1-6 新緑を紅(あか)に染めて
巨人グローバスまでの距離は五十m程はあったはずだが、気づけば眼前には巨人の脇腹が迫り、自分は白く輝く刃を走らせていた。相手はその筋肉を見せびらかすように、上半身に衣類は無い。森の緑を切り裂く白刃は間違いなく、全くの無防備な生肌を切り裂くはずだった。
しかし、甲高い金属音とともに、全身に響き渡る強烈な反動。目に映るは飛び散る火花と、無傷の皮膚。
(くっそ、防御系の補助魔法か)
見た目こそ、脳みそまで筋肉で魔法不要といわんばかりの巨体であるため、頭が勝手に魔法の類はないだろうと思い込んでしまっていた。結果として奇襲は、目に見えない魔法の壁によって防がれ、自分は五mも後退させられる失敗となった。
(ならば、砕くだけ)
不覚と小さく舌打ちをしつつも、どこからともなく湧き上がる自信に突き動かされ、地面を力強く踏み込み再び駆け出す。地面を踏みしめるたびに剣を持つ手が熱くなり、体内をめぐる魔力が膨れ上がっていく。
「させねぇっよおお!!」
だが、相手もバカではない。こちらが新たに振り下ろすよりも先に、巨人の左裏拳が体の左半分に襲い掛かった。
「グ、アッ!!」
小柄とはいえ、カキョウの体を安々と握りしめられる程の巨大な握り拳から放たれた一撃は、あまりにも重すぎた。左側面から順に骨と筋肉が悲鳴を上げ、肺から空気が奪われる。足は地面から離れ、水平に飛び、激突した太ましい樹木を真っ二つに折った。
その先が茂みなどの柔らかい草木ならよかったものの、悲しい事に落ちた先は草木が綺麗に除去された地肌。地面に叩きつけられた衝撃と共に、顔に地面の小石や尖った砂が突き刺さる。呼吸するたびに全身が激痛に襲われ、意識が持っていかれそうになる。加えて、口の中に鉄の味が広がる。こんな逃げたくなるような痛みは、生まれて初めてだ。
「テメェの相手は、こっちだあああああああ!!」
全身の悲鳴を無視して、立ち上がろうとすれば、頭上からはトールの大声が響き渡った。上空を見上げれば、太陽の中に人影がある。巨人の顔面直上に飛来する彼の姿。得物であるバルディッシュの刃は、眼下の巨人の眼もしくは眉間を狙うように真っ直ぐ下を向いている。声をわざと発することで相手に自分を視認させる、反射行動を逆手に取った誘導の一撃が降り注ぐ。
「ヌオオオオオオオオオウ!!!!」
巨人はトールの姿を視界にとらえると、雄叫びを上げながら首を横に振り、彼の眼を狙った一撃を回避してみせた。
――――!
それはまるで“ガラス板が砕け散る鋭い音”。そして太陽の光によって視認することができるようになった“煌めくガラスの欠片”。黄金色の流れ星と入れ替わるように、ガラスの欠片は空へ消えていく。
そんな幻想的な風景をかき消すように、トールの重い一撃は“何もなかったように”巨人の盛り上がった首の筋肉へ、深々と突き刺さった。
「ぐっそぉ、イデェエエエエエエエエ!」
巨人の叫びが再び森を揺らす。首に刺さったバルディッシュとそれを握るトールを振り払おうと、不規則に暴れもがきだした。巨人の地団駄が地震にもにた揺れを引き起こし、こちらの満身創痍の身体に響き渡る。
「水精の怒号、火精の憤怒。混じりて昇らん、捻りて貫かん! ――ロールガイザー!!」
そして流れる水のように続く、ラディスの詠唱。
対象物へ向けられた両手から放たれたのは、先の奇襲時に見た高温の水蒸気をまき散らす激流。それは間欠泉と呼ばれる火山地帯に多く見られる自然現象に似ており、さらに竜巻の渦の要素を加えたものだろうか。詠唱からも水のマナに、相性の極めて悪い火のマナをねじ込むことで、水を瞬時に沸騰させる荒技に近い高度な複合属性魔法と察する。荒技と評しただけはあり、術者に対する負荷は極めて大きく、ラディスの両腕が真っ赤に腫れあがっている。
だが、彼が腕と引き換えに放った魔法は、巨人の動きを止めるには十分だった。視界を白く染め上げるほど煮えたぎった激流が、トールと入れ替わるように、巨人の顔面へ正確に直撃した。
「アガガガガ!!!!! ヤゲルウウ、ヤゲルヴヴ!!」
水蒸気の音とは別に、肉の焼けるような音。そして匂い。手で覆われていようと、想像に難くないほどの大火傷を負ったと判断できる。
しかし問題が起きた。
ラディスの放った熱湯の熱が、森に溢れる水分をも水蒸気に換えていき、視界が完全に白一色へと変わってしまった。
(これはまずい……、何も見えない)
体を起こしつつ、口の中にたまった鉄味の唾を吐き出し、息を整える。視界に映るのは、木々の間から覗かせる晴天の青のみ。それ以外は人影すら通さないほど、厚みのある白の世界。
「ダイン!」
そんな濃厚な白の向こうから現れたのは、空色の髪をなびかせたラディスだった。
「今、回復するね」
駆けてきたたラディスは肩で息をしながら、こちらに向かって治癒魔法を放ち始めた。その手は先の熱湯魔法の負荷で、真っ赤に腫れあがっている。無理をさせたくないのに、彼の手から注がれる魔法が酷く心地よい。
「ラディス、その手……」
「これぐらいは気にしないで。僕の手も同時に回復してるから」
魔法の負荷によってできた赤みは熱した鉄と同じく、時間が経てば自然と治まってものであり、回復魔法と併用することで治りが早いのは知っている。たが、彼自身にではなく、俺の治癒を優先させているために、治りは断然遅くなるはずだ。
「本当に、すまない……。あと、身体が勝手に動いた」
一人で突出したくせに、何も有効打を与えることもできず、相手に反撃を喰らい、自分一人で満身創痍。回復してもらわないとまともに動けないとか、なんとも情けない状態だ。
「びっくりしたけど、大丈夫。ダインが突っ込んでくれたおかげで、僕たちが次の行動に移せたんだ」
確かに自分がグローバスの注意を引き付けたことによって、トールとラディスの時間差攻撃が成立したのだろう。
しかし、それ以前の疑問が思い浮かぶ。トールの攻撃はしっかりと相手の皮膚に突き刺さっていた。ラディスの熱湯魔法も、最初の奇襲時の反応とは大きく違い、今は肉を焼いた時の匂いが漂うほど、相手の皮膚に大きな火傷を負わせているように見えた。なのに、自分の攻撃は魔法のようなもので防がれている。
(俺と二人の違いは……経験?)
