5-5 『幻想小曲集 夕べに』&『アラベスク』
気付けばいつの間にか外は薄暗くなり、時刻は黄昏時に向かっていた。慎一に案内された部屋にはグランドピアノが置かれていた。音楽室で一緒にピアノに向かっていた高校時代に時が遡っていくような懐かしい感覚の中で真智子はその煌々と黒光りしているグランドピアノを見つめていた。
「このピアノが昔から弾いていた母のピアノだよ」
「お母さまとの思い出のピアノね。グランドピアノでいいな」
「さっきも言ったけど、今度、東京の新しい引っ越し先が決まったら、運ぶことになってるんだ」
「よかったね。家に帰った時、ピアノがあった方が安心するものね。お母さまのピアノならなおさらだね」
そう言いながら部屋を見渡していた真智子はピアノの側にあった棚の上にある写真立てに気付いた。真智子はその写真立てに近づき、間近に見つめた。そこに映っているのはおそらくまだ中学生の頃の慎一と両隣に父親と母親だと思われる人物が映っていた。
「あ、母がまだ生きていた頃、家族で撮った写真だよ」
「慎一はまだ中学生ぐらい?お母さまは優しそうな人ね」
「少し真智子に似てるでしょ」
「そうかな?」
「はじめて真智子に会った時、僕はそう思ったんだ。それで、真智子が『アラベスク』を弾きはじめるからなんだかどきどきしたよ。母も真智子がここに来てくれて喜んでるよ」
「お母さまと会って話してみたかったな……。お父さまは貫禄がある方ね。今日、挨拶するの、ちょっと緊張する」
そう言った後、真智子はピアノの前に座った。慎一の真剣な視線を感じながら真智子は深呼吸した。
「じゃあ、これからピアノ弾くね。はじめは『幻想小曲集 夕べに』。その後。『アラベスク』ね」
真智子はピアノの鍵盤を奏ではじめた。ピアノの曲層に想いを乗せながら、真智子はふたりが出逢った頃のことを回想していた。ふと窓辺にある椅子に座っている慎一の方を見ると、慎一と目が合った。真智子は俄かに恥ずかしさで一杯になり、こぼれるような笑みを浮かべた。そんな真智子の様子を見ながら慎一もリラックスし、曲に聞き入るように目を閉じた。慎一の心の中でも様々な思いが巡り、真智子と再会できた喜びに浸りながら、これから先、どんなことがあっても未来への不安に負けない勇気を持ち続けていこうと心の中で固く誓った。
真智子が二曲弾き終えて、慎一の方を見ると慎一は目を閉じていた。真智子はそっと慎一の側に近付くと慎一の手を軽く握った。
「慎一、大丈夫?疲れたかしら?」
真智子が尋ねると慎一は不意に目を開けた。
「ごめんごめん。真智子の演奏は聞いてたんだけどついリラックスしすぎたようだね……」
「いいのよ。それより大丈夫?」
「朝から真智子のこと待ってたから少し緊張したかな……」
「少し休む?」
「うん、そうだね。そうしていいかな。退院後まだ間もないから少し疲れやすいみたいでね。父が帰ってくる前に少しひと眠りしようかな」
「じゃあ、一緒に部屋まで行くよ」
真智子は慎一の腕をとって肩にまわそうとした。
「あ、いいよ。ふつうに歩けるから大丈夫」
慎一は真智子に微笑みかけると寝室に向かって歩きはじめた。
「慎一の体調、まだまだ心配だね」
「東京でも通院できるよう、病院の紹介書をもらって退院したんだ。だから、東京に戻ってからもしばらくは、リハビリしながら大学に通う予定だよ」
「父や母にはどう話そうかな……」
「まだこんな調子だし、あまり慌てなくていいから」
「でも慎一のこと心配で……」
「その気持ちだけでうれしいよ。それよりご両親、反対しないかなと思って……病気のこともあるからね」
「話してみないとわからないけど、びっくりするかもね。心配もかけるかもしれないけれど喜んでくれるといいな……」
真智子がそこまで話したところで慎一は足を止めた。
「ここが僕の部屋」
部屋にあるベッドに慎一がゆっくりと横になると真智子は言った。
「慎一が眠るまで側にいてあげるよ」
真智子はベッドの側に近寄ると慎一をじっと見つめた。
「真智子、あの頃と変わってないね」
慎一は真智子をそっと抱き寄せた。
「慎一と離れていた間、私の心の中では時が止まっていたのかもしれない……」
真智子は抱き寄せられたまましばらく慎一の心臓の音を聞いていたが、慎一の体調のことが気になりそっと身体を起こした。
「慎一、そろそろ休まないと」
「そうだね。少し休むね」
「慎一が眠るまでここにいるね」
真智子はそっと慎一の手を握った。
目を閉じた慎一の手を握りながら、真智子は旅の疲れも出たせいか幾分うとうとしながら思いを巡らせていた。久しぶりに慎一と再会し、こんな急展開で慎一と一緒に生活することを決心することになるとは会う前には少しも考えていなかった。そう、一緒に暮らすといってもいろいろな意味合いがある。私達の場合は同棲?それとも結婚?とにかく、今、流行のシェアハウスとはちょっと意味合いが違うことは確かだ。父母にはどう話そう?どう説得しよう?その前に、慎一のお父さまにもうすぐ会わなければならないし……。そんなことを考えているうちに慎一のすやすやとした寝息が聞こえてきて、真智子はふんわりとした再会の余韻に包まれていた。
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