をしながら車へ到着してしまった。まぁ、プラスに作用する部分も多いだろうから、あまり嫌がる必要もないだろう。変に色を付けず、真実を伝えて明日へ備えるべきだ。

「ささ、後部座席にでも乗ってくださいよお二方」

 矢吹梨恵が手に持っている鍵を操作すると、後部スライドドアが自動的に開くので、軽く頭を下げてから乗り込む。さすがは七人乗りの車、天井も高く開放的な室内だ。俺の車はコンパクトカーなので、この広さを羨ましく感じる。

「で、だよ。さっき梨恵が言ったように、誰とのデートなんだい?」

「その三人じゃないんで…………」

「つまり、麻里恵とデートってこと? それって浮気じゃん! 意外とやるね」

 柚木麻里恵(ゆずきまりえ)。同じくアルバイトの一人であり、控えめで温和な一つ年上の女性である。かなり小柄で、本人から聞いたことはないが、恐らく身長は百五十センチ以下であり、幼い顔立ちも相俟って小学生や中学生にしか見えないというのが第一印象だ。

 そんな柚木麻里恵は、篠田伶と交際している。本人たちは隠しているつもりだろうが、全く隠しきれていないのが現状。二人きりでいるところを店内の隅で観察したり、休憩室に設置されている監視カメラの映像モニタを見れば一目瞭然だ。

 つまり、柚木麻里恵とデートなんて有り得ない。

「いやいや。そもそもタイプじゃないし、例えそうだとして、篠田くんに相談しないですよ。どんだけ俺は図太いんだっていう」

 遅れて矢吹梨恵が運転席のドアを開けてシートに腰を掛ける。

「なになに? 結局誰だって?」

 わざとらしく肩を竦めて、言葉の代わりに返答する御沓沙絵。

「いや、正直に言いますよ。だって、二人にバレた時点で腹を括るしかないでしょ?」

「そりゃそうだ」と綻びる御沓沙絵を無視して続ける。

「月曜に御沓さん来たでしょ? そのあと女の人が来たんです。そこまでは、まぁ、普通ですよね。それで、その日の営業を終えて帰るじゃないですか。そしたら、俺の車の前にいたんですよ、そのさっきの女の人が」

 黙って聞いていた矢吹梨恵が疑問を呈し、顔をしかめる。

「月曜日って私もいた、よ…………? そんなことがあったの?」

「ささーっと帰っちゃったからですよ。この車が動いてから、その女の人に気付いたんで」

 位置的に考えて、この車へ乗り込む際に見えなかったのだろうか。いや、暗闇なので瞬時に人と判断できないかもしれない。

「んでんで、どんな話をしたり、どんな経路でデートに至ったんだい? お姉さんに話してみなさい。超絶的確なサポートを約束するよ」

 胸を張りながら叩いて、誇らしげに鼻から息を吐く御沓沙絵。

「いきなり連絡先を教えろって言われて、不審に思うじゃないですか。それで、教えたら俺にどんなメリットがあるのか聞き返してやったんです。でも、答えられなくて…………後日それを伝えに来ると言ってその場を後にしました」

 相槌を打つ御沓沙絵が嬉々として俺を見ている。何か思うことでもあるのだろうか。

「な、なんすか…………」

「いやぁー、愛の力ってものを知らないんだなって思ってね。私は一目惚れしたら即行動に移すけど。その子だって、私と一緒なんじゃない? 柊涼も隅に置けないねぇ」

 篠田伶といい御沓沙絵といい、愛の力とは何だ。少なくとも俺は“偉大な力”だなんて思わないし、思いたくもない。そんな感情で自分を失い、盲目に走り続けるのは愚かな人間だ。もちろん、彼氏彼女を作ることを否定しているわけではない。ただ、限度と常識がある。

「話、戻しますけど、水曜にまた会って、改めて聞いたんですよ。でも、納得させられるような言葉を考えられなかったって言われたんです。その真剣さに気圧されたわけじゃないですけど、元々連絡先ぐらい教えてやるかと思ってたんで、そう伝えて教えました。それで、最終的に金曜日……つまり、明日遊びに行こうって流れになりました」

 二人の視線が熱く気恥ずかしい。やはり、二人に相談するのは失敗だった。二人同時に相談してしまうと、どうしても真剣味が薄れてしまう。

「どこ行くとか、そういう具体的な部分は決まっているの?」

 根は真面目な矢吹梨恵が話を逸らさずに質問してくる。

「全く決まってないです。多分、連絡待ちなんじゃないかな……? 昨日、夜に電話したんですけど、その子寝落ちしちゃって。そのまま連絡してないです」

「えっ、何それは…………今朝連絡するとか、メール送っとくとかしろよー」

「電話しろ、今すぐしろ!」

「今は嫌ですよ!」

 明らかに遊び半分の人間が一人いる今の環境で吉場未冬へ電話するのは絶対に避けたいが、断り続けることが果たして可能なのかと考えると、答えは決まっているような気がした。

「…………どうしてもしないといけませんか?」

「おっ、物分かりいいねぇ。そういうとこ、私は好きだよ。分からず屋も好きだけど!」

 内容の半分を聞き流して、俯く。

「沙絵ちゃんがそう言ってるんだ、迷ってる暇はない!」

 恨むべきは篠田伶の一言なのか、相談をした俺自身の決断なのか。思慮の欠けた行動は控えてきたつもりだが、唐突な出来事には弱いようで、現に狼狽えている。

 ここで電話をしてデート先を決めることで、どうなるのかを想像する。デート先が二人にバレて、矢吹梨恵は大学があるとして、フリーターである御沓沙絵はどうだろうか。明日のアルバイトが何時からか、そもそも出勤なのか定かではないが、休みだった場合、デート先に現れる可能性があるのではないだろうか。

「…………………………………………」

「何を躊躇してるのか、なんとなくわかるけど…………想像しているようなことはしないから安心してよ。そこまで私は意地悪くないから!」

 考えが筒抜けな時点で、結局御沓沙絵には敵わないと思った。人心掌握術に関しては、今まで出会った人間の中でもトップクラス、ではなくトップと個人的に思っている。とはいえ、絶対数が少ない俺の知人の中での格付けなんて、たかが知れてるのかもしれないが。