それもあるとは思うが、どうもしっくりこない。どちらかというと、状況的な違いだろう。考えられるのは、グローバスの防御魔法を突破できていたかどうか。
(いや、トールの攻撃で防御魔法自体が破壊されたのか)
トールの落下攻撃時に鳴り響いた"ガラス板が砕け散った音”が一つの答えだろう。
正しくはガードオーラ(保護膜形成)という名の魔法であり、ダメージを無効化するという一見便利そうに見えるものだ。しかし、使用者の支払った魔力量や魔術に対する理解度、習熟度などで、耐久度自体が大幅に変動するクセの強い魔法である。基本的には小さな切り傷を一定時間無効化する程度の、保険的な意味合いの魔法であり、大きなダメージを何度も無効化するようなものではない。
奇襲時の熱湯魔法と腹部へのグラインドアッパーは、どちらもダメージの小さな技ではないため、無効化はされたが魔法の耐久度を減らす効果はあったと思われる。結果としてトールの攻撃が決め手となり、魔法を破壊できたということだろう。二回目の熱湯魔法が通ったのも納得がいく。
(いやいや、もっと前に何かあったはず)
そもそも行動に移すということは、何か情報の決定打となるものがあったということだ。
「そうか……俺が突進したことで、相手の手の内が分かったということか?」
脇腹にグラインドアッパーを当てたときの魔法による反発。これが見えたことにより、相手が魔法による強化を図っていることや、種類が明らかになったというわけだ。
「そういうこと。誰かがやらなきゃいけないことだったんだから、気にしないで」
まるでこちらの内面を見透かすようにラディスは微笑みながら、回復の手を止めない。自分の中に無意味な突貫じゃなかったという安堵の波が、回復の温かさとともに身体から抜けた体温を戻していく。
それでも、もう二度とあんな無様な姿は晒したくないものだと、小さく決意した。
回復を始めてから、およそ一分。森の湿気と相まってか、水蒸気の霧がなかなか晴れない。警戒として耳をそばだてているが、誰かが動いた音も気配も無い。
「これでよし……。視界が晴れたら、状況を確認しながら、トールと合りゅ」
……無いはずだった。なのに、ラディスが痛みを伴った声と共に崩れ落ち、地面で体を苦の字に曲げた。急ぎ、彼の容態を確認すれば、左の二の腕には刃物によって付けられた大きな切り傷ができており、血が止めどなく流れている。顔は青ざめ、脂汗を噴き出し、呼吸が異様に荒い。
この濃い霧の中、自分たち以外の誰かがすぐそこにいることは分かったが、まずはラディスの止血が先である。
しかし、“止血する道具がない”。
ウエストポーチの中には財布、手紙、懐中時計のみ。ハンカチやタオルのような物は無く、シャツを破こうにも甲冑の奥と、手短な布は無いに等しい。
「……!? ダ、イン、上!」
ラディスの叫びを信じ、咄嗟に後ろへ右腕を突き出した。ガントレットから発せられた、耳を突き刺すような金属の衝突音と、強烈な衝撃。
「チッ……、小賢しいっ!」
そしてようやく晴れ行く視界の先、舌打ちと共に現れたのは気絶していた見張り役の一人である双剣使いの男。グローバスからラッツとガナンと呼ばれた二人のうちのどちらかだ。
振り下ろされた右の小剣を、右腕のガントレットで上手く受け止めた状態だった。その切っ先は、赤黒くてらりと光っており、これがラディスの血なのだろう。
左の小剣が動く前に、立ち上がるように右の小剣を振り払い、相手を押し返す。
距離は一時的に開いたものの、自分の大剣を取っている暇も、隙も無い。
「坊ちゃんも、オネンネしな!!」
双剣使いが地を蹴り、左右のタイミングの違う小剣を、何度も何度も打ち付けてくる。その度に自分はただ、相手が振り下ろす剣をいなすよう、両腕のガントレットで弾く。
「ダイン、気をつけて……。そいつの剣には……毒が、塗ってあるっ!」
全ての状況の理解と共に、自分の生唾を飲み込む音が嫌に大きく聞こえる。
ラディスの容態から、意識を維持するのがやっとなほどの強力な毒である可能性。自分は多くの部分を装甲で守っているものの、素肌や衣類の部分もある。今でこそ、相手の攻撃を上手く弾き返してはいるが、完全に防戦一方であり、連撃の手数の前にいつかは毒を貰いかねない。
(せめて、何か隙があれば……!)
剣を取ることだってできるだろう。
……しかし、その先は?
グローバスの時は巨体であり、すでに化け物と認識していたために、斬りかかることが出来た。だが目の前の者は、自分と同程度の“この世界の一般”的な体格。大剣による本気の一撃が身体に当たれば、想像もしたくない状態になりかねない。
『正当防衛という名目での“殺人を許可されている”』
今更、トールが言い放った言葉が、頭の中に反響する。
今から自分の行おうとしている行動は、“相手を停止させるために必要な攻撃”そのもの。この攻撃自体で死に直結とは行かないだろうが、場合によっては人体の欠損に繋がる一撃であり、まさに許可された殺人の一種と言っても過言ではない。
急速に身体の芯が冷え込む。現実に引き戻される。
(考えろ……。どう動けば、剣を取る必要は無くなる?)
