透明人間のために 2


 仲野沙耶は才能を飼い慣らした少女だった。

 俺は彼女との馴れ初めを鮮明に憶えていた。とはいえ、谷崎先生に頼まれるまで忘れてしまっていたので、憶えていたというのは少しばかり誤謬ごびゅうがある。

 五年以上も経っているはずの会話を未だに当時の瑞々しさを伴って思い出せた、と表現したほうが正しい。

 ボランティアの勧誘があったのは四月の半ばを過ぎたあたりだった。先に述べたように、自分自身を変えるきっかけになるかもしれないと僅かな期待を込めて、誘いに乗ることにした。

 結論からいってしまうと、今後の人生を揺るがすほど大きな「何か」は得られなかった。

 それもそのはず、たった数日で人間の価値観を強烈に捻じ曲げるなど、余程のことがない限りあってたまるものか。

 本来ならば、雪解けのように季節の移ろいに合わせてゆっくりと起こるべきなのだ。

 数年ぶりに飲みかわした友人の話し方が昔の姿とは違って映ったときも、これと似たような感想を抱いた。

 一瞬にして引き起こされるように見える心境の変化でさえ、ハインリッヒの法則に従えば、そこに至るまでに多くの背景が存在するということになる。

 何年もかけて雰囲気を変えた友人を薄くもやがかった記憶と見比べ、そこに生じた戸惑いを喜ばしく受け入れるか、もしくは違和感に耐えられず決別してしまうかもしれない。

 どちらにせよ時間をかけて起こる心の変化はごく自然なものに過ぎない。

 当然ながら人生においては反例もある。避けられない不幸によって瞬く間に心が歪んでしまうことだってある。「余程のこと」は季節を選んだりはしないから、愚かにも真夏の温度で雪をとかそうとする。

 雪にしてみれば、たまったものじゃない。

 そういった意味では、俺にとってのボランティア活動は正しい失敗だったといえた。



 それからボランティアに参加するにあたって、三日間の宿泊プログラムということもあり、他の数名の生徒と日程を合わせるなどのメールでのやり取りの末、最終的にゴールデンウイークを利用して開催されることになった。

 当日、参加する生徒は大学に集まり改めて簡単な説明を受けた後、谷崎先生とその友人である仲野なかの智香ともかさんの車で施設に向かった。

 児童養護施設といっても学校のような規則のある集団生活を意識させるものではなく、民家を利用して運営されるグループホーム形式で、建物の作りは一般家庭と変わらない。

 事前に配布された資料に目を通す。この地域では珍しいライラックの花木に囲われ、職員二人と八人の子ども達を合わせた十人で暮らす建物の外観は、普通の民家というよりは富豪の別荘に思えた。

 施設の名称は「つえ」だと教えてもらった。名の由来はタデ科の多年草の虎杖いたどりが持つ「回復」の花言葉に魅せられたそうで、傷ついた子どもたちを支える杖になれるよう、という願いが込められている。

 智香さんは「虎の杖」の職員の一人でセラピストの資格を持っていた。もう一人は二十代前半の若い保育士だった。

 施設に着くまでの道すがら、谷崎先生の学生時代の笑い話などを暴露してもらった。二人は高校生のときに初めて出会ってから三十年近い付き合いになるらしく、智香さんの口調には友情とは別の温かい感情も込められていた。それは過去にもっと親密な付き合いをしていたのかもしれないと、余計な妄想を膨らませてしまうほどに。

 目的地には一時間もかからず到着した。出迎えてくれた保育士から自分用の名札を手渡され、案内されるがままリビングで子どもたちに自己紹介し、二泊三日のボランティア活動が始まった。

 ボランティアといっても、実際のところは児童養護施設の目的を現地で学ぶというかたちの、いわば社会見学に近いものだった。

 幼い子どもの遊び相手になるか、宿題の手伝い、料理や掃除といった家事の手伝いを少しやるだけで大半が自由時間。というのも、施設内に子どもは五人しかいなかったためだ。

 普段は八人の子どもたちが暮らしてはいるものの、一人は友人と遊びに出かけ、後の二人は部活動に専念していた。

 来年に受験を控えた高校生の家庭教師をするという、怠けすぎて学力の劣化が著しい大学生には厄介な企画がなくなり、緊張でこわばっていた俺たちは拍子抜けしてしまった。途中、退屈だ、と声を漏らした人もいた。

 普通の家庭のもとで育ち、子どもに一定以上の興味を持ち合わせていない人間なら、大学の講義よりつまらなく感じるのは無理もない。大規模な施設でのボランティアならともかく、これでは暇な学生には刺激が足りなさすぎる。

 そう感じてしまうのは、まったくもって幸せな証だ。刺激の少ない生活環境を整えることが、過酷な環境下に置かれていた子どもたちにとっては、どれほど重大な意味を持つのか考えなければ分からないあたり恵まれている。

