透明人間のために

 今日も雨が降っていた。

 相変わらず梅雨の時期の電車内は噴き出した汗が止まらなくなるほど蒸し暑く、雨の日の独特のにおいが立ちこめている。

 息を吸い込んでみてわかるのは、湿った空気にかすかなかび臭さを漂わせる自然のにおいと、香水、煙草、ナフタリンといった化学のにおいだ。それに汗や体臭もすこし混じっているかもしれない。

 電車に乗るのはおよそ三年ぶりだった。

 大学を卒業し、地元の会社に就職してからは自家用車で通勤するようになり、電車に乗る機会をほとんど失くしてしまった。というより、敢えて電車を利用することがなくなった。

 しかしこうして三年ぶりの電車に乗っているのは、在学中によくお世話になった恩師に挨拶をするためだ。

 四月の転勤を機に地元を離れて美大の近くにあるアパートに移り住んだことで、日常的に学生を目にするようになり、何となく近況報告のつもりで連絡したのが再会のきっかけとなった。

 少々文学めいた表現をすれば、何となく、ほどけかけた縁が結び直されたのだろう。

 ――あらためて。

 自分が多くのことを忘れていたと気づかされる。

 天井から吹きつける生ぬるい風の不快さ、濡れた靴が車内で響かせる音、水滴にまみれた他人の傘、それが床にねてつま先を湿らせる感覚も、背中から伝わる誰かの体温すら忘れてしまっていた。

 人間の密集した空間が好きではなかったので、高校から数えて七年間も乗り続けたという事実が信じられなかった。

 以前の飲み会で忍耐力に欠ける人間だと、やたら声の大きな上司にいわれたことが記憶に残っていたが、七年間もこのストレスに耐え抜いたのだから充分だろうと心の中で反論しておく。

 それからすぐに「右側のドアが開きます」とアナウンスが聞こえた。乗り換えてから二回目。次で降りる。まるで進学したばかりのように何度も確認する。

 俺は床にうっすらとできた水溜まりに視線を落とし、無意識に出口に近い吊り革を掴んでいた。すると発車間際に乗り込んだ女性がこちらに背を向けたまま、偶然、対角線上にある吊り革を掴んだ。

 不意にその姿が記憶のなかの荻原おぎわらと重なった。胸の奥が冷たく、動悸が激しくなり、指先がしびれていく。人は何もかも忘れてしまうのに、本当に忘れたいことはいつまでも憶えているものだ。

 窓の外の一瞬で過ぎ去っていく景色のように、この記憶もどこかに置いていけたらいいのに。

 もう一度、女性のほうを見る。背格好は似ているが荻原とはまったくの別人だった。

 俺はその女性が荻原唯ではないことに安堵すると同時に、荻原唯ではないことに落胆していた。

 いったいどちらのものか分からないため息が零れた。やはり、朝から電車なんて乗るもんじゃない。




 先生の研究室に入ったときにはすでに午後の講義が始まっていた。彼が六月の木曜日は午前中の講義しかうけもっていないことは、先のやり取りで確認済みだ。


「今までありがとうございました」


 恩師である谷崎先生は主に心理学を担当し、空いた時間などは自身の研究室か学内のカウンセリングルームで悩める学生の世間話に耳を貸している。

 まったく自慢にならないが、俺はその年の新入生のなかで最も早くに彼のもとを訪ねた。

 荻原がいなくなってから高校を卒業するまでの数カ月の間に、自分も変わりたいという思いが強く芽生えたのだ。

 がらりと見た目を変化させて大学デビューを飾りたかったわけではなく、内面的な成長を欲していた。

 先生によると、荻原と自分を無意識下でくらべることによって生じたコンプレックスの一種なのだという。どうすれば自分の望んでいる方向に成長できるのか分からず、心理学教授である彼を頼った判断は正しかった。

 彼の臨床心理学に基づく的確なアドバイスはもちろんのこと、多忙の身でありながら俺のために時間を割いてくれることが嬉しく、期待に応えようという意欲が高められた。それは教育心理学の言葉でピグマリオン効果と呼ぶらしい。

 