相手は小剣を二本とも構え、刃には毒が塗られている。腕に加え小剣の分、長さが増えている以上、間合いの不利がついて回る。
ならば、何らかの方法で相手の視線をそらしつつ、己の拳を叩き込むぐらいしか無いだろう。これなら殺人に該当しそうな斬撃を与えなくても済む。
(トールには、甘いと怒られるだろうな)
自分も両手の拳を相手に向けて構えつつ、ラディスの盾になるようにゆっくりと前に出る。相手もこちらの装甲に臆してか、一度距離を取ってからはなかなか仕掛けてこない。
嫌な膠着状態が続くかと思われたが、それは“相手の足元”から終わりを告げた。対峙する小剣使いの足の間を通り、顎から顔面をなでるように吹き上がる細い水柱。
「冷たっ!!」
急に生まれた滴る不快感に、男も素早く水けをぬぐおうとする。それは明らかに、こちらから視線を外す行動。加えて、水柱という障害物の出現。
今度こそ、チャンスを逃さない。素早く、大地を踏み抜かんばかりの力で駆け込み、体をねじって利き腕を引き絞る。
相手がこちらの動きに気づいた時には、男の顔面に渾身の握り拳が叩き込まれていた。男の表情は驚きを含みながら、まるで泥団子を握りつぶすように醜く崩れ、ゆっくりと地に落ちた。
男が動かなくなったことを確認し、ラディスのほうへ振り向いた。そこには息遣いが少し落ち着いてきた彼が、体を起こし始めていた。横たわって隠れていた地面には、魔法陣に似た小さな円形の紋様が書かれており、これが先程の水柱を発生させた術式なのだろう。つまり、自分は再びラディスによって助けられたのである。
「ラディス、無理をするな」
「大丈夫だよ。ダインが引き付けてくれたおかげで、魔法陣もバレずにすんだよ」
立ち上がるのを手伝えば、何とか自立できるぐらいには回復している。しかし、顔色からして毒の完治とは行かず、腕の切り傷もまだ痛々しい赤い身が見えている。水柱の魔法ですら無理をして作った様子であり、自分一人ではどうすることもできなかった歯がゆさがにじむ結果だった。
「……おいおいおい、なんだこの甘っちょろい処理」
薄まってきた霧の向こうから、聞きなれつつある声と力強くも軽やかな足音が聞こえる。太陽の光に反射する金色の毛並み。頬についた赤黒い返り血をぬぐいながら、トールが近づいてきた。
だが、様子がおかしい。彼から発せられる言葉と座った視線には、殺気にも似た肌を刺す威圧が乗っている。加えて、自分の芯が冷えてくるような錯覚も覚える。敵を間違えていないか? と問いただしたくなるほど、息苦しくなる。
彼が地面に転がる小剣使いのそばまで来ると、手に持っていた得物を振り上げ、足元へ垂直に刺した。……横たわる男の太ももめがけて。耳の奥にぐちゅりと、肉の音が響く。
「こいつの傷は、終わった後でも癒せる。とにかく今は、反撃される可能性をできるだけ多く潰せ」
小剣使いが小さく悲鳴を上げるのも無視し、バルディッシュをもう一度振り上げ、刺さなかったほうの太ももを刺した。男は再び小さな悲鳴を上げると、いよいよ意識を手放したようであり、動かなくなった。
「いいか? 規模問わず、戦場に出たら砂糖菓子みたいな甘い考えは捨てろ。俺たちは、生きるために戦ってるんだから。それが傭兵ってもんだ」
こちらが止める間も抗議する間も無く、容易く行われた“戦闘処理”に息を飲んでしまった。『今回は、剣を振るわずに済んだ。だが次も剣を振るわずに済むとは限らない』なんて、密かに思っていたが、そんな考え自体が甘いものだった。人だとかモンスターだとか関係ない。船上でケンギョと戦った時と同じく、いつ死と隣り合わせになってもおかしくないのだと。
「ほら、切り替えていくぞ。どうせ、あのデカ物は起き上がるし、あと一人残ってるんだからよ」
トールが再び口を開いた時には、すでに殺気は無くなっていた。安堵と共に一気に肺が空気で満たされたと感じるほど、トールから向けられていた怒りに気圧され、息をするのも忘れていた。
……そして、安堵なんて続かない。否、戦場で安堵を求めること自体、おかしい事なのだ。
「まったくだぜ! 俺様を忘れてくれるなっつんだよおお!!」
失いかけた緊張感を否応なしに蘇らせる声が、トールの後ろから響き渡った。トールが振り向きざまにバルディッシュで横薙ぎを放つが、虚しく空を切っただけ。
「遅ぇってんだよ!」
相手は既に身を屈めており、握りこぶしが小さな閃光を放ちながら、トールの腹にめり込んでいく。
「ングァッ!」
「トール!」
足元に落ちている大剣を急ぎ拾い上げ、トールを庇うように前に出た。大剣を逆手に持ち替え、剣の峰に左手を宛がい、盾代わりに構える。
「――アクアショット!!」
その間に、ラディスは自分らの頭上や横を抜けるよう、水球を三発放った。
「無駄無駄無駄ァ!!!!」
しかし、ラディスの魔法もむなしく、牙獣族の閃光をまとった高速の拳によって、水球はすべて殴り破壊された。
「フハハハハ! この雷拳のラッツ様に打てぬ玉なーーーし!!」
ラッツと名乗った牙獣族(ガルムス)の見張り役の両腕が、火花に似た青白い光と弾ける小さな音を纏っている。雷拳の二つ名を自称するだけあり、拳をまとっているのは雷のマナであろう。頬を伝う静電気が“懐かしい”。
ならばと、どこからともなく沸き上がった自信に、足が自然と前へ繰り出される。
「おうおう、さっきの坊ちゃまじゃーん? 何? 身包み差し出して、命乞いってか??」
「……ラディス、トールの回復を。こいつは俺がやる」
それまで盾のように構えていた大剣を、攻撃用に前に構え直した。この挑発に乗ってくれれば、御の字。
「はぁ? 舐めたまねしてくれるじゃねーか。ガキが、粋がってるんじゃねーぞ!!」
男は思惑通りに乗ってくれたようであり、青筋を立てながら右の拳を振り上げた。拳が魔力の追加支払いによって一層力強い煌めきを放ちつつ、勢いよく突き出される。
こちらは攻撃の構えを急いで解き、再び盾になるよう持ち替え、衝撃に備えた。
盾代わりの大剣から伝わる鈍い音と衝撃。そして、体内から外に向かって突き破ろうとする、雷撃特有の痺れと痛みが襲う。
「そんな剣で防ごうったって、無駄無駄ァ!!!」
男は殴りつけている拳から、追加の雷撃を大量に送り込んできた。男の魔力が雷撃に変換される際の魔法反応は、落雷の閃光ともいえる強烈な光であり、眼が眩む。
「……それだけか?」
「は?」
口から滑り落ちた言葉は、煽りや強情を抜きにした純粋な言葉であり、体はいたって“正常”である。その証拠と言わんばかりに剣を振り上げ、雷拳のラッツを軽く吹き飛ばした。相手の驚きの表情から、雷のマナの特性である“接触時に相手の肉体を一時的に麻痺させる”効果を狙った一撃だったのだろう。