「…………まずはメールじゃ駄目ですか。ていうか、メールだけじゃ駄目ですか」

 断れないとしても、この場での電話は勇気がいるので、話を濁しながら、漫ろな気持ちを抑制させる。でなければ、あることないことを口にしてしまいそうで怖いからだ。

「突然電話するのは……言われてみたら駄目なのかも。電話してもいいかメールで質問して、その返答次第かな。電話するのに不都合な環境とかあるじゃん?」

 御沓沙絵の意見に納得して頷き、メールの文面を考える。今、電話できませんというメールを送ってくれるよう指示した内容にしようかと思ったが、送信する内容を予め確認されたら終わりなので、素直な質問を打ち込んでいく。

「打ち込んだらちゃんと見せてよ?」

「…………わかって、ます、よ」と、メールを打ち込みながら適当に返事をする。

「てかさ、てかさ、ぶっちゃけその子は廿浦くん的にはアリなの?」

 性格に関してはまだ評価できるほどの関係を持っていないので省略するが、派手さのない落ち着いた印象、整った顔立ち、余計な出っ張りのない体型。アリかナシかで言わずとも、大抵の男は吉場未冬をアリと思うだろう。

「ナシだったら頑張らないでしょー! 梨恵だって、私だって、みんなそうでしょうよ」

「沙絵ちゃんってそんな面食いだったっけ? まぁ……あながち間違ってはいないよね。どんな職業であれ、就職活動で見た目はかなり重要だし」

 それは暗に、四月の時点で就職活動を終えることができた自身の容姿を自慢しているのだろうか。自惚れても決しておかしくはない容姿だとは思うけれど。

「打ち終わったんですけど、これでどうですか?」

 スマートフォンを御沓沙絵に差し出して、送信の許可を待つ。

「どれどれ……じゃあ梨恵、読み上げるよ。えー、……廿浦です。明日のことについて聞きたくてSMS送りました。今、電話しても大丈夫? 以上」

 関係を形成している途中であることを踏まえて、つまらない内容ではあるが、可もなく不可もなくの文章にした。

「んー、普通! でも、メインは電話だからね。それでいいんじゃない?」

「よし、送信……っと。はい携帯」

 御沓沙絵がメールの送信を終え、スリープボタンを押してからスマートフォンを差し出してきたので、もう一度押して現在の時刻を確かめる。

 はてさて、何分でメールが届くだろうか。

「ていうか、矢吹さんは明日学校だから早く帰りたいんじゃ…………」

「就活終わって暇なんだよー。単位だって、あと少し取れば平気だし。卒業までの残された時間を楽しく費やすのが、今の私の使命ってわけ」

 大学生の事情なんて知らないので、投げかけた疑問は意味を成さない。二人に遊ばれるのは確実であり、逃れられないようなので、次の日に予定がない二人とたまたまシフトが重なってしまった運の悪さを呪いながら、スマートフォンを握りしめてメールを待つ。

「その子はどっちのタイプなんだろ? メールが届いたらすぐに返事をするのか、わざと少し経ってから返事をするのか。前者なら好都合だけど、もしも後者なら……厄介だ」

 気が付かなかっただけ、もしくは既に就寝しているという可能性はないのだろうか。

 すると、矢吹梨恵が挙手して発言の根本を問う。

「それさー、よく聞くけど、どういう意味があるの? 気が付いたらすぐに返信しないと相手へ悪いと私は思うんだけどさ」

 返事をすぐにしない心理がわからないわけではないが、矢吹梨恵の言うことにも概ね賛同できるので、この問いに御沓沙絵はどう答えるのか俺も気になった。

「簡単に手に入るものと簡単には手に入らないものの違いかなぁ。いや、追うと追われるの違い? いつも来ていたメールが突然、バッタリ来なくなったとしたら…………どうする?」

「まぁ、普通に待つ……けど、不安かなぁ。何かに巻き込まれたとか、病気とか、忙しいのかなぁとか思って、落ち着かないんじゃないかな。もちろん、相手によりけりだけど」

 眉間に皺を寄せて唸っていたが、自身の発言した言葉にピンときたようだ。

「その顔は気が付いたって顔だね。そう、それが狙いなんだよ。より一層意識させるための常套手段ってこと。そして、それができないのは、相手に嫌われたくないから? でも、何時何時も優しくするって、疲れるし、都合のいい女でしかないと思うよ。そもそも、それじゃ相手を捕まえられない」

 その考えは……どうだろう。好きな人からすぐにメールが届くのは嬉しいことだと思うのだが、違うのだろうか。

 俺の心の中を見透かしたように御沓沙絵は注釈する。

「あ、勘違いしないでね。これは追う側、相手が特に意識してない場合の話だから」

「ちょっと疑問なんですけど、メールの送受信をしたことがないのに、バッタリ来なくなったと思わないですよね? 今回行う方法としてどうなんですか?」

 吉場未冬は元々メールの返信が遅いという可能性があるのにもかかわらず、常套手段を使っていると考えていいのだろうか。

「いやいや、梨恵が聞いてきたから答えただけで、その子がそうと決まったわけじゃないからね。そもそもメール送って何分よ? 今頃メール打って送ってるかもよ」

「あぁ…………」冷静さに欠けている。矢吹梨恵の疑問に対して返答しただけであり、吉場未冬のことを言っているわけではない……確かにそうだ。何を勘違いしているのだろう。

 思っている以上に、心は舞い上がっているのだろうか。

「メールが待ち遠しいんだねぇ、あははは。そんな廿浦くん、初めて見た気がするよ」

「相手が柊涼を好きっていう前提が、前提じゃなくなってきてるんだろうねー。まぁ、前提なんかじゃなくて、確実に柊涼のことが好きだろうから、心躍る気持ちがわからんこともない」

