Survival in the closed town
田沼和真
第1話
序章
生まれた意味も、死ぬ意味も、そのときの菊池忍には理解できなかった。
笑うことも、怒ることも、憎むことも、愛することも、忍には何もわからない。
その場所のことも、その扉の先も、世界のことも、何もかもわからない。
何も意味を知らず、感情もなく、言葉もなく、知識もなく、彼はただ生きているだけだった。
生きる意味さえもわからないにも関わらず、自分が生きているということさえもわからず、食事を口に運ぶ日々。
それは驚異ともいえる現実だった。
彼らは忍を観察していた。
彼が生まれてから五年間。毎日毎日観察してきた。にもかかわらず、菊池忍はまだ生きている。
コミュニケーションというものは、人が成長するために欠かせないものだ。笑いかけ、声をかけ、身体に触れる。
それらが人間の脳に働きかけ、脳は成長する。
しかし……赤子にとってのコミュニケーションは生死の問題のはずなのだ。
声もかけず、笑いかけもせず、最低限しか触れず、生かすために栄養を与えるだけの日々。、それでも栄養は充分に与え、赤子の身体は最新機器で完全に管理する。
すると、どうなるのか。
……赤子は死ぬのだ……。
栄養を与えているにも関わらず、病気もなかったはずなのに、コミュニケーションを奪われた赤子は、まるで自分が世界に否定された事実を受け入れてしまったかのように死んでしまう。
その結果を彼らは知っていた。
だから、菊池忍で試したのだ。
もし、彼ら(・・)に同様のことをしたら、どうなるのか。
しかし……菊池忍は五年経過した今でも生きていた。
人間らしい知識もなく、人間としての感情もなく、与えられたエサを口に運ぶ。
そんなことを五年間繰り返して、忍はただ生きている。
彼らは知りたかった。
なぜ生きているのかと。
脳はどうなっているのかを知りたかった。
脳波は?
身体は?
検査項目はいくらでもあったが、菊池忍に与えた実験はコミュニケーションを奪うこと……。
調べたくても、調べるには限界があった。
早く死ね。
早く死ね。
早く死ね。
死ねば解剖できる。
死ねば脳を研究できる。
新たな可能性を手に入れることができる。
だから、早く、さっさと死んでしまえ。
モニター越しに菊池忍を見ていた彼らは毎日のようにそれを願っていた。
数年後。
「そもそも畑を点々と作るってのが面倒なのよ」
八巻馨は不満げに訴える。
白のワンピースにピーチサンダル、頭には麦わら帽子、腰にはベルトを巻き、そのベルトには小銃が装備されている。
歪ともいえる格好をした馨が手にした棒を振り回しながら、茂みを歩く。
「桜ねぇが、一か所に作ったらすぐに見つかるからダメだっていってた」
馨に続くのも同じ年頃の女の子、岩倉菫だったが、こちらは半袖半ズボンに運動靴。そして、ベルトにナイフを挟んでいる。
先を歩く馨がややぼんやりとした菫に棒の先端を向けてくる。
「見付かるも見付からないも、とっくにあたし達のことなんかばれてるじゃない」
「でも、正体は掴んでないみたいだよ」
「そりゃそうだけど、畑は耕してんのよ。見ればすぐわかるじゃない」
「……」
「知ってる、菫? ユリアの壁の外では、この紙きれが使えるんだって」
馨が取り出したのは、くしゃくしゃになった紙幣だった。
「……知ってる。この間捕まえて殺した人がいってた」
「あの人、いろいろ話してくれたよねぇ。あたし達がされていたことを逆にやってみたら、すらすら話してたよ」
「施設、壊さなくてよかったね」
「電気? ってのが繋がっているから使えたらしいよ。梢ねぇが勉強して、この間教えてもらった。でも、あそこって臭いんだよね。研究員の人達の死体、放置してたから、臭いが籠ってるのよ。後で掃除しなくちゃ駄目だよ、あそこ。電気使えるから、他にも使えるかもでしょ」
「掃除は嫌い」
「駄目だよ。掃除をして、ピカピカにしたら、なんか気持ちいいじゃない」
「あたしは汚くてもいい」
「菫はよくても、あたしは嫌なの」
茂みで立ち止まっていた馨が、その身をよじりながら菫の背後に視線を向けた。
「忍、大丈夫? 背負ってあげよっか?」
「だ、大丈夫……」
「本当に?」
「うん」
菫も振り返り、自分達に続いてよたよたと歩く忍を心配そうに見守る。
「ついてこられなくなったらちゃんというのよ」
「畑まで後ちょっとだから」
「うん」
その返事にひとまず安心した馨は、再び歩みを初めながらまたもや文句を口にする。
「今日はジャガイモの収穫するってのに、なんであたし達年少組が畑にいかされるのよ」
「慶兄さん達は、人間達がいっぱいいるから、その人達殺していろいろ持ってくるっていってた」
「そうなの? そんなの慶にぃ一人にさせればいいのよ。それしか役に立たないんだから。……人間も捕まえてくるのかな?」
「無理だと思う」
「そっか。今度はいろいろ聞きたいから、生かして連れてくるように頼んでみようっと。あれ? でも、この近くに吸血鬼や不死者っていたっけ?」
「いるよ。五体」
忍がやや息を荒くしながら答えた。
「そっか。忍がいうなら確かだね。でも、人間達がまた連れてきたのかな? 面倒くさいよね。せっかく殺したのに人間がまた連れてくるんだもん。何してんだろ?」
「さぁ?」
「まぁ、いっか。ジャガイモのほうが重要だしね」
そして、三人は茂みの中を歩き続ける。
数年後。
「うっさ~い! あたしは一人でもいくっていってるでしょ。お兄ちゃん達の言葉はきかないからね。何よ、そろいもそろってヘタレなんだから!」
いまだ、少女というよりは女の子というほうが正しい八巻馨は、そこに集まっていた数人の少年達に罵声を浴びせかけると、さっさとそこを出て行ってしまった。
真夜中。
馨の腰にも背中にも、足にも小銃が装備されている。
女の子には似つかわしくないその姿も、その場所にはふさわしい。
荒れ果て、荒廃した町。
その町の名前はわかるし、その町が日本の、どの県の、どのあたりにあるかもわかってはいるが、それは知識として知っているだけで、実感として知っているわけではない。
ここは捨てられた町なのだから……。
死体も、腐臭も、彼女達には当たり前の光景だ。それにいちいち反応などはしないし、そもそも彼女達は人間としての容姿を持ち、構造的にも人間そのものではあるが、自分達が人間だという認識はなかった。
同族であるのは兄妹のみ。
それ以外は、違うもの。
その認識がある以上、鳥やネズミの死体と人間の死体にはどれほどの差もない。
「菫、何してんの?」
「……勉強?」
コンクリートでできた箱。
その程度の認識しかない彼らの今の住まいを出たところに岩倉菫が月明かりを頼りに本を読んでいた。
「何の本よ、それ?」
「麻雀って書いてある」
「麻雀って何?」
「ゲーム?」
「ゲーム? まぁ、いいや。忍は?」
「いるよ。大丈夫」
物陰から忍が現れる。
馨は小銃で身体を囲み、菫はナイフで身体を固めているが、忍は小銃とナイフをそれぞれ一つずつ身につけているだけで、代わりに手のひらサイズの携帯端末を持っていた。
「それって直ったの?」
「うん。翠姉さんに直してもらった。これで彼女に繋げられるよ」
「話せるのは、あんただけでしょ?」
「まぁ、そうだけど、これで情報を正確に受け取れるから、だいぶ楽になるよ」
「そっか。で、このあたりの吸血鬼はどっちにいるかわかる?」
「向こうに二体。でも、人間と交戦しているみたいだね」
「……どっちも殺すのって、面倒よねぇ」
馨が両手を腰にやって、夜空を見上げる。
「やめよっか?」
「あたしは別にどっちでもいい」
「僕もどっちでもいいよ。今日の人間は強いほうだと思うし、相手はきっと不死者だから勝てると思う」
「じゃ、そうしよ。面倒くさい。それよりも忍、あんた本気?」
真摯な瞳が忍に突き刺さるも、忍は小さく頷いた。
「聞いたの?」
「聞いたわよ。で、あんたを連れていくのは危ないからダメってヘタレどもにいわれたの」
「ヘタレって……酷いよ……」
「いいのよ。どのみち誰かがユリアの壁の外に出ないといけないのよ。上の兄妹達はそろってヘタレだから、あたしがいかないとしょうがないじゃない」
「なんとか……なるかな?」
「なんとかするわよ。そして、あたし達は、この町からおさらばよ」
「できるといいね」
「何弱気なこといってんのよ、菫。できるといいじゃないの。やるのよ! 大丈夫、あたしが何とかするんだから。だから、三人でいくわよ。人間の作る世界に!」
「わかった」
「僕もわかったよ」
三人は互いに頷き、そして、決断した。
そして、自らを人でも吸血鬼でも、生者でも死者でもないと語る兄妹は、その後、全員が町から姿を消す。
誰にも知られることなく生き、誰にも知られることなく、彼らは人間の世界に溶け込み、生きている。
第一章
吸血鬼戦争。
一般的にそういわれる戦いからすでに一〇〇年近く経とうとしていた。
詳細こそ表には出てないが、一〇〇年ほど前、とある場所で原初の吸血鬼と呼ばれる男が蘇り、瞬く間に人間の象る世界に戦乱の火種をまき散らした。
原初の吸血鬼に血を吸われたものは、二~三日の後に人間としての生を終え吸血鬼としての死が始まる。その吸血鬼に噛まれた人間は同じように人として死に、不死者といわれる動く死体となるか、自分を噛んだ者と同じように吸血鬼となる。
吸血鬼となるか不死者となるのか。
その境目ははっきりせず、その割合は圧倒的に不死者が多い。だが、それは些細なことだ。
当時の人間は吸血鬼という存在そのものをあざ笑った。何かのでまかせだ……と。しかし、とある一地方から始まった吸血鬼の群れを前に、人間はそれが現実であることを悟るしかなかった。
ありとあらゆる方法を使い、人間は吸血鬼を抑え込もうとし、爆撃等を繰り返すも、吸血鬼の拡大を完全にふさぐことはできなかった。
何よりも、原初の吸血鬼とされる男は、まさに死の象徴。死、そのものだったのだ。死者をもう一度殺すことなど不可能だった。
それでも人間は、築き上げた文明の大半を失いながらも、世界規模の吸血鬼大戦に勝利した。
その勝利の立役者は公にされていないが、名前だけは残っている。
その者の名は『ユリア』。
後に作られたユリアの壁はこの名からきているが、多くの者達は知らない。そのユリアの壁そのものがユリア自身であり、原初の吸血鬼は世界に大きな傷跡を残したことを。
その傷跡は、今も世界のどこかで血を流すのだ。
『平和で穏やかな世界』。
それが今日の世界において共通のスローガンだ。
文明が崩壊し、多くの人間が死に、それまでの人間社会が破壊された吸血鬼大戦から約一〇〇年。単発的な吸血鬼の出現こそあれ、どうにか世界は復興を遂げ、各国も利益追求のための戦争はせずに、そのスローガン通りの生活を行っている。
小規模な内乱、内戦、原因不明ではあるが突発的な吸血鬼の出現等はあっても、大きく見れば確かに世界は平和であった。
だからこそ、彼らの立場は苦しい。
大戦終結直後も、吸血鬼に対する被害は出ており、また治安の問題も重なっていた日本では、新たに復興省を設立し、Vampire Assault Team、通称VAT(バット)を復興省内部に設立。大戦終結後に国内で発見された吸血鬼の掃討をVATは継続して行い続けてきた。
総隊員数は数万に及び、次期VAT隊員養成のための学校も各地に作られた。
しかし、争いもなく『平和で穏やかな世界』が、今まさにここに存在している。
その事実を前にしたとき、国民が思うのも無理はない。
『復興省など必要なのか。VATは必要なのか』
それを声高に訴えているのは、Peace Parent Association(平和的で安全な親の集まり)、通称PPAであり、多くの国民がPPAの言葉を否定しきれないでいた。
彼等が目にする報道上では、吸血鬼の発生はあってもそれは即時に対処され、大きな事件にはなっていないのだ。
それこそ、たかが吸血鬼……という認識をPPAが持つのは当然だ。
それに復興省には膨大な予算が回されているし、各国は戦争を放棄している状態で軍も兵士もほとんど必要ない。吸血鬼もそこまで安易に対処できるならばVATも必要ない。そんな予算があったら、別のところに回せばいい。
そんな意見に、自らの椅子を守ることに必死になる政治家は復興省の予算を年々減らし続けていた。
PPAの主張は、減らせではなく必要ないというものだが、それはいまだに実現していない……。
実現すれば困るのだ……。
原霧市。そこは四方を山に囲まれた盆地にある町であり、人口は五万程度。中心街は栄えているが、周辺には田畑が広がっており、町を出るには山を抜けるトンネルを通過するしかないため、地産地消をモットーに一通りの産業や店が揃っている。
吸血鬼大戦中はその立地でこの地方の拠点として栄えたし、大戦後もその地方の復興の中心地であったため、その名残として駅や空港まで存在していたが、今となっては必要なのか……と思う者も少なくなかった。
その町に、県立第二八盛運高校があった。盛運高校はVAT隊員を養成するための高校であり、通常の学生とはカリキュラムがまるで違い、戦闘技術、重火器の扱い方、車両の運転、情報機器の使用方法、暗号解読等々を教えている。卒業後一部がVATに所属、残りの大半が地元自警団に所属する。
吸血鬼に対する剣、もしくは国民を守る盾になる自覚を持たせる教育を施しているものの、重火器を使用、卒業後も所持が許されるなどの特権目的で入学してくるものが後を絶たず、そういった者達が問題を起こす度に、大元である復興省に国民の抗議が集中している。
吸血鬼が発生しても即座に対応して殺せるのだから、多くの学生を抱える必要などはない。必要性以上に、元盛運学生による被害が多いのだから、それこそ国民を守る盾といっても、何から守っているんだ……ということになってしまう。
しかし、だからといって、そこに通う者達全員が半端な覚悟や意思で盛運高校に通っているわけではない。そして、同時にやはり、そんな彼らを平然と裏切るような生徒も存在していた。
「それじゃ、失礼しますね。というか、さよなら~」
バイバ~イ。
そんな軽い言動と仕草で校長室を出てきたのは盛運高校二年の八巻馨だった。
たった今、馨はこの盛運高校を自主退学することになったのだ。
理由は、重火器の窃盗である。
盛運高校は実際に重火器を使用するために、当然学校内にそれらが保管されているのだが、昨今の緊縮財政のおかげで警備が甘くなり、内部の存在、つまり、盛運高校の生徒である馨によって侵入され、大量の武器が盗まれた。
一丁二丁ならまだしも、トラック数台分を盗み出すという大胆すぎる盗みだったのだから、呆れてしまう。
馨はその罪を認めて自主退学になったわけだが、他の人間からすれば納得できるわけがない。
その不満を馨に叩き付けるために現れたのは、盛運高校三年の堀内純だった。
「八巻馨!」
「あらあら、TO(トップ・オブ・)一二(トゥウェルブ)の首席さん。どうかしたんですか?」
馨が何をしたのかは、この学校の全員が知っている。にもかかわらずのふてぶてしさだ。
生真面目な堀内は、その感情を隠そうともせず、また行動を自制することもなかった。
パァン!
力強い平手が馨の頬を打ち付けた。
「さすが、首席さん、早いし痛いし……大したものだわ」
馨は赤く染まる頬をそのままに、それでもなお笑顔でいた。
盛運高校は基本的にどんなものでもランク付けする。優越感を持たせるためや、発奮材料にさせるためというわけではなく、命を賭けて戦わなければならない者達だ。誰がどんな技術に優れているのか、互いに相互理解する必要があるとの理由である。
TO一二とは、全学年を通して成績の優秀な一二名に与えられる称号で、一二名全員が特別な腕章やバッチをつけていた。
眼前の堀内は、その首席だ。
体格が目立って優れるわけではないが、首席らしい風格を持ち、眼光も鋭く、全ての技術に秀でている優秀な生徒だった。
「なぜ、自主退学ですまされた!」
「なぜって、盗んだからかしら?」
パァン。
そこで再びの音が響く。
「ふざけるな! お前は自分が何をしたのかわかっているのか! 大量の重火器を盗んだんだぞ! それなのに自主退学という甘い処分……。本来は犯罪者として捕まるはずだ!」
「捕まっていないから、犯罪者じゃないんじゃない?」
「……なぜ……なぜ貴様のような人間がここにいる!」
「なぜっていわれても、入学したから?」
「なぜ、ここに入った! ここは人を守るための意思持つ人間がくる場所だ。貴様のような人間がくる場所ではない!」
廊下のガラスが震えるほどの声。いっている本人のこめかみは血管が浮き出ている。
「あなたとあたしじゃまるで違う人間なんだし、理解はできないわよ。それに盗んだ武器の代わりはちゃんと補充されたでしょ?」
「……揉み消すためにな。こんなことが表ざたになれば……」
「大問題よねぇ?」
堀内は激昂したが、手を出すことはしなかった。わかったからだ。
「ここまで大きな事件になれば……学校だけでなく、復興省の問題になる。それを見越してこれだけのことを……」
「はい、正解。武器も新しくなったし、逆に感謝してほしいわね」
「……貴様は、最低の人間だ」
「どうでもいいわよ、そんなこと。あなたもVATに入隊したらがんばってね。大変だろうけど」
「何のことだ」
「さぁ? わからないまま死んでいければ幸いよ」
馨はそのまま堀内の脇を通り抜けるが堀内はもはや止めようとはしなかった。
校長室の中にも、さきほどの堀内の怒号は届いていた。
「堀内純……なかなか正義感があるようですな」
「え、えぇまぁ」
「しかし、正義感だけではやっていけません。八巻馨のしたことが表ざたになることだけは避けなければならない」
「は、はい。ですが……あの……」
「市長や知事に知らせる必要はありません。あくまでもこの学校は復興省の下部組織。そして、私は復興省の人間です」
「……」
校長は先ほどからハンカチで額を拭うばかりだ。
今回の馨の件が表面化すれば当然自分の進退問題になる。というよりも、クビになるのは間違いなかった。それを穏便にすませられたのは、眼前の男のおかげであるが、問題はそこだ。
目の前にいるのは、石黒賢三……この原町市の副市長なのだ。中央から派遣されて副市長の座についた男は自分の口で復興省の人間であることを認めた。なぜ、復興省の人間が副市長の座についているのか……校長は理解できない。
「今の日本は危機意識が欠落している……あなたはそう思いませんか?」
「……そ、それは……」
「確かに情報統制はされている。しかし、今が安全だからといって、これから先も安全である保障はどこにもない。いや……我々は、この状況を打破する見通しさえ立っていない。一〇〇年経った今でも……。下手をすれば、永遠に世界の傷跡は癒えないのかもしれないのですよ」
「……」
校長の立場では沈黙するしかない。
校長も盛運高校を任されている人間だ。ある程度の情報を持っているが、だからといって全てを知っているわけではない。
「復興省は政治家、ひいては国民の非難に怖気づいている。誰かが、この国を守らなければならないのです」
「そ、それは確かに……そうですが……」
下手なことをいえば、自分の身が危うい。校長はなんとなくではあったが、それを悟った。
この石黒副市長は、何かを隠している。
それは確かだった。
校長がこの状況からいかに抜け出すべきか悩んでいると、助け舟になるようでならない者達が勝手に部屋に入ってくる。
「……入るぞ」
入ってからそれを告げたのは、この原霧市の市長、高野光一郎だった。前回の市長選で四期目に突入した高野は、この町の支配者ともいえる存在で、そのいかつい顔と大柄な身体で他人を威圧するのが趣味のような男だ。この世界で自分の思い通りにならない者はないと考えているのか、絶対的な自信を周囲にまき散らしている。
さらに高野に続いてきたのは、この町のPPAの代表、白川一枝だ。町の建設会社社長の妻として高野とは長い付き合いで、高野光一郎後援会の最大の援助者でもある。そして、PPAという組織そのものの特性をよく表している女性だった。
「結果の報告を聞きに参りましたよ、校長先生?」
語尾を上げ、顎を軽く上げながら、校長を見下している。
自分の納得できない結果だったら、どうなるかわかっていますよね? とその仕草と表情で訴えていた。
「あ、あの女生徒の件でしたら……」
「自主退学となりました」
校長の言葉を石黒副市長が続ける。それに関しては校長はほっとした。
「自主退学ですか……」
ふぅん、まぁまぁですかね?