(雷撃は、受けなれているんでな)
こっちは日頃からネヴィアの雷撃系剣技を受けていたために、多少の雷撃や麻痺に対する耐性がついている。加えて、腹部や各パーツの接合部には耐電性の高いゴム素材が使われているため、見た目の派手さに比べれば、雷撃としてのダメージは極端に少ない。また、麻痺だけを狙った一撃であったようで、打撃としての精度は極めて低く、盾代わりの大剣がわずかに震えた程度。
「……んなら、コイツはどぉうだ?」
吹き飛ばされた雷拳のラッツが、空中でしなやかに身体をひねりながら着地すると、入れ替わるように巨大な拳が最後の霧をかき消しつつ、眼前に迫っていた。まともに正面から当たったら、またきれいな直線を描いて、森の中に消えるだろう。
――カチ。
視界が赤くなる。世界が限りなく停止に近い低速になる。自分の身体に何かが起きている。でも、どうでもいい。今はそんなことよりも、目の前に迫りくる身の丈ほどの巨大な拳とその持ち主を注視する。
巨人グローバス。先ほどからの変化は、眉間から鼻先にかけて、焼け焦げたパンの表面を思わせる皮膚の焼けただれ。そんな傷を負っても、なお動くか。やはり化け物か。迫る右の拳はストレートだが、肘が曲がっている。殺人的な威力とまではいかないだろう。
振り上げたはずの大剣を荒く素早く袈裟斬りのように振り下ろし、剣の背に左手を添えて盾とする。
視界が戻った時には間を置かずして、全身に衝撃が走る。身体が軋む。しかし、吹き飛ばされまいと、地に足がめり込み、道を作ろうとも踏ん張り立った。
「何だと!?」
グローバスの驚愕の顔から、今の一撃は文字通りの必殺を狙った一撃と見ていい。実際、殺人的ではないと思ったにせよ、本気の防御態勢を取っていないと、先ほどと同じく吹き飛ばれていた。あくまでも、その場に踏みとどまれるかどうかの判断でしかない。
だが、それでいい。この一瞬の隙に大剣の盾状態を解き、軋む身体に無理を言わせ一歩前へ出る。足の動きに合わせて、柄を持っていた右手を軸に剣を頭の上で回転させつつ、左手で柄の先端を引き下げるように握りなおせば、刃が流れるように天を向いた。
(もう二度と……間違えない)
思い描くは肉を裂き、骨を砕く、重い重い一撃。手から剣へと伝わる想いと魔力が、名もなき技(アーツ)となって光り輝く。
「遅いっ!!」
さらに一歩。ゆっくりと引かれるグローバスの右拳に対し、頭上に掲げた輝ける剣を振り下ろす。輝ける白の剣閃が巨人の右手中指と薬指の間を抜け、手の甲約三十cm分を切り裂いた。手や体の大きさからすれば、与えた傷は小さいものかもしれない。しかし、太い血管に加え、手のひらの肉を深さ三十cm分見事に切り裂いた。目の前には真っ赤な噴水が出来上がり、生暖かい雫が頬を濡らす。
「ヒ、ンギィアアアアアアアアアア!!!」
痛みの進行と、状況の理解がようやく一致したのか、グローバスは遅れて激痛を訴える咆哮を発した。
同時に、自分の視界の色が元に戻り、あらゆる感覚が正常に戻る。殴られたときの衝撃に、無理やり攻撃行動へ体動かした反動と、巨人の咆哮から浴びせられた衝撃波により、全身が悲鳴を上げる。加えて、口の中に再び鉄の味が広がる。
(まだだ)
止まることを許してはいけない。振りきった大剣を流れのまま、自分の左側へ流し、横に構えた状態で、交代する巨人を追う。
あれは平然を通り越して、嬉々とした顔で略奪、殺人、人体の剥製なんて考えを吐き出せる、極めて危険と判断していい存在。その判断が正しいかどうかは、正直分からない。それでもトールとラディスの行動が物語るように、目の前に立ちはだかる存在は自分を、そして多くの者に害を成す脅威そのもの。肌で感じた、悪意の塊。自分が生きるために、皆が生きるために排除しなければならない存在。
(足りない)
相手を黙らせる、戦意を奪う、行動不能にさせるといった、この場を収めるための一手には程遠い。防御系魔法の消えた今なら、それこそ“絶命”をも狙える一撃すら可能だろう。
(ああ、染まっていく)
何と言われれば、『殺』という自然の色だろう。
本来『殺』はどこにでもある自然の摂理。生きるために食す。食すために殺す。ただ、ヒトは考えることを覚えたせいで罪の意識を持ち、秩序と倫理で正当化し、和らげ、封印しているだけだ。
なら、この世界における戦場とは?
自然に帰る場所。生きるために『殺』の色を思い出す場所。弱肉強食。勝てば官軍。生き残った者が勝者となる、まさに野生。
だが、この『殺』に染まった先にあるのは、単純に個人としての生存を望む心だけではない。それこそ傭兵として、救ってほしいと願われた側として、多くの『生』を背負ってしまったからこそ引けない。染まらなければならない。
『正当防衛という名目での“殺人を許可されている”』
『俺たちは、生きるために戦ってるんだから』
確かに、傭兵ならば世界を知るという意味では、最も真理に近い職業なのかもしれない。
(これが俺の望んだ世界というのなら……、染まってやる)
自分の知っている倫理を捨てる。これまでの自分を『殺』す。生と死という両極端な位置にして背中合わせの、究極の概念を自分の中に落とし込む。
「きっさまあああああああああああ!!!!」
グローバスと入れ替わるように、雷拳のラッツが両腕を輝かせながら、こちらに跳びかかろうとしている。腕の煌めきは先ほどまでの眩さから、火花の音がはっきりと聞こえるほど、復讐の怒りに満ちた激しさを放っている。いくら雷撃を受け慣れているとはいえ、音を発するほどの激しい電流は、さすがに気絶か麻痺を引き起こす危険性がある。
ここは仕方なく、走り出していた体を無理やり停止させ、急停止の反動を使って剣を振り上げる。相手は跳びかかっている最中であり、このままなら腹部から胸部にかけて逆袈裟状に切り裂きつつ、吹き飛ばすことができるだろう。
「チッ!!」
しかし相手は、剣が当たる寸前の空中にいる時に、両腕に帯電していた雷撃を開放すると、“不自然なほど柔らかい動き”で剣の振り上げを交わし、ふわりと後方へ着地した。まるで、剣から自動的に距離をとるような動きだったが、跳躍の威力を押し殺す動作をするわけでもなく、ましてや身動きの取れない空中にいるときに、そんなことは可能なのか? 変化があるとすれば、相手との間にある空間か双方の体に起きているはず。
ふと視界の隅に入った自分の剣を見れば、枝に似た極めて細かい青白の光が点滅するように時折走っていた。
(電流? ……帯電……そうか、磁力か!)