 反論しようにも、あながち間違っていない気がして、言葉が喉に詰まる。ここは素直に、吉場未冬のことを意識してメールを待とう。

「ちなみに逆だったら? 好きな相手に送ったメールが、返信遅かったりしたら」

「そりゃ眼中にないだけじゃない?」

 二人の笑い声が車内に響き、その声でメールの着信音が掻き消されないか不安になったが、元よりマナーモードであるため、音が鳴るわけもなく、ただただ振動を待つ。

「んー、てか、月曜でしょ。その時にいたお客さんを思い浮かべると、一人心当たりあるんだよなぁ。その子、背高くない? 細くてスラーって感じのさ」

 それだけで、御沓沙絵が見た人間は吉場未冬であると明白に伝わり、吉場未冬の姿が自然と思い浮かぶ。

「多分、その人で当たってます」

 そう答えると、御沓沙絵は驚愕の声を上げ、手を握ってくる。

「柊涼! 柊涼ー! その子めっちゃ可愛いじゃん! えーっ……ちょっとー、もう、びっくりだよ…………! 柊涼を好きになった経緯が気になるわー!」

 それに釣られて矢吹梨恵も調子を上げる。

「ちょっと待って、もしかしたら、私も見たかも…………? だって、意識していないにしても、多少は見ているはずだから……背の高い、可愛い子…………」

「あっ」暗い車内に淡い光が灯り、スマートフォンが震えたことを感じ取る。「来た」

 画面には間違いなく吉場未冬と表示されている。嬉々としてメールを開封して、内容を読んでいく。

「なんて来たの? 早く読み上げて!」

「早く早く!」

 二人が急かしてくるのを無視して読み終えたあと、咳払いをして内容を読み上げる。

「んー、えー、ちゃんと遅れてますか? バイトお疲れ様です! 電話しても大丈夫なので、いつでも掛けてください! だ、そうです」

 変換ミスしている部分が可愛らしい。今すぐにでも電話を掛けたいが、やはり、二人の前では嫌なのが正直なところだ。二人を意識した結果、羞恥心で流暢に喋ることができず、会話のキャッチボールに支障が生じ、申し訳ない。

「よし、それじゃあ…………」

 御沓沙絵が口を開く。そして、発信を命ずるのだろう。

 嬉々とした表情で言葉の続きを待つ矢吹梨恵を視界から消し、電話を早々に切り上げるための言葉を思考する。

 ここで全内容をひけらかす必要はないのだ。簡単な会話をして、自宅へ帰ってから再度電話すればいい。そのための言葉を、この刹那に導き出す。

「二人に悪いから、解散!」

「えええええー!」

 俺は目を見開いて絶句し、矢吹梨恵は深夜であることを忘れて驚愕の声を上げる。

「電話しろって提案したの沙絵ちゃんじゃん! なんで解散にしちゃうのさ!」

 御沓沙絵は俺の顔を一度見てから矢吹梨恵へ視線を戻し、その理由を話した。

「本当に迷惑そうだったから、その一言に尽きるよ。二人の今後が気になるけど、それを探求して嫌われたいわけじゃないからね。後日報告ってことで、今日は解散にしよう」

 その提案は僥倖、というより必然であると感じた。御沓沙絵は心の機微を感じ取れる人間であり、微かな表情の変化一つでさえもこの暗闇で見落とすことなく、これ以上は駄目だとという境界線でしっかり踏み留まり踵を返す。

 それは、御沓沙絵を形成する信念であり、天賦の才である。

「沙絵ちゃんがその気なら私だって諦めるけどさぁー、どうしても気になる……顔とか、性格とか、きっかけとか、今自撮り送ってもらうとか、さ…………むぅ」

 それは決して諦めていないのではないだろうか。

「いやー、でも、喜んで自撮りの写真とか送信してきたら、それはそれで嫌です」

「まぁ、それはわかる」

 その意見に矢吹梨恵は賛同するが、不満の顔を隠せていない。

「ささっ、私たちは帰ろうぜー。柊涼には頑張ってもらわないとね」

 無駄に期待されて、自分自身も心を踊らせて、その先に残るものが、希望となり得るのだろうか。期待し、期待されるということは、高い崖と同義である。希望の空へと向かって駆け出して、しっかりと踏み込んで飛び立つことができたなら、本望だ。

 しかし、もしもそれに失敗したのなら。

「…………………………………………」

 俺と御沓沙絵は矢吹梨恵に別れを告げながら車から降り、各々の車へと向かっていく。

「本当に頑張ってよ? 何か一つでも打ち込めるものがあるって大事だからさ。まぁ、それが恋愛っていうのは駄目だろって思う部分もあるけど。なんたってドロドロだかんねぇ、淡白な付き合いなんて無理で、大抵どっちかが重かったりするんだよね」

 さも、経験者は語るといったところか。今、彼氏はいないそうだが。

 右手で左腕を握りながら、過去を思い出す。

「高校の時に付き合ってた彼女、確かに重かったかもしれないです。それでいて、重さに愛が比例していない。もっと上の大学に入学して高給取りを目指せとか言って、でも自分はろくに勉強もしない。養ってもらう気、満々だったんすかね。冗談交じりで、もしも大学落ちたらどうする? って言ったら、苦笑いされたんですよ。その笑顔で色々と冷めちゃって、大学はもちろん、高校もやめちゃいました。理由は他にもあれど、彼女がいたから通えていたのに。やめたの知ったら、メール一通で別れを告げられました。まぁ、残念とは思わず、当然の結果だと納得してましたけど」

 喋りすぎたと自覚して、区切りで自制する。今となっては良くも悪くも得た経験値だったと思うが、多少の悲しみは今も纏っている。そんな悲しみを再度味わいたくはないし、味わわせたくもない。そうわかっていても、次は大丈夫という自信に基づいて恋愛をしてしまうから不思議だ。

 駐車してある車に到着し、御沓沙絵は俺を見ながら質問を発する。

「それは重いというか、ただの独占欲というか、我が儘? どうせあれでしょ、他の女の子の電話番号、メールアドレス、全部消してとか言われたでしょ?」

「言われましたし、消しましたよ、数少ない女子の連絡先を。そもそも中学で、クラス会とやらを円滑に行うため交換したメールアドレスであって、それ以来全くメール送ってないですけど。多分今送ったら送れない感じのやつです」

「好きなはずの相手のことを考えず、ただ闇雲に縛り上げる。相手のためにいる自分、じゃなくて、自分のために相手がいるんだろうねぇ。そうする気持ちがわからんこともないけど」