といった表情をPPAの白川は作る。
「えぇ、八巻馨は成績も悪く、素行も悪い。今回、白川様のご指摘通りに調査した結果、様々な問題行動が明るみにでましたので、本日呼び出した後に、自主退学を勧めました」
「まったく、遅いこと。あの子が問題児なんて、わたくしは最初から見抜いておりましたよ」
「申し訳ありません」
「まぁ、いいでしょう。それにしても……、高野市長?」
「なにかな、白川さん」
今度は何をいいにきたのか。
校長は覚悟を決めていた。
「この学校の敷地はあまりに広すぎるのでは?」
「そうかな? しかし、盛運高校ともなれば、この程度の広さは必要だとされているからな」
「何をいっているんです。武器を扱う人間をこれ以上増やすおつもりですか! 自警団をみればわかるでしょう。これ見よがしに武器を持ち歩き、何か不満があればすぐに銃口を向けてくる。あんな人間を生む盛運高校など、本来必要のないものですよ! それをわたくしも譲歩しているのです。わかっておられますか!」
「まぁ、落ち着きたまえ。その件に関しては考えてみることにしよう」
高野がとりあえず白川を落ち着かせ、校長はただ頭を下げる。
盛運高校は必要だと思う人間と、不必要だと思う人間。二つの妥協点など早々見付かるはずもない。
何よりも、情報の量に違いがある。
ただ、白川の言葉も理解はできた。
復興省及びVAT創設のための資金は、自衛隊、及び警察組織の縮小によってねん出された。VATの組織は基本的には自衛隊……特に陸上自衛隊とほぼ同じであるためにさしたる問題はなく、実際、VAT創設時の隊員の大半が自衛隊、及び警察組織から移動してきた人員だった。
ただし、警察組織の縮小によってできた穴を埋める必要、及び突発的に出現する吸血鬼に即座に対応する必要があったために、日本は自警団の設立を推奨し、武器の携帯という特権を与えることにしたのだ。ただし、その自警団員の加入条件を元VAT隊員、及び盛運高校の卒業生に限定した。
しかし、各地の自警団の質が年々悪くなっているのだ。町を守る側の人間が、町を荒す存在になっている。それこそ自警団に対する自警団というものが存在する町すらあるのだ。そして、この原霧市の自警団は質の悪さには定評があった。白川も何かしらの被害にあったのは間違いないのだろう。
「とにかく、生徒の質の向上は校長先生、あなたにかかっていることを忘れずに……」
「は、はい」
「では、校長、邪魔したな。石黒君、役所でまた」
「はい、市長」
副市長と校長が二人を見送るが、二人が出ていくと校長は大きく息を吐いた。
PPAの人間はどこでも変わらない。いっている言葉も的を得ているといってもいいが、白川に限れば自分の知る情報だけが真実で、それ以外の真実は存在せず、存在してはならないと信じている部分がある。
何かが危険だと知れば、それを排除することだけを要求し、それを排除した結果、何かしらの不都合が起これば、その不都合さえも非難の的にする。
別の言い方をすれば、自分は間違っておらず、間違っていないのだから、自分以外の人間が間違っている……そういうことになる。
今回の件、白川がどこで馨を知ったかはわからないが、白川は八巻馨が武器を盗んだことを知らされていない。もしそれがばれていれば、被害がどこまで伸びるかわからなかった。何しろ、以前、別の生徒が問題を起こした際は、徹底的に糾弾してきて、結局、学校側は重火器の保管量を大幅に削る羽目になったのだ。
「あの方は、有事の際……という事態を想像していないらしい……」
「……そ、そうかもしれませんな」
校長は石黒に同意はするも、自身はまっとうな思想を持っていたために、有事を考えて生活する人間などほぼ皆無であることを知っていた。そして、そういう人間ほど、『平和で穏やかな世界』が続くことを望む、ごく当たり前の人間なのだ。
「クソが……。あの女、PPAの白川だぜ」
「本当……、隣にいるのは市長?」
「だと思うけど?」
TO一二はこの学校でも一目置かれる存在であり、誰もがその座を狙うべき場所だ。そして、その座についた者達は、自分達が選ばれた人間であると信じ、選ばれた者同士の繋がりを作る。
正面玄関を見下ろせる場所にいた三人も、そんな繋がりを持っていた。
TO一二の三席、大原卓也。
TO一二の五席、若松令子。
TO一二の八席、北河大悟。
大原と若松は三年だが、北河は二年だ。しかし、TO一二にはあまり年齢の差は関係ない。
「あの白川のおかげで重火器の在庫が減らされたんだぜ? 第五倉庫なんか空っぽだ。落ちこぼれ連中が遊び場にしてやがる」
大原は唾を吐きかけんばかりに悪態をついているが、それはいつものことだ。
「大原は相変わらずPPAが嫌いね」
「なんだよ、若松は好きだっていうのか? PPAの主張通りにいっちまえば、盛運高校もなくなるぞ。ふざけるなってんだ。吸血鬼がいつ現れるかもわからねぇんだぞ!」
「そうなれば、あのおばさんも自分の命で後悔するでしょうよ」
「だからといって、見捨てるわけにはいかねぇのが、俺達だろうがよ! 好き嫌いで守る守らないを決めるわけにはいかねぇんだ!」
「そうよね、わかった。落ち着いて」
大原は自分が盛運高校の生徒であることを誇りに思っているし、国民の盾として命を賭ける覚悟もある。だからこそ、白川の主張を認められない。PPAの主張は、命をかける覚悟を持つ自分達を侮辱するものだと判断してしまうからだ。
若松はそこまで盛運高校の人間としての誇りがあるわけでもないし、PPAなどほぼ眼中にない。
なので、こうなるともっぱら抑え役になる。
「そういえば、八巻馨の自主退学の話は聞いている?」
年少である北河は少し遠慮があるのか、伺いをたてるように質問した。
が、大原が噛みつく。
「自主退学だぁ!?」
北河が迫力に押されるように半歩下がる。
「落ち着きなって、大原。仕方ないでしょ。あいつがしたことがばれたら、問題になる」
「重火器を盗んで、しかも、その重火器はいまだに行方不明なんだぞ!」
「ブラストあたりに流したのかもね」
「……ふんっ」
大原が苦々しげに顔を背ける。
「ブラストって……あれだよね。強硬論者……の」
「そうよ。弱腰の復興省、秩序のない自警団に代わって、自分達がこの国を守るんだって考えている連中。目的はともかく、非合法の組織だから、公安警察も動いているらしいわよ。しかも連中、武器を正規に入手するのも難しいから、非合法の武器を集めている……」
「だから、八巻馨の武器もブラストに流れているってことなんですか?」
「そうよ。多分ね……」
若松はほぼ確信をもって、それを肯定する。
が、大原は別のところに腹を立てていた。
「この国を守るのは復興省、ひいてはVATであって、ブラストじゃねぇ!」
ブラストの考えは大原にも理解はできる。ブラストが発足した原因の一つにPPAの存在があるのだ。『平和で穏やかな世界』。そのスローガンに従うような主張は正しいだろうが、それを後ろ盾に復興省を責め立て、予算が縮小し続けている。結果、復興省の弱体化を心配した一部の人間がブラストを作ったのだ。
同じようにPPAを嫌う大原には通じ合うものがある。しかし、そこに足を踏みこまない自制心を持つ者は必ず存在するのだ。
「でも、僕が聞いた話だと……ファウストって組織に流れているって……」
「ファウスト? 馬鹿馬鹿しい。北河、あなた、そんなの信じているの?」
「なんだ? そのファウストってのは?」
大原が首を傾げながら尋ねる。
「えっと……、自分の大事な人間が死んで、それを受け入れられなくて、原初の吸血鬼の手で蘇らせてもらおうって考えている、そういう人達のことだよ……」
「よく知っているな」
「噂で聞いただけだけど、ほとんど全員知っているんじゃないかな……」
「そうなのか?」
「うん。でも、怖いよね。吸血鬼でも、不死者でもいいから、また会いたいってことだし」
「どうかしてやがる。つまり、そいつらの目的は原初の吸血鬼の復活ってことだろ? できるかよ」
大原は切り捨てるように告げるも、若松が否定する。
「そうでもないわよ。原初の吸血鬼は死の象徴。死んだとは考えられない。単にこの世界に干渉できなくなっただけかもしれないし。それを再び、干渉できるようにするのは、できないことじゃないと思うけど?」
大原はお手上げだ。都市伝説のような話を真に受けるのも馬鹿馬鹿しいと考えて、そこで会話を打ち切った。しかし、大原の口はすぐに開かれる。
「あら、TO一二のお三人方」
「……八巻……」
「ごきげんよう」
にこやかな笑みがこれほど腹立たしく感じられたのは大原の人生で初めてだった。
「てめえ。武器を誰に売り渡しやがった」
「売ってなんかいないわよ。盗んだ後に誰かに盗まれたの」
「酷い言い訳よね」
「そうかしら。でも、実際そうだし」
「……」
大原や若松は年長者という立場もあって八巻に相対することができるが、北河は馨が苦手だった。馨の成績は悪い。それこそ最下位といってもいいくらいに悪いはずだが、なぜか超然としている。
今もそうだ。
TO一二の三席と五席相手に一歩も引き下がらない。
「てめえはいずれ、ムショの中に入るだろうぜ」
「そんなことにはならないわ」
「そういう犯罪者に限って、すぐに捕まるのよ」
「だから、捕まらないわ。捕まる前に射殺されると思うし」
「……笑っていうことかな?」
「なに、北河君。なにかいった?」
「……い、いや、何も……」
北河が自分を苦手にしていることを馨はわかっていた。なので、こうやってからかっているのだが、今回は三席の大原と、五席の若松がいる。
「敬意を示せよ、北河は八席だぞ」
「そうよ。あなたとはレベルが違う。当然、あたし達ともね。殺すなら、あたしがいずれ殺してあげるわ」
「警察官志望だったわね、若松さんは……いえ、公安警察かしら。なんにせよ、殺される準備でもしておくわ。それに北河君に敬意を示していないわけじゃないわよ。ちょっとした訓練」
「訓練だ?」
「そうよ。北河君って周囲の人間に流されそうなところがあるから。命令に服従するのと、命令に従属するのはまるで違うわよ。そうじゃない?」
「……」
大原はその言を否定はしなかった。
命令は厳守。それは当然だ。しかし、自らを律して命令厳守を貫くのと、何も考えずにただ従うのとでは、まるで違う。
確かに北河にはそういう部分があった。
「てめえなんかに訓練してもらう必要なんかねぇんだよ」
「それもそうね」
やや上を見上げながら、馨は納得してしまう。
「あなたとはこれで永遠にさよならね」
若松が清々したように告げるも、馨は否定する。
「学校は辞めるけど、この町から出ていくとは限らないでしょ。町で顔を合わせるかもしれないわよ」
「だったら、あたしを見かけたら、近づかないでちょうだい」
「がんばることにするわ。じゃあ、お三方、さよなら」
その言葉には誰も返事をしなかった。
しかし、馨から目をそらしていた北河がそれに気付いた。
「菊池君?」
「ね……馨先輩!」
菊池忍……入学直後にTO一二の一二席となった秀才だ。やや線が細いが、銃撃、格闘は優秀。情報システムに関してはこの学校で最も優秀とされ、車両等の操縦に関しては歴代でも類をみない成績を残している。
「ちっ……また菊池か」
「……相変わらずね」
「……」
菊池の実力を認めているものの、大原にせよ、若松にせよ、北河にせよ、菊池の行動は受け入れがたい。
なぜか、菊池忍は八巻馨と仲が良いのだ。
馨のほうは、一瞬、足を止めたが、振り返ることなくさっさといってしまう。
「あっ、みなさん、こんにちは……」
「おい、菊池」
「あっ……はい」
忍は馨の後を追っていたのだが、TO一二の先輩を無視するわけにはいかず、挨拶をする。が、そこで言葉をかけられてしまったので、立ち止まるしかなかった。
そうする間にも馨はずんずん進んでいく。
「お前、なんであんな奴とつるんでいるんだよ」
「TO一二としての自覚を少しはもちなさいよ」
「……君の評判を悪くするだけだよ……彼女との付き合いは……」
三人が三人とも同じことをいうのだが、忍は申し訳ないように告げた。
「で、でも、馨先輩は……大事な人なので……。縁を切ることなんてできません」
「……呆れるってんだよ、お前は」
「す、すみません、大原先輩」
「というか、あんた達って付き合っているわけ?」
「えっ? 誰とですか?」
「八巻馨」
「違います」
即答した忍だ。
しかし、返ってきたのは冷やかしだった。
「そりゃ、そうよね。あんたは奈央のお気に入りだし」
「谷崎先輩にはお世話になっていて、本当にありがたいと思っています」
その返答に、三人は別の意味で呆れた。
谷崎奈央……TO一二の次席という実力者だ。その谷崎は事あるごとに忍の世話をやいている。
はた目からみれば、好意があるとしか思えない行動だ。
しかし、忍は馨の消えた方向に目をやりながら、一度息を飲むと上目づかいに聞いてきた。
「あの……もういってもいいですか?」
「……あぁ、いけよ。お前の経歴がどうなろうと俺の知ったことじゃねぇ」
「ありがとうございます」
返答の言葉にやや食い違いがある気もするが、とにかく忍は再び馨の後を追っていった。
「奈央もあいつのどこがいいんだか……」
「本当ですよね……」
北河が珍しく自己主張したことなど、大原も若松も気付かなかった。
「馨姉さん!」
校舎裏の人気のないところで、忍はようやく馨に追いついたのだが、立ち止まった馨は言葉もなく振り返ると、背後によってきた忍の脛を蹴った。
「イタっ……」
弁慶の泣き所をキックされたのだ。痛くないはずもない。
「あんたねぇ」
その上、忍は襟首を掴まれて絞られる。
「何、あたしに学校で声をかけてんのよ。しかも、あの三人の前で。あんたはTO一二の人間で、あたしはたった今この学校を退学した不良よ。なんでわざわざ自分の評価を下げるようなことをするのよ」
「……ぼ、僕だって、好きでTO一二になったわけじゃないよ。姉さんみたいに上手く手抜きができないんだよ、僕は……」
「馬鹿馬鹿しい。いいじゃないの、手抜きしないで」
「僕は別に目立ちたくはなかったんだよ」
馨は構わず忍を突き飛ばし、忍はそこに倒れる。そして、しりもちをついた格好になった忍の前に馨が立つ。
「あんたは今いくつよ」
「一六歳……かな?」
「そうよ。ちゃんと資料に誕生日は書いてあったから間違いはないの。あんたはもう一六歳。あたしはまだ一六歳」
「同じ歳だね」
嬉しそうに忍がいうので、馨は手にした鞄で忍を殴る。
脳天に一撃を喰らった忍は、頭を押さえながら馨を見上げた。
「いい? あんたはもう一六歳。盛運高校の生徒。このままいい成績で卒業すれば、VAT隊員になってまっとうに暮らせるのよ。いいじゃないの、それで。お金も稼げるわよ」
「……お金なら、ティグニティーで稼いでいるよ……」
「別にティグニティーのトカゲの尻尾やっててもVAT隊員になれないわけじゃないのよ。どっちも同じ復興省なんだから。ティグニティーは汚れ役って感じなだけ。それにどうせあたし達は尻尾なんだから、そっちの仕事は止めても構わないのよ。あたしが上と掛け合えばすむ話よ。今までは手抜きをしててトカゲの尻尾扱いだったけど、普通にやればあんた一人分の働きなんて簡単にできるんだから」
「……」
忍はやや不満げな顔で下を向いてしまう。
その様子をみて、今度は馨がやや優しげにいう。
「あたし達は別にまっとうに暮らせないってわけじゃないのよ。死のうと生きようとどうでもいいけど、生きているならまともに平凡に生きることはできるじゃない」
「なんで、馨姉さんばかり……苦労するんだよ」
「別に苦労はしてないわよ。あたしにはできるからするだけよ」
「慶兄さんなんて、いまだに姉さんからの仕送りに頼っている」
「あのボンクラ長男はどうでもいいわよ。あたしの仕送りを飲む、打つ、買うに費やしているダメ人間なんだから。引き合いに出すなら梢ねぇを出しなさいよ。あたしの仕送りで専門学校通って、今や弁護士先生よ。桜ねぇなんて結婚して子供もいるじゃない。あんたもあたしの金でまっとうになればいいのよ」
「……」
「あのね。とりあえずあたし達は遺伝子的にいえば、人間なの。桜ねぇみたいに奇特な相手を見付けて結婚することもできるのよ。そのために戸籍まで揃えたじゃないの。あんたもいい加減、姉離れして、独り立ちしなさいよ。別に縁が切れるわけじゃないし、会いたければティグニティーの仕事の時に会えるし、あたしだって別に町を出ていくとは限らないんだから、いつでも会えるわよ。菫だって、違う学校通っているじゃない。今となっては不登校気味で、ネット麻雀に時間の大半を費やしているけど……」
「……でも、僕達は……違うじゃないか……」
「そりゃ違うわよ。この世界の中であたし達はあたし達だけよ。他にいないとは限らないけど、赤の他人のあたし達が兄妹ってことに変わりはない。それこそ、どれだけ離れた場所にいようとも、この事実は覆せない。だから、あんたとあたしが離れ離れになっても、あんたはあたしの弟で、あたしはあんたの姉であることに違いはないの。あんたがあんたの人生を選んで進んでいこうと、あたしはあんたの姉だから、いつだって好きな時に会いにいくわよ」
「……」
「……」
「……」
「……いつまで拗ねてるのよ」
結論はもうとっくに出ている。
出会ったときから常に一緒だった馨が自分のそばから放れるのが嫌なだけなのだ。しかし、姉弟だからといっても、いずれは放れるときがくるのだ。
「ここで僕も学校辞めるなんていったら、張り倒すからね?」
「……わかっているよ。そんなことはいわない。この学校……嫌いじゃないし……。VAT隊員になるのも別に嫌じゃないよ……。僕、あまり人付き合いは得意じゃないけど……普通の社会人になるよりはそっちのほうがいいから……」
「そうよ。あんたはVAT隊員になりなさい。あんたにはユリアがついている。ユリアに繋がれるのはあんただけ。そして、あたし達は全員ユリアと持ちつ持たれつの関係。ユリアから何かを望まれれば、あたし達はそれをするんだから。そういうことを考えれば、やっぱりあんたは実戦の中にいたほうがいいのよ。あんた一番よわっちいんだから、なおさらよ」
「……みんなが強すぎるんだよ」
「それはいえてるけど、少なくてもあんたは誰かを自分の力で守れるくらいに強くなりなさいよ。あたし達はあんたに守られるほど弱くないんだから」
「……わかった……」
忍が立ち上がるも、馨も忍も沈黙した。
「……このまま黙ったままにらめっこはしたくないんですけど……谷崎先輩」
仕方なさそうに馨が壁の背後にいるであろう人物の名を口にした。すると、やや躊躇いながら、そこに一人の少女が現れる。
谷崎奈央。TO一二の次席だ。
文武両道、眉目秀麗ともいえる少女だが、なぜか忍のことを常に気にかけてくれていた。
なので馨としても、邪険にできない相手だ。
「……自主退学ですって? 自業自得ね」
精一杯。
馨は笑むのを堪えるしかなかった。
馨は谷崎を好意的に見ているも、谷崎のほうは馨を嫌っている。それ自体は馨にはどうでもいいことだが、奈央は性格的に善人なので、嫌味をいいたくても、その程度しかいえないのだ。
「まぁ、泥棒ですから」
「犯罪者ね」
「そうですね」
TO一二の首席である堀内に対しても馨は面と向かって話せるが、この谷崎は相手が難しい。
というよりも、人を嫌うという行為になれていない谷崎が精一杯、嫌おうとして言葉を選んでいるのだ。が、上手くはいっていない。
「あたしはもう帰ります。というか、退学なので」
「そうね……」
「……とりあえず、あたしがいうことじゃないですけど……」
「なに?」
「あたしと忍は姉弟のようなもので、恋人ではないですよ」
「そ、そんなことは聞いてないわ!」
「あたしも聞かれた覚えはありませんよ。なので、こんな出来の悪い姉の頼みで申し訳ないですが……、忍のことお願いしますね」
「……あなたにいわれなくたって……」
「じゃ、さようなら」
馨は谷崎の言葉を待つことなく、そのままそこを立ち去り、盛運高校を後にする。
「……」
「……えっと……谷崎先輩?」
なぜか沈黙する谷崎に、忍は恐る恐る声をかける。
目を掛けてもらっていると周囲の人間はいうのだが、忍は谷崎に怒られる記憶しかなかった。
「姉弟って何?」
口調も視線も厳しい。詰問されていると判断するしかない。
「えっと、血の繋がりはないです。でも、小さい頃から一緒に育ってきたので……」
「一緒に育ったって、どういうこと?」
やはり詰問だ。
しかし、正確には答えられない。
谷崎が知る必要のないことだ。
「孤児院のようなところです。僕も馨姉さんも両親はいませんから。他にも両親のない子供が七人。九人の兄妹です」
「両親……いないの……?」
「いません」
忍ははっきりと告げるが、ふと谷崎は違和感を覚える。忍の言葉にも表情にも、そこには何も……悲しみも、寂しさも……そう、何の感情もなかった。
「他のご兄弟は?」
馨と親しいのだ。だったら、他の兄妹とも親しいだろうと思い選択した質問だったが、これは幸い成功した。
「僕は末っ子なんですけど、上の兄妹達はそれぞれ別の場所に住んでいます。でも、僕のすぐ上の姉……馨姉さんと、もう一人の姉さんはこの町に住んでいますよ」
「……どんな人? あの人のことはいいわよ」
とりあえず、牽制はする。
「もう一人は岩倉菫っていいまして、王羅高校に通っています」
「王羅? 町で一番の進学校じゃないの?」
「そうなんですか? ……その辺りはよくわからないですけど……、菫姉さんは……喋らないわけじゃないんですけど、無口で、無表情で、昔からなぜかネット麻雀にはまっています」
「……あなたの説明は、よくわからないことがわかったわ」
「……すみません」
結局、最終的に謝罪する忍であった。
王羅高校は、この町の進学校で町の中では伝統もあり、進学率も高い。別な言い方をすれば、その学校の生徒の大半が町を出ていく……と言い換えられるかもしれない。
放課後。
その王羅高校に通う岩倉菫は、歩きながら携帯端末を使って麻雀をしていた。
協調性もなく、行動力もなく、掃除は嫌い。話をしても通じず、何を考えているのかわからない。それがクラスメイトの感想だ。
しかも、成績は優秀なのによく学校を欠席し、今日は進路相談室に呼び出されて、『欠席が多すぎる』と説教をされた。このままだとまた留年といわれてしまっている。
つまり、菫はすでに留年していた。
『ネット麻雀に興じて留年している』
そんな評を忍が口にすれば、谷崎も菫の人物像がやや思い浮かべやすかったに違いない。
留年していることもあるのか、それともその性質のためか、菫はあまり友人らしい友人はいなかった。幸いなのは、話しかければ返事はする……という当たり前のことぐらいだ。
そのときも同様だった。
「岩倉さん」
「?」
麻雀の手を止めて岩倉は声の主を見る。
相手は秋吉緋真。
菫のクラスメイトだ。家は国内有数の資産家で、それこそ令嬢という言葉が似合う少女だった。
「何?」
真っ直ぐに秋吉をみて問うと、秋吉は校舎のほうに目をむける。
「小島さんが校舎裏に連れていかれたわ」
「なんで、それをあたしに?」
「友達じゃないの?」
「?」
友達……?