「お久しぶりです窪田君。ぼくのことはすっかり忘れてしまったのではないかと思っていたところです」

「いえ、そんなことは」


 決して忘れていたわけではなかった。それから続けて「ですが」と自己弁護をしようとした自分を恥じた。

 実家から大学までは距離があるため車で一時間はかかる。電車を使うなら、乗り換えと徒歩の時間を合わせると最低でも一時間半はかかってしまうが、あれほど通い詰めた教授の研究室には顔を出すことなく、ずるずると挨拶を先延ばしにした言い訳にはなり得ない。


「あまり気に病むことではないですよ。ぼくにとっての三年間は、若者とは違って一瞬ですからね……あっ、コーヒーでも飲みますか?」 

「えっと、いただきます」

「窪田君は甘いコーヒーは苦手でしたね。先にれるので自由に座って待っていてください。ぼくは明日の講義で配布するプリントの内容をまとめておきます」

 

 先生はそういってパンダの絵柄が刷られたコーヒーカップを、会議用テーブルの中心にある飴が入ったガラス製の皿の隣に置いた。「そこにある飴は好きなだけ食べてください」と付け加えた後、部屋の奥にあるデスクにまわり込んだ。その際、壁に向かって飛び出しているデスクチェアを引き戻しながら、慣れた手つきでパソコンのキーボードを打ち始める。

 研究室には会議用テーブルが一つとオフィスデスクが二つあり、デスクの片方は紙類で覆い尽くされている。もう片方のデスクにはパソコンが二台置いてあるだけで、普段の講義に用いるノートパソコンは閉じてあった。それらは画面の中身が覗かれてしまわないよう、こちらに対して背を向ける配置になっていた。他には天井に至るまでファイルと専門書が並んでいる巨大な本棚、ドアの両脇に観葉植物と使いかけのホワイトボードがあるくらいだ。

 コーヒーが冷めるまで待っていると、コピー機がプリントを吐き出す音が聞こえてきた。

 先生は頬を緩ませて席を立ち、俺に渡したものとは別のシンプルな花柄のコーヒーカップを片手に、「お待たせしました」と柔らかい口調でいった。作業が一通り片付くと笑みをたたえるのが彼の癖だ。

  

「荻原さんのこと、まだ忘れられませんか?」

 

 難しい問いかけだった。

 日常生活を送るなかでは、荻原を連想させる出来事がないかぎり忘れている。思い出せば今朝の電車のようになってしまうが、一駅分の時間が経てば忘れられる程度のものに過ぎない。


「どうして急にそんなことを」

「いらしたときからどこかかげがあるような気がしたので、もしかしたらと思いまして」


 よく観察しているものだと感心する。四年ものあいだ、彼には驚かされてばかりだった。

 先生は心理学の教授なので、知識に関しては一般人とはかけ離れているのだろう。

 だとしても、ひとの表情を見るだけでささいな心の動きまで察することができるのは、知識以外の何かが備わっているからに違いなかった。

 俺は電車内で起きた「偶然」について話しながら、彼の様子をうかがった。あまりに神妙な顔つきで話を聞くものだから、「以前よりも回復している」ことを強調しておいた。

 よくよく考えてみれば、たった一度しか会話したことのない少女のことを、いつまでも引きずっているのはどうかしている。

 先生が心配しているのは、きっとそのあたりだろう。 


「窪田君にとって最も印象に残っている記憶が、好き嫌いで区別できるものではないとしたら、相当厄介かもしれませんね」

「それは忘れられないからでしょうか?」

「はい。人間という生き物はどうも嫌なことばかりを選んでおぼえていきます。反対に好きな記憶はすぐに忘れてしまう。脳の損傷や心への強烈な負荷を和らげるために起こる記憶障害を除けば、厳密には両方とも思い出したり忘れたりを繰り返して、もとの記憶から月のように欠けていく。

 やがて好きな記憶が好きではなくなり、嫌な記憶が嫌ではなくなったときに自力では思い出せなくなる」

 

 そして、と彼は続ける。


「もう一つ、好きでも嫌いでもない記憶というのは脳に捨てられた記憶、つまり忘れている記憶のことです。生命活動を維持するために必要最低限の記憶を除けば、最終的に人間の脳内はどうでもいい風景のようなものが詰まった記憶の残骸で埋まっていきます。