 束縛するには理由があり、その理由も人それぞれだ。信頼できないから、自分に自信がないから、そして何より、思うがままにしたいから。

「自分のものにしたいから束縛してたんだろうけど、本質はどうだろうね。もしかしたら、柊涼からの愛情に不安があったのかもよ? 私のことが好きなら、束縛くらい受け入れてよっていう表現だったとか。甘えたいから側に置きたい、イコール束縛」

 高校生だったということもあり、人生で初めての彼女ということもあってか、周りの目を気にして付き合っていた部分があるし、慎重になってしまった節もある。嫌われないようにした結果、愛情を注ぐという根本的な部分が欠如してしまったのかもしれない。

「うーん…………どうですかね。俺と彼女、尺度は違いますから。言い訳に聞こえるかもしれないですけど」

 唸りながら彼女のことを思い出すが、反省点ばかりが頭を駆け巡るので思考をやめた。

「まっ! 正解なんてないんだ、もっと楽に考えようよ。それで未冬ちゃんをゲットだぜ!」

「ゲットって……恋愛話をしてただけで、彼女にしたいわけじゃ…………」

 しかし、恋愛話のせいでそんな気持ちが多少芽生えているのも事実だが、その前に「ていうか、なんで名前!」思わぬ名前を告げられる。

 御沓沙絵は握り拳を口元に添えて笑い、名前を知っている理由を答える。

「いや、だって、メールの内容確認した時にしっかりと記載されてたし。そんなにびっくりすること?」

「うわぁ…………盲点だった。確かに表示されてる」

 確認するまでもなく、文章を打ち終えたあとの画面を思い出すことができる。そこには確かに吉場未冬という名前が表示されていた。

「盲点って、名前知られたくなかったの?」御沓沙絵の表情が曇る「勘繰りたくなる気持ちはわかるし、さっきも言ったけど、邪魔するつもりなんて一切ないんだから、出せる情報を出して。彼女にしたいなら、友達になりたいなら、これ以上関わりたくないなら…………その答えを導き出すために協力するよ。これは嘘偽りなしの、本気の言葉だかんね!」

 眼差し、眼光、その力強さが真実だと後押しする。

 躊躇するべきではなかったと強く感じた。この人は、信頼されるだけの力が備わっていて、その力をいち早く借りるべきだったのだ。今回の件に限らず、一人では進まない、進みづらい案件を対処するには、御沓沙絵という力を利用しない手はない。

 以前にも、相談事に対して親身になってくれたことを思い出す。やはり、場数を踏んでいる人間は、頼りになる。

「そう、ですね。…………今はまだ、彼女にしたいとか、友達になりたいって気持ちがウロウロしていてわからないんですけど、それがわかった時に協力してください」

「よっしゃ! 任せなさい!」

 胸を思い切り叩いて、誇らしげに笑顔を見せるが、思った以上に強く叩きすぎたのか、噎せている。

 そんな御沓沙絵に別れを告げて、車へと乗り込む。

「彼女、かぁ」急展開で本心が追いついていない感じだ。

 そういえば、篠田くんや店長たちはまだ店の中だ。ここまで遅いとなると、何か問題があったのだろう。だが、店長と副店長が揃いも揃って解決できないわけがない。御沓沙絵が屋根の閉じたオープンカーで去っていくのを感じ取って、追尾するように車を発進させた。

 無事に帰宅したら、夕飯なんて忘れて電話を掛けるとしよう。

 帰宅している今も、吉場未冬は電話を待っているはずだから。




 自宅に到着すると、急いで自室へと向かう。

「柊涼、飯は?」

「あとで食べる!」

 親父の制止を振り払い、階段を一段飛ばして進んで部屋へ入る。

 まず部屋に入って電灯を点け、パソコンの起動させ、座椅子に座って息を吐いた。

「ふぅ…………あ、そうだ」

 スマートフォンをジーンズのポケットから取り出そうとした時、落としそうになる。

「手汗、やば」スマートフォンを一旦置いて、掌をジーンズでゴシゴシと拭く。「こんな緊張してるのか、俺」

 その頃にはパソコンが起動していて、見慣れたデスクトップが表示されている。気を紛らわせるために、ツイッターを開いてタイムラインをチェックしていくことにした。

「いや、いやいや」こんなことをしている場合ではない。

 再度スマートフォンを持ち、通話履歴を開くと、吉場未冬と登録された電話番号が記載されており、この十一桁の番号の羅列に指で触れれば発信する。しかし、昂りが仇となって、その指は震え、肩に力が入る。

「えぇい! もうどうにでもなれ!」と電話番号に触れた。

 発信されていることを確認してからスマートフォンを耳に添え、吉場未冬の声を待つ。

「……………………? ん?」

 一向に呼び出し音が聞こえない。電波状況が悪いのか、電話番号を間違えたのだろうか。しかし、手打ちしたのではなく、履歴の番号にそのまま掛け直したのだから、間違っているわけがない。では、なぜ呼び出してはくれないのだろうか。

『あ、あの…………もしもーし』

「え、あ、え? あれ? もしかして、もう電話に出てる? もしもし?」

『もしもし! こんばんは。電話、待ってました』

 呼び出し音が鳴る以前に、電話に出ていた。呼び出し音が聞こえなかった理由は、そんな簡単な理由だった。

「電話出るの早いね。プルルルって鳴らないからびっくりしたよ」

『電話、ずっと待ってたので、即出ました!』

「そ、そっか。……で、さ。明日のこと、決めようかと思って。行きたいところがあるならそれに従うし、特にないなら、無難にショッピングモールとかかなって思ってるんだけど」

『私は、どこでも!』

「それじゃあ、行く先は決定として、待ち合わせ場所はどうしようか。家の場所知らないから迎えに行けないし」

『あ、じゃあ廿浦さんのバイト先はどうですか?』

 場所としては最適であり、最悪だ。金曜日の日中なのでアルバイターはいないはずだが、社員やパートが目撃する可能性があり、後にアルバイターの面々へ伝達するのは間違いない。