その言葉は菫にはあまり理解できないものだった。
兄妹ならわかる。大切な存在だ。が、友人となると、どういう関係が友人に値するのかよくわからない。
「友人なの?」
「違うの?」
秋吉が逆に首を傾げる。
小島小枝香は、菫や秋吉と同じクラスだが、非常に内気な少女で、菫と同じように友人らしい友人はいない。内気がそのまま暗いという表現に当てはまってしまい、さらに誰も覚えていないような些細なことが原因で不良集団に目をつけられてしまっている。
菫は、小島ともう一人が夜の公園で話しているのを何度かみかけたことがあるだけでしかなかった。その際に何のためらいもなくその前を通りかかるので、何度か会話はした。
その程度だ。
しかも、その際には、共にいたはずの少女は消えている。
「小島さん、アルバイトしているんじゃない?」
「……」
唐突な秋吉の問いに、それが事実だと知っている菫は沈黙する。
「大丈夫、告げ口はしないわ。夜に、どこかの違法なBARでアルバイト。多分、それをあの人達は知っているのよ。それで、お金を取り上げようとしているんじゃないかしら」
「……」
金は大事だ。
馨が常々いっていることだ。
この学校に通えているのも、他の兄妹がこの社会で生きているのも、全ては馨の行動力と生活力があったためでもある。
それを考えれば小島がされようとしていることを許すわけにはいかないという結論に結びつく。
「ありがとう」
「いくの?」
「いかせたかったんじゃないの?」
「……まぁ、そうなっちゃうわね……」
友人に友人の危機を伝える。
それをしただけだが、確かにその行為は、その友人も危険な目に合わせるということにもなる。
ただし、菫からすればそこに危険があるとは露程も思っていなかった。
校舎裏には、一〇人ほどの男女がいた。大半は男子生徒だったが、その男子生徒が輪を作り、小島小枝香を小突きまわしている。
一人の少年が小枝香を押し、別の少年がまた押す。まるでボールのように小枝香が男達に遊ばれていた。
「ほら、ちゃんと跳ね回れよ」
「倒れたら承知しねぇぞ」
「楽しませろよ」
「ほらよ」
彼らにとっては単なる遊びだ。
小島小枝香という人間を使った遊び。
そして、遊びの代償を求めるのも少年達だった。
「おら、いい加減に金出せよ。遊んでやっているんだからよ」
「金稼いでいるんだろ? 知っているぜ。どこでバイトしているか」
「根暗なお前と遊んでやっているんだ。ありがたいだろ?」
「遊んでやってる代金払えばいいんだよ」
少年達が笑いながら小枝香で遊ぶが、小枝香は手にしたバックを抱えながら決して放さない。
それでも小枝香の口から拒絶の言葉は出てこなかった。
そこまでの強い言葉を彼女は口にすることもできず、ただ、この遊びが終わってくれることを望むしかない。だが、終わるはずがない。彼らの要求は金なのだから。
「面倒くせ。いいから、さっさと金貰っちまおうぜ」
「だな。飽きてきた」
遊びが終わるも、小枝香はいまだに少年達に囲まれている。逃げ場などない。小枝香はただ下を向いたままバックを抱きかかえるだけだ。
しかし、すむはずもない。
一人の少年がバックに手を伸ばし、無理やり取ろうとする。
こうなれば小枝香には抵抗などできるはずもなく、抱きしめていたバックがついに奪われる。
「まったく手間かけさせんなよ」
バックを奪った少年は、そのまま小枝香を蹴り飛ばし、そのバックの中身を探る。
しかし、そこまでだった。
「『平和で穏やかな世界』ってスローガン……知ってる?」
知らない?
疑問符を顔に浮かべた菫がゆっくりと少年達に向かってくる。
「なんだ、おめえ」
「……友人?」
「あぁ? こいつのか? いたのかよ」
「いや、俺知ってるって。こいつ留年した女だ」
「留年かよ。なっさけねぇ」
「いいや。おい、おめえも金持ってるか?」
しかし菫は少年達の言葉など気にもせず、耳にも入っておらず、小枝香に手をかすと立ち上がらせた。
その上で、スカートの埃を落としてやる。
「こんなもの?」
「……ぁ……」
菫の言葉は小枝香に向けられたもので、小枝香もそれがわかって返事をしようとするも駄目だった。
「後は……バック返して?」
「あぁ? お前、マジで馬鹿だな」
「おい、こいつでも遊ぼうぜ」
「いいね。馬鹿はどこまで耐えられるか、調べてみようぜ」
「おいっ、てめえは邪魔だ」
小枝香が少年に腕を取られ、輪の中から放り出される。
「……?」
何をされるのか。
少年達に取り囲まれて菫が思うのは、それだけだ。
「ほら、ボール、ちゃんと向こうに跳べよ」
少年が菫の背を蹴ろうとするのだが、その蹴りは当たらず、予想していた反動を受けられなかった少年が、前につんのめる。
「おいおい、何してんだ?」
「蹴りぐらい、ちゃんと入れろよ」
「こういう風にやるんだよ!」
別の少年が代わりに菫を蹴ろうとするも、それもまた空振りし、その場にまた少年が倒れる。
「あぁ?」
おかしいと気付く。
二人が連続して蹴りを外すことなんてありえない。
しかし、それが異常であることには気付けなかった。
「買い物にいかなくちゃいけないから、無理やり取ることにする」
「おめえよ、なめてんじゃ……」
拳を振り下ろした少年は、空振りしたことよりも、その拳の痛みに反応した。
「いてぇ!」
ぼたぼたぼた……と、地面に血が垂れ流される。
「……お、おい」
「ちょ……」
血を流す少年に気を回す余裕が、他の少年達にはなかった。彼の視線は菫に向かう。正確には、手にしたナイフに……。
非常に刃渡りの短いナイフで、どこかに隠し持っていたのだろう。
「てめぇ……ふざけてんじゃ……」
だが、少年達はさすがに気付く。
菫の瞳には、怯えも、恐れも、快楽も、何もない。
人を切ることに関して、何一つ震わせる感情がない目が、じっと自分達を見ているのだ。
「おいっ、冗談……」
人を切ることに感情を動かすことがないのなら、人を切ることに躊躇をするはずもない。
ましてこちらが語りかけるのを待ってくれるはずもない。
……菫を取り囲んでいた全員の身体から血が流される。
一瞬なのか、数秒なのか。そんなことすら浮かばない。気付いたときには痛みが走っていた。それだけだ。
そして、それをしただろう菫は落ちたバックを拾い上げる。
「世界のスローガン。忘れないでね」
「……」
淡々と、ただの忠告。
脅しでもなんでもない。
お釣り忘れましたよ……その程度の言葉……。
だからこそ、少年達は感じることができた。
岩倉菫の不気味さを……。
これは自分達とは違う存在である事実を……。
「あ、ありがとう……ございました」
バックを取り返してもらった小枝香が、帰り道の途上でようやくその言葉を口にした。
長い長い間があったが、菫は気にもしていない。
「別にいい」
それだけだ。
まさにどうでもいいといった感じで、それを証明するように菫は端末で麻雀をしている。
「……何も聞かないんですか?」
「……?」
「……あたし……のバイト先知っていますよね……」
「知っているけど? でも、どうでもいい」
「……そうなんですか?」
「そう」
どうしていじめられているのか。
反撃しないのか。
なぜ夜の公園にいるのか。
なんであんな店でバイトをしているのか。
小枝香は菫と何度か会話をしたこともあったし、今日は助けられた。なので、そんな質問が自然に出てくるものと思ったが、菫は何も聞かなかった。
自分を助けてくれたことに関し、何も思っていないのかと思うほどだ。
「強いんですね、菫さん。……でも、あの人達……」
「傷は浅い。血はよく出たけど、出血に反比例して傷口は浅くてすむ場所を選んだから」
「そうなんですか?」
「そう」
なんで、そんなことまで知っているのか。
冷静に考えれば、そんな問いも出てきただろうが、小枝香はそれを思い浮かぶことはなかった。
二人はそのまま無言のまま歩いていく。二人とも家が同じ方向なのだ。だからこそ、夜食の買い出しに行く菫とバイト上がりの小枝香は公園で出会うのだ。
しかし、途上のバス停で菫は足を止めた。
「あたし、バスでモールいくから」
「あっ、はい」
この近辺で買い出しをするとなれば、そこしかないことを小枝香もよくわかっていた。小枝香自身も自転車でよく買い出しにいっている。自転車がなければバスを利用するのは不思議でもなんでもない。
そう思い、小枝香が軽く頭を下げようとしたとき、バスがやってくる。菫が自然前に進み出たが、小枝香が気付いた。
「菫さん。あれ、盛運高校のバスですよ」
「……?」
ゲームに熱中していた菫が顔を上げると、確かに自分の前に止まったバスが盛運高校のバスであることがわかった。そして、当たり前のように、学生がそこから降りてくる。
「……大きいですよね……」
盛運高校の送迎バスは、市営バスと比べても大きく、頑丈そうに見える。乗ったことがわからないのでよくわからないが、窓には網のようなものが張ってあった。
「盛運高校のバスは特別」
「乗ったことあるんですか?」
「知っているだけ。この町に覚醒吸血鬼が現れた場合、盛運高校のバスは護送車として運用される。吸血鬼の襲撃から乗っている人間を守れるように、頑丈に作られているの」
「……」
「よく……知っているんですね。でも、吸血鬼なんて、年に三回ぐらいしか出現しないみたいですし……。この町でそんなこと……そもそも出現ってどういうことなんでしょう……、いまだに原因不明らしいですけど……」
そこで菫は小枝香をじっと見る。
「本当に脅威がないというのなら、VATはとうの昔に解体されているし、ユリアシステムも必要ない。『平和で穏やかな世界』なんてスローガンもいらない。だから、何かあったら、あたしにいえばいい」
「……それってどういう……そういえばさっき覚醒吸血鬼って……。覚醒って……なんですか?」
「知らなくていいこと。口が滑っただけ。忘れて」
無理なことをいう。
しかし、小枝香は聞くのは止めた……。聞いても答えず、聞き出すほど押しが強くないことを小枝香自身がわかっているからだ。
「それと」
「はい?」
「あの公園は気をつけて」
「……何をですか?」
「あの公園の近くには自警団の支部がある。あの支部にいる自警団の中にはゲスな奴が二人いるって馨がいっていた。確か、落合と藤本……だったと思う。自警団の服は目立つから、その人達が近寄ってきたら、すぐに離れたほうがいい」
「……は、はい」
心配のしすぎ……とは小枝香は思わなかった。
この町の自警団はとにかく評判が悪いのだ。ただ、あの公園にそんな人達がいるとは思っていなかったので、小枝香は素直に感謝して、小さく頭を下げる。
すると、そこで小枝香の端末がなった。どうやら電話だったようだが、それはすぐに切れる。だが、着信は残っていたのか、それに目を通した小枝香は、もう一度菫に頭を下げる。
「ありがとうございました」
「うん」
菫はすでに端末に目を落とし、半ば生返事だったが、小枝香はそれを気にすることなく菫と別れ、小走りに駆けていく。
吸血鬼大戦以後も首都の役割を果たしている東京。その果てに存在する自衛隊の駐屯基地で、対吸血鬼に関わる者達の定例会議が行われようとしている。
あくまでも事務者レベルの会議であるが、継続的な計画に関してはここで決定していると思っても間違いはなく、かといって公にするわけにもいかないために部外者の立ち入りが難しい場所で会議は行われている。
定例会議が行われるその会議室には合計六つの席が用意されていた。
内閣府に属する吸血鬼対策室、復興省に属するVAT、同じく復興省に属するティグニティー、外務省に属する対外対策室、防衛省に属する陸上自衛隊、公安警察に属するSAP。
その六つが国内に存在する対吸血鬼の組織だ。
吸血鬼大戦から一〇〇年。日本における対吸血鬼の組織図はいく度かの変革を経てその六つの組織にひとまず収束していた。
本来ならば復興省が対吸血鬼に対する組織として唯一無二であってしかるべきだが、それぞれの思惑もあり復興省とはまるで異なる組織が存在するに至っている。
外務省には復興省の横やりを嫌って作られた対外対策室が存在し、その傘下に諜報室とVAT精鋭にも劣らない実行部隊が存在している。また、吸血鬼という人とは異なる存在、死に近く、永遠に近しい存在を研究するための組織も存在し、それらは復興省に属するティグニティーの管轄であるが、それとは異なる研究を行おうとする者が存在し、結果、それらは各法人の形をとり内閣府直轄の吸血鬼対策室の管轄下に置かれている。
それ以外にも、各省庁に幅広い捜査権を持つにいたる公安組織にも対吸血鬼に特化した部署であるSAPが存在し、多くの権限が奪われた防衛省の陸上自衛隊も最近では力を増し、発言力が強まっていた。
しかし、それらの組織は決して協力関係にあるわけではない。それこそ、同じ復興省に属するVATとティグニティーでさえ上手くいっているとはいえないのだ。いや、限りある予算を奪いあう仲としては上手くいっているのかもしれないが、何にせよ、友情を確かめ合うような仲では決してない。
それどころか、足を引っ張りあうのが当然の関係なのだ。
夜間に近いその時間、六つの椅子が埋まり、各組織の実質的なトップがそこに顔を揃えるものの表情は険しい。
それも当然だろう。
今回の話し合いの内容が内容だ。
「……パラドックスがまた出た」
その言葉が出てくると、そこにいたほとんどの人間の表情が苦虫を噛み潰したような顔を作る。
それはそうだ。何しろパラドックスは犯罪者なのだから。
しかし、起点はそれでも、続く言葉はいつもの会話になってしまう。
「今度はどこがやられたと?」
「吸血鬼対策室の管轄にある研究所だ」
「吸血鬼対策室……か。伏魔殿というべきじゃないかな?」
「果たして、どんな研究をしているのか……。政権が代わる度に献金元の企業や団体の意向に沿った法人、研究所が作られているからな」
「ティグニティーの君にいわれたくもないだろう」
「こちらは形を整えるだけで、予算からはほとんど金は出ていないからな。目くじらを立てる必要もない」
「なんにせよ、無粋な輩だな、研究者というのは。結局のところ連中を倒すのはニンニクでも十字架でも、科学でも、オカルトでもなく、純粋な力だ」
「オカルトは省くべきだろうな。ユリアの壁は完全にオカルトの範疇だ」
「そんなことより、陸自のあなたは最近ではよく喋るようになったことだな」
「陸上三課……通称ファングだったか? たった二年ほどで少数精鋭の部隊を作り上げ、VATに対抗できるようになったのはいいが、それを作り上げたのはならず者の傭兵であって、あなたではないはずだが?」
「……無用な話はいい」
ひとまず内閣府直属の吸血鬼対策室の人間が、侮蔑のキャッチボールを止め、自らの恥を告白する。
「先ほどの言葉通り、私の管轄下の研究所が狙われた。研究中の品を奪われ、後に連絡があった」
「『買い取れ』……か」
「その通りだ」
「まぁ、他の国や企業、研究所に売られるよりはマシだが……」
「自分達の人材や情報や研究成果を自分達の金で買い取るのだからな……腹立たしい限りだ」
ほとんどの人間が同意の意を示すが、ただ一人、陸自の人間が口を出してくる。
「警備はどうなっていたんだ?」
「連中に警備など意味があるか。奴らは中の人間を脅して施設内に入るのだからな」
「人間の警備はどうなっていると聞いている」
「陸自のあなたも数年前からそこにいたはずだが?」
「落ち着け、陸上自衛隊は被害にあっていないからな、話など聞いてはいなかったのだろうさ」
投げやりな言葉だが、ティグニティーの壮年の男が陸自の男をじっと見詰めながら言い放つ。
「いいたくもないが、パラドックスの連中は手練れだ。VATの精鋭にも劣るまい。それだけの腕を持つ人間が、主義主張を持たずに金目当てで手当たり次第に施設を襲い、金目の物を奪っていく。どこを狙うのかわかっていればこちらも手練れを用意するが、それができない。運よく手練れの警備を置いた施設を襲ったときもあったが……」
「結局、こちらの精鋭も意味をなさなかった」
「恨みは深いし、損失もでかいが……」
「まぁ、要求してくる金額は当初こそ無茶なものだったが、最近では適正な金額だし、人的な被害も少ない」
「パラドックスの連中のために費用をかけるよりも、放置して金を払ったほうがマシだという状況だ」
「公安の人間のセリフとはいえんな」
「連中は金目当ての犯罪者であって、それ以上の害にはなるまい。下手に本腰を入れても時間と費用と人材を無駄にする」
「ということだ、わかったかね」
ティグニティーの男は今でもその男をじっと見詰めていることもあり、陸自の男はそれ以上口を挟まなかった。
一〇年近くティグニティーという暗部のトップとして存在している男の目は、睨む必要もなく、相手を威圧する力があるのだ。
「公安の考えは同意するが、さすがにこれだけ被害が重なると上の人間の耳にも届く。捜査中で留めることができなくなる前に、多少なりとも行動を起こすべきだろう」
「無駄なことだと思うがな」
「いっそスカウトでもしたらどうだ? あれだけの手練れだ。使い道はあろう」
「奴らの今の稼ぎ以上に金を払えるか? 交渉ができる材料が現時点でこちらにはない」
「……何もしないわけにもいかないか」
「そういうことだな」
VAT総隊長の男が嘆息しながら頷き、ひとまずの結論が出たところで、彼らは次なる議題に移るが、その議題は中途で終わることになることを彼らはまだ知らない。
声が聞こえていた。
杉沢春海の耳にはただ、声が聞こえてくる。
『こちらにこい』
『この世界を死に満たせ』
『死の世界の構築こそが、我が望み』
『我が因子を受け継ぎし娘よ』
『その世界のために、目覚めるがいい』
何重にも聞こえる声は、同じ声だ。
どこから聞こえてくるのかもわからなかったが、それでも聞こえてくるのは確かなのだ。
震える身体を春海は自分の手で押さえつける。
まだ、駄目だ。
まだ、駄目だ。
まだ、駄目だ。
堪え続け、耐え続け、抗えない何かに必死に抗う。
それでも脳裏は働くのだ。
あぁ、そうなのか。
そうだったのか……。
だから、この世界は……。
杉沢春海は、この世界の真実を知ったからこそ、そこに向かう。
自分の唯一の友人である小島小枝香と会うために……その公園に……彼女は向かう。
小島小枝香の両親は小枝香が幼い頃に他界した。父親の弟が後見人を務めてはいるが、小枝香とは折り合いが悪く、小枝香はこの町で一人で暮らしている。しかも両親の保険金は本来小枝香のもののはずだったが、未成年であったことを理由に後見人たる叔父が管理していた。
しかし、小枝香は薄々感じていた。
そのお金はもうないのだろうと……。
両親が残してくれたお金は、自分の元にはこないのだろう……と。
だから小枝香は、現実を受け入れ、自分のためにお金を稼ぐことにした。未成年の自分が働けて、お金が稼げる場所。
そんな理由であの店を選んだ。
お酒だけではなく、ドラッグも売る店。
そこで小枝香はバイトを続けて学費を稼いでいた。
なんで自分がこんな目に……そう思わない日はなかったが、その日、杉沢春海と出会って、自分は自分の足で立てるだけまだマシだと……そう思ってしまった。
杉沢春海は、両親から虐待を受けていた。
初めて出会ったときの春海をみて、小枝香は一瞬で悟った。この子には何もないのだと……。
やせ細り、ボロボロの服をきて、酷い臭いを漂わせている。
春海はほとんど監禁されていた。自分の部屋から出ることは許されず、食い残しの食料を与えられ、排尿もその部屋で済ませる。服は何年も同じもの。洗濯してもらうこともなく、ゴミもそのまま放置された。
それはもはや人間に対する扱いではなかった。
その日、春海は月明かりに誘われるように、前日の台風で壊れた窓から家を出て、ふらふらと通りを歩き、この公園にやってきたのだ。
そこで小枝香と春海は出会った……。
「でも、あたしも小枝香も……子供で……無力で……何もなかった……」
日が暮れようかというその時間、小枝香の前に苦しそうな顔をした春海がいた。
「春海……どうしたの?」
普通ではない。
家を抜け出すのは両親が寝入った深夜だけだ。
この時間に抜け出すことはなかった。
「ごめんね、小枝香……」
「……」
何かがおかしい。
絶対におかしい。
小枝香は、自然震えていた。
「『平和で穏やかな世界』。あなたに教えてもらったそのスローガンの意味……あたしわかったよ……。そうならなければ、そうしなければ、この世界にはあたしのような人間が溢れかえり、そして、飲み込まれてしまうんだよ……」
「……」
スローガンの意味。
それは菫もいったことだ。
「……原初の吸血鬼は……頭に響く声の主は、敗北なんて……していなかった。より深く、より根強く、この世界に根を下ろした……」
「……春海……何……いってるの……」
「あたしは……原初の吸血鬼の……因子を持っている……。その因子を持った人間が追いつめられて、その心が限界まで押し潰されたとき、その因子が目覚める。それをさせないためのスローガン」
「……」
春海がゆっくりと立ち上がり、そして、手にしたものを小枝香の前に放る。
それは包丁だった……。
「人間として……なんていわない。あたしは人間として認められていないから。でも、不死なんてものもいらない。永遠なんていらない」
小枝香は、落とされた包丁と春海を交互に見る。
全身が震えている。
何を意味しているのか、何をいおうとしているのか、察してしまったのだ。
いわないで。
いわないで。
いわないで。
そう必死に願うも、それは無駄だ。
「だから……」
春海は今まで見たことのないほど穏やかな顔で告げる。
「だから、小枝香……あたしを殺して……」
予想していた言葉が突きつけられる。
小枝香は春海のためにできることをしたかった。だが、春海の言う通り、自分達は弱すぎるのだ。だから、助けられなかった。
その結果がこれだ。
理由などどうでもいい。何が起こっているのかなどどうでもいい。自分は春海の願いを聞かなくてはいけない。どんな願いでも……適えたいと、小枝香は思っていた。
だが、殺すことなんて……できなかった。
「春海……ごめん……ごめんなさい」
殺すべきなのだと……。きっとそれが春海を解放する方法なのだと……。直感がそう告げている。春海もそれを願っている。
しかし、小枝香にはそれができなかった。
なぜなら……それをしてしまえば……自分は一人ぼっちになってしまうから……。
小枝香は自分のために、春海の願いを叶えることができなかった。だが……春海もわかっていたのだ。小枝香を一人にしてしまうことを……。
それでも、時は待たない。声は止まない。身体の中にある、何かを抑えることなどできはしなかった。
『さぁ、目覚めよ。我が娘よ』
その声が、人間としての自分を保っていた最後の糸を切り取った。
「あぁぁぁぁあああ!」
小枝香の前で春海がもだえ苦しむ。
しかし、その苦しさとは正反対に、薄汚れていた身体に張りが戻り、ボロボロの髪に艶が宿る。それでも、その身にわずかに残されていた生気は逆に消えていく。
あぁ、これが……。これが……吸血鬼……。
小枝香は、その場に崩れ、その涙を拭うこともできずにそれを確信した。
そして、その瞬間に、あの言葉が思い出される。
『覚醒吸血鬼』
菫の言葉が、春海のその姿と重なった……。
時間にすれば数秒程度。その数秒で、全てが変わった。
歩くことも立つこともギリギリだった春海は、そこに真っ直ぐ力強く立つ。しかし、その身に生気はなく、瞳孔が開いている。。
「……ごめんなさい……小枝香。あたしはもう一度あなたに願う。どうか、いずれあたしを殺しにきて……。あたしは絶対にあなた以外には殺されたくはないから……」
その言葉を残して、春海の姿は一瞬でそこから消えた。
警報のような電子音がその会議室に鳴り響く。
それは復興省直属のVATの総隊長、及びティグニティーの男の持つ携帯端末のものだ。
この会議室でそれが鳴り響いたことはなかったが、他の四人はその反応の速さに驚く。何しろ、鳴り響いたと感じたのは四人で、当事者の二人は即座に行動に出たからだ。
ティグニティーの男は携帯を片手にその部屋を出ていき、VAT総隊長は即座に別の端末を取り出し、それをテーブルに置くとスピーカーにした状態で復興省VAT本部へと繫ぎ、繋がったと同時に連絡相手が叫ぶように告げてくる。
「原霧市にて、覚醒吸血鬼の反応を確認しました! ユリアシステム作動。ユリアの壁が原霧市全域をカバー!」
他の四人はその言を聞いて金縛りにあったように動きが止まるが、総隊長は即座に質問する。
「現在の担当者はどの隊だ」
「大石隊長のデルタ部隊です!」
「至急準備を! 準備が整った班から、順次原霧市に向かい、覚醒吸血鬼を消滅せよ!」
「了解!」
隠された真実は、明かされることはない。
しかし、そこにいる者達はそれを知っている。そして、原霧市の人間もまたそれを知ることになるだろう。だが、その真実を知るとき、その者達はその命を危険にさらしているのだ。
原初の吸血鬼が残した世界の傷跡は、いまだに血を流し続ける。
第二章
原霧市を横切る国道沿いにあるアミューズメントパークで二人は偶然顔を合わせた。
顔を合わせたというよりも、TO一二の次席、谷崎奈央が一方的に私服姿の八巻馨を発見し、声をかけるかどうか悩んでいたのだ。
谷崎は、次席としての役目として盛運高校の風紀維持のため見回りにきただけなのだ。見回りといっても、別にここで遊ぶななどと細かいことはいわない。目に余る行動でもしなければ滅多に声をかけることなどなかった。
馨はその店で明らかに暇つぶしをしています的な態度で、コインゲームを行っていただけで、声をかける理由がなかった。そもそも馨は今日をもって盛運高校を退学している。なおさら声をかける理由はない。
が、菊池忍に関して聞きたいことがあったのだ。本人にきけないことでも、当人を知っている人間に話を聞くことはできる。あまり、したくはなかったことではあったし、馨がそのことを話そうとしないというなら、それ以上、聞くのは止めるつもりだった。
とはいえ、谷崎は馨が嫌いだ。というよりも、かなり苦手にしている。苦手意識が強すぎて、嫌いという感情に変化しているようなものだ。
ゆえに、じっと馨をある意味監視していたのだが、馨のほうはその視線に初めから気付いていた。かといって馨から話しかける理由など、谷崎以上になかった。それでも視線が消えない。
多少は忍耐として気付かないふりをしていたが、さすがにもう無理……と馨は振り返り、谷崎を発見したふりをする。
あくまでも今気付いたであって、何見ているの? との真実は隠した。
だが、しかし。
そこで店内に、ある音が鳴り響いた。携帯端末のアラームだ。聞いたことのないアラームが店内にいた全ての客の携帯でなっている。緊急速報。その重なり合う音を谷崎は知っている。盛運高校の生徒は、その音を聞かされ、その意味を教えられていた。
つまり、この近辺で吸血鬼が出現した……との意味だ。
谷崎は瞬間パニックになる。
吸血鬼?