先ほど、この剣で雷拳を受け止めた際に、刃が帯電したことによって、剣が強力な磁力発生装置となってしまったのだろう。相手は攻撃用にため込んだ腕の電気を、こちらに反発する磁力へと変換し反発作用を利用したために、空中においても奇妙な動きで緊急回避をしてみせたということだ。
ただし、水平よりもやや斜め上に切り上げた剣の軌道と同じ方向に反発したために、ラッツは空中でも、先ほどよりさらに高い位置へと浮かされた形となった。一応、空中で無防備であることは、こちらとしても大きな好機であるはずなのに、剣はまだ帯電しており、追撃すれば同じように距離が生まれていき、自分がラディスとトールから無意味に遠ざかってしまう。
「……ゴロジデヤル」
これ以上の追撃は危険と立ち止まれば、地面に降り立った雷拳ラッツの後ろから聞こえてくる、小さなグローバスの声を拾った。注意深く聞かなければ聞こえてこないはずの音なのに、耳の奥へ直接響き、腹の底を震わせるく。その声は森を震わせ、空気を汚染し、空間全体に体温に似た生暖かい空気を満たしていく。
「お……親分?」
慕い従う相手から放たれた空間の変化に、部下であるラッツまでもがすくみ上る小動物のように、すり足で距離を取りつつある。
「ごろしデヤる、殺しテやる、ゴロジデヤルゥゥ!!」
土煙が吹き飛ぶほどの叫びは、まさしく魔物の咆哮。巨人の顔は歪みきり、爛れた皮ふと相まって、既にヒトとは言いがたい。
そして咆哮とともに、巨人からはあまりにも奇妙な変化が起き始めた。
血を流していた右手は血の流れが止まり、ばっくりと裂けていたはずの切り口が、石鹸の泡を立てるようにブクブクと皮膚色の水疱に包まれ、やがて泡が消えた後に元に戻った皮膚が現れた。
顔の焼けただれた痕も同じく泡立った後は、一番初めに見た彫りの深い、強面のヒトに近かったころの顔。その顔も、すぐに憎しみよって歪みきったものへと変わる。
「……ナァニ、見てルンダァ?」
変貌した巨人にばかり目が行ったが、その変貌ぶりを見守っていた雷拳のラッツに目をやれば、呼吸をすることすら忘れるほど慄き、棒立ちになっている。この変化は、彼らの予定にも想像にもなかった出来事と読める。
「ジロジロ見てんジャねぇーヨ」
「ヒ」
たった一言、小さな声を上げた瞬間、ラッツの体がその場から消え去った。
間を置かずして、瑞々しさと重さを伴った、拒否したくなるような落下音が鳴る。音の落下地点を見れば、ラッツが赤黒いな絨毯の中でうずくまっている。右腕から肩甲骨付近までの骨があらぬ方向に曲がり、肉を突き破って、血が止めどなくあふれ出ている。広がり続ける血だまりの中で、男はヒキガエルのような潰れた声で鳴くことしかできない。
視線を戻せば、巨人の左手の甲が赤黒い液体にまみれており、汚いとばかりに手を振って雫を切った。
(こいつ……今、部下を殺した)
まだ、ギリギリ死んでいないとはいえ、これはほぼ殺人といっても過言ではない。先ほどまで、必要な『殺』について理解したばかりだったのに、目の前で起きた光景に頭の処理が追い付かない。
捕まえたカキョウを嬉々として見せびらかしていた姿は? 親分と呼ばれるほど慕われた姿は?
(ああ、そうか……こいつにとって“不要”となったからか)
単純な話、雷拳のラッツと、先に自分が倒した小剣使いのガナンについては、あくまで自分の目が届かない範囲での手伝いというだけ。人数差や力量差が自分一人で賄えるなら、それらの戦力は要らない。この化け物にとっては、足枷にしかならなかったのかもしれない。
だからと言って、自ら殺す必要はない。なのに、なぜ? まるで、目の前の怪物が持つ『不要者の末路』の考え方を示されたようなもの。
――脳裏に、あの雨の日の、自分の名前が彫られた墓がチラつく。
不要者の末路は、やはり死でしかないのか?
「おいおいおい……、超速再生持ちで、仲間殺しか。いよいよ化け物だな」
右肩から伝わる軽い衝撃に意識が戻され、視界の右側が太陽の光に輝く金色一色に染まる。
「なんか、想定よりも相当めんどいことになったね」
今度は左の肩甲骨付近が叩かれ、左側の視界の下隅に流れる水のような、柔らかい青が差し込む。
「二人とも……、もう大丈夫なのか?」
「俺は腹殴られただけだからな。かっこ悪いとこ、見せちまったな」
「ごめんね、一人で戦わせちゃって。僕はまだちょっと……。まぁ、ロールガイザー二発ぐらいなら行けるよ」
トールは腹をさすりながら、ラディスは癒えたはずの右二の腕をさすりながら、二人ともバツが悪そうにニヘラと笑う。
(あ……、俺は何をバカなことを考えているんだ)
自分は今日駆け出したばかりの外の世界初心者であり、現状で必要か不要かを測ろうとするのがそもそもの間違いなのだ。
(それでも……誰かに必要と思われるような人間になりたい)
今、特定の誰というのはないが今後のことを考えれば、少なくともトールとカキョウからは、そう思われるようになりたいと思った。
(カキョウ)
頭をよぎる真紅色の髪。気絶しているなら、もう起きても良い頃。打ち所が悪ければ、死亡も十分にあり得る投げられ方。今すぐにでも安否を確認したいが、そんな暇すらもらえないほど、目の前の悪意は大きすぎた。
「次ハ、おまエたぢ、の、番どぅわ」
人離れ気味の骨格と超速再生に加えて、とうとう呂律がおかしくなり、荒々しい息遣いに交じる唸り声が、余計に人間だという認識を遠ざける。
三度振り上げられる化け物の右腕。動きそのものは緩慢であり、何度も見た攻撃を避けることは余裕である。
「まっず……。二人とも、一旦森に逃げ込め!」
しかし、トールの反応は何処か焦りに似た驚きを持ち、弾ける声の指示に体が反応する。一目散に振り返った先の森へ逃げ込めば、背後から鈍くも大きな衝突音に加え、巻き上げられた土や小石が頭に降り注いだ。
何事かと思って、体を木に隠しながら元居た位置に目をやると、先ほどまで自分たちがいた地面は、拳の形よりも大きく抉り取られており、まるで地面が“爆発”の痕のようだ。ただ地面を殴っただけで、あんな威力になるだろうか?