 しかし、それ以上に最適な場所がないのも事実だ。苦渋の選択だが、飲むしかない。

「……………………うん、いいよ、そうしよう。時間は午前? 午後? 俺は午前待ち合わせて、お昼を一緒に食べようかなって」

『そうしましょう!』吉場未冬の微かな笑い声が漏れる。『わぁ……楽しみです』

「それじゃ、十一時に集合で。また明日」

『準備もしないと…………、さようなら!』

 別れの挨拶を交わして終話する。すんなりと明日の予定が決まった。

「明日の準備、か。俺も一応準備しておこう。いや、でもその前に夕飯食べるか」

 行く先が決まったとしても、内容自体は決まっていない。行って終わる場所ではないのだから、多少の下調べが必要だろう。

「…………はは」

 やはり、“楽しみ”な気持ちが沸々と沸いているようだ。

 魚心あれば水心、だ。異性として接してきていると明確に感じ取れれば、それ相応に接するべきであり、その気になる可能性だってある。

 違和感のある出会いだが、愛の力が作用したと考えれば不思議ではないらしいので、今は今できることを努力しよう。

 俺には夢があった。

 何かを成し遂げて、死ぬということ。

 しかし今、その夢は少し変化した。

 何かを成し遂げるために、今を生きる、と。

 自然と笑みをこぼしながら階段を降りていくと、リビングのテレビの音声が聞こえ、親父がソファに座ってスマートフォンを手に持ち、何かを打ち込んでいた。

 怪しまれないよう、何もなかったかのようないつもの表情へ戻し、テーブルに置いてある夕飯に手を付け始めた。




 カーテンの隙間から眩しい日光が差し込んでいる。

「もう、朝か…………」目を見開いて、身体を起こす。「もう朝か!」

 カーテンを開け、身体を伸ばしながら外の景色を見る。

「眩しい朝日、おはよう。少しばかり昇るのが早いぞ太陽…………」

 一睡もできなかった。

 理由は二つ挙げられる。

 まず一つ目は、生活リズムだ。昼夜逆転生活が長く続いた身体は、夜に眠ることが容易ではなかった。

 そして二つ目は、今日という日に高揚していること。思っている以上に、楽しみで仕方がないようだ。

「とりあえず顔洗って着替えるか…………」

 部屋を出て、洗面台へと向かう。

 現在、眠気はないものの、数時間後には間違いなく襲うであろう睡魔のことを考えると頭が痛い。

「ブラックコーヒーでも買おうかな……。身体も重い気がするし、どうなることやら」

 両手で顔に冷水を浴びせて、引き締める。吉場未冬が明言したわけではないが、今日行うことはデートと相違ないのだから、中途半端な身なりや気持ちでは駄目だ。

 脳内のクローゼットで今日着る服装を選びながら、その隅で吉場未冬の姿を妄想する。スタイルを活かした服装であることは容易に浮かぶが、スカートか否かはわからない。スラリと長い足を強調したスキニーパンツか、いや、大人の雰囲気を漂わせるロングスカートの可能性も否めない。しかし、そんなファッションの流行なんてわからないから今は予想を放棄する。

「あーやばい。出会った時と比べて、どんどん舞い上がってる気がする」

 同じような日々の繰り返し。その日常を破壊する爆弾が吉場未冬であり、デートをすることで導火線に火が放たれた。導火線の火が消えることなく爆弾へ到達した時、威力次第で俺の生活は一変してしまうだろう。

 そんな期待が、俺を尚更高揚させていく。




「あれ、お疲れ様。今日はこんな時間にどうしたの?」

 待ち合わせの時間より早くアルバイト先へ到着し、飲み物を購入するため店に立ち寄った。

「お疲れ様です。今日は、と、友だちと会う約束が…………」

「へぇ、友だちとねぇ。へぇ、友だちと。そんな洒落た格好して、友だちとねぇ」

 吉場未冬との関係を一言で表すなら、今はまだ友だちだろう。ただ少なくとも、デートを否定したわけではないので、嘘は言っていない。

「まぁ信じるけどさー。はぁ、あたしも遊び行きたい…………」

「はは、ははは…………」

 自他共に認める肉食系女子、浅見由佳梨は、異性の遊び相手を募集中らしい。がっついているから寄り付かないような気もするが、まぁ俺の知ったことではない。

「じゃ、俺、時間なので行きます」

「今度男紹介してねぇー」

 その言葉を右耳から左耳へと受け流し、店を後にする。

 買った飲み物はミルクティーと緑茶だ。普段からブラックコーヒーを飲んでいるわけではないのに、眠そうな表情で口に含んでいたら、余計な心配をさせてしまう気がして購入を躊躇った。それに、俺一人でペットボトルを持参していたら、それも駄目だろうということで、無難な飲み物を二つ買った次第だ。