 幸いにも両親に恵まれていた俺は、自分が恵まれていたということを「虎の杖」の職員の話から学んだ。そして児童養護施設の存在意義に関わる話をいくつか聞いた。

 複雑な事情を抱えた子どもたちの人権回復が大きな目的であること。専門的な言葉に直せば、責任を伴う自己決定の権利を取り戻すこと。それは、自分の人生を自ら選び取っていく力をつけさせることに繋がる。

 施設入所までの過程で人権を手ひどく痛めつけられた子どもたちにとって、外部の人間との接触は非常にデリケートな問題になってくるが、学生の俺たちを受け入れてくれたのには理由があった。「虎の杖」は管理的養護のない自由な施設を目指していて、多少のイレギュラーな来訪者や出来事は人生の一部であるとの教育方針と、幸い深刻な状態で入所した子どもがいなかったためだ。

 後のことはいってしまえば教育福祉の講義の復習に過ぎないが、現場で働いている職員の言葉の重みは――そう表現すると、ありふれている。しかし、現場に身を投じていた人の言葉には、例えようのない、ある種の生々しさが宿っていた。

 とりわけ印象に残ったやり取りがある。


「どうして子どもは八人なんですか?」


 幼い子どもを寝かしつけたばかりの智香さんに、俺は訊ねた。


「もし、私たちに世界中の子どもを救えるだけのお金があれば全員を救う。でも、やっぱりお金だけじゃなくて職員が必要っていう問題もあるし、子どもばかりが増えちゃって、ストレスから虐待をしてしまうっていうのは最悪だよね」


 智香さんは真剣な顔で答えてくれた。


「分かっているんです。職員の方々が善意で行き場のない子どもたちに手を差し伸べていること。人の手には限りがあることも。だからこそ、選ばれた人は天国に行けて、選ばれなかった人は地獄に置き去りって感じがして……すいません」


 生意気なことをいうやつだと思われたかもしれない。

 以前に教育福祉の講義のレポートを書くために図書館に寄る機会があり、施設で暮らす子どもたちついての本を何気なく手に取って読んだ。

 かつて本を借りた誰かがそこに落書きをしたのだろう。


 ・施設を出ていくとき

 ・自分の人生は自分で決めなくてはならない

 ・大きな問題を決められるようになるためには、日頃から小さな決断を積み重ねること


 と、傍線が引いてあった。

 落書きの犯人は被虐待児のことを理解しようとしているひとか、携わっている職員の方か、もしくは外に踏み出そうとしている子どもか。

 感情にき動かされたとおぼしき乱れた線が何本も引いてあることから、嫌がらせの意図はないと窺えた。

 その時にふと思った。

 選ばれなかった子どもは地獄に置き去りなのではないかと。もし俺が選ばれなかった子どもなら憤るはずだ。なぜ俺はあいつじゃなかったんだと。こんなにも惨めな気持ちになるくらいなら、何もしてくれないほうがよっぽど幸せでいられたのに。

 そんなふうに考えてしまうのは、直前まで凄惨な虐待死事件の記事を読んでいたことが原因かもしれなかった。

 俺の身勝手な意見を聞いた智香さんは、十秒ほど時間を置いてから大きく息を吸い込んだ。


「うん、いいんだ。そういう考え方も。格差をつけてしまうくらいなら、目の前でどれだけ苦しんでいようと、見ないふりをして、何も選ばずに全員を地獄に置いていくというのもね。

 ある意味では究極に平等なのかもしれない。

 何となくではなくて、ちゃんと考えた結果、そういう結論に辿り着いたのなら私にいえることは何もない。

 けどね、きみが一切の手を施さないと決めたのなら、今、何とかして一人でも助けようしている人の邪魔だけは絶対にしてはいけないよ」

 

 穏やかな口調からは想像もつかないほど、心に浸透していく力がその言葉にはあった。俺は智香さんの言葉を二度と忘れないだろう、と妙に確信めいたものを感じた。

 事実、五年が経過した今でも思い出として側頭葉に焼き付いている。



 彼女が施設に訪れたのは、二日目の正午になる。

 俺はちょうど昼食の洗い物が終わったばかりで時間を持て余していた。雑談相手が不在のため自由時間は特にすることもなく、かといってだらだらと時間を浪費するのも勿体ない気がしたので、趣味で書き始めたばかりの小説の内容をまとめようと思い至った。じっと座っているよりは歩いたほうが脳の刺激になると考え、廊下を徘徊していると、広い部屋の隅でピアノ椅子に座っている少女を見つけた。

 憂鬱そうな雰囲気の、黒髪の、少女――。

 まず最初に彼女の姿勢の良さに驚かされた。椅子は滑らかな猫脚が特徴的なチッペンデールだったが、対照に少女の背筋は真っ直ぐ伸びており、そこに背もたれがあるのではないかと錯覚してしまうほど美しかった。