「ふぇ~……、危なかったな」
隣には、同じように木に身を隠しつつ、息を整えるトールがいた。
「あ、ああ。ありがとう。しかし、攻撃の変化がよく分かったな」
「ああ、これこれ」
そう言って、彼は自らの鼻をトントンと指さした。
「どうも、あいつ自身の魔力じゃなくて、ポーションとか色々取り入れたみたいだな。後からどんどん臭くなっていきやがる」
ポーションとは、魔法が発動する寸前の“変化途中にあるマナ”を水溶液に溶かした薬液のことを指す。トールのジャケット裏に収納されている治癒のポーションは代表的なものであり、患部に垂らすと止まっていたマナの変化が再び進み、瞬時に治癒の魔法と同じ効果を得ることができる。治療薬だけでなく、肉体強化魔法なら飲んだその瞬間から体が強化される増強剤や、攻撃魔法を封入した即効性に長けた魔法爆弾になる。
魔法と大きく違う点としては、すでに魔力の支払いが行われているために、自分から新たに魔力を支払う必要はない。魔力切れのリスクを負うことなく、魔法と同じ効果が得れるという優れ物である。
トールの発言からもポーションを中心に、変化や強化に特化した薬物などを大量に摂取することで、人間離れをした身体能力を得たのだと納得がいく。
「あアん? どぅコ、いっダ?」
巨人の様子が若干おかしい。こっちは身を隠しているといっても、自分の胴回りと大差ない太さの木の裏にいるので、探せばあっさりと見つけられるはずだ。
しかし、相手は完全に見失っているそぶりで、殴りつけた地面の周辺をウロウロとさまよっている。演技かと勘繰ったが、それにしては動きが自然すぎる。
「副作用かもしれないが、少しずつ眼が悪くなっていっているみたいだな」
振り返ったグローバスの眼を見れば、膜がかかったかのように白く濁っている。どれほど視力が落ちたかは分からないものの、光あふれる場所に隣接する一層暗くなった影の中に潜むだけで、獲物を見失う程度には弱まっている。
とはいえ、相手の変化からも時間とともに効力を発揮する遅効型のものも使用しているなら、これ以上の強化が進む前に倒したいところ。
(倒す……。倒す? ああ、そういうことか)
剣の訓練の時には、何度も何度もネヴィアやグラフ殿に転がされた。それこそボールが転がるように。しかし、肉体の成長とともに転がされる回数は減り、やがて自分が相手を転がす側に転じた。それこそ“自分よりも大きな肉体を持つ巨人族たち”をだ。自分の攻撃が上方を狙う、もしくはさらに上から叩きつける攻撃が多いのも、自分より大きな者たちを相手にしてきたからだ。
(俺は戦い方を知っているはずだ。ありのままの自分を活かせ)
「トール」
「ん?」
「奴の足を狙いたい」
奇襲の初撃こそガラ空きだった腹部を狙ったが、狙うなら重心を崩すために足を優先させるべきであった。特に膝から下は巨体を支える要となるため、小さな傷や痛みでも無視できない。結局は保護膜魔法(ガードオーラ)によって防がれることになっただろうが、勢いによって姿勢を崩すことはできたかもしれない。
また、ひとたび転倒させることができれば、あれだけの巨体を起こしてしまうまでに時間もかかるだろう。
「ははーん、なーる。それは確かに面白そうだな」
こんな緊迫した状況でも、不敵な笑みを浮かべつつ面白いと言ってのける彼の姿は、経験者としての余裕なのか、それとも強靭な精神力によるものなのか、つくづく感服する。
「なら、俺らが前で引き付ける。その隙に背後を取れ。行けるな?」
提案は了承されてなおかつ、彼によって咀嚼され、新しい行動指針へと変わった。俺らと表現したということは、別のところに隠れているラディスとも連携が取れるということだろう。
「ああ」
トールの笑みにつられてか、自分の心と声が小さく弾む。提案を受け入れられたことが嬉しかったのもあるが、巨人の歩き回るあの戦場に向けた眼が熱くなり、心の中に高揚感が広がっていく。船上での戦いに、ラッツとガナンの戦いにと、数度は命の駆け引きをしてはいたが、どれも生きるための受け身な考えからくる行動でしかなかった。故に、今の自分に生まれている攻撃的な思考と戦場に馳せたいという気持ちは、誰にも流されることなく自らの願いで戦おうとするはっきりとした、生まれて初めての自発的な戦意だ。体中の血液がたぎり出す。怒りとは違った、緩やかながらもはっきりとした熱が心地いい。
「ちょっとはいい面になったな。……うっし、それじゃお先に行くぜ」
彼はどことなく嬉しそうにニカッと笑うと、目を閉じて一拍ほど深く息を吸い、気合を補充した後に光の中へ駆け出して行った。
いい面と表現されたということは、こちらの昂りが顔に出ているということか? と、気恥ずかしさで口元を押さえつつ、自分が飛び出すタイミングを計る。
「うルぉ? ミぃづゲだ」
視力が落ちたとはいえ、光の下へ駆け込んできた黒と赤の衣服は目立つようで、グローバスもすぐにトールの姿をとらえた。
「ラディス! もう一度、俺を上げろ!!」
「……恵の雫、集いて箱と成せ――アクアボックス!」
トールの大声に続き、姿無きラディスの魔法名が森中に木霊する。直後、トールの前方五mの位置に突然五十cm四方、高さが一mほどの“水の柱”が地面からせり上がってきた。
「凍てつきて、制止せよ――フリーズ!」
続けざまに唱えられた魔法は、せり上がる水柱の天辺である“上面だけ”を凍結させ、氷の天板に変化させた。さながら、氷で作られたミニテーブルを持ち上げる水柱という状態だ。
そこへトールが疾走の勢いのまま、大きく跳躍。目の前に出来上がった水柱の天辺である氷の天板に、美しく着地……ではなく着氷した。
「さぁ、いっくよ!!」
先の魔法を詠唱した時よりも大きなラディスの掛け声と共に、トールを乗せた水柱が瞬く間に巨人の背丈と変わらないぐらいまで“伸びた”。瞬く間というだけはあり、水柱の伸びたスピードは弓から放たれた矢と表現していいほど速く、生み出された勢いを生かしたまま、トールは氷の板を蹴り、巨人の頭を越えたさらに高い空へ跳躍した。
(そうか、さっきの空からの攻撃は、これか)
今のトールの高さは少なく見積もっても十mぐらいの位置。周囲の木々でもヒトが乗って跳躍できるような太さの枝はせいぜい五m程であり、ちょっとした疑問にはなっていたが、この水柱を使った方法なら納得ができた。
天高く舞い上がったトールは、再び太陽を背にして、巨人を眼下に捉える。
「小賢ジい……何度モ同じ手ハぐワン!」
同じ手は喰わないと言いつつも、グローバスはトールを視界に納めようと再び天を仰ぎ、顔の前で腕を交差させ、余裕と言わんばかりの笑みで防御姿勢を取った。
「んなら、こいつはどうだ?」