「それにしても…………早すぎた、か?」

 待ち合わせの時刻は十一時だが、今はまだ十時半。少なくとも数十分は待機しなければいけないだろう。

 車へと戻り、シートを倒してスマートフォンを取り出した。

「メールで催促って、別に遅刻してるわけじゃないし。待つしか……ないよなぁ」

 ツイッターやブログのチェックをしていれば、数十分なんてあっという間だろう。




「あ!」

 ソーシャルゲームに夢中で、十一時を過ぎてしまった。

「やばい…………洒落にならん。あの子から連絡もなかったし、全然気が付かなかった」

 念のため、今どこにいるのかという旨のメールを送信し、辺りを見渡すが、それらしき人物はいない。

「…………遅刻、か? 五分前には到着していろとは言わないけど、せめて約束の時間ぐらいは守ってほしいなぁ」

 膨らんだ期待の分、破裂した時の衝撃は大きい。

 怒りに近い感情を抱き始めた矢先、メールの返信が届く。

『私はもう待ってますー。廿浦さんこそどこにいるんですか?』

「おかしい。こんなすぐにバレるような嘘をつくとは思えないし…………あっ」

 主に従業員が駐車している、店の出入口から少し離れた場所。そこで吉場未冬は待っているのかもしれない。

 車を降りて、吉場未冬の姿を探すことにした。

「もし本当に、奥の駐車場で待っていたとしたら……気まずいな」

 待ち合わせのことをしっかりと考えず、自分の都合で駐車位置を変えてしまった。それでは気が付かなくて当然、何よりも、勘違いで腹を立ててしまったことに腹が立つ。

「廿浦さん! ここです!」

 吉場未冬は簡単に見つかった。予想通り、俺がよく駐車している場所の近くで待機していたようだ。

 俺は手を振り返して、吉場未冬の言葉に応じる。

「ごめんごめん、バイトじゃないから普通にあっちへ停めちゃったんだ。気が付けなくて本当ごめんね」

「いえいえ。私もちゃんと探してれば…………」

 そして、言葉に詰まってしまう。これからデートだというのに、この陰気な空気。

「あ、そうだ。飲み物買ったんです、どっち飲みますか?」

 吉場未冬は、手に持っていた袋からペットボトルを二本取り出して差し出す。

「あー……、えっと、飲み物。そっかー…………」

 考えていることは同じだった。そして、その二本はミルクティーとレモンティー。嗜好まで似ているようだ。

「俺も買っちゃったよ。車の中に二本、ミルクティーと緑茶」

「あはははは、はは、私たち、考えていることが一緒ですね」

「そうかもね」




 ショッピングモールに到着したのはちょうど十二時だった。

「うわぁー、こんなに大きいんですね! 噂には聞いてたんですけど」

 駐車可能台数五千を誇る、県内でも有数のショッピングモールだ。何度か訪れたことはあるが、やはり近場のデパートなどに比べると、その大きさは明らかに違う。

「平日だけど、まぁまぁ混んでるね。どんな店があるか詳しく知らないし、適当に歩こうか」

「はい、わかりました」

 車から降り、身体を伸ばしてから入り口へと向かう。

「あ、でも、その前に昼食だね。何食べようか?」

「えーっと…………そうですね…………」

 俺の一歩後ろで頭を傾げながら歩いている姿を見ると、やはり不思議と安心する。

 考えるに、人柄だろうか。大人びた見た目と相反する幼稚な部分を感じると、守ってあげたいと思わせる。

「廿浦さんは何が食べたいですか?」

 何が食べたい、か。なんでもいいというのが本音だが、聞き返すということは、同じことを思っているのだろう。なので、そのようには答えられない。

「そう、だね…………」一階にオムライス屋があったはずだ。「まぁ、無難に洋食かな?」

 吉場未冬は笑顔で頷き、俺の腕を掴んで走り出した。

「行く先は決まりました、早く行きましょー!」

 少し周りの視線を気にしながら入り口までの道を小走りで同行した。




「うぅ、苦しい…………」

「ちょっと量が多かったよね。大丈夫?」

 吉場未冬が腹をさすりながら答える。

「心配されるほどじゃないです。いつもお腹いっぱい食べないので、そのせいかな」

「そっか」

 日常を語られると、どうしても親のことを考え、悪い方向に進んでしまう。食事を満足に与えられていないだとか、ありえないとわかっていて、そう思ってしまう。

 だが、こんな時だ。そんな考えを無理矢理破棄して、別の理由を思い浮かべる。

 一目置かれる体型を維持するために、日々の食事管理を怠らない。そんなところだろう。

「……………………あ、あれ?」

 自分の世界に入り続けた結果、吉場未冬を見失ってしまった。

 キョロキョロと辺りを見まわしながら踵を返すと、アクセサリーショップで屈んでいた。

「何か気に入ったものがあった?」

「え? あ、ちょっと…………」

 視線の先にあるブレスレットを手に取ると、吉場未冬も釣られて顔が動く。

「せっかくだから、買ってあげるよ」

「そんな、大丈夫です!」

「遠慮しないでいいよ。値段だって思ったより安いし、軽い気持ちで受け取ってよ」

 さすがに何万円もするアクセサリーなら手を出せないが、ノーブランドの物で、数千円だ。

「じゃあ…………お言葉に甘えて」

「他もちょっと見てみようか。もっと好みのやつがあるかもしれない」

 店内に入っていくと、金銀のアクセサリーが光を反射し、目を突き刺す。

「どういうのが好みなの? 例えば、革っぽいやつとか、シルバーとか、さ」

 吉場未冬は問いに答えず、キョロキョロと吟味している。

 無視されたことを言及せず、同じようにキョロキョロと似合いそうなアクセサリーを探す。

「んー……………………」大人びた見た目をしている吉場未冬には、派手なものよりもシンプルなものが似合いそう、だが……正直な話、これと決めることができそうにない。

 ブレスレットの選定を早々に断念し、吉場未冬の数歩後ろで様子を見守ることにした。

「あ、パワーストーン、欲しいかも…………」

 吉場未冬の視線の先には、色とりどりの小さな石が陳列されていた。ポップ広告を見るに、様々な種類の中から好みの石を選択して、その場でアクセサリーを作成してくれるようだ。

「こういう類の効果を信じるタイプ?」

「信じるか信じないかって言うより、悪いことは信じたくないって感じです。でも、こういうものに縋るのって、駄目でしょうか…………?」

「難しいね…………。何かを信じることが悪いことだとは思わないけど、信じきってしまうことは駄目……っていうのは平凡な意見だよね」右手で左腕を握りながら言葉を続ける。「少なくとも、俺は一時期縋ったことはある、とだけ言っておくよ」

