猫また

@phercephone

プロローグ

「ねえ、相談があるんだけど。」

三時限目と四時限目の狭間、乱雑に並んだ学習机が三十八つ。その一番窓際、最後列に配置された、僕の教室における、クラスコミュニティにおける立場を象徴するかのような机から、さながら冬眠から目覚めた熊のように顔を上げた。生に向かって懸命に体を捻らす生き物のような躍動を孕んだ数多の学習机も、僕ともう一人を除いたクラスメイト全員が居なくなって仕舞えば、途端にただの無機物へと印象を変える。外に目を遣ると、朝から空を這う鈍色が重みをいささか増している気もした。こうなると、普段煩い程に明朗を強要してくる陽さえ愛おしく感じ、反対に僕を外界の凡ゆる強制力から庇ってくれるような灰色でさえ疎ましく思えて仕舞うので、僕の我儘で刹那主義的な、かつ無い物強請りな性格に辟易した。黒板に幾重にも重ねられた線と線の交錯は、恐らく僕以外の三十七人にとってしてみれば大切に、丁寧に自分のノートに書き写すような、そんな有難い知識のシンボルであると思うのだが、今の僕にとってはこの授業で僕が他のクラスメイト、果ては全国の高校生達に対し遅れを取った論拠でしかなく、可視化された僕への批判、揶揄、嘲笑に他ならないので極めて不快であった。後ろの黒板、その日の時間割が示されるタスクマネージャーには走り書きで『四限 化学』と記されているので、僕が居眠りをしている間に他のクラスメイト達は既に化学実験室に移動して仕舞ったらしい。教室のありとあらゆる窓、ドアが隙間のないように閉ざされているさまを見るに、今日の日直当番は戸締りの職務を忘れずにこなす生真面目な人間なのであろうが、惰眠を貪る僕の存在は果たして忘れられていたのだろうか。そんな閉塞した空間の中で、僕との対話を試る人物がいるのだ。ふと右手首に巻き付くクロノグラフを見ると、四限目開始の時刻、角度にして三百度に長針が今にも重なりそうであるので、恐らく今から別棟にある化学実験室に急行したとしても授業開始には間に合わないだろう。九月初旬に着るには少し暑苦しいブレザーに、膝上マイナス十センチ、学校規定のスカートを規定の長さで履く、現代の女子高生と呼ぶには凡そ似つかわしくない女子生徒が僕の席の横の机に腰掛け、あろうことか、人望も知識も平均を大きく下回るであろう僕に、授業に遅れてまで相談事を持ち掛けているのだ。

「ねえ、相談があるんだってば。」

「……。樒、今なら僕は君に危害を加えることは無いと神に誓うので、頼むからその相談事は別の奴に回してやってくれ。」

「櫟井君は神道どころか、宗教になんて全く信仰心を割いていないでしょう。そんな人の神への誓いほど薄っぺらな文句も中々無いでしょうね。」

「……。」

「それに櫟井君は今までに何度も私の相談を受けてくれて、しかもそれを軒並み解決に導いてくれてるじゃない。私は頼り甲斐のある人にしか相談事はしないって神に誓ってるの。」

「言葉尻を引っ張って自分に都合の良いように人を追い詰めるのがさぞ得意なんだな君は。過去の相談も、僕に話すだけ話して君が一人で勝手に解決させてるだけじゃないか。」

樒皐月(しきみさつき)、僕に度々相談という名目で様々な小噺を持って来ては、僕の返答に空返事をして去って行ってしまう掴み所の無い女で、端的に言えば僕はこいつが嫌いだ。

「櫟井君、私は櫟井君が伝えてくれた考えを基に出来事に対してアプローチしているから順調に事をこなせているだけで、その実、櫟井君無しでは何も出来ない木偶の坊だよ。」

「今回も引く気はさらさらないらしいな。授業の時間を押してまで僕に話したいこととはなんだ。内容如何によってはただじゃおかないからな。」

彼女は、にやりと音が出るほどに、口角を綻ばせた。刹那、四限目開始の機械的なチャイムが空の教室を満たした。

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