そんなまさか……。
世界中の多くの人間が、この場にいれば谷崎と同じ感想を抱いたに違いない。
吸血鬼は滅んだ。確かにまれに吸血鬼が発見されることはある。が、それは非常に稀だ。そんな稀なことが、この町で?
そう思うのも無理はない。しかし、その少女は誰よりも早かった。
「こっちきて」
「えっ?」
いつの間にか馨が傍らにおり、谷崎の腕を引いて女子トイレに向かって歩き出す。
「ちょ、どういうことよ」
「どうもこうも、その制服はまずいでしょ」
谷崎は何が何やらわからない。どう行動すればいいのかもわからない。思い出せない。
それは仕方もないことだ。まだ一分も過ぎていないのだ。即座に動くのは無理がある。
トイレには幸い誰もいなかったが、そこで馨が自分の服を脱ぎ放つ。
「ほら、あなたも脱いで。服を変えないと駄目よ」
「えっ? えっ?」
何が何やらわからない。戸惑う谷崎の前で、馨は上着を一枚脱ぎ去る。
「何しているのよ」
「だ、だって……どういうことよ」
ややいらつきながら、馨は一旦息を吐く。
「いい? あなたは盛運高校の次席でしょ。だったら覚えているはずね。盛運学生は吸血鬼が発生した場合、民間人ではなく、準民間兵士として扱われる。つまり盛運高校の生徒はVATの指揮下に入ることになる」
「ちょっと、待って……本当に吸血鬼が?」
「そうよ。警報がなったでしょ。この町はもう『ユリアの壁』が張り巡らされて、町民は外には出られない」
「ユリアの……壁……」
「そうよ、教えてもらったでしょ。吸血鬼大戦の終結は、原初の吸血鬼の消滅日をさしている。でも、原初の吸血鬼によって広がった吸血鬼、不死者は大戦終結後も生き延びていて、それに対抗する方法として、人間は『ユリアシステム』を開発したのよ。それは、吸血鬼、不死者の存在を世界規模で観測する装置で、そいつらが確認された場合、周囲に『ユリアの壁』っていうバリアっていうか、とにかく透明の壁を張り巡らせて、奴らの行動範囲を限定するの。その上でVATを壁の内部に侵入させ、吸血鬼、不死者を消滅させる」
「……そんな。でも、吸血鬼は……」
「吸血鬼が突然発見される場合がある……そう聞かされているでしょ。ほとんど報道にのらないけど、実際にその報道は目に入っているはずよ。それが今、ここで起こった。そして、報道で見るような穏やかな解決に至るとは限らないし、実際のところ、そんなことはありえない。報道ではそう流しているだけで、大なり小なり、混乱と犠牲はでるものなの。結局のところ、国民の元に届く情報は検閲されたものなのよ」
「検閲?」
「全ての電子上の情報は、一旦、復興省のマザーコンピューターに通される。そこで都合の悪いことは隠されるのよ。このあたりのことは報道各社も知っていることで、そうしなければいけない理由があるから、みんなも同意の上なの。情報統制が行われているのよ」
「そんなの聞いてないわ!」
「当たり前。あなたは生徒なんだから。でもVATの隊員になれば最初に聞かされる程度の話なのよ。実際に日本でも、世界でも、吸血鬼は確認されている。でも、その情報は『平和で穏やかな世界』のスローガンに基づいてソフトな情報に置き換えられている。だから、ギリギリのところで復興省はもっているのよ。とにかく、いい、聞きなさい」
馨が真剣な目で谷崎の肩を握り、その目を見る。
「いい? 盛運高校の人間は準民間兵士として扱われるけど、一般市民に対する指揮監督権はない。覚えている?」
「……あっ……うん……そうだった」
「そうなのよ。以前、よその盛運学生の指示に従った民間人が大量に死んでしまったから、そういうふうになってしまったの。でも、民間人は自分達よりも知識がある盛運学生に指示を求める。ここにいるのは若い連中だから、なおさらよ。でも指示を求められても、あなたには指示をする権利がないの」
「……」
「あなたのことだから、みんなのことを思って何かしらの指示をしなくてはいけないと判断してしまうけど、あなたにはその権利はないし、あなたにだって、どうすればいいのかわからないでしょ?」
「……」
実際、わからない。
「だから、まずは着替えて。その制服はここでは駄目よ。でも、後で必要になるだろうから、隠してて」
馨はほぼ無理やり谷崎の制服を脱がせ、自分が着ていた服を着せる。そして、脱がした制服を折りたたみ、それを谷崎に持たせた。
「こ、これから、どうすれば……」
いっぺんに情報を叩き込まれた谷崎は呆然と馨に指示を仰ぐも、馨はすでに携帯で誰かに連絡をとっていた。
「忍? えぇ、あたしは大丈夫。それより、あんたどこ? ……警察署? よかった、ラッキーね。いい、そこにいなさいよ。合流してもらうから」
そこで馨は一方的に電話を切った。
「谷崎さん」
「な、何?」
「頼みたいことがあるの」
「えっ?」
「ここから少しいったところにある警察署。そこに忍がいるわ」
「……」
「あなたに忍を守ってほしい。あたしにはやることがあるから、あたしにはできない。頼める? あたしの大事な弟なのよ」
「……う、うん」
谷崎は小さく頷いた。
「そう、よかった。じゃあ、頼むわね。統計的に考えれば、まず大丈夫だと思うわ」
「……統計的? 絶対じゃないんだね?」
「……少しは冷静になったみたいね……」
統計的、確立。
そんな表現を使おうと、所詮は数を元にしている。そして、その数字は単一の数字だけで構成されるわけがない。
大きな数字もあれば、小さな数字もある。
「運が悪ければ……どうなるの?」
「……さぁ?」
馨は笑みを浮かべながら、そこを出ていく。
だが、谷崎はわかった。その笑みは、最悪の結果を知っている笑みだということを……。
緊急警報は全ての携帯で鳴り響くことになっている。当然、盛運高校TO一二の首席、堀内の携帯も同様だ。
彼の場合、学校を出てしばらくした後に携帯が鳴り始め、多くのものと同じようにその警報を疑い、呆然としたが、すぐに気を取り戻し学校に引き返した。
盛運高校の生徒は、緊急時にはVATの手足となって動く。
その一言を堀内は思い出したのだ。
そして、たどり着いた学校において、堀内は即座にTO一二の三席である大原、五席の若松を発見した。
「堀内!」
「二人ともいたか」
「学校に残っていたから」
大原も若松もやや落ち着きがない。しかし、今は有事。TO一二の腕章、バッチを付けた人間は落ち着いていなければいけないことを彼らはわきまえていた。
なにしろ、学校に戻ってきた生徒達は自分達をみているのだから。
「他の連中は?」
「わからない。というか、どうするんだ、こういう場合。放課後だぞ」
「……それはすぐに教職員に確認する。いいか、基本を思い出せ。有事の際には盛運学生はVATの手足となって動くことが決められている。VATはすでに出動準備に取り掛かっているはずだ。その到着と同時に、俺達は彼らの指揮下に入ることになる。俺達がするべきは、即座に彼らの指揮下に入れるように学生を統括することだ。お前達は校庭に学生を集めさせて、人数を確認しておけ」
堀内の指示に大原、若松は頷いた。
そして、その指示は確かに的確だった。
教職員側は大騒ぎになっていた。本来、堀内が指示することを自分達がしなければいけなかったのだが、それさえも忘れ、教職員は生徒の居場所を確認していた。
あくまでも確認で、学校に呼びよせることはしない。もしそんなことをして、途上で生徒が吸血鬼に襲われれば、それは学校側の責任になるのだ。
基本的に自宅にいる者は自宅。自宅近くにいる者は即座に自宅に戻る。自宅以外の場所にいる者はもよりの公共施設、警察署、消防署、市役所等に向かわせていた。
盛運学生も自警団もVATの指揮下に入り、手足となって動くことが定められている。双方共に武器を持っているために、吸血鬼に対する戦力に数えてもいい。しかし、VAT到着までに自分勝手に動くことは基本禁じられていた。
もし彼らが勝手に動き、民間人に死傷者が出れば問題が大きくなる。
訓練されていない、常に吸血鬼に対する覚悟をもっているわけではない。そんな人間達に武器を持たせ、独自に動けと命じるのは、危険な行為だ。
堀内が職員室にやってきたが教職員はそれどころではない。しかし、堀内も引き返すわけにはいかない。
その場にいた校長を無理やり捕まえて、堀内は訴える。
「この場にいない生徒を集めるべきです。VATが到着した際に、手足の数が多ければ多いほうがいい。通学用のバスは装甲車並に強固ですから、教職員の誰かに運転してもらい、こちらから生徒を集めるべきです。VATが到着してからでは遅すぎる」
「……そ、そうだな。確かに、指示書にはそうある……だが……、それは二次警報の後だ」
「……二次警報……」
堀内が言葉を繰り返したとき、もう一度警報がなった。
携帯を開くと、今度は強制的に地図が表示される。
それは『ユリアシステム』を介したもので、吸血鬼が発生した場所を示していた。
「これだ。これが二次警報だ。この周辺にいる者は自宅に籠れ。吸血鬼は招かれていない家には入れないからな」
招かれていない家には入れない。
それが吸血鬼の弱点であった。
吸血鬼は死の象徴。しかし、家や住まいは生者の領域なのだ。家の中に死体を埋葬する者はない。つまり、家の外と内は、長い年月の間、生者と死者の場所として区分けされ続けているのだ。
当然のように人は両者を区分けしており、実際に、生者の領域に死者は招かれない限り足を踏み入れられない。
「いいか、堀内君。この地図を見て行動するんだ。このマークから外れている生徒を回収することが君の役目だ」
「わかりました」
「決して、学生の自由行動を許すな」
「はい」
校長は堀内に続いて、数人の教師を選抜し、バスを運転するように告げた。
校庭に出た堀内は、大原と若松を呼び寄せた。
「俺と若松は、バスを利用して散り散りになった生徒を回収してくる。大原は生徒の統制を続けてくれ」
「わかった」
「わかったわ」
堀内はそのまま武器庫へと向かっていく。
そこにはすでに教師がおり、やってきた堀内、若松に重火器等の一式を手渡した。
そのまま二人はバスのある駐車場に向かうも、そこで堀内の携帯が鳴り響いた。
この携帯は、堀内は気付いていないが、市内通信しか使用できなくなっている。これもまた情報統制のいっかんだった。
堀内の携帯に連絡してきたのは、北河だ。
「北河か、今、どこだ?」
「今、あの……公園……です」
電話口の北河が恐る恐る答えてくる。
その声と公園という言葉に堀内は反応した。
「まさか、吸血鬼の発生地点か!」
「は、はい。自警団の支部があって、そこで重火器を入手し……」
「お前は盛運高校の学生だぞ! 俺達の役目はVATの手足となって動くことであって、勝手な判断で吸血鬼を倒すことではない! いいか、これからバスでそちらに向かう。下手なことはするな。いいな!」
「は……はい」
堀内の激昂に北河が怯えながら返事をした。
二次警報は、あくまでも吸血鬼が確認されたポイントを中心に半径二〇〇メートルを円で囲んだものに過ぎない。
つまり、現在地ではないのだ。
これもまた懸念から定められたことだ。
VATが到着するよりも先に、詳細な吸血鬼の居場所を随時知らせれば、盛運学生や自警団が勝手に動き回り統制がとれなくなる。
統制がとれないだけならまだしも、独自の判断で勝手に動いた自警団や盛運学生が、民間人に危害を及ぼす可能性があるのだ。傷つかなくてもいい民間人が、好き勝手な行動をとる者達に傷つけられる。これは最悪の結果といえる。それを避けるために、VATが到着するまでは最低限の情報しか盛運高校にも自警団にも知らされることはない。
発生ポイントを知らせたのは、その地点にいる者達に外出するな……と警告するためだ。
そして、その円の中にいた者は、感染している疑いがもっとも高いことを意味する。
堀内の乗ったバスが吸血鬼の発生場所にたどり着いたのは一〇分後だった。
「ここで吸血鬼が?」
どういうことだ。突然、こんなところに出現した?
真実をいまだに知らない堀内には、理解できないことでもあった。ただ、堀内はわずかに自分が高揚するのを感じている。
もしこの近くにまだ吸血鬼がいるとしたら……。自分は首席。仕留められるはずだ……。そんな気持ちが堀内の中に流れる。その気持ちは誤りの始まりではあるが、いまだに未成熟といえる若者である以上、仕方ないといえる。
ただ、それを自制できなければ盛運学生ではないのだ。
堀内は高揚を抑えつつ、周囲を捜索した。
すると公園近くのファミレスの駐車場で、堀内は北河を発見した。よくみれば、他にも数人の盛運学生がいる。
「北河!」
「せ、先輩」
「……」
近づく堀内は、その場で北河を殴りつけたい衝動に駆られた。
規則では盛運学生が単独で吸血鬼を追うことは禁じられている。しかし、北河は英雄にでもなったつもりなのか、勝手に動いた。
TO一二の八席としては最悪の選択だ。しかし、堀内は激情を抑える。
「バスを囲め。この周辺にいる学生もここに集めさせた。もし吸血鬼がきても対応できるようにな」
「わ、わかりました」
北河や他の生徒も、激昂していることが即座にわかる堀内を前にして、ああだこうだはいえなかった。しかし、堀内が北河を止めた。
「北河!」
「は、はい!」
「なんだ、あれは!」
ファミレスは三方を道路に囲まれているが、公園と反対方向に延びる道路に倒れている人影があった。
「あっ、あれは……」
堀内がその人影に近づき、北河が後を追う。だが、近づくごとに嫌な予想があたる。その人影は怪我人だ。それは倒れているのだから、わかる。当然だ。しかし堀内が最初に気付いたのは人影の背後の壁だ。
「これは銃痕ではないのか?」
「……」
「お前か!」
「ち、違います!」
北河が慌てて否定する。
倒れた人間は肩口から出血している。その傷の手当はすでに盛運学生がしていたのだろう。しかし、問題は、銃を使用したということは、怪我をさせたのは人間であろうということだ。
よく見れば、頭にも暴行された痕がある。
「どういうことだ」
「……じ、自警団の男の人達が……」
「勝手に動いているというのか!」
「は、はい。自分達の手で吸血鬼を殺すって……」
「馬鹿なことを……どっちに向かった」
「あ、あっちです」
「ついてこい。後方の確認を怠るな!」
堀内は北河が指示した方向に走り出した。しかし、いたるところに怪我人が溢れている。皆、ここを通りかかったものだろう。
角を一つ。二つ。三つ。四つ過ぎようとしたところで、堀内は発見した。
現実感を喪失し、この場所を見学しにきた若いカップルに対し、二人の大男が銃口を向けている。
「おい、お前等人間か?」
「ちげえだろ。こいつらだ、こいつら。二人そろって、吸血鬼だ」
「そうなのか、おい?」
銃口を突きつけられた男女はその場に崩れ落ちて、ただただ震えていた。
「何をしているんだ、あんた達は!」
「あぁん?」
「けっ、学生かよ。邪魔すんじゃねぇ。俺らは吸血鬼退治に忙しいんだよ!」
「何をいっている。自警団はVATの指揮下に入ることが決められているだろう! 貴様らの名はなんという!」
「ガキが偉そうに」
男は躊躇することなく、ライフルを堀内に向けてくるが、堀内の銃口もまた男達を狙っていた。
堀内と対峙している男二人は、一部の人間にとっては有名な二人組。藤本英吾と落合満だった。この町の自警団の評判をガタ落ちさせている張本人であり、その評判通り、いや、それ以上のことをしでかしている。
「何してんだ、ガキ」
「民間人を守るのが自警団の仕事のはずだ!」
「だから、守ってやってんだろ? こいつらは吸血鬼だってんだよ。もしくは、その感染者だ。こんなところにいるんだからな」
「吸血鬼に襲われ、血を吸われた人間は、その場で昏倒し、一~三時間眠りに入る。その程度の基礎も忘れたのか! 警報からまだ一時間もたっていない。感染していたら、この二人は意識があるわけがない」
「けっ、お利口さんか。おい、落合、いくぞ。ガキに構ってられねぇや」
「だな。よかったな、おめえら」
男女のカップルにそう言い放ちながら、落合は大きな動きでライフルを上に構え、そのまま引き金を引いた。
その轟音に男女のカップルが悲鳴を上げ、堀内は憎々しげに二人を見る。
「自警団はVATの指揮下に入らなければならないはずだ」
「うるせぇ坊主だ。あのな、坊主。吸血鬼なんてのは頭を撃っちまえばもう一度死ぬんだよ。VATがくるまでその吸血鬼に人間様が襲われるだろうが。いいのか、それでよ、坊主。えぇ? VATがくるまでの間の犠牲者を無視するってのか?」
「……それは……」
「犠牲者を減らすためには、早々に吸血鬼を殺せばいいんだよ。そんな簡単なこともわからねぇのか?」
「困った坊主だぜ」
「……なら、聞くが、ここに至るまでに見た怪我人をどう説明するつもりだ」
「なぁに、吸血鬼か確認するためにぶん殴ってやったのさ。本当の吸血鬼だったら、あんな程度で気を失いやしねぇ」
「さっさと殺して、さっさとこんな事態を終わらせるのが、俺達自警団の仕事だろうが」
「じゃあな、坊主。吸血鬼は俺達が殺してやるよ」
藤本と落合は大きな笑い声をあげて、そこを去っていく。
「……お前達もさっさと家に戻れ! 警報が鳴ったのに、なぜこんなところにいるんだ!」
その場にいたカップルにいら立ちをぶつける堀内の心は穏やかではなく、逃げ去るカップルを見詰めながら、二人の男の言葉を反芻する。
VATが到着するまでの犠牲は無視するのか?