「………………………………」

 深く受け止めているのか、吉場未冬は俯いて口を閉ざしている。

「…………そんな、大げさなことじゃないから、考える必要はないんじゃないかな。毎日テレビでやってる占いみたいに、少し頭に入れておく程度でさ」

「です、よね。じゃあ、石を選びますね!」

 そう言って石の一つ一つを手に取り、効果の説明や見た目を確認しているその目は、先ほどと打って変わって血走っているようにも見える。

 だが、その熱意とは裏腹に、石の選択に要した時間は僅かなものだった。

「決まりました! この三つでブレスレットを作ります!」

「決めるの早いね。なんてやつ?」

「インカローズ、カルセドニー、ローズクォーツの三つです」

 白やピンクの、女の子らしい色合いだ。その三つがどのような効果をもたらすのかはわからないけれど。

 三つの石を吉場未冬から預かり、店員に旨を話すと、数十分で完成すると言われたので、同じ階の様々な店を回って時間を潰した。

 そして、三十分後。

 再度アクセサリーショップに訪れると、注文の品は既に完成していた。

 店員から商品を受け取り、代金を支払って店を出て、袋に入ったブレスレットを吉場未冬へと手渡した。

「わぁー、かわいい! 大切にしますね!」と言いながら、袋を開けて左手首に身につけた。

「うん、似合ってるよ」

 吉場未冬は腕時計を見るように、左手首のブレスレットを眺めては微笑んでいる。

 こんな笑顔がずっと続けばいいと、心から思えた瞬間だった。




「今日はありがとうございました! 本当に楽しかったです!」

 車に乗り込んだあと、そんな謝辞を述べられた。

「いやいや、誘ってくれたのは君だしさ……俺も楽しかったよ」

 月並みでしつこいようだが、本当に楽しかった。

 笑顔を絶やさないし、気遣いもできる。高校生の時に付き合っていた彼女と比べるのは双方に失礼だが、俺に適している異性は吉場未冬だと思えた。

「また、遊びに行きましょう」

 少し大きめのニットのセーターに、黒のスキニーパンツとブーツでコーディネートした吉場未冬は少し暑いのか、腕を捲っている。

 時刻は五時半。これからの予定を大まかに考えたが、特に思い浮かばない。

 今朝、御沓沙絵から届いたメールの内容を思い出す。

 確か“初めてのデートは早めに切り上げて、次を匂わせろ”と書かれていた。その理由は、初めてのデートが短かったなと思わせ、次を期待させるためだとか。

「あ、あのー…………」吉場未冬が、俺を見ながらブレスレットの付いた左手を挙げる。「窓をもう少し開けてもいいですか?」

「あ、もしかしてそんなに暑い? 勝手に開けちゃって大丈夫だよ。エアコンもご自由に」

 今日は前日に比べて気温が低く、夕方という時間を考えても暑くはないはずだが、顔を火照らせ手で扇いでいる。

 風邪を引く一歩手前か、何かの病気を患っているのだろうか。少なくとも、健康な状態ではないと考えるべきだろう。ならば尚更、早めの帰宅が望ましい。

「えっと、これからどこに行きますか?」

 そんな状態の吉場未冬が、次の行く先を訪ねてくる。

「いや、帰るつもりだけど。なんか体調が優れなさそうだし、時間もちょうどいいかなって」

「……………………やです」

 常に耳を傾けているつもりだったが、聞き取れなかった。「え? もう一回言って?」

「嫌なんです。まだ、帰りたくないんです」

 今度は顔を俺に向けて発言した。

「まだ帰りたくないって言われてもなぁ…………どうしよ」

 夕飯を食べに行くとしても、二度も間食をした胃袋はこれ以上蓄える気になっていない。それに、相変わらず暑そうに顔を扇いでいるので、無理矢理にでも家に帰すべきだろう。

 このまま会話はなく、地元へと近付いた。




 ここから自宅まで数分だろうか。

 寒いとも思えるほどに換気された車内。その中で顔の火照りが徐々に改善している様子の吉場未冬は、ドアポケットに肘を置いて外の景色を眺めていた。

「…………………………………………」

 このままどうするか迷っていた。

 帰ろうにも、吉場未冬の自宅を知らないので送れないし、アルバイト先に降ろして帰れるほど冷酷な人間でもない。

 ならば、車に乗せて走り続けるしかない。そう判断し、車を走らせ続けている。

「…………廿浦さん、さっきもここ通りました?」

「あ、バレた?」

「もしかして、私と一緒にいるの…………嫌ですか? 帰りたいから、どこにも行かないんですか? 本当は、つまらなかったですか?」

「いや、そういうわけじゃなくて…………」

 昼の態度とは打って変わって、明らかに苛立ちや悲しみが漂っている。そんな気持ちにさせるつもりはなかったのだが、現状は最悪だ。

「じゃあ、どこか行きましょうよ。公園とか、そういうところでも構わないです」

 公園、か。車が停められるような公園が近くにあっただろうか。

「わかった、探してみるよ」

 とりあえず前向きに受け止め、記憶に眠る地図を照らしながら走行を続けた。




 辿り着いた先は、市役所の近くにある公園だ。

 駐車場と思わしき場所に車を停め、吉場未冬と公園内へ向かう。

「思ったよりも寒くないですね」

「そうだね、風もないし」

 人影のない、木々が生い茂る風景の中へと溶けこんでいく。周りの木々は桜、だろうか。何週間か前に訪れれば、桜の花が残っていたのだろう。

 右に左にと首を動かして、喋りづらい空気を振り払っていると、吉場未冬が開口する。

「廿浦さんは本当に、今日、楽しかったですか?」

 まるで、俺が嘘を吐いたかのように幾度も確認してくるその言葉は、若干震えているような気がした。それが何を意味するのかわからないが、現状を鑑みれば、不安感が募る問いだ。