そんな相手の余裕の上を越えるトールの不敵な笑みは、太陽を背にし陰となっても伝わってきた。その根拠となっているのが、彼の手にしているバルディッシュに集められた、“いつ炸裂しても不思議ではないほど大きく膨れ上がった、目に見えるほど緑に色づく濃厚で濃密なマナ”である。
「喰らいな――ブラストネイル!!」
技名らしき単語と共に、バルディッシュを宙で盛大に振り下ろし、緑に輝くマナが解放された。次いでやってきた変化は、身体が吹き飛ばされそうなほどの強烈な暴風。森の木々が盛大に揺らされ、大量の木の葉が巻き上げられる。
「イイイイダダダダダッ!!」
自分にはただの吹き荒れる強風に感じたが、目の前の巨人のあらゆる肌には無数の裂傷が浮かび上がり、いくつもの細かな血飛沫の花を咲かせた。裂傷の正体は暴風ので暴れ狂う、目に見えない風の刃がつけた傷。とりわけ、攻撃の始点から最も近い交差させた腕からは、大輪と言わんばかりの花が咲き、赤い雨となって降り注いだ。
――カチ。
耳の奥で小さく鳴り、三度目のゆっくりと動く赤い世界が訪れる。赤が黒となった雨の中を脇目も振らず、体が黒い雨に濡れようとも一心不乱に駆け抜ける。
グローバスの背後に回り込み、目標物の左足ふくらはぎを眼前に捕らえた。腰を深く落とし、剣を胴の右横に流して地面と水平になるよう持ち上げ、上半身を雑巾絞りのように限界まで捩じる。既に温まった魔力が今か今かと騒ぎ出す感覚が全身に溢れかえった。
「グラインドォ……アッパアアァァァァ!!」
解放されたすべての力が、技の名に応じて、真っ赤な世界に一筋の白い線を描く。描かれた先はふくらはぎと腱の間。ここを斬られたならば、いくら超速再生といえど体幹が崩れ、崩れ落ちるだろう。
「!?」
しかし刃は、皮膚から数cm刺さって止まった。皮膚には確かに斬っているというのに、出血が異様に少ない。魔力がぶつかり合う感覚も無く、防御系魔法も使われていない。まるで密度と硬度の高い丸太に、薪割り斧で一撃を与えた感覚に似ている。加えて超速再生によって、すでに切り傷の修復が始まっている。なんと忌々しい能力なのだろうか。
「いっデェんだョオ……!」
化け物じみた強化の割には、痛覚はまだ消え去っていないらしく、ゆっくりと防御姿勢を崩し、交差を解いた左腕が持ち上がった。痛みによって動き自体は緩慢になったために、相手の攻撃を避けること自体は難しくない。
だが、あえて避けない。止められた刃を一度抜き、その場で再び構えなおす。シチュエーションでいうなら、腹部を狙ったときと同じであり、このままでは再び巨人の攻撃を受けて、無様に地に伏せてしまうことだろう。
それでも、今自分の中に溢れる自信は、このまま続けろと鳴り響く。
足りないなら、さらに支払え。
届かないなら、届かせろ。
強く願うは、“あらゆる装甲をも切り裂く、強烈な一閃”。
イメージが魔力に置き換わり、想いに応えるよう刃がより強く輝きだす。
「ハァァアアアアア!」
もう技名すら叫ばずとも放たれた白い輝きの一閃は、今度こそ止まることなく再び美しい一線を描いた。手に伝わる肉の感触が嫌に生々しく、はっきりと斬ったと分かる。その証拠に視界が元の新緑の色づく森色に戻ると、目の前が壊れた蛇口から溢れ飛び散るトマトジュースと揶揄したくなるような新しい赤に染まり、巨人の動きが止まった。
「……ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛!!!!」
遅れて出てきた叫びは、身と耳を引き裂かれる爆音とも言ってよい程の強烈であり、爆心地直下にいた自分はそのあまりにも強烈な音によって、あっけなく後方へ吹き飛ばされてしまった。再び打ち付けられた背中、口の中に広がる砂利の味、音波によって軋んだ体。どれもが忌々しく、自分の無力さを痛感させる。
だが、自分の与えたダメージは思いのほか深かったようであり、目の前の巨大な山がゆっくりと“こちらへ”傾いてくる。傷の深さと吹き出た血の量から見積もっても、あの巨体を支えることはできないだろう。体を起こしながら策の成功を確信しつつ、巨人が倒れこんでくる前に現在位置から遠ざかる。
「ンンンンン!!! ングゥっ!」
しかし、そこは化け物と言わざるを得なかった。あふれ出る血も、腱を切られた痛みも無視して、グローバスは転倒することなく、その場に踏ん張って見せた。そして始まる超速再生。
(なぜ終わったと思ってしまった? 奴の再生力を甘く見たか? クソ……せめて、もう一撃加えていたら……俺はとことん阿呆だ)
先ほど『殺』の色に染まることを決意したはずなのに、結局染まり切れていなかった。悔やんでも悔やんでも悔やみきれない。いや、悔やむ暇があるなら、行動に移せ。
だがすでに、距離が開いている。今から駆け出して間に合うか? 無理だ。
「――イアイ・アカノハヤブサ」
諦めたその時、森に響く凛とした女性の声。
次の瞬間、眼前を支配したのは、太陽に照らされ輝く深紅と、森の色を映してさら深まった深紅、そしてほんのり赤みを帯びた銀色の刃。
自分は、それらの赤を知っている。視界が覆われるのは、船上の初実戦を含め二度目だ。
二度目? 本当に二度目?
一瞬だけ頭痛とともに脳裏に映った、白の中に映える赤。
輝く深紅ではなく、黒になり行く深紅で真紅。
「切り離しちゃえば、再生とか関係ないよね?」
そんな白の光景も、現実になびく深紅から発せられた声と、その奥で轟音と共に崩れ行くグローバスに意識が戻された。彼奴の左足の膝から下が消え去り、支柱を失った石橋や廃墟のごとく、真っ赤な海に巨体が沈みゆく。
再び視線を手前の深紅に戻せば、仕事完了といわんばかりに誇らしげな声を上げたカキョウがいた。彼女は、多少の衣類の乱れはあるものの、見える皮膚に傷は一つもなく、刃に付いた露を払い、美しい所作で刀を鞘に納めている。
「カキョウ……、無事だったのか!」
彼女の無事な姿に、全身のあらゆる痛みが吹き飛び、瞬く間にカキョウを眼下に収め、両肩を掴んでいた。
「い、一応ね! めちゃくちゃ痛かったけど……」
彼女の肩がビクリと跳ねる。傍から見れば、大男が小柄な女性に掴みかかっているように見える程、自分たちの体格差は大きい。カキョウにしてみれば動く壁が立った一瞬で目の前に出現したのと同じであり、ビックリしてしまうのも理解できる。
「あっ、驚かせてすまない。つい……」
自分でも理解できてしまったということは、この状況は咄嗟の喜びとはいえ、彼女に失礼である。加えて「痛かった」の言葉が小屋に投げられたときの感想だとは思うが、自分が掴んでしまっている肩も指しているかもしれないと頭をよぎり、ゆっくりと彼女の肩から手を離した。
「ああ、いいのいいの! それよりも、じっとしててあげて」
「……傷つきし者へ慈愛の光を──ヒーリング」