落合はそういった。そして、それに対する返答が堀内の中にはない。
無視するのか……そう問われれば、無視するとしかいえないのだ。だが、しかし……自分の手には武器がある。この武器を扱う術を自分は持っている。その技量もある。
目の前に吸血鬼がいれば、自分なら……。そんな気持ちが堀内の中にうずまく。
そのとき、携帯が鳴った。相手は次席の谷崎だ。
「堀内だ。……谷崎か、今、どこにいる?」
「警察署よ。近くの施設がここだったから」
「警察か……」
堀内は、確認をとるだけはとったが、二の次は告げない。
先に異変を感じたのは谷崎だ。
「最悪の事態を考えて、堀内君。最悪の事態は、状況の悪化よ。吸血鬼が溢れれば、多くの犠牲者が出る。そのとき、VATが即座に対応するためにはあたし達の協力が不可欠になるわ」
「……」
「それに今、吸血鬼がどこにいるかは誰にもわからない。一人一人が勝手な判断でたった一人を見付けるなんて、できはしないわ。運頼みで全員が動くというの? もう夜になりかけている。夜は吸血鬼の世界。どこにいるかもわからない夜の吸血鬼を相手に、たった一人で、運頼みで、戦えるはずがない。それに、誰かが倒すというのなら、それはVATでいい。あたし達は、被害を最小に抑える盾。多くの人を守るために動けるのはあたし達なのよ」
こうしている間にも犠牲者は出ているかもしれない。
だが、確かに今は夜。吸血鬼は夜と昼ではその身体能力に多大な差が出る。場所もわからず、闇雲に探し回っても見付かるとは限らず、見付けても倒せるとは限らない。
「自覚して。あなたは首席なの。皆の模範とならなければいけないのよ」
「……そうだな……その通りだ」
自分は首席。その自分が勝手に動き回れば、それを見た生徒も勝手に動き回るかもしれない。そうすれば、VATは手足を失う。堀内はようやく冷静になった。
「すまなかった。ありがとう、谷崎。後で迎えにいく。それまでそちらで待機していてくれ」
「了解」
谷崎からの連絡が切れ、堀内はバスに戻る。
すでにそこには一〇名近い学生が乗り込んでいた。帰宅路だったり、家が近辺だったりした周辺の生徒達だ。その生徒達を見回しながら、TO一二首席らしく、堀内は次なる目的地を運転主たる教師に告げた。
町は混乱の只中にあった。
大半の人間が吸血鬼の出現などありえないと考えていたのだ。そこに緊急警報、二次警報によって吸血鬼の出現場所が明らかにされた。つまりは疑う余地など存在しない警報が放たれたのだ。
吸血鬼大戦から約一〇〇年が経過しているために人の吸血鬼に対する危機意識は欠落してはいるものの、吸血鬼に関する知識は義務教育内で現在までも教えられている。
『身体能力は人間の数倍。力も動きも人間が対抗できるようなものではない。そして、その身体能力は夜間になればなるほど強まり、逆に昼間の吸血鬼は並みの人間程度の力しかない』
『死の象徴たる吸血鬼、不死者は、生者の領域である住居には招かれない限り入ることはできない』
『吸血鬼に血を吸われた人間は、その直後に一時間から三時間ほど意識を喪失し、約三日の潜伏期間を経て人間としての生を失い、吸血鬼、もしくは不死者になる。その間、感染しているかどうかの判別方法はいまだに発見されてはいない。同時に人間から吸血鬼への変化は水面下で穏やかに行われ、当事者でさえ、最後の瞬間まで気付かない場合が多い』
『吸血鬼は人の血を吸うが、その傷跡は非常に小さく、また吸血鬼の唾液には治癒効果がわずかにあり、噛まれた後の確認はほぼ不可能』
『吸血鬼は人間の血を吸うが、食料というわけではなく、習性に近い。不死者の場合は血肉を喰らうという表現が最も適切』
『吸血鬼と不死者の違いは知能の差でしかないが、不死者の動きや行動は単純で、その身体能力を活かすことはほぼない。逆に吸血鬼は知性を保っているために動きも行動も複雑になる』
『ユリアシステムによって築かれるユリアの壁がどのような方法で作られているのかは最重要機密となっているが、それは透明なバリアのようなもので、吸血鬼や不死者と共に人間も閉じ込めるという物理的な作用を及ぼすものである。また地域によってどの程度の範囲を囲むかは事前に設定されている。ただし、システムにアクセスすることでVAT等の出入りは可能となっている』
『吸血鬼に血を吸われた人間が吸血鬼になった場合、自分の血を吸った吸血鬼の影響、つまりは思考パターンが受け継がれる』
今の時代の子供達はこういった知識を小学校~中学校にかけて少しずつ教えられていくために吸血鬼に対する知識は豊富だ。
だが、吸血鬼大戦のおりに原初の吸血鬼は消滅。大戦終結後の掃討戦で吸血鬼や不死者はそのほとんど全てが殺された。にも関わらず、なぜ吸血鬼が出現するのかという謎はいまだに解明されていない。
国内だけでも年に数回、吸血鬼の出現報道がなされるものの、その大半がVATによって即座に鎮圧されるし、報道そのものも詳しいことは流さず、情報の波にすぐにかき消される。
現場となった町のリアルの声はほとんど伝わらず、結局、噂のような感じで人々の耳に届くのがせいぜいだ。
結果、現代の人間の意識としては、吸血鬼の出現はありえても、自分達には何の関係もないという認識があった。
それでも一部の人間は吸血鬼の脅威に向き合い自衛のために家に閉じこもっていたが、すでに外にいた者、他者が解決することを無責任に期待する者、そもそも脅威と考えない者はいまだに町中に溢れている。
そして、他者に依存する大衆によって警察署は混乱の極みにあった。
警察の役目はVATの行動をサポートするために、好き勝手に行動している人間を抑え付けて指示に従わせることだ。それがマニュアルに書かれていた行動であり、今回のような緊急事態で警察が果たすべき役割でもある。そのために、このような場合は、それ以外の一切の通常業務を打ち切って、市民の管理監督に努めることになっていたのだが、それができないでいる。
『緊急警報は嘘なのか本当なのか』
『吸血鬼などいるのか』
『町から出られるのか』
『町の外との連絡が通じないのはなぜか』
『家まで送ってくれ』
『町から出られないという話は本当か』
『吸血鬼は今どこにいる』
『どこが安全なのか』
『近所の人間がきっと吸血鬼だ』
『誰かが感染している』
自分の行動指針を他者に求める者が、警察に殺到している。
しかし、それらの問題に関しては『落ち着いてください』と答えるしかない。それもVATがくるまでの辛抱だ。VATがくれば正確な情報が与えられ、行動指針ができる。それまでは吸血鬼の居場所もわからないために下手な指示はできないのだ。当然、追い出すわけにもいかない。ただし、最大の問題が警察の混乱に拍車をかけた。
自警団の犯罪行為だ。
盛運学生も自警団もVATの到着までにすることは、VAT到着と同時に速やかにその手足となれるように準備しておくことで、決して独断で吸血鬼を探し、倒すことではない。
まして、単なる民間人を勝手に吸血鬼と決めつけて暴行を加えるような行為は許容できるわけがない。こんな蛮行はマニュアルには存在しない。
暴徒の鎮圧ならまだいいが、重火器を装備した自警団の行為を放置するわけにはいかない。吸血鬼に加えて市民を守る側である自警団までが、この原霧市においては敵となっているようなものだ。
自警団の暴力行為を許容できるような人間などいるはずもなく、その犯罪行為を止めるように訴えてくる市民や、電話が殺到してしまい、もはや警察は身動きが取れなくなっていた。
警察官達は集まってくる市民を落ち着かせることで精一杯。忍もそこにきた際は、それに協力し、警察署の建物内に避難してきた民間人を誘導していたのだが、そのスペースもなくなりつつあり、集まってくる民間人はもはや案内なしに勝手に中に入っていく。
忍のようにここに集まってきた盛運学生にできるのは、重火器のある部屋や、立ち入り禁止区域に一般人が入らないように立ち塞がることだけだ。
そして、忍は今、一階にある経理課の前に立っていた。いかに緊急事態だとしても、金の置き場所に市民を入れるわけにもいかなかった。とはいえ、市民がさらに増えればそこも解放することになるだろう。
忍はじっと混乱状態の一階広場を見守っていたが、一時的にそこを放れていた谷崎が戻ってくる。TO一二次席の谷崎は、忍の姉とされる馨の忠告通り忍と行動をともにしていたが、忍の提案を聞き、一旦そこを放れていた。
「……あなたのいった通りだったわ……。堀内君……勝手に行動しようとしていた……」
「堀内さんは責任感が強いですから。こんな状況では、その責任感が悪いほうに向かうのかもしれませんね」
「そうね……」
「それに……堀内さんは……吸血鬼を知らない」
忍はじっと人ごみを見詰めており、ほぼ無意識で言葉を口にしていた。しかし、谷崎はきちんと話を聞いているのだ。
「あなたは知っているの?」
疑問と非難が混じりあった言葉だ。谷崎は吸血鬼を知らない。当然、忍も知らないはずだ。
「えっ? ……あぁ、それは想像できますよ。僕達は盛運学生。対人ではなく、対吸血鬼用の戦闘訓練を積んでいますから。僕達は常に集団戦闘の訓練をしています。格闘も習いますが、基本は集団で吸血鬼を囲んだ上での射撃でしょう?」
「そうだけど……」
「つまり、個人で吸血鬼に対抗するのはほぼ不可能ってことです……」
「そうね……」
筋は通っているが、どうしても谷崎は納得できない。しかし、それ以上突っ込むことはできなかった。だから、わずかに話をそらす。
「大混乱ね……自警団が勝手に吸血鬼を探していて、民間人にも被害が及んでいるらしいわ。それに、吸血鬼はすでに人間を襲っているって話もある」
「ですね。おそらく接触したと考えられる人間は隔離するでしょう。どんな町にもそういう場合の隔離施設がありますし、そこに入れられると思います。そして、三日間軟禁され、吸血鬼化しない人は解放される。しばらく混乱は続くでしょうが、発生した吸血鬼の居場所はユリアシステムですぐに感知されますから、VATは先手を打てますよ」
「……ユリアシステムって、何なのかしらね。そんなすぐに吸血鬼を感知するなんて。それにユリアの壁って……、今の科学でそんなことまでできるのかしら……噂じゃ衛星を使用しているとか、大気にナノマシンを散布しているとかいうけど……」
「……さぁ、なんでしょうね……。ただ、僕が思うに吸血鬼が現代科学で解き明かされないのと同じで、ユリアシステムも現代科学の外側にあると思いますよ」
「……オカルトね……」
「そうですね」
忍の相槌に呼応したのか、大きな音と共に警察署内部の電気が一斉に消えた。
「な、なに?」
慌てて天井を見上げ、次いで音のした方向をみた谷崎は、窓越しに何か黒い影を見た。
「……あれ……」
黒い影に一瞬目を奪われた谷崎だが、それに気を取られている暇はない。
眼前、歩道に建っていた電信柱が倒れていくのだ。
「……まさか、今の……」
電信柱が自然に倒れるなどありえない。しかも、あの黒い影。
瞬間で、谷崎はその二つを結びつけた。
「吸血鬼!」
出現した吸血鬼が、電信柱を破壊した。
谷崎が慌てて黒い影、つまりは吸血鬼を追おうとしたのだが、その肩を忍が握っていた。
「追っても無駄です。すでに逃げた……」
「……」
谷崎は振り返り忍を見る。そこで彼女は見る。今までぼんやりとした印象しかなかった忍の顔が引きしまっていることに。
「あなた……」
「……?」
自分の顔を見て顔を強張らせていることに気付いた忍は、再び、静かに笑みを浮かべた。
「追いつきませんよ。焦っては駄目です」
「……そ、そうね……」
そんな返事しか返せなかった谷崎だった。
忍の義理の姉の一人である岩倉菫が緊急警報を聞いたのは、バスの中だった。幸い、バスは目的地のモールで一旦停車したので、菫は勝手にバスを降りる。
バスの運行中に緊急警報がなった場合の対処は、それこそ臨機応変なところがある。役所や公共施設に向かえとマニュアルにあっても、そのまま進めば自宅に帰れる者もいる。逆に遠ざかる者もいる。公共機関まではるかに遠い場所を走るバスもある。そもそもそこまで向かうことができるのかもわからない。
さらにバスという移動車両は今後重要になるために、いずれはVATの指揮下で運用されることになっている。
つまり、バス会社の運転手に対するマニュアルは基本的に本部に戻れだ。しかし、客を乗せているために、臨機応変に……となっていた。それでも、運転手に課された義務があった。
ゆえに、運転手はもよりの停留所で止まった上で、客に判断を任せる。このバスはこのまま本部に戻る。ここで降りるか、それとも本部まで向かうか、判断を任せるのだ。
自宅からバスに乗った客にとっては災難ではあるが、この状況で通常運行させるわけにもいかない。それは運転手の生命にかかわるし、下手な行動で客を死なせるわけにもいかないのだ。
菫がバスを降りたと同時に、残った客と運転手の間で口論になってはいたが、菫が関わることではなかった。
店内に入ると、やはり戸惑う客達が溢れていたが、菫は構うことなく、次々に品物をカゴに入れていく。
「おい、女子高生が倒れているぞ」
「こっちにも男性が倒れている。救急車を呼べ」
どこかでそんな声が響くも、菫はシカトだ。
買占めにならない程度の量の食糧を入れたカゴをセルフレジに持っていき会計をすませる。
何よりも先に備蓄だ。水と食料。食料に関しても保存のきくものが最優先だった。
どうにか食料を買い込んだ菫は重たい袋を両手に持ちながら店内を出ようとしたのだが、入れ違いに、武装した盛運学生が店内に入ってくる。
菫はふと足を止めた。確認はできなかった。それでも気になったのだ。
引き返した菫の眼前には人だかりができている。おそらくは先ほどの盛運学生を中心にしているのだろう。
準民間兵士である盛運学生が武装して現れたのだ。自分達に何かしらの指示を与えにきたのだろうと客達は判断していたし、それは無理もない。
しかし、その盛運学生はそれをしにきたわけではなかった。
モールの一角にあるベンチには意識を失った数人の客が寝かされており、救急車を待っていたところだった。心配した数人の客が心配そうに傍らにいたのだが、盛運学生を見て安堵する。
「あっ、あの、この人達が……」
「わかってます」
やや焦った様子の女学生は、意識を失った客達の身体を見るが、これといった傷はなかった。脈もある。
「ど、どうですか?」
「……」
無言で盛運学生の女生徒は銃口を寝ている女子高生に向けると、その銃弾を放った。
銃弾(・・)を(・)放った(・・・)の(・)だ(・)。
物に放ったわけでも、天井に向けたわけでもない。
人の頭に向けて銃を放ったのだ。
一瞬だけその場に沈黙が漂ったが、即座に悲鳴が鳴り響く。
目の前で人が殺されたのだ。しかも、同じ銃声が、二度、三度と放たれる。
その女学生は、躊躇することもなく、そこで意識を失っていた客を殺害していった。
「な、何をしているんだ、お前!」
目の前で人が殺害された。しかも、学生。少女がだ。殺される理由などない。救急車を待っているのだ。にもかかわらず、盛運学生はその相手を殺した。
激昂する客がいてもなんらおかしいことではない。
その声に押されるように、もともと少女を取り囲んでいた客から、相反する怒号が互いに投げつけられる。
「やっぱりこいつらは感染していたんだ!」
「どこにそんな証拠がある! 噛み痕あとなどはなかったぞ」
「吸血鬼に噛まれた痕はすぐに塞がってしまうために発見不可能だと教わっただろうが!」
「だとすれば、感染していたかどうかわからないはずだ」
「そんなことより、あなたは、人を殺して何も思わないの!」
「一体どうなっているの!」
意識を失っていたのは吸血鬼に感染していたからだと判断するもの。
何が起こっているのかわからずに呆然とするもの。
少女の行為に逆上するもの。
そして、怯えるもの。
しかし、盛運学生の次なる行動で統一の見解に達することになる。
『なぜ殺した』と怒号を放ちながら詰め寄ってきた男に、その学生はそのまま銃弾を放ったのだ。しかも、その男だけではなく、背後や、横に迫ってきた客を数人、一度に殺害した。
「あなた達も感染しているんでしょ! ここにいる全員、感染者に決まっている!」
錯乱していた。後に客達はそう証言する。
だが、錯乱していようとなんであろうと、盛運学生が民間人を殺害したのは事実だった。
その女生徒は、自分の前に立つ客に対し無差別に発砲し、道を開けさせる。
結果がどうなるかは明らかだ。
その店は、その客達は、パニックに陥り、誰も彼もが錯乱するかのように逃げ惑った。そして、その人ごみが消えたとき、その状況を作り出した盛運学生の少女は姿を消していた。
菫は直接、それを見ることは叶わなかった。人ごみを押しのけて、少女を確認することはできなかったのだ。
「……手強い……」
そう呟きながら、菫はその瞳に一八人の死体を刻むと、そのままモールを出ていく。
さすがに町中の人影は徐々に少なくなっていた。しかし、会社から自宅に帰るものもいるし、買い出しに向かうものもいる。何が起こったのか把握できないものもいた。
それでも少しずつ町の人間は、この町に吸血鬼が現れたことを実感していくのだ。
これから籠城でもするか。
ある意味、籠城する気満々の菫は、ほぼあえて、その公園を横切ることにした。
そこは吸血鬼の出現場所となっているが、その辺りの人影は自警団の人間か、野次馬だけだ。
その状況は明らかに統制を欠くものであったが菫は気にすることもなく、公園を歩き、やはりという感じで少女を見付ける。
人目に付きにくいベンチに、小島小枝香が座っていた。
「……」
菫が小枝香の前に立つと、小枝香がゆっくりと頭を上げ、その姿を確認する。
「岩倉……さん……」
「菫でいい」
「……」
名前の呼び方などどうでもいい。そんな表情を小枝香は浮かべる。
そして、何が小枝香の心を支配しているのか……菫にはある程度わかっていた。だから、問いただすこともなく、告げる。
「小枝香さんは、両親と暮らしているの?」
「……」
小枝香は首を振る。そして、ぼそりという。
「呼び捨てでいいよ」
名の呼び方を訂正されたので、こちらもそれをする。
まるで惰性のような行為だったが、それさえも菫にはどうでもいい。
「あたしの家にくる?」
「……」
そこで小枝香の表情が少しだけ変わった。
そして、菫は小枝香の瞳をじっと見返しながら告げた。
「スローガンの意味はわかった?」
「……!」
小枝香の目が少しだけ大きくなる。
「特定の人間が、その心を他者の手によってすり潰され、もはやすり潰される心をなくそうとするとき、その人達は覚醒して……覚醒吸血鬼と呼ばれる」
「……」
どうして知っているの? などという無駄なことを口にはしない。ただ、やはり知っているんだ……とだけ思った。
「……」
「あなたはあたしと一緒にいたほうがいい」
わざわざ荷物を足元に置いた菫が、小枝香に手を伸ばす。
そして、小枝香は……ゆっくりとであったが、その手を取るのだ。
吸血鬼が出現してから三時間後。
VATの第一陣の乗るヘリが原霧市に入ってきた。
その軍事用のヘリには二〇人の選抜隊員が乗っていたのだが、その中でもVAT隊長の大石衛は信じたくもない情報ばかりを聞かされていた。そして、それが解消されることなく、彼らを乗せたヘリは盛運高校の校庭に降りたったのだ。
盛運高校は復興省の管轄下にある高校であるし、重火器や車両も揃っている。いずれ別の場所に本部を置くことになるだろうが、最初の拠点としてはふさわしい場所だった。
ヘリが校庭に降り、そこから隊長の大石衛、副隊長の竹林凌平、隊員の須山凌平らが降りてくる。それらを出迎えたのは、市長の高野光一郎だった。しかし、彼は会った直後に言い放つ。
「早く我が町に現れた吸血鬼を殺してくれ。それに自警団の連中だ。あの連中、私に対しても暴行を加えてきたんだぞ! VATの隊長は誰だ。はやく私を安全な場所に移動させたまえ!」
町民に対するように市長の高野は言い放つのだが、VAT隊長の大石は市長を無視した。
「至急、覚醒吸血鬼の居場所を特定しろ。盛運高校の校長はどこに!」
「おい、君! 何をいっているんだ。私は市長だぞ!」
自警団に襲われたという市長の話は真実なのだろう。頭に大きな傷があるようで巻かれた包帯には血がにじんでいる。
だが、市長の高野が何を訴えようと大石は取り合わず、副隊長の竹林が市長に声をかける。
「市長の高野氏ですね。あなたは市役所に戻り、市職員を取りまとめてください。こちらからも人員を派遣しますが、今後も情報が必要になります。そのとき、役所が混乱状況にあっては困るのです」
「な、何をいっているのだ。私を早く、退避させんか」
「できません」
竹林はそれだけを告げると、隊員を呼び出し、高野を役所に送り、そのままそこに留まるように告げた。
「待て、私は……」
「あなたは私とこちらへ。車両はどこにある!」
高野は自分の発言をすべて無視されたまま、隊員に引きずられていく。
一方、隊長の大石に呼び出された校長は、TO一二の首席堀内と共に前に進み出た。
「お早いご到着ありがとうございます」
「車両等の用意は?」
「してあります。重火器のほうはあちらの倉庫にありますが、いかがしますか?」
大石は校長に手渡されたこの学校の地図を、背後に控えていた隊員に渡す。
「重火器は後で結構。今は車両が先です」
「了解しました」
「私達は、どうすればよろしいでしょうか、隊長殿」
「君は?」
「TO一二首席、堀内純です」
「……信頼できる者だけを連れて行動を共にしろ。連絡役などもしてもらわなければいけない」
「信頼できる者だけですか……?」
その発言には、大石の怒号が響いてきた。
「君達は何も知らないのか!」
VAT隊員は、その声になんら反応することなく着実に準備を進めている。ヘリも次々に校庭に降り立ち、次々にVAT隊員が増えていく。
その誰もが、大石の激怒のわけを知っていた。
知らないのは、立ち竦む校長と堀内だ。
「この町はどうなっている! 自警団が民間人に暴行を働き、さらに盛運学生が民間人を殺害したという報告まで入っているぞ!」
「そ、そんな……」
「ま、間違いでは……」
「こんな状態では自警団も使えず、君達盛運学生も使えない! 我々だけでやるしかない!」
「……」
「……」
二人は絶句したままだ。自警団のことは知っていたが、まさか盛運学生が民間人を殺害など信じられなかった。