 近くのベンチに腰掛け、唇を指で撫でてから、言葉を続ける。

「私は楽しかったですよ。本当に楽しかった。……嫌なことを忘れられた時間でした」

 そんな俺は、顔が見えないように背を向けて、耳を傾ける。

 俺なりに配慮したつもりだ。顔が見えていると喋りづらい話もあるだろう。溜め込んでいる気持ちを全て吐き出せるように、口は閉ざしたまま、ただ言葉を待ち続ける。

「でも、そんな時間は長く続かない。わかっていたつもりでも、覚悟していたつもりでも、その時が来ると、やっぱり…………辛くて」

 静寂に包まれたこの場所でなければ聞き取れない音量。それだけで心情が伝わるようだ。

「だから、境界線…………超えてはいけない境界線を、エゴだけで超えます」

 そして吉場未冬は、ベンチから俺の元へ駆け寄って、その勢いのまま抱きついてきた。

「…………これは、つまり、愛の告白と受け取っていいのかな」

 抱擁する力は強くなる。

「その気持ち、ありがたいけど…………」

 素直に受け取っていいのだろうか。断る理由はないに等しいが、さすがに日が浅すぎる。もう少し内面を知るためにも、ここは返事を待ってもらうべきだろう。

 しかし、嗚咽し始めた吉場未冬に向かって、そんな返事をするのは酷だろう。少なくとも、俺にそんな度胸はない。

「……………………っ!」

 明確な返事をできずに困っていると、力を強めてくる。それは催促なのか、涙だけでは放出しきれない内なる感情の一部なのかはわからない。

「…………………………………………」

 このままでは埒が明かないので、本意ではないが、了承することにしよう。

 吉場未冬のことを知る機会は、これからいくらでもあるだろう。何度も思うに、それ以外の断る理由が皆無なのだから、多少のマイナス面には目を瞑るべきだ。

 軽い気持ちで了承することに、多少の罪悪感もあるのだが。

「あ、あのさ、とりあえず離してよ。痛い」

 そう言うと、無言で力を緩めてくれる。しかし、このまま無言でいられるのも嫌なので、答えは期待せずに質問をぶつける。

「曖昧で、試すような言葉じゃなくて、ストレートな言葉で伝えてほしい」

 そして、力の入っていない腕を振りほどいて、百八十度向きを変え吉場未冬を見据えると、しばらくしてから俯いていた顔を上げ、充血した双眸で見据え返される。

 俺は目線を一瞬下へ向けると、力強く握り拳を作っているのが目に入った。

 それだけで、十分だった。

 吉場未冬が開けようとした口を手で遮り、喋り出す前に発言する。

「なんて……そういう言葉は男の俺が言わないとね。上辺だけで君を取り繕うのは嫌だから、本音を言うよ」食い入る視線で火傷をしそうだ。「君とは、気が合うなと思った。君の大人っぽさと、時折見せる幼稚なところが可愛いなと思った。君と一緒にいると、不思議と安心するし、守ってあげたいなと、その、思った…………」

 言連ねている途中、気恥ずかしさが襲い、口を閉ざしてしまった。それでも、本心が伝わったはずだ。

「たった一回のデートで告白するのは時期尚早な気がするけど、今日のデートが近付くにつれて、心が舞い踊っていたのは本当だよ。そして、君の気持ちを知れたことで、こうやって改めて、告白しようと決意できた」

 吉場未冬は俯き、そのまま倒れるようにして俺の胸に体重をかける。

「…………君じゃなくて、未冬って、呼んでください」

 身体を抱き寄せて、頭を撫でながらこう呼んだ。

「未冬」

「柊涼、くん」

 未冬は再度嗚咽し、肌寒さも相俟って、身体を震わせている。

 そんな未冬を慰めるように、気持ちが落ち着くまで頭を撫で続けた。




 告白から、数十分が経過しただろうか。ベンチに座っている未冬は、相変わらず目を充血させて涙をこぼしているが、精神が安定したのか、身体の震えは止まったようだ。

「未冬、もう大丈夫? 調子悪いところがあったら、すぐに言うんだよ」

 無言で頷き、涙を拭っている。

「そろそろ車に戻ろうか。ここにいるのは、さすがに寒いと思うし」

 同じように無言で頷き、ベンチから立ち上がった。

「それじゃ、行こうか」未冬の左手を握り、先導する。「未冬の手、温かいね。熱があるのかもしれないよ」

「…………さっきまで身体中が火照っていたから、そのせいです」

「なら、いいけどさ…………」

「というか、こうして付き合えた今だからこそ言えますけど、ショッピングモールから帰る時点で、告白をしようと思っていたんです。だから、緊張とか、恥ずかしさ、焦り、気持ちの昂ぶり? のせいで火照っちゃったみたいで」

「なるほど……」その結果、些細なことで不安感に苛まれていたのだろうか。「不安定なところがあるんだろうね」

 そういえば、と気になる言葉があったことを思い出す。

 ――――嫌なことを忘れられた時間でした。

 過るのは、親という言葉に表情を変えた時のことだった。

 単純に考えれば、親からひどい仕打ちを受けているのだろうが、その仕打ちの内容は予想できないし、例えそうだとしても、解決する方法があるのか定かではない。

 相手は親だ。考え方次第では、一番厄介な敵でもある。そんな相手に対して、俺がどうこうできるとは到底思えないのだから、仕打ちに耐えている未冬を癒やすのが得策だろう。

 それに、度が過ぎているのなら、警察という手だってある。肉親だとしても、自分の身を守るためには、国家権力という大きな力を借りるべきだ。

 これらの直感が全て、杞憂に終わることが一番好ましいのだが、本来の顔を見てしまっている以上、その不安は付き纏うのだろう。

「さ、車に到着したよ。今日は色々な出来事があって疲れたと思うし、嫌だとは言っていたけど、ちゃんと家へ帰ろう」

「……………………はい」

 気持ちのいい返事ではなかったが、納得してくれたので胸を撫で下ろす。

「あ、それと。未冬が前に言っていたことじゃないけどさ、敬語じゃなくていいよ。一応、その、彼氏彼女なわけだしさ。もっと親密になるためにも、さ?」

「あ、はい。わかりま……すた? ん? わかった?」

「そんな感じでお願いしますだ」

 車のシートへ座ったころにはさすがに泣き止み、少し笑顔が見受けられた。




「本当にここでいいの?」

 指示されて向かった場所は、市内だけでも五、六店舗は営業している、県内を中心に展開するスーパーマーケットだった。

「うん、ここで大丈夫だよ。送ってくれてありがとう。今日はちゃんと家に帰るから」

 車から降りながら、未冬はそんなことを言った。

 いつもは、自宅ではないどこかへ帰っている。それだけで、“嫌なこと”の原因が自宅、そして、親という可能性を格段に上昇させる。

 心の中で、二つの意志が火花を散らし始めた。今ここで、親のことについて尋ねるべきか否か、だ。そしてどちらも、恋人になったがゆえの意思。

 恋人になったのだから、“超えてはいけない境界線”を超えて、未冬のことをもっと知り、解決の糸口を探求するべきだ。

 恋人になったとはいえ、心の奥底では対処できないと認識している問題に踏み込み、余計な痛手を負わせては駄目だ。

 逡巡していると、すでに未冬は家路を歩んでいた。

「…………………………………………」

 昨日今日の問題ではないはずだから、結論を急ぐ必要はないだろう。現に、今日は自宅へと向かっているのだから、深く考えずに、動向を見守るとしよう。

「俺も帰るとするか」

 ヘッドライトを再び点灯させ、未冬とは逆方向に車を走らせる。車内に辛うじて残っている未冬の香りが鼻孔をくすぐった。

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