 指は細く、繊細な白さに包まれていた。少女がピアノを弾き出すまでの静寂の時間、その指から目が離せずにいた。

 俺は彼女の演奏を待ちわびている。そう感じたとき、少女の指先が鍵盤に触れた。

 次はいうまでもなく音に驚かされた。誤解のないようにいっておくと、俺には音楽活動の経験はなく、音を聞き分ける優れた耳もなければ、評論家を気取って曲を評価できるほど日頃から音楽に触れていない。だから、その時、唐突に胸の奥を掴まれるような感覚に陥ったあの旋律を、上手く言葉に翻訳することはできない。ひょっとすると、言葉の領域で表すことは端から不可能なのかもしれない。

 それほどまでに、感覚というやつが美しいと震えていた。声を出すことも、足を動かすことも、指を動かすことさえできなかった。

 ピアノを弾きこなすなんて域を凌駕してしまっている。現代で活躍するプロのピアニストが持つ天才や、バッハ、ベートーヴェン、ブラームスといった偉大な音楽家が持つ天才を知らない素人の俺でも、彼女は紛れもない天才だと理解させられた。

 あっという間に一曲が終わり、余韻に浸る間もなく次の曲が始まる。前後で曲調が似ていたり、全く違うものだったり、それぞれが複雑に絡みあって命を授かったみたいに音がうごめく。一つの細胞が際限なく分裂を繰り返し、やがて胎児のかたちを成すように。

 コンサートホールであれば観客の拍手で現実に引き戻されるところだが、俺の意識は少女が手を止めて振り向くその瞬間まで、彼女が生み出す世界観の中に閉じ込められていた。


「弾きたいの?」


 視線が気になったのか、彼女のほうから話しかけてきた。


「いいや、」咄嗟に声が出せず、はっとなって喉を触る。遅れて身体が声帯の機能を取り戻した。「いいや、ピアノは弾けない。聴かせてもらってるだけだよ」


「そう。好きなだけどうぞ」


 許可が下りたので、遠慮なく少女の背後に立つ。年下の女の子の後ろに立っているだけで酷く喉が渇いた。

 荻原の背中を見ることに費やした青春時代のものとは違う、真新しい感情が襲ってくる。当時、荻原の背中に向けていたものが憧憬や執着だとするなら、俺が目の前の少女の背中に向けているものは畏怖に近い。

 彼女はしばらく指先で鍵盤をなぞって何かを考える素振りをしていたが、次の曲は弾かずに振り返った。


「名前はなんていうの?」


 あまりにも気さくに話しかけてくるので、彼女とは友人だったのではないかと疑いかけた。いや、疑った。間違いなく初対面だ。

 それとは別に、台詞の頭に「そういえば」を付け加えてやりたくなる音調をしていた。

 憂鬱そうに見えていた少女だが、思いのほか明るい喋り方をする。など、どうでもいいことが頭に浮かんだ。


「ここに書いてあるとおり、窪田文彦っていうんだけど……あぁ、きみは自己紹介のときに居なかった子か」


 首に掛けている名札を見せながら名乗る。


「きみじゃなくて仲野沙耶」

「ごめん、仲野……サン」

「沙耶でいいよ。先生と被るし」

「沙耶……サン」

「うんうん、いいね、慣れない感じ。私は文彦と呼ぼうかな」


 うるせー、と心の中で返す。

 たとえ声に出していたとしても、直後に鳴ったピアノの音にかき消されていた。

 沙耶はピアノと向かい合った途端、人が変わってしまったように暗い雰囲気を身に纏う。

 その変わりように、俺は驚いた。三度目の驚きだ。自分自身に何かを憑依させるのが彼女の演奏スタイルなのだろう。

 曲が始まる。

 時折こちらを見つつ、反応を確かめるようにしてリズムを変えていく。不思議なことに、好きだ、と感じた音だけを抜き取って曲に継ぎ足していった。作曲しているみたいだと思った。

 しばらくして後奏が終わると、思わず感嘆の声が漏れる。


「どういうことなんだ?」

「心が読めるの。ピアノを聴いたひと限定で」


 何でもないふうに、とんでもないことをいった。


「へぇ、それは凄い」

「全然凄いと思ってなさそうにいうね」

「思ってるよ。よく分かってないだけで」

「ふぅん」


 俺の反応が面白くなかったのか、沙耶は興味がなさそうにいう。彼女の機嫌を損なわないよう、慌てて取り繕った。


「具体的にわかったりする?」

「じゃあ、当てて見せよう」


 すると得意げに胸を張った。


「文彦がとくに好きな」沙耶は鍵盤を叩いた。「この音の組み合わせは……」


 そこで言い淀んだ。

 若干、眉間に皺を寄せる。しかし目だけは好奇心に満ちていた。


「何かあるのか」

「そうだね、ゆるされたい人が好むんだ。懺悔だとかそういう類いの」

「分からないな」

「まァ、とにかく文彦の心は赦されたがってる」


 身に覚えはなかったが、否定する気にもならなかった。代わりに大事なことを忘れている気がした。


「俺も沙耶の心が読めたよ」俺はできるだけ芝居がかった口調を心掛ける。「その理由を知りたがってる、だろ?」


 彼女はすこし、笑った。


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