しかし、事実なのだ。
怒鳴り声を上げた大石は、大きく息を吐くと冷静に告げた。
「自警団も盛運学生も今は指揮下に入れるわけにはいかない。何をするかわからないからな。首席の君のデータはある。だから、君達、TO一二は信じよう。だが、大半の学生は、今は待機だ。わかったな」
「……は、はい……」
堀内は呆然と返事をするしかなかった。自分が何をしたわけではないが、怒りと恥辱が全身を巡っていく……。盛運学生の民間人の殺害。状況は堀内にとって最悪だった。
「覚醒吸血鬼の居場所が判明しました」
副隊長の竹林が小型の電子モニターを隊長の大石に渡し、
「ここは、どこかわかるか?」
と、校長と堀内に見せた。答えたのは堀内だった。
「アミューズメントパークです」
「……そうか。発現場所からだいぶ移動しているな……。行動のトレース作業が手こずるか……。まぁいい。とにかく今は覚醒吸血鬼が先だ」
隊長大石は、そこに集まった隊員にそれぞれ指示を与え、隊員達は、自分達が何をするのかをわきまえているかのように、用意された車両に乗り込むと、覚醒吸血鬼がいるアミューズメントパークに向かった。
堀内もその後に続く。
移動中の車内で、堀内は隊長の大石に問いただした。
「一つ、質問してもよろしいでしょうか……」
「……」
「覚醒吸血鬼とは、なんですか……」
「……そうだな。学生には知らされていなかったか。VAT隊員になれば、最初に教えられることだ。この世界の真実を……。国民には知らされていない真実をな……」
『平和で穏やかな世界』
その世界的なスローガンは、この世界を守るために必要不可欠なものであることを一部の人間は共有していた。
吸血鬼大戦で人間側は勝利した。
それが人間としての歴史だが、実際は違うのだ。
確かに原初の吸血鬼は滅ぼした。ユリアという存在の協力を得て、確かに原初の吸血鬼は滅びたのだが、それはこの物理世界に干渉できなくしたというだけであって、本当の意味で死んではいない。
そもそも、死の象徴である原初の吸血鬼を殺すことなど不可能なのだ。それでも、干渉ができないのであれば、確かに勝利とはいえる。
当然、誰もが最初はそう思った。誰もが、吸血鬼大戦での人間側の勝利を疑わなかった。だが、違うのだ。違っていたのだ。吸血鬼大戦という、世界を滅ぼしかねない戦いは、原初の吸血鬼にとっては囮でしかなかったことを後に人間は知る。
人間はユリアという存在を味方につけた。
物量にも秀で、大量殺戮の兵器もある。個人で扱える重火器の威力も強力だ。何よりも、人間は自分を守るために他人を殺すことを厭わない。
そんな計算が働いたのか、それとも最初からだったのか……。
原初の吸血鬼は、大戦初期に世界各地で吸血鬼を誕生させ、それを世界に解き放ちながら、その計画を実行した。
因子。
人間でいえば遺伝子というべきもの。
原初の吸血鬼は、吸血鬼大戦の裏で多くの人間に自らの因子を埋め込んだのだ。
終戦後にそれに気付いた時には遅かった。嫌……抗う術があったのかさえもわからない。
なぜなら、物理世界で生きる人間には因子を確認する方法などないのだ。それらの者は『因子持ち』と表現され、親から子へ、子から孫へ因子は受け継がれていく。人間側にその因子を見付ける方法などなく、誰が『因子持ち』なのかを判別することもできない。
しかし、『因子持ち』であっても、人間として生まれ、人間として生き、人間として死んでいくのが通常だ。
それでも、ごく一部。その心がすり減らされていく者達、その心を壊された者達、死を狂おしいほどに臨む者達が『因子持ち』であった場合、ある日、突然のように受け継がれた因子が目覚め、吸血鬼へと変貌するのだ。
それを人は『覚醒吸血鬼』と呼ぶ。
争いは人の心を蝕んでいく。そして、蝕まれた者達の中に『因子持ち』がいれば、『覚醒吸血鬼』が出現する。もし戦争でも始まれば、一度に多くの人間の心を破壊し、結果、大量の『覚醒吸血鬼』が出現してしまう。そうなれば、第二次吸血鬼大戦の勃発だ。
争いも戦争も、この世界の滅びを招く引き金になる。かつての吸血鬼大戦の勝利は、ユリアという少女の力によるところが大きかったことを当時の人間は知っていた。しかし、今、この世界にユリアはいないのだ。
もし、第二次吸血鬼大戦が勃発すれば、いかにユリアシステム、及びユリアの壁があったとしても、勝つ保障などどこにもない。それこそ、世界の全てをユリアの壁が覆う事態になってもおかしくはないのだ。
だからこそのスローガン。『平和で穏やかな世界』なのだ。
そして、もし、この真実が世界中に明らかにされた場合はどうなるか。
自分は『因子持ち』かもしれない。あの人は『因子持ち』かもしれない。愛した人間は『因子持ち』かもしれない。
『因子持ち』『因子持ち』『因子持ち』。
それこそ、知らなければその心は穏やかであった人間達が、自分で自分の心を、そして、他人の心を押しつぶすことになり、結果、それらの人間の行動によって『覚醒吸血鬼』が出現する可能性が高くなるのだ。
真実が明らかにされた場合、世界中の人間ははたして耐えられるのか。未来永劫、自分達人類は、吸血鬼の恐怖に、『因子持ち』の恐怖にさらされ続けなければいけないのか。
それに人類は耐えられるか。
『いいや、できはしない』
その結論を果たして、どれだけの人間が否定できるのか……。
だからこそ、情報は隠ぺいされているのだ。情報統制がなされているのだ。
幸いながら、人類はまだ踏み止まっている。人間が絶望を感じなければいけないほど『覚醒吸血鬼』は出現していないためだ。
日本では、年に四、五件程度、個人による心の破壊による『覚醒吸血鬼』の発生で留まっている。だが、真実を知らない者達は、復興省の存在を疑問視し、VATは弱体化。復興省の暗部ともいえるティグニティーは踏み留まっているが、弱体化を懸念したブラストという強硬論者が現れ、さらに原初の吸血鬼の復活を望むファウストという組織さえも現れ始めている。
どこまで持ちこたえられるのか。どこまで真実は噂の域で抑えられるのか。永遠に抑え込むことは可能なのか……。
それが今の世界の懸念だった。
それらの事情をTO一二首席の堀内はVAT隊長の大石から聞かされた。
「君もVATに入隊すれば、聞かされることだ。全ての全事情はVATの正規隊員のみに……。警察や消防、盛運学園の関係者、それ以外にも協力が不可欠な機関にも一部の情報は流されている」
「……」
あまりの現実に堀内は言葉もない。
永遠に恐怖にさらされる世界。そこで人は生きていかなければいけないのだ。
「なら、今回の吸血鬼も……」
「覚醒吸血鬼だ。それ以外に吸血鬼が発生することはない。どのようなきっかけで、どのような日々の結果で覚醒吸血鬼になったのかは知らないが、私達の任務は、覚醒吸血鬼を殺すことだ。それだけは肝に銘じておけ」
意味ありげな言葉だ。堀内は大石の説明を理解していたつもりでいたが、本当の意味で理解してないだろうことを大石は悟っていた。
『因子持ち』が『覚醒吸血鬼』になるまで、その人物がどれほど凄惨な日々を送ってきたのか、もしくは凄惨な瞬間を迎えたのか、大石は知っているのだ。
誰もが同情を禁じ得ない……。そんな状況ならば『覚醒吸血鬼』になるのも納得できる。
大半がそんな者達だった。
しかし、VAT隊員は、そういった覚醒吸血鬼によって引き起こされた凄惨な現実も知っていた。だからこそ、非情になることができるのだ。
最後に大石は告げる。
「君が選んだ人間にも今の話を伝えておけ。状況をよく理解させる必要があるからな」
「わかりました」
堀内は沈痛な面持ちで頷く。
VATを乗せた車両がそこにたどり着いたときには、すでに事態は動いていた。
ユリアシステムは、復興省にあるシステムを介してリアルタイムで正確な情報をVAT隊員の端末に送り続けているために、覚醒吸血鬼の場所は正確に示されているのだが、その居場所が今、燃えていた。
「……事故か、故意か……」
大石は呟く。
巨大なアミューズメントパークの建築物の一部から火の手があがっている。
しかし、覚醒吸血鬼はまだ建物内にいるのは確かだった。
こうなると消防は邪魔になるだけで、VATに少し遅れてやってきた消防車はVAT隊員に止められて駐車場の手前で止められた。
火の手も怖いが、まずは覚醒吸血鬼を殺すことが先決なのだ。
「全員、酸素マスクを着用しろ! 防火服もだ! その上で建物内を包囲しろ。覚醒吸血鬼が出てきた場合は一斉射撃!」
大石の命令にVAT隊員が動く。
「君はここに残っていろ」
「はい」
大石が堀内に告げると、彼は素直に頷いた。この状況では足手まといになることを彼は理解していた。それこそ、隊員の動きが違う。大石の言葉よりも先に自分達が何をするべきかを理解し、いちいち指示されなくても、無言でそれぞれが建物を包囲していく。
「覚醒吸血鬼、いまだ建物内にいます」
その声はモニターの監視役の隊員の声で、全員、イヤホンでそれを聞いていた。
後は、吸血鬼が出てくるのを待つだけだ。全員が炎を前に、銃を構えている。どこで、どんな状況で覚醒吸血鬼が出てくるのかわからないが、隊員は様々なケースを想定して訓練を繰り返してきたのだ。
しかし、数多の想像を繰り返してきたとしても、身体の反応は決して止められない。
その瞬間。大きな爆発音が響き渡った。ガス爆発……おそらくは店内にあったプロパンガスが爆発したのだ。直近にいたVAT隊員は当然として、取り囲んでいたVAT隊員全員が、その轟音に反射的に身をすくませた。それはモニターを監視していた隊員も同じだ。音に反応し、そちらに目を向ける。生物にとって、その反射行動は生きるために必要不可欠なものであったが、それが災いした。
一瞬モニターから目を放した隊員が、再びモニターに目を移した時、その隊員は絶叫した。
「覚醒吸血鬼、囲みを突破し、移動しています!」
誰もが爆発に気を取られた瞬間、覚醒吸血鬼と化した杉沢春海は、その爆発に乗じて夜の闇にまぎれて逃走した。
市役所に戻ってきていた高野光一郎市長は憤然としていた。自分はこの町の市長。この町で最も権力を持つ人間なのだ。そういった自負を持っていたし、その通りの人生を歩んできたのだ。誰一人として、自分の前で大きな顔はさせてこなかった。にも関わらず、VAT隊長の大石は高野を蔑にしたのだ。
職員をまとめろ? それよりも、自分を避難させるほうが重要ではないか。
高野はそう信じて疑わなかった。
「石黒副市長はどこにいる!」
各部の報告をしにきた職員に対し高野は恫喝に似た声を放つも、返事は『わかりません』の一言だった。まさか、一人で逃げたのか? そんな思いを抱いていた矢先、市役所の電気が消え、市役所前で大きな音が響き渡った。
何事だ。そう思った市長が外に目をやると、市役所前の電信柱が、次々に倒れていった。
それをする人影を視界にとらえた時、高野はすぐにわかった。
「……きゅ、吸血鬼……」
声が乱れ、身体が強張る。吸血鬼が、こんなに近くに。まさか中にまで入ってくるつもりか……。恐怖に心を支配された高野だったが、その影はそのまま遠ざかっていった。
「……な……なぜ……この町に現れた……」
安堵しながらも、彼は憎々しげにそう呟いた。
覚醒吸血鬼たる杉沢春海が町中を逃げていた頃、八巻馨は原霧市の郊外にある森の中にいた。
「やれやれね。覚醒吸血鬼さんは、町中を縦横無尽に逃げ回っているみたいよ。逃げながら火を放って、電信柱を倒して、人を襲って……。今までの覚醒吸血鬼とは、ちょっと違うかもね」
「何がわかるんだ、君に」
「さぁ?」
闇の中から嘲りの声が響く。
しかし、馨は相手の姿をわざわざ確認しようともしなかった。その男が誰で、何のためにそこにいるのかわかっていたからだ。
何しろ、馨が呼び出したのだから。
「覚醒吸血鬼の存在は、公にはできない。『因子持ち』の存在が明るみに出れば、国民の不安は一気に増大するだろう。そうなれば、無用な迫害を引き起こすことになる。少しでも変わった人間がいれば『因子持ち』だと決めつけて、私刑に走ることとて想定できる」
「かもね」
「だが、国民の不安を抑えるために情報統制をしいているというにも関わらず、それを知らない国民は自分達を守る復興省を否定する」
「『平和で穏やかな世界』に復興省なんて必要ないって考えるのは、おかしなことじゃないわよ」
「確かにそうかもしれない。無知な国民といいたいところだが、無知にしているのはこちらだからな。だが、彼らがどれほど平和で穏やかな世界を望んでいようとも、個人による迫害を無くすことはできまい。今まで発生した覚醒吸血鬼の数割は、両親による子への虐待に端を発している」
「よくやるわよね。自分の子供に虐待って。よく理解できないわ」
「それが人だ。醜い人間の姿というものだ。それらの行為をゼロにはできんだろうな。故に、復興省は絶対に必要なのだ。一人残らず、平和で穏やかな生活を送らせることなど、誰にもできはせん」
「そんな世界があったら、人間っていうのは他人に幸せにさせてもらおうって気になるわよね。自分でどうにかしようなんて気がなくなる。そして、そうではない今の世界で、自分でどうにもならなかった人間が、その苦しみを子供に向けて、子供の心は壊れて、覚醒してしまう」
「無理なのだよ。覚醒吸血鬼の出現をゼロにすることなど。真実を知っている者達はそれを知っている。だが、政治家という奴らは、自分の椅子のことしか考えられん。自分の椅子を守るために、要たる復興省の予算を減らし、大衆に媚びへつらう者達がVATを弱体化させている。もはや、猶予はないのだ」
「……」
「だからこそ、我らブラストは立たねばならん」
「……まぁ、そんな御託はいいわよ。あなた達の信念はあたしには関係ないから。あなたを呼んだのは、今回の取引のこと」
相手の気配が変わることに馨は気付くも、それに構わずに続ける。
「中止にするつもりはないけど、延期にしましょうってことよ。こんな状況で取引なんて、のんき、のんびりなことできないでしょう?」
「それでは話が違うな」
「当たり前よ。こんな状況なんだから、話が変わるのは当たり前。今回のことが落ち着いたら、また連絡するわ。前金も返してほしければいって頂戴、返すから……まぁ、銀行が使えたらだけどね」
「……」
「それだけよ。じゃ、あなたも死なないようにがんばってね」
緊張感の欠片もない言葉を残し、馨は音も立てずに消えていく。
夜は吸血鬼の世界だ。その世界の中、覚醒吸血鬼を仕留めることは困難でしかない。逃亡しているとすればなおさらだ。
VAT隊長の大石は原霧市でも最も大きな体育館にVAT本部を設置した。体育館は居住地ではないが、多くの人間がそこで衣食住を行えば、家と同じように吸血鬼に対する結界となる。
「隊長、消防隊員が覚醒吸血鬼に襲われたとの報告が……」
「……噛まれたのか?」
「いえ、噛まれてはおらず、襲われただけだと。多くの消防隊員、及びVAT隊員が視認しています」
「そうか。奴はどこに向かっている?」
「蛇行はしていますが、東南方向に移動しているようです」
「わかった。覚醒吸血鬼の討伐は明日の昼間に行うが、追撃の手は緩めるな。奴に人間を襲わせる時間を作らせるな」
「了解」
大石は、中央に立ちながら次々にくる報告を聞き、的確に指示を出していく。
その会話を忍と谷崎が耳にしていた。
警察署にいた二人は、堀内の命令によって本部に集められた。盛運学生による民間人の殺害。
それは忍にとっても谷崎にとっても、他の面々にとっても驚愕の事実だった。しかも、それによって盛運学生の大半が待機命令を出され、堀内が選んだ十数人だけが作戦の参加を認められた。とはいえ、今はまだ正確な指示は出されておらず、堀内は隊員と共に情報の共有と役割分担について話しあっている段階だった。
「……消防隊員が襲われたっていっていたわね」
「そうですね……」
警察署にいたときから忍の様子がおかしいことに谷崎は気付いていた。それに時折、何かを考え、手にした携帯電話で誰かと会話している。
「八巻さんは無事?」
「えっ?」
「連絡していたのって、八巻さんか、もう一人のお姉さんじゃないの?」
「あっ、えぇ、まぁ」
やや慌てるように肯定した忍だったが、谷崎はそれに違和感を覚えることなく、というよりも、忍の顔をみていなかったので、言葉を続ける。
「心配でしょうね……」
「いえ……。姉達はきっと大丈夫です。それよりも……」
「何?」
「あの吸血鬼は多分、何かが違います」
「違うって……何が?」
忍は何かを考えていたが、今までそれを口にはしなかった。しかし、今はそれを口にする。
「消防隊員を襲ったといいましたよね」
「ええ」
「追撃されている時に、わざわざ消防隊員をその吸血鬼は襲った。つまり、VATの隊員も消防士も……襲われる危険性を常に考えながら追撃することになっているんです……」
「……そうね……」
「そうなれば、疲労が早まるのは自明です」
「……ちょっと待って、その吸血鬼がわざとしたっていうの?」
「……」
谷崎は少しだけ笑った。
「考え過ぎよ。吸血鬼はたとえ知性を持とうとも、複雑な思考はあまりしないって聞いているもの。目の前に人がいたら襲う。負けそうなら逃げる。その程度でしょ?」
「……」
それに対する返答はなかった。
谷崎はさらに質問しようとしたが、そこに堀内が戻ってくる。
「担当が決まった。各々、それぞれの場所に散って、各部署との連携を担当する。ようするに、盛運学生の待機が解けたのち、それぞれの部署の連携を即座にとれるようにするための苗床作りということだ」
役所であれ、どこであれ、今は混乱の最中だ。そこにいきなり人がきて、あれこれ指示をしたり、情報を求めたりしても、それはスムーズにはいかない。
VATが市長を市役所に残したのと同じ論理だ。
その場にいる人間とコミュニケーションを事前にとれば、さらなる人員がやってきた場合に即座に動きやすくなる。
「いいか、みんな。吸血鬼は、VAT到着以前に激しく行動を起こしている。公園からモール、警察署、駅前、そして、アミューズメントパーク。それはつまり、吸血鬼に噛まれ、感染した二次感染者の数もそれだけ多いということだ。即座に解決することは難しい。そのためにも俺達盛運学生が効率よく動かなければいけない。そのための事前準備。重要な役目だということをわきまえておけ」
堀内が単なる雑用ではないことを確認する。そして、実際、それは事実だ。
しかし、堀内が各担当を指名しようとしたところで、忍が手を上げる。
「その中に警察署の担当はありますか?」
いつもは消極的な忍が自ら進んで発言したことに堀内はやや驚くが、即座に頷く。
「あぁ、ある」
「なら、僕と谷崎先輩を警察署の担当にしてもらえないでしょうか?」
「……えっ?」
「なに?」
谷崎がそれに驚き、堀内が眉をしかめる。
「僕と谷崎先輩は、もともと警察署にいました。すでに警察署の方々に協力していた身です。初見の方がいくよりも、僕達がいったほうがスムーズに事が進むと思いますが」
「……」
堀内は、一瞬考えるも、いっていることは筋が通っていた。
「……いいだろう。お前達は警察署の担当だ。すぐに迎え」
「はい」
「はい」
谷崎と忍が、そこから小走りに駆け出していく。
「珍しいわね、あなたが進んで要求するなんて……」
「少し……気になるんです……」
「何が?」
「……」
わかってはいたことだったが、忍はそれに何も答えなかった。
多分、自分を不安にさせないための最大限の配慮なんだと……谷崎はわかっていた。
岩倉菫は現在、住宅街にある古びた借家に一人で暮らしていた。平屋で部屋数も多くはなく、最新のアパートに比べて多少値がはる程度の家賃だった。
八巻馨も、岩倉菫も、菊池忍も、血は繋がらないとしても兄妹としての絆がある。ただし、馨自身がそれぞれに自立を促す人間であるために、全員ばらばらの家に住んでいた。
菫の家には物というものはなかったが、ゴミというゴミが散乱していた。自炊はほとんどせず、大半の食事がレンジでチンできるようなものだったが、その余ったゴミを菫はほとんど片付けない。ときたま馨がやってきて、菫に協力させて掃除するのが習慣のようなものだ。
菫は部屋に散らばっていたゴミを隅に追いやると小島小枝香をそこに座らせた。
小さなテーブルに、TVにパソコン、ゲーム機。それしかないが、今の状況ではそれで十分だろう。
「電気はつけないほうがいいから、テーブルライトで我慢してね」
カーテンを閉め、テーブルライトをつけ、テーブルの上にモールで買った弁当と水を置く。
「少しお腹に入れたほうがいいわ」
「……」
小枝香は何もいわず、菫も何もいわない。その上でTVをつけた。
「……」
小枝香がそれに目を向ける。
「こういう状況でもTVはやっている。ある意味、パニックを起こさないために、『大丈夫』、『安心です』って繰り返すことになっているの。吸血鬼の基本的な情報、さらに現在の状況、VATが許せば中継もできる」
「……よく知ってますね」
「これは調べれば出てくる情報よ。それに盛運高校に姉弟が通っているし」
「……」
小枝香は何も言葉を返せない。しかし、それは小枝香だけの話ではない。今の世界の人間は、教育の一環として教えられない限り、吸血鬼の情報など集めようとはしないのだ。誰も彼もが吸血鬼を過去のものとし、こんな事態になるはずがないと決めつけてしまっている。
「とにかく、食事にしましょう」
菫はあまり会話をする人間ではないが、今回は積極的に話しかけていた。小枝香が何を知り、何に苦しんでいるのか……それが菫にはわかるからだ。
小枝香も菫がじっと見つめているために、大人しく食事に手をつけた。
菫もそれに合わせて食事に手をつけたが、そのとき携帯がなった。
「もしもし?」
相手の名は馨であったし、いってくる内容は薄々わかっていた。
「菫? あたしよ、馨。状況はあんまりうまくいってないみたいだし、こっちの取引も一旦中止よ」
「それで?」
「あんたにも協力してほしいのよ。ブラストの連中、あたしが盗んだ品の隠し場所知っているのよね。そもそも今回は、あの人達に協力してもらったわけだしさ。で、あたしは盛運高校の不良生徒で目を付けられてて、武器を持ち歩けない。私用の武器の隠し場所は学校の近くで取りにもいけない。ようするにあたし丸腰なのよ。あたしもその他大勢と同じで、まさかこの町で吸血鬼が出るとは思わなくってさ。で、あんた、護衛してくれない?」
「いや」