 おそらく窪田君はすべてのことを風景のように捉えて生きてきたのだと思います。そのなかで最も美しいもの、憧れたもの、悲しいもの、苦しいもの――心を揺さぶられたものが荻原さんだった。今もそれは変わっていない。だから忘れることができない」


 喋りながら話に熱が入っているのを自覚したのか、先生はわざとらしく咳払いをした。「すみません。つい一方的になってしまって」


「いえ……俺はどうするべきですか」

  

 口に出してから、二十五になった大人がする質問ではないと思った。


「ぼくからいえるのは、勇気をもって踏み出しなさいってことですね。多くのことを経験し、心で感じることが忘れるための近道になります。手っ取り早く恋でもしてみたらどうでしょう」

「結局、先生も周りと変わんないこと言うんですね……」

「これが意外にも正しかったりするんですよ」

「はぁ」

 

 曖昧な返事をして俺はコーヒーをあおった。

 時間が経つにつれて雑談は中身のないものへと変わっていき、その過程で俺は四月から美大の近くに引っ越したことを伝えた。


「そういえば仲野なかの沙耶さやさんも、その美術大学の近くに下宿していると聞きました。もし機会があるなら、ありがとう、と伝えていただけると助かります」

「仲野沙耶さんというのは」

「憶えていませんか? ぼくと一緒に児童養護施設のボランティア活動をしていたとき、ピアノを弾いていた女の子ですよ」

「あの天才の」

 

 思い出した。

 俺が大学二年生になったばかりの頃、新たな自分を形成する試みの一環として先生にボランティア活動を勧められたことがあった。

 児童養護施設のセラピストをしている彼の友人が団体の学生ボランティアを受け入れてくれることになり、俺は思い切ってそこに参加してみることにした。個人で参加するよりも心理的なハードルが下がっていたこと、何より変わりたいと思っていた俺はせっかくのチャンスを逃したくなかった。

 数日間にわたる施設での生活は新鮮なもので、なかでもひと際大きな影響を与えてくれたのが仲野沙耶という少女だった。彼女は見た目こそ派手ではないが他の子とは違う空気をまとい、ピアノに天性の才能を持ち合わせていた。

 名前や容姿よりも先にピアノを弾いている指先が浮かんでくるほど、少女が奏でる音には存在感があった。

 彼女はいつも聴いたことのない曲を弾いていた。既存のものに囚われない自由さ。非の打ちどころがないほど美しい旋律とは対照的に、ひどく物憂げな表情で鍵盤を弾く姿が、人間の心を惹きつける謎めいた力を持っているように思えた。

 初めて聴いたときから、俺は少女のピアノの虜になった。俺だけでなく居合わせた全員が目と耳を奪われていた。天才ピアニストとは、まさしく彼女のための言葉だろう。

 過去にピアノのコンクール等で優勝した経験のある学生の一人が、完全に自信を喪失していたことから、彼女の天才にはすべてを諦めさせてしまう理不尽さと残酷さが含まれているのだと悟った。

 天才が多くの凡人によって殺されることがあるように、天才もまた多くの凡人を殺しているに違いなかった。


「分かりました。機会があれば伝えておきます」


 ひとまず頼まれごとを承諾しておいた。現時点では仲野沙耶との関わりはなく、今後もないと思っていたが。

   

「窪田君。最後に一つ聞きたいことがあるのですが」

「えっと……どうぞ」

「今朝、窪田君が見かけたのは本当に女性でしたか?」

「ちょっと何をいってるのか……」


 一瞬、心理テストのたぐいではないかと疑った。女性でなければ、荻原を思い出すわけがない。


「ですよね。変なことを聞いてすみません。また気が向いたらいつでも顔を見せに来てください」


 このとき、彼の張り付いたような笑みにわずかながら不信感を抱いた。

 研究室を退室する際に紙類が散らかったデスクの一番上にある、「部分健忘を伴う精神疾患について」と記されているレポートがちらりと見えたものの、そのことについて深く考えることはしなかった。





 

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