彼女の指示に加え、「あげて」という語尾の違和感について気に留めていると、背後から自分知らない別の女性の声が発せられた。その呪文は船上で頬の傷を癒してもらった時と同じく、白絹の淡い光が視界に写る。
しかし、ラディスが唱えた時と違い、冬場の暖炉の前かと思えるほど、全身が温まっていく。
「ほ、他に痛いところ、あ、ありませんか……?」
視界の左下から覗き込むように入ってきたのは、クルミの殻に似た柔らかい薄茶色の長髪に、大型の宝石と見間違えるほどの大きく透き通った紫の瞳の少女。教会で見た黒に近い紫のワンピース。少々怯えた挙動を見せつつも、手から注がれる癒しの力は心地よく、全身の痛みはもとより、口の中の砂利味も完全に消えている。正に癒しを専門とする者が発する治癒の力であり、彼女こそ救助対象であるシスター・ルカだと理解した。
「ああ、すっかり無い。ありがとう。しかし、二人はどうして、ここに……」
二人が無事だったのは良いことなのだが、ふと疑問がよぎった。カキョウはグローバスに盛大に投げられたにもかかわらず無傷なのは、シスター・ルカに治療してもらったのだろう。
だが、シスター・ルカが自由に動けているのと、カキョウがトールに預けていたはずの刀を持っている。ということは……。
「いよ! ダイン、カキョウちゃん、お見事だったぜ!」
「ルカちゃんもありがとね」
タイミングよろしく、体のあちらこちらに若い木の葉を散らしたトールと、両手を労わるように摩るラディスがゆっくりとした足取りで、こちらに歩いてきた。
「……トール、無事なことを知っていたのか」
恐らく、自分とラディスが小剣使いのガナンと戦っている最中に、二人を介助したのは想像できる。しかし、あの場において戦闘よりも介助を優先できる条件としては、二人の無事が事前にわかっていることに尽きる。
「おいおい、俺の種族を忘れたのか?」
そう言ってトールは、自身の鼻と耳を指差した。
トールはカキョウが投げ捨てられた後、耳で彼女のか細い呻き声と、鼻で僅かな血の匂いを掴んでおり、カキョウが生きていることを察知していた。
グローバスの肩から振り落とされると、霧に紛れてそのまま木っ端微塵の小屋へ入り、改めてカキョウの無事を確認。同じく無事だったシスター・ルカの拘束を解き、カキョウの治療を頼みつつ、刀を返却するとそのまま戦線復帰……というより、俺に対する戦う覚悟の授業が始まったということだ。
カキョウは治療が完了すると、小屋の残骸に身を潜め、打って出る機会をうかがっていた。シスター・ルカは小屋の裏から森へ入り、気づかれないように大きく回りこんで、合流したという流れだ。
(一言欲しかったが……そんな余裕はないか)
今思えば、トールには優れた感覚器官があり、ラディスには探知魔法があったために、二人は自分が動いた時点で、カキョウとシスター・ルカの状態は分かっていた可能性がある。その通りだとすれば自分一人だけ焦り、馬鹿みたいに一人がむしゃらだったのかと、若干落ち込みはする。
しかし、それを差し引いても、グローバスの圧倒的な体格やパワー、再生力は脅威以外の何者でもなく、全員がそれぞれの必死な状況だったことには変わりない。現にラディスの腕はいまだに赤々しく、シスター・ルカの治療を受けている。トールも一息と自身についた木の葉を払ってはいるが、まだ武器を仕舞う様子はない。カキョウも同じようにゆったりと立ってはいるが、刀の柄には手が添えられている。かくいう自分も、長大なブロードソードを握ったままである。
「……アガガガ……グゾウ、グゾウウウ!! ナぜだ、なんデ、足、戻らナ……イイイイイィィィ!!!」
誰だって、こんな光景は望んでいない。安堵の時間が終わりを告げる。崩れたはずの山が動く。左足が完全に切り離された現実を直視できないのか、両足で無理やり立ち上がろうとしては体勢を崩し、再び立ち上がろうと何度も繰り返している。
超速再生が追い付かないのか、その巨体が揺れるたびに、左足の膝から下や肌中に広がる無数の傷から血をまき散らす。先の手下二人の分と合わせて、周囲は血の海なんて言葉が形容詞ではなくなるほど、木漏れ日に照らされたあらゆる地面が赤黒く、むせ返るような鉄錆の匂いに包まれた。
『殺』に染まると決めたが、すぐすぐに体が慣れるわけでもなく、その光景に脳が拒絶反応を起こす。こみ上げる嗚咽を押さえつけつつ、まだ動こうとする巨体に対して、剣を構えつつ、カキョウとトールと共に前に出た。
「ジね、ジネェ、ゴロジでやル! ジネ!!」
足の再生が無理とようやく理解したのか、グローバスは切り離された左足を無視して、右足と両腕を使い、何とか三点で体を支えながら、まだこちらへ迫ってくる。
「往生際が悪いよ!! ――アクアショット!!」
胸中を代弁するラディスの声が、間を置かずに森へ響いた。声と共に発射された高圧縮の水球は、的を射た矢のごとく巨人の眉間に、豪速と轟音を持って命中。弾丸の威力に負けた巨人は、抜けた左足から赤い海へ崩れ落ちる。
「グゾウ!! グゾオオオ!」
駄々をこねる幼児のように巨大な手足をバタつかせ、赤いしぶきを巻き上げる。今もなお起き上がろうとするのは、何なのだ? 何がこの者を突き動かすのか。
「オデ……ざマが、“矮躯”ナ゛……ギザまラに、……負ケル道理、ナンぞ、ヌワイ!!」
ガチャリ。
これまで聞いた中で、最も大きく、最も耳障りで、一番はっきりとした歯車の合わさる音。
それを境に、周囲の音が無くなった。
立ち込めていた鉄錆の臭いが消えた。
こみ上げていたはずの嗚咽が消え去った。
息をするのも、忘れつつある。
(ああ……そうか。こいつ、タイタニアだったな……)
それは疑問が解けた心地とは違った、身を包む圧倒的な“冷め”。こいつもまた、あの国の者と同じく、ただその肉体の大きさだけでしか判断できない低俗種。自らを支配者、搾取者と勘違いするヒトの恥知らず。もしくは、自分の周りにいた巨人族(タイタニア)がどれだけ外に通じる……この場合、常識人だったと表現してよいのだろう。
(もう……奪ワセナイ)
たった一日、たった数時間だけの関係が与えてくれた……、
生まれたばかりの居場所。
自分が世界の住人だという意識。
考えること、行動することの自由。
(排除スル)
相手がヒトだという意識が無くなった。
目の前に転がるのは、ただの肉塊。
周囲の赤い海がどんどん広がり、やがて視界全てを真っ赤に染め上げる。
これまでの赤い視界とは比べ物にならないほど美しく生々しい赤。
その世界の中では自分と肉塊だけが、独自の色を持っている。
まるで今ここには、自分と皮膚を泡立てる肉塊しかいない。
この肉塊を壊せば、すべてが解放される。
一歩、一歩と近づき、ゆっくりと天に向かって剣を掲げた。
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