馨の要求に対する返答はたったそれだけで、菫は即座に携帯を切って電源さえも切ってしまった。
「……?」
小枝香が何かあったのかと視線を向けてくるが、菫はその目をTVに向けながら、『なんでもないの』と答えるだけだった。
小枝香はその後、菫の言葉に従い就寝するも、菫は闇の中、小枝香を見守りながらじっと起きている。
そして、菫の耳に声が届くのだ。
『まだ、こちら側にこないのか』
「……必要ない。いく理由もなければ、いかない理由もない」
『怖いのか?』
「まるで。あたし達はあたし達だから、どちらに足を踏み入れようと変わることはない」
『そうかな?』
「えぇ」
『君の町に生まれた我が子は、逞しいぞ。VATの行動計画を知っていたはずもないが、到着までの三時間の使い方がまさに的確だった……』
「そうかも」
『この町の子は、君が連れてきた少女に『殺される』ことを望んでいる。つまり、それ以外の人間に殺されることを拒絶している』
「つまり、『生き延びる』」
『そうとも。当人が生き延び、生き延びるためには人を襲う。とすれば、これは『死の世界の構築』に矛盾はしない』
「……」
『こちらの世界にくる前に死なないことを祈ってやろう』
「……」
そこで声は途絶えたが、菫は気にもせずに闇を見守っていた。
小島小枝香の友人であり、覚醒吸血鬼となった杉沢春海は町を囲む山の一つに逃げ込んだ。
しかし、この原霧市はユリアシステムによる『ユリアの壁』に囲まれており、ユリアシステムに干渉しない限り抜け出すことは不可能だ。
つまり、彼女は山に追いつめられたことになる。
VATの対覚醒吸血鬼のマニュアルとしては、とにかく覚醒吸血鬼に余裕を与えることなく、間髪入れずに攻撃を行うこととされている。夜間の戦闘は回避するように指示されているが、街中に留まらせることは非常に危険であるために籠城していた場合は周囲を包囲し、可能である場合は撃退、できなくてもとにかく相手をそこから追い出し、追撃をかける。とにかく一般人を襲う暇をなくさなければいけないのだ。
いかに吸血鬼といえど、重火器をもった多数のVAT隊員に向かってくることはまずない。そして人間側にはユリアの壁がある。
VATはとにかくユリアの壁際に覚醒吸血鬼を追いこみ、包囲して撃滅する。
それが基本であり、まさに杉沢春海は今、ユリアの壁に追い込まれた。
「翌朝に攻撃を開始する」
本部にいた大石の結論がそれだった。
菫の家にも朝日が差し込んでくる。
目覚ましがあるわけでもないが、体内時計はこんなときにも働いている。
「おはよう」
菫は一睡もしていなかったが、それを気付かせない様子で、コーヒーを小枝香の前に差し出す。しかし、小枝香はすぐに反応した。TVの画面。そこに映し出される光景。
「……なんですか、これ?」
「山火事よ」
菫が淡々と告げた。
覚醒吸血鬼である杉沢春海が、夜明けとほぼ時を同じくして、山に火を放ったのだ。
朝に吹く風は、山を下り町に向かって進んでいく。いかにVATの装備が整っていようとも、この炎の中に飛び込むのはもはや自殺行為でしかなかった。
杉沢春海は、追い込まれたのではない。このために山に入りこんだのだ……。
その光景は警察署にいた忍と谷崎も見ていた。
そして、同じように、その表情は暗いものだ。
すでに昼を過ぎているというのに、いまだに炎は消えることがない。消防も必死に消火活動に当たっているが、前夜、消防隊員は覚醒吸血鬼に襲撃されている。VATと違い吸血鬼の脅威とは無縁だった彼らにとって、襲撃の事実は重く感じられた。しかも、昨夜は、吸血鬼の手によって火災がいたるところで発生、つまり恐怖に縛られた状態で不眠不休で消火活動をしていたのだ。
その行動が鈍くなっても仕方がなかった。
「……。谷崎さん、交代で休息を取りましょう」
「ええ、そうね」
VAT到着後、警察署は少しずつ落ち着きを取り戻している。警察署に集まっていた人間達は吸血鬼発生当時にいた場所、警察署に至るまでの道のりを確かめ、吸血鬼との接触はないと判断された者達はそのまま自宅へと帰らせた。
とにかく吸血鬼は招かれない限り、家には入れない。家に籠っているのが最も安全なのだ。
しかし、接触が疑われた人間はそうではなく、市内にある隔離施設に送られることになった。
VATの車両が住民に対し『家から出ないでください』といいまわっていることもあって、警察署にくる人間も少なくなっている。さらに自警団の犯罪行為も、そのVAT到着以後、落ち着いていた。
それでもまだ人の姿は消えていないが、休息を取る暇はあった。
谷崎が先に休息を取り、忍は一人になると馨に連絡を入れる。
「馨姉さん?」
「忍? そっちはどう?」
「今は警察署で、少しは落ち着いたよ」
「このまま落ち着けばいいけどね」
「……姉さんもそう思う?」
「そりゃあね。今回の覚醒吸血鬼は、通常の覚醒吸血鬼とは行動原理が違うみたいね」
「そっちは大丈夫なの?」
「丸腰で大丈夫とはいえないわよ。菫の奴に護衛頼んだら、『いや』の一言で電話切っちゃったし。で、あたしは家に帰って休息とったから、武器の調達に向かうわ」
「何かあったら、連絡よろしく」
「わかってるわ。そっちも無理はしないようにね」
そこで忍は電話を切り、再びTVに視線を向けるも、すぐに警察官の目を掻い潜りながら、目当ての資料を回収し始めた。
火は結局、日の登っている間に消火することはできなかった。そして、そのまま吸血鬼の領域である夜に突入する。VAT隊長の大石は予想外の夜を迎える羽目になっていた。
明らかに状況は不利だ。
夜になっても火は完全に消えず、覚醒吸血鬼の姿を視認することもできない。ただ、ユリアシステムによればまだ山にいるのは確かだ。かといって、悠長なことをいっている余裕はない。
「明日の朝だ。明日の朝に決着をつける」
山火事によって状況は変わった。しかし、火事によって木々が燃え尽きたために見晴らしはよくなっている。
煙が邪魔だが、明日の朝にはそれも晴れるだろう。
大石は、しばしの休息を取ることにした。
状況は悪化する。しかし、誰もがどうにかなると思い込む。だが、その時間帯の人間は注意力が鈍るものだ。夜明け間際。死の領域から生の領域に移ろうとする時間帯、山を囲むVAT隊員の視界に人影が映った。
「覚醒吸血鬼だ!」
陣頭指揮をとっていた副隊長の竹林がそう叫び、全員が銃口をその影に向け、緊張を高める。
覚醒吸血鬼の場所は把握しているために、いかに山とはいっても、広範囲に兵を配置する必要はない。覚醒吸血鬼を中心に囲めばいいだけだ。しかし、その影は遠すぎて狙いがつけられない。しかも、その身は黒く染まり、焼け落ちた山肌に重なり視認の邪魔をしている。
「副隊長!」
まったく違う方向に配置していた兵士からの声。銃口をその人影に向けていた竹林が、声の方向に目を向けると、その視線の先にも人影があった。
「副隊長!」
「副隊長!」
さらに連続した声が竹林の元に届く。影は一人ではなかった。それぞれがそれぞれ違う場所を目指すように山を下ってくるのだ。一人であれば、覚醒吸血鬼だと判断できるだろう。しかし、複数。それが集団ではなく、バラバラに山から下りてくる。
「わ、私達は人間だ!」
「止めて! 撃たないで!」
「感染してないよ!」
合計すれば五人。
声を上げているのは三人だが、残った二人は泣き叫んでいる。それでも全員が両手を上げて、ゆっくりと歩んでくる。
竹林は即断などできなかった。
この光景は中継されている。下手な行動はできない。しかも、明け方とはいえ、まだ吸血鬼の時間帯だ。五人の人影全員が覚醒吸血鬼であるはずがない。彼らは人間だ。しかし、全員そうなのか? いまだに覚醒吸血鬼の正体は掴めていない。覚醒吸血鬼の出現場所は公園であったためだ。家ならば特定もできるが、屋外では個人の特定はできない。
つまりVATは杉沢春海の外見をいまだ知らない。
「ユリアシステムで、確認を!」
竹林が指示を出すが、まさか人がいるとは思っていなかったために対応が遅れた。
帰ってきた言葉は、『移動しています』だ。
「そんなことはわかっている。誰だ。五人いるぞ!」
それがユリアシステムの弱点でもあった。無論、春海はそこまで理解していたわけではなかっただろうが、ユリアシステムは吸血鬼の居場所を詳細に捕えることができても、人間の場所はシステムの範囲外だった。
つまり、ユリアシステムを介した映像には覚醒吸血鬼の場所は示されていても、人間の場所は示されていない。しかも、そこは山肌。座標を知らされても現場の人間にはわからない。目印となるものもない。五人との位置関係もわからない。五人の中に含まれているのかもわからない。
最低でも五人中四人は確実に人間なのだ。
覚醒吸血鬼を一人倒すために必要な数を揃えたが、五人を確実に囲めるほどの兵士は後方に控えていてここにはいない。
「その場で止まらせろ!」
竹林が全員に指示して、銃口を向けるも中には泣きじゃくる子供もいて止まらない。かといって、子供が覚醒吸血鬼でない保証もない。
嫌、子供がここまで計算できるはずもないのか。しかも、全員の叫びが隊員の動揺を誘う。
「私達は違うんだ、人間だ!」
自分達は人間。感染もしていない。だから撃たないでくれ。殺さないでくれ。
その叫びに嘘偽りを感じない。
隊員の心に、相手は人間だ……という意識が浮かんだ一瞬。
「移動速度が上がりました!」
その言葉が全隊員のイヤホンに届く。
それと同時だった。
泣き叫ぶ子供の背後から、黒い影が走り出したのだ。
泣き叫ぶ子供。この子は違う。そんな意識が頭に浮かべば、張り詰めた緊張感が緩んでもおかしくはない。そして、まさにその一瞬を狙ったかのように杉沢春海は走ったのだ。
その身を煤で黒く染め上げ、焼け焦げた山肌に溶け込むかのような黒い影と化した春海は、山を下ることでの加速を利用し、まさに疾風のように駆け抜けた。
「撃て! 撃て!」
竹林の指示で隊員が銃撃を始めるも、目の前には子供の姿。結局、その銃撃ができたのは自分達を飛び越えて、背を向けた覚醒吸血鬼だ。
当たるはずもない。後方には味方がいるのだ。下手な射撃も同士討ちを招く。しかも、後方待機の部隊は待機状態であって、臨戦状態ではなかった。いきなり疾風のごとくやってきた対象を狙えるはずもない。
そして、VATは覚醒吸血鬼を仕留めるチャンスを逃し、夜明けを迎えたのだ。
警察署にいた忍は、その光景をTVで確認した。
中継をしていたアナウンサーは、あまりの出来事にショックを受け、ほぼパニック状態になっていた。覚醒吸血鬼が殺されることを期待していたにも関わらず、逃したのだ。市民を落ち着かせ、安心させるための中継が逆に不安を増長させてしまうことになる。
すぐに中継が途切れて、スタジオの映像が流れる。そこでもやや落ち着きをなくしたアナウンサーがそれでも『大丈夫、ご安心ください』と言葉を続けるだけだった。
忍は、そこでTVを見るのを止め、警察署の出口に向かって進んでいく。
「ちょっと、どこにいくの?」
呆然としていた谷崎だったが、忍の姿に気付いて自分も後を追いかける。
「……」
忍はやや沈黙するも、谷崎に確認する。
「谷崎さん、装備は大丈夫ですか?」
「え? えぇ?」
盛運学生は、武装を許されているので、装備は一式持っていた。当然、VATほどではなく制服のまま銃器やナイフを持っている程度だ。
それでもないよりははるかにマシだ。それは忍も同様だったが、構わずに告げる。
「僕は少し調べたいことがあるんです」
「調べたいこと?」
「あの覚醒吸血鬼は、普通とは少し違います」
「……」
いまとなってはそれを否定はできない。
山火事に囮。並みの吸血鬼はそこまでの思考を持たない。『死者の世界の構築』という欲求に耐えられず、人を襲い続けることが行動の指針になる。目の前に人間がいれば、それを襲う。危害を感じればただ逃げる。
それだけだと教えられてきた。
「でも、どこにいくの?」
「覚醒吸血鬼が出現した公園です」
「外に出るの?」
「覚醒吸血鬼の動きは端末に届いてます。僕は別に覚醒吸血鬼を倒しにいくわけじゃありません。大丈夫ですよ」
「……なら、あたしもいくわ」
「ありがとうございます」
忍は谷崎の言葉を拒絶することなく、共にそこを出て行った。
VAT本部にいた隊長の大石はその怒りを胸のうちに抑え込んでいた。本来ならば、それを吐き出したかったが、隊長という立場ではそれもできない。
「覚醒吸血鬼は、いくつかのマンションに火を放ちながらも逃走しておりましたが、その移動スピードは落ちているようです」
「……」
モニター上の地図に覚醒吸血鬼を示す点が映し出されていた。確かにその点の移動速度は遅いものの、現場にはまだVATの部隊が到着していない。
「山から駆け下りてきたときの映像はどうだ?」
「おそらく女であろうこと以外はわかりません。いかんせん、スピードも速く……全身に煤を塗っていたようで」
「救出した人間は?」
「山の麓の一軒家に住んでいた家族のようです。近辺で火災が起きたために外に出ていたところを捕獲され、山を登らされたとか……。彼らも覚醒吸血鬼の外見はよく覚えていないと……ただ、声から十代だったと思うといっております」
「感染は?」
「していないと。その覚醒吸血鬼が『あなた達はあえて噛まない』という意味のことをいっていたようです」
「あえてか……」
大石は自身の思い込みを恥じた。
この覚醒吸血鬼の知性は、生き延びるために使われている。どうすれば生き延びることができるのか、どうすれば逃げ切れるのか。
それに費やされているのだ。ありえないことではない。
「隊長?」
「あの覚醒吸血鬼は、五人を囮に使った。そして、こちらに隙を作らせるためには真実の訴えが必要。自分達は人間であり感染もしていない……とな。だから、あえて噛まなかったのだろう……」
「……」
否定の言葉は部下からも出てこない。
「もうすぐ二日目に入る……。増員の件はどうなっている?」
「要求はしておりますが、まだ審議中とのことで……」
「……」
仕方ないとはいえ、文句の一つもいいたくなる大石だった。五万の人口を誇るこの町を制御するには今の隊員数では間に合わない。いや、今だからこそ足りなくなっているのだ。早々に、それこそ出会いがしらに殺すか、翌朝の朝に殺せていれば、この人員でも十分だった。しかし、もう二日だ。覚醒吸血鬼だけのためにさける人員にも限界がある。
「増員はまだ決定していないのだな」
「……はい」
大石はそこで躊躇いながらも指示を出した。
「盛運学生と自警団も作戦指揮下に入れるように準備をさせておけ」
「よろしいので?」
部下がさすがに確認をとった。今は落ち着いたとはいえ、自警団は犯罪行為に走り、盛運学生はたった一人とはいえ民間人を殺害したのだ。
とはいえ、仕方のないことだ。
「時間がない。増員は待てない」
「わかりました」
部下が指示を伝えるためにそこを去るも、大石は頭が痛かった。
当たり前のことだが、兵士を原霧市に派遣するには多大な金が必要なのだ。そして、今の復興省の財源には限りがある。軽々に増員、増員といえるような状況ではないのだ。
しかし、もう二日。時間は少なかった。それでも、夜になっていない以上、猶予はある。そう思っていた大石だったが、その予想は裏切られた。
「隊長!」
隊員の須山が顔色を変えてやってきた。
「どうした」
その顔を見ればよくないことが起きたのは想像に容易い。
「吸血鬼の移動経路を追っていた竹林副隊長からの報告です。覚醒吸血鬼は……、地下に逃げたと……」
「……なんだと?」
大石は地図に目を向けるも、その地図には地下のことなど描かれてはいない。というよりも、描くのは無理だ。
「地下施設があるというのか?」
「はい。役所からの資料を取り寄せましたが、データが古い物も多く……。地下施設というよりは迷宮に近いとのことです。それも、各区画ごとに責任者が違うようですし、さらに半分以上が民間レベルで作られた施設だとのことで……」
「……入口は?」
「覚醒吸血鬼が使用したと思われる入口は、自警団か、我々VATから奪い取った手りゅう弾で塞がれたと……」
「急ぎ、資料を集め、地下の捜索を始めろ。盛運学生や自警団も捜索に参加させろ」
「はい」
「それと」
大石は苦々しく、その言葉を口にした。
「第二フェイズの準備に取り掛かれ」
「……はい」
事態は最悪の方向に傾きつつあった。
杉沢春海が覚醒を遂げた公園を忍と谷崎は訪れていた。
「なんで、ここにいたの?」
ふとした疑問を谷崎は口にする。
「『因子持ち』……先輩も堀内先輩から聞きましたよね」
「えぇ」
その話は堀内と合流した際に聞かされた。
原初の吸血鬼も存在せず、吸血鬼の居場所はユリアシステムですぐに感知される。なのになぜ、突然、吸血鬼が出現するのか。
今までは漠然とした答えしか返ってこなかったが、隠された真実で、それが明らかになった。
世界のスローガン。さらに『因子持ち』に『覚醒吸血鬼』。
世界が今も、これからも、脅威の中にある。
それは重い現実だったが、盛運学生の谷崎は、それを受け止めるしかなかった。それに今は、目の前の現実こそが重要だったのは確かだからだ。
「『因子持ち』が覚醒する際には、それなりの苦痛を感じるはずです。でも、それを抱えながらも、ここにきた。こなければいけなかった理由があったんでしょう」
「……」
「もしくは、家を突き止められることを避けたのか……。家で覚醒すれば、自分の特定は早まりますからね」
谷崎は忍の言を聞くだけで、何も言い返さなかった。違うと。目の前の少年は、何かが違う。世界の真実を聞かされた直後に、そこまで果たして計算できるものなのか。忍の頭脳が優れていることはわかっていても、どうしても納得はできなかった。それでも谷崎は今はまだそれを口にできない。踏み込んではいけないのかもしれないと思ったからだ。
「ファミレスがありますね」
「えっ? えぇ」
忍の視線を追うように谷崎もそちらをみると、確かにファミレスがある。当然、休業中だ。
「そして、この近くには自警団の支部がある」
「そうね……」
忍がそのままファミレスに向かうので谷崎もわけがわからないまま後を追った。
ファミレスのカーテンは閉められていて、中は見えなかったが扉は閉まっていなかった。
「閉め忘れたのかしら?」
「いいえ。違いますね」
「……なんで、わかるの?」
「……血の臭いがしますから……」
淡々と、それでも寂しそうな目で忍が谷崎と向かい合う。
「僕は、そういう町で育ったんですよ」
「……なに……いっているの?」
「だから、僕は気にもしません」
言葉の意味など理解はできない。
その忍は谷崎に構うことなく店内に足を踏み入れる。そして、やや遅れて谷崎も中に入るのだが、彼女の思考はそこで止まった。
ファミレスの店内に溢れていたのは、『死』だった。
店員を含めた十数人の死が、そこに溢れている。
通路で死んでいるもの、テーブルで死んでいるもの、通路の奥、トイレ付近で死んでいるもの、トイレの中で死んでいるもの。
数多の死がそこにはあった。
その死体を前に、その死を前に、忍は顔色一つ変えることなく、自らの脳に状況を叩き込み、ここで何があったのかを思いめぐらせる。
このファミレスはそう大きな店ではなく、中央通路の左右にテーブルが並んでいるだけの簡易なものだ。奥には厨房もあるし、そこにも死体があった。
その厨房の死体を忍は観察する。それ以外の死体も同様に……だ。
そして、忍は中央のテーブルの死体に気付いた。
「……自警団……」
自警団を示すジャンパーはないが、腰にはホルスターがつけられたままだ。
厨房の三体の死体の首は胴体から切り離され、それ以外に傷はないが、その自警団だろう人間の死体も同様だ。しかし、トイレにあった死体は銃殺されている。トイレの前の通路の死体は、腹部に穴が開いている。手足をもぎ取られた者もいる。
忍は自分が危惧していたことが現実になっていたことを悟りながら、谷崎の前に立った。
「……大丈夫ですか?」
「なに……何なの……?」
その言葉が示すのは、店内の惨状ではなく、自分に向けられていることを忍はわかっていた。
盛運高校の生徒であろうと、死体に慣れる訓練はしていない。これだけの死体を直に見ているというのに、忍は恐れることも、怯えることもなく、じっと死体を観察していた。
ありえない。忍もその通りだと思う。だが、それに構わずに忍は告げる。
「今からいうことをVAT本部に伝えてくれませんか、谷崎さん。僕がいうよりもあなたがいったほうが説得力がありますから」
「……」
答えはないが、忍は続ける。
「これは覚醒吸血鬼の実験場です。公園で覚醒した誰かは、自分の力を確かめるためにここを選んだ。おそらくは裏口から。首をはねられているのは、どの程度の力で人間の首は飛ぶのか、どの程度の力だったら殺さずに、意識を奪うだけに留めておけるのか……それを確かめたんです。さらに、その誰かは、ここに自警団がいる可能性を考えていたのかもしれない。支部が近いですし。実際、自警団の人間がいて、トイレの奥の死体が銃殺されていることを見ると、実際に銃を持っていた。銃の扱い方を知るために、意識を奪った後に銃殺した。バラバラの死体などは、力の確認でしょう」
「……どういうこと?」
言葉の意味と忍の存在そのもの。二つの意味がそこには込められたといってもいい。しかし、忍は状況の意味のみ答えた。
「覚醒吸血鬼は自分が逃げるために自分の考え得る最善の方法を次々にこなしていった……そういうことです。……自警団の人間によって暴行された事件がありましたね」
「……」
谷崎は顔を強張らせながら頷く。
「そして、ここには自警団の人間の死体があるのに、銃と服がない」
「……まさか……」
「えぇ、そうです。自警団の被害にあった人間全てというわけではないですが……、あの覚醒吸血鬼は、自警団を装って一般人を襲い、当身でもして意識を奪ってから血を吸って感染させたんですよ。でも、やられた人も、目撃者も、おそらくは自警団にやられたと思い込んで、吸血鬼にやられたとは思っていない。意識を失っていたのは、自警団に暴行されたからなんですから……。警報直後は救急車も動いていたでしょうし、自力で向かった人もいるでしょう……。まさか自分が感染しているとは思わずに……」
谷崎の顔が青ざめた。
感染の疑いのある人間は隔離施設に移される。しかし、そうではない人間は違う。自宅に籠るのが最善だが、もし、その人間が大怪我をしていたとすれば?
