2-10 ドビュッシーのベルガマスク組曲『プレリュード』

—それから、一週間後―。


 真智子は練習の成果を慎一に聞かせるために音楽室に向かっていた。廊下のひんやりとした空気が真智子の緊張を高める―。練習の成果が出せるかどうか、わからないが、久しぶりに慎一に会えると思うだけで真智子の胸はどんどん高鳴った―。

 音楽室に近づくと以前、一緒に練習したショパンの『エチュード』が聞こえてきた。きっと慎一が練習で弾いているのだろう―。真智子はしばらく音楽室の扉の前で聞き入った。演奏が終わると真智子は急いで扉を開き、威勢よく言った。

「慎一、久しぶり!相変わらず、迫力のある素晴らしい演奏ね!」

「やあ、真智子!予定通り、一週間だったね。待ってたよ」

「うん……。ちゃんと聞かせにきたよ」

「じゃあ、さっそく弾いて」

「ここまで来るのにちょっと寒かったから、指がかじかんじゃった。ちょっと手をあたためて心の準備もするから、慎一はそのまま練習してて」

そう言うと、真智子はポケットからホカロンを出した。

「ほんと、いつの間にか随分、寒くなったよね」

慎一は真智子がホカロンで手をあたためている様子をじっと見つめていたが、そのままそっと真智子の方に近寄り、両手で真智子の手をそっと覆った。

「わっ!びっくりした!」

「こうすると早くあたたまるだろ」

「……ほんと、慎一の手のひらあったかい……」

そう、言いながら、真智子の心臓は俄かに高鳴り、頬が紅潮していくのを隠せず、幾分、焦りの気持ちが生じた。

「あの…さ」

「何?」

「もう、充分あったまったけど、ちょっとどきどきしすぎて……、気持ちを落ち着けたいから、慎一のピアノ、何か聞かせて」

「あ、うん。じゃあ、今度は『黒鍵のエチュード』にするね。真智子がいない間は課題曲の『献呈~君に捧ぐ』も練習したけど、指慣らしで『エチュード』も練習してたんだ。『エチュード』はなんていうか、気持ちが集中できるからいいよね」

そう言って、ピアノの方に戻ると、慎一は『黒鍵のエチュード』を弾きはじめた。真智子は慎一のピアノに聞き入りながら、自分自身の気持ちも少しずつ集中していくのを感じていた。慎一がピアノを弾き終えると、真智子は少し緊張気味に拍手した。

「じゃあ、今度はそろそろ、大丈夫そう?」

「うん。頑張る」

慎一が立ち上がると、真智子はピアノの椅子に腰掛け、深呼吸すると、ドビュッシーの『ベルガマスク組曲』の『プレリュード』を弾きはじめた―。


「ドビュッシーの『ベルガマスク組曲』から選んだんだね。真智子の持ち味が出せていいんじゃないかな」

慎一は真智子が弾き終えると拍手しながら言った。

「慎一はもちろん、弾けるよね」

「まあね。一応、『ピアノのために』が弾けるからね」

「クララ・シューマンやグリーグの曲もいいなと思って迷ったんだけど今の私のレベルで完璧に弾けるのはドビュッシーの『ベルガマスク組曲』かなと思って……。一応、『プレリュード』、『メヌエット』、『月の光』、『パスピエ』と4曲とも弾けるけど、『プレリュード』の爽やかで明るい感じが一番インパクトあるかなと思って選んだの。終盤の追い込みのところはもう少し練習してきれいにまとめたいと思ってる」

「練習を重ねれば、受験の頃までには間に合うよ。少なくとも短大の方は大丈夫だと思う。ところで、真智子は冬休みはどうする?僕はここに練習しに来るけど」

「家でも練習できるから、音楽室には一人で滅入った時にでも来ようかな」

「じゃあ、その時は携帯で連絡するってことで……。冬休み中はセンター試験の勉強もあるし、願書の準備もあるし、お互い忙しくなるね」

「そうそう、冬休みが終わったら、一気に受験モードに突入だね」

「お互い、今までの成果が出せるよう頑張ろう。じゃあ、今日はこれから真智子のベルガマスク組曲、四曲とも聞かせてくれる?期末も近いし、そろそろしばらくピアノはお休みにして、学校のテストに集中しようと思ってたんだ」

「そうだよね。期末テストも頑張らないとね。じゃあ、慎一への励ましの気持ちも込めて、ベルガマスク組曲を弾きます!」

真智子は深呼吸すると再び『べルガマスク組曲』の『プレリュード』を弾き始めた。


 『ベルガマスク組曲』を四曲最後まで弾き終えて慎一の方を見ると、慎一は教科書とノートを広げて、期末試験の勉強をしているようだった。真智子が慎一の方に近づくと、慎一は顔を上げた。

「あ、演奏、終わったんだね。ごめん。少し、期末試験の準備してた。じゃあ、そろそろ帰ろうか。外が暗くなるの、早くなったし、今日は寒いからね」

「そうだね」

その日の帰り道の話題はもっぱら試験勉強の範囲についてだった。練馬駅に着くと慎一は言った。

「じゃあ、また試験が終わった頃にでも連絡して」

「お互い、これからも頑張ろうね」

そう言うと、真智子は慎一に向かって手を振ると改札に向かった―。


※ショパン エチュード 作品10-4 嬰ハ短調

※ドビュッシー ベルガマスク組曲『プレリュード』、『メヌエット』、『月の光』、『パスピエ』

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る