当然、彼らは病院に向かう。
「通常の覚醒吸血鬼は『死の世界の構築』の衝動に狩られて行動する。ですから、人を襲っても直線的に襲う。ですから、接触した人間の多くは隔離できる。それに覚醒吸血鬼がここまで移動するのも珍しい。移動経路は地図上に時間経過と共に記されていますが、移動距離が長くなれば、細かい動きはおざなりになる。自警団の服を身に纏い、道に玄関が面した家のドアを叩き、『自警団の者ですが、念のため武器の配布をいたします。中に入れてもらってもよろしいでしょうか』。……そういわれれば、おそらくはその人を中に招いてしまう。そして、覚醒吸血鬼は家の者を襲う。殺しはしません。意識を奪い、おそらくは一人か、二人は感染させる。そして、金品を奪う。家の住人は、当然、自分が自警団にやられたと思い、傷が深ければ病院に向かう」
「……」
「……多分、この覚醒吸血鬼は、『生き延びる』という意識が強いんだと思います。こればっかりは、はっきりとはわかりませんが、それは多分、『死の世界の構築』とは矛盾しませんし、そういった思考を持った覚醒吸血鬼は、多大な被害を及ぼす可能性が高いと思うんです。タクシーやトラックで仮眠している運転手や、泥酔した者は自分が感染していることに気付いていないでしょうし、何よりも、この覚醒吸血鬼は、ここでの実験で、どの程度の力で人間を殴れば人間は意識を失うのかを試している。人ごみの中で意識を奪い、人知れず感染させることもできるでしょう……。それを考えれば、モールでの盛運学生による殺害事件は、この覚醒吸血鬼の仕業だったのかもしれません」
「……」
谷崎の足から少しずつ力が抜けていく。
忍のいっていることが現実だとすれば……、
「この町には、おそらくVATが把握仕切れないほどの感染者が溢れかえっている……。移動距離を長くし、細かな動きを悟られないようにした。警察署の電気を落とし、市役所の電気も落とした。いたるところに火を放ち、細かな手段を使って人を感染させた。もうすでに二日が経過しようとしていますし、夜が近づく。覚醒吸血鬼を夜までに仕留めきれなければ、VATはもう覚醒吸血鬼に構ってはいられなくなる……。感染した者は、早ければ二日で吸血鬼化……するんですから」
ついに谷崎の身体から力が完全に抜けてしまったが即座に忍がそれを支えて、外に連れ出す。
そして、地面の上に座らせた。
「……今の話をVATの隊長に伝えてください」
「……わかった……」
谷崎は忍のいうとおり、自分が知った事実と、忍の可能性をVAT本部に伝えることにした。
菊池忍が事態の悪化を予想しているように、八巻馨もまた事態の悪化を予測していた。
しかし、馨は丸腰だ。盛運高校では重火器の扱いを学ぶが、だからといって自警団と違って所持はできない。
さらに馨は、素行不良として警察にも目をつけられているような人間だ。武器を隠し持つことも難しく、何よりも一般市民は銃を持ち歩かない。
結果、馨は丸腰だった。
事態が悪化するのであれば、武器は必要。さらに行動に拍車をかけたのは、武器の売買相手であるブラストの男が大人しくしているはずがないだろうという予測だった。
そして、それは現実となる。
この原霧市は、吸血鬼大戦のおりにこの地方での中心的な役割を担っていた。それもあって、地下のシェルターが多数つくられた。しかも、この町に避難してきた資産家が自分の敷地内にもシェルターを勝手に作り、それを真似るように市側も、その他の企業も地下に施設を作った。
後にそれらのシェルターはそれぞれが通路で結ばれ、地下通路、地下施設として使用されたが、当然のように使い道など多くはない。さらに政治の世界で何があったのか知らないが、地下施設は個々別々な部署が管理し、中には民間が買い上げた場所もあった。
ようするに、地下の迷路だ。
ただし、市民の認識としては、『あるのは知っているけど、どこに入口があって、中がどうなっているのかはわからない』レベルとなっていた。
馨としては、都合のいい隠し場所だったので、いくつかの地下施設の情報を調べ上げ、入口を見付け、自分の生体認証を勝手に入力させて使用し、実際、盛運高校から盗み出した武器の山もそこに隠していたのだが、あるべき場所にあるべき物がなかった……。
暗闇の中に最小限の明かりだけが灯されているその場所はがらんとしている。
「……わざわざきたか……」
ここでも闇のせいで顔ははっきりわからない。
だが、声だけでわかる。ブラストの男だ。
「あたしの武器はどこにあるのかしら?」
「あれは我々が管理する」
「……」
「……何か問題があるのか? 安心しろ。君は優秀な取引相手だからな。今後のこともある。もし君が生きていればしっかりと代金は入金しよう」
「……」
「……」
どこまで信用できるのか。と馨は思うが、それは相手も同じだろう。ここで男を倒しても、殺しても、金は手に入らないだろうし、武器を取り返せるとも限らない。
「……いいわ、それで。あなたとは今後も仲良くやりたいしね」
「私もだ」
男はそのまま馨の脇を通り抜けて闇夜に消えていく。
馨は男の気配が消えたことを確認すると、通路の先に向かって歩んでいった。
諦めたとはいっても、簡単に諦めるわけにはいかない。何しろ、馨は丸腰だし、相手が生き残る保証はない。あの男が死ねば、武器は手元から消えて、金は受け取れないのだ。
ゆえに場所だけは把握しようとしたのだが……無駄だった。
通路の途中から別区画になっており、分厚い扉が立ちふさがっていた。区画が違うので、馨の認証では開きもしないし、認証の登録は馨自身にはできなかった。
「今後のことも考えると、地下通路の扉をフリーパスできる人が欲しいわね……」
そう呟きながら馨は引き返すことにした。
だが、前方で大きな音がする。嫌な予感がするものの、その方向は馨の出入り口の方向。向かうしかなかったが、勘というものは悪いことほどよく当たる。幅数メートルほどの大きな通路から、一メートルほどの狭い通路に入ろうとした馨の前に、杉沢春海が現れたのだ。
馨はとっさに銃を取ろうとしたのだが、当然、その手は空気を掴むだけだ。一方の春海も、馨の存在に驚いた。二人は慌てて、互いに距離を取る。
「……なるほど……あなたね、覚醒吸血鬼は……」
「……」
馨は直感でそれを悟るが、それに対する返事はない。
今はまだ夜にはなっていない。先ほど時間を調べたときはそうだったし、それからたいして時間はたっていない。つまり、春海は吸血鬼としての身体能力はない。
かといって、馨も丸腰だった。
すでに二日。しかもここは迷宮の地下通路。爆発は入口を爆弾か何かで塞いだ音に決まっている。今までの覚醒吸血鬼の行動、そして、時間経過。それを考えればVATもはや覚醒吸血鬼だけにかまっているような時ではなくなっているはず。
やろうと思えばできる。馨はそう判断していたのだが、だからといって、危険性がゼロであるはずもない。人間の世界のために、このタイミングで、丸腰の自分が戦う?
「馬鹿馬鹿しい」
馨は言い切った。
「あんたの出番はもうおしまいでしょ? 自分で入口塞いで、出口がどこかもわからなくなっているだろうし。まぁ、外でやるべきことはやってきたってことでしょうけど……。そんなあんたを殺すためにあたしが無償で働くのなんてごめんだわ。でも、あなたが仕掛けてくるというのなら、あたしはあなたを殺す。丸腰だけど、あなたに勝てないほど訛ってはいないわよ」
挑発なのか説得なのかわからないことを馨がいうも、春海が口にした言葉もそれに対する返答とはいえなかった。
「あたしは、あなたには殺されたくはない」
「……それは裏を返すと、誰かになら殺されてもいいってことね……。いえ、むしろ、あなたの行動からみれば、その誰かに殺されるって決めているのかしら。……納得。生き延びるという決意も、『死の世界の構築』に矛盾はしないだろうしね」
馨はゆっくりと壁際に移動し、それに釣られるように春海も移動する。結果、二人の位置が入れ替わった。
「あたしは出口に向かいたい。あなたは出口……というか、出入り口から放れたい。ということで、いっていいわよ。ただし、その先の通路は右にいったほうがいいと思う。まぁ、確証はさすがにないけど、左に曲がれば行き止まりになるのは確かよ」
「……」
訝しむ目で春海が馨をみるが、馨はそれを突き放すように、
「ばいばい」
と告げて、脇に伸びた通路に身を入れた。
春海は、何かの罠かと思いながら、その通路から目を放さないように後ろ向きに歩み、充分な距離を取ると、走り出した。と同時に、脇道から馨が姿を現す。そもそもそこは春海が出てきた脇道で、爆発音が聞こえたのもその先だ。このままわき道を進んでも行き止まりになる可能性が高い。
しかし、馨は頭を抱えた。春海が向かった方向とは逆方向に通路は伸びてはいるが、その先がどうなっているのかなど、馨もわからないのだ。
「ここって隠れ場所にはいいけど、本当に迷路なのよねぇ」
うんざりしながらも馨は通路を進んでいくが、ふと思い出した。自分よりも先に立ち去ったあの男……。あの男も同じ道を辿ったのではないかと……。もしそうなら……。
馨は即座に携帯電話を取り出すと、忍に連絡を入れた。
場所がよかったのか、運がよかったのか、設備が整っていたのか、幸いそれは繋がる。
「あぁ、忍? そっちはどう?」
「覚醒吸血鬼が何をしたのかはわかったよ。多分、悪い方向に向かっている」
電話口の忍は淡々と答えたが、返ってきたのは予想していないものだった。
「えぇ、それはわかっているわよ。さっき会ったもの」
「会った? 殺したの?」
「丸腰で、二日も立っていて、地下の迷宮に入った覚醒吸血鬼をなんでいちいちあたしが殺さないといけないのよ。ここまでくれば、あの子はもう覚醒吸血鬼ではなくて、吸血鬼の一人にすぎないわ。そもそも、あの子自身、ここから出られるかわからないしね」
「……そうだね」
「まぁ、それはいいとして。頼みがあるのよ。あたしの武器がどこかに持っていかれたの。多分、そう離れていない東区画にあると思うけど、そこにどうにかして入りたいのよ。だから、市役所に人をやって。あんたでも誰でもいい」
「……どうして?」
「どうして? 決まっているでしょ。副市長さんは感染している可能性があるからよ。運がよければ通行手形が手に入る。じゃ、よろしく」
馨は忍の返答を待つことなく、電話を切った。
VAT本部の大石の元に谷崎からの情報が入ったのは、夕暮れ間際だった。
「……なぜ、なぜ、今になってこんな報告がくる! なぜ、もっと早く私の元に届けなかった!」
「も、申し訳ありません」
どこでどんな不手際があったのかはわからない。
ただ、報告してきたのが盛運学生とはいえ、子供だったことが災いしたのかもしれなかったが、その情報と共にもたらされた可能性は、悪夢のようなものだった。
地下に入った覚醒吸血鬼は見付からず。移動しているのはわかっても、通路が破壊されているためにたどり着けず、他の入り口はなかなか見付からず……。通路の情報も足りない。
それでも大石は即断した。
「覚醒吸血鬼を追撃している部隊の八割を引き返させろ。追撃は残った部隊と盛運学生に行わせる。もはや、あれは単なる吸血鬼の一人でしかない。それよりも、二次感染者の発見に全力を尽くせ! 覚醒吸血鬼の覚醒場所から我々が到着するまでの移動経路を詳細に出せ。時系列もだ。どこでどれだけの時間を費やしたのかをすぐに調べろ! それと復興省に連絡。増員を急がせるんだ。病院だ。病院を重点的に捜索しろ。覚醒吸血鬼が発生してから後の怪我人がどこにいるのか、病院にいればすぐに隔離施設に移せ。自警団に襲われた人間は感染している可能性が高い。さらに隔離施設の隊員を増やせ。移動車両もだ! 住民の現在地を把握させ、いつでも移動可能なように準備を進めろ! いいか、二次感染者の数は、間違いなく、我々の予想をはるかに上回るぞ!」
本部に緊張感が走るも、時すでに遅し。
二時間後。
ユリアシステムによる原霧市の地図に、いくつかの点が増えていた。
第二フェイズに作戦が移される。
第三章
覚醒吸血鬼が出現した場合のマニュアルにはいくつかの段階がある。
第一フェイズは、覚醒吸血鬼の出現と、VAT出動。
第二フェイズは、二次感染者の出現である。
覚醒吸血鬼が出現してから二日と数時間後。早くも原霧市にはいくつもの吸血鬼、もしくは不死者の反応が現れていた。
当然、ユリアシステムで感知はできるが、場所が密集地であった場合、即座に吸血鬼、もしくは不死者は周囲の人間を襲うだろう。つまり、感染拡大だ。ユリアシステムは探知機能に重点を置いているために、細かな壁を築くような余力はない。ゆえに、現状のまま、感染した疑いのある人間を物理的に隔離すると同時に、吸血鬼、もしくは不死者を倒す。
これが第二フェイズでの行動ではあるが、それには多く隊員を増員する必要がある。つまり、盛運学生、自警団も、この段階になると素行に問題があろうとなんであろうと、そこには目を瞑り、作戦に参加させるしかないのだ。
結果、地下通路の探索には盛運学生が駆り出され、その部隊の一つはTO一二首席の堀内を隊長に、TO一二、三席の大原を副隊長にすえて地下通路を探らせることにした。
すでに覚醒吸血鬼が出現してから五日目に突入している。地上では大混乱が始まっている。 忍の予想通り、覚醒吸血鬼は自警団に成りすまして多くの人間に行を加え、吸血鬼ではなく自警団に襲われたと思い込んだ住民は病院に向かってしまった。VATはその情報を事前に掴んでいたのだが、火事で焼け出されたものや、怪我人が多数舞い込んだ病院では、事態の把握もできず、人物を特定もできず、また自分からわざわざ名乗り出るものなど皆無だったためもあり、いくつかの病院で不死者が出現。周囲の人間を襲い、結果、病院は閉鎖される事態にまでなっていた。
さらに車の運転手を襲ったのか、もしくは感染したことに気付かずに町から脱出を図ろうとしたものがいたのか、市内のいたるところで反応が続出。VATは散り散りになってしまい、VATの増員は送られるものの、到底人手が足りない状況だった。
そして、その根幹の吸血鬼を捜索していた堀内達盛運学生は、その地下通路で、おもいがけない人間と遭遇していた。
「あら、久しぶり」
銃口の先にいたのは、この地下通路で迷っていた馨だった。
「……貴様……」
「まさか、お前……」
堀内が怒気を吐くも、大原は顔が引きつっていた。
その原因がわかった馨は即座にいう。
「ちがう、違う。あたしは覚醒吸血鬼じゃないわよ」
その可能性があることを馨は今、思い出す。二人とは、あの退学の日以来会ってないのだ。出現時に馨は谷崎と会っていたが、わざわざそれを他人にいうこともないだろう。
ゆえに、大原がそう思っても無理はない。
「ほ、本当か!」
「本当よ、本当。ユリアシステムで確認してよ」
「……」
堀内が自分達のいる場所の座標と、覚醒吸血鬼のいる座量を比べる。
「……確かに、お前じゃないみたいだな」
「そうよ。わかってくれた?」
「だが……」
大原が銃口を下げようとするのと反対に、堀内は銃口を向ける。
「お前が感染していない保証はない」
その疑いを晴らす方法は、馨にはなかった。というよりも、誰にもないだろう。あったとしても、それを他人に信じさせるのは、ほぼ不可能に近い。
「でしょうね。わかっているわ。隔離施設行きね、あたしは……」
「お前はいつから、ここにいた?」
堀内がさらに尋ねる。
覚醒吸血鬼がここに入りこんだ直後に感染していれば、馨もそろそろ吸血鬼化していてもおかしくない。
「感染はしてないわよ。それにまだ早いでしょ。吸血鬼化は二日以降よ。ただ、まぁ、隔離施設に向かうまでに吸血鬼化するってこともあなたは考えているでしょうから……、手錠かして。それをはめるから」
「……」
「……」
「VATの手錠は、頑丈よ」
「……わかった」
堀内が支給された手錠を馨に投げ渡し、それを馨は自分の両手にかけた。
「これでいいでしょ。とにかく、外に連れてってよ。あたし本気で迷子になっていたんだから」
「……減らず口を……。外がどんな状況かわかっているのか?」
「あなた達こそわかっている? 事態は最悪よ」
「それはいわれなくてもわかっている」
地下の探索班は他にもいる。堀内は他の部隊に自分達はいったん地上に戻ることを告げ、先頭に立った馨の背中に銃口を突きつけながら入口に向かった。
「本当に、わかっている? じゃあ、忠告しておくけど、最後の最後になったらVATを信用しちゃ駄目よ」
「何をいっている?」
「最悪の事態のことをいっているのよ」
「……?」
「吸血鬼がこの町に溢れかえったら、復興省は何をすると思う?」
「……そんな事態にはならない」
「ならないでほしいわよね、本当。でも、そうなったら? って聞いているのよ」
「……」
「わからない? 絨毯爆撃よ。VATは引き上げて、この町に絨毯爆撃を仕掛ける。で、吸血鬼の数を激減させる。爆弾喰らえば吸血鬼も死ぬしね」
「……市民はどうなるというんだ?」
方法としては、そういう手段もありえる。
現実的な堀内は、そう考えた。しかし、だからといって認められるようなものではない。
「市民? 感染しているのかどうか判断できない市民をどうするって? 決まっているでしょ。見捨てるのよ」
「……!」
「冗談だろ?」
大原が戸惑うが、馨は肩を竦めるだけだ。
「そんな蛮行を行うと?」
「それしか方法がないほど溢れたら、あなたでもそうするでしょう? 大を救うために小を切り捨てる。それが現実的な方法なんだから」
「……」
堀内がやはりここでも沈黙する。
その反応に大原が触発され、必死で否定の言葉をいおうとするのだが、堀内が先だった。
「その後は、どうなる。絨毯爆撃を永遠に続けるつもりか?」
「まさか。絨毯爆撃は市内を一周か、二周する程度よ。生き延びたいなら、上を向いて逃げましょうって感じよね。外周から内側に向かって円軌道を描くから、頭を働かせれば、どうにか逃げられるわ。でも大部分の不死者はそこまで頭は廻らないから、まず無理、死ぬわ。問題は、その後。VATは残った吸血鬼や不死者を掃討するわけだけど、復興省……というか、VATには掃討戦用の部隊があって、そいつらがここにやってくる。そのときの彼らにとっては、人間も吸血鬼も不死者も同じ。命令は一つ『動くものは撃て』よ」
「おい、待てよ。それじゃあ、生き残る道なんてねぇじゃねぇか!」
「まぁ、ないんでしょうね」
「ふざけるなよ!」
大原が馨の肩を掴み、次いでその胸元を掴みあげる。しかし、それを堀内がやめさせた。
「止めろ、大原。全てはこいつの戯言だ」
「そうそう、戯言よ。戯言でいいから、覚えておきなさいってこと。信じる必要なんてないし、覚えておけばいいのよ」
「……まるで、見てきたようなセリフだな」
「そうね。いろいろ見てきたわ。あたしってほら、犯罪者だしね」
「……クズが」
「はいはい。あたしは堀内君のいうように、クズですよ」
緊張感のないことを口にし、さらにそこにいる全員を不安にさせるようなことを告げながら、馨はようやく外にでた。
夕方に近いが、それでも太陽の光を浴びて馨は大きく息を吐いた。
「日の光はいいわねぇ」
「お前は、このまま隔離施設いきだ」
「わかってるわよ」
馨はそこで周囲を見回す。
車両が数台。VAT隊員はそれほど多くはなく、大半が盛運学生か自警団だ。馨の読み通り、ここにいる覚醒吸血鬼の存在意義は彼らにとってはそう大きくはなくなったということだろう。
「……無事に生き延びられたわね、あの子」
呟く声は誰にも届かなかったが、代わりに聞きなれた声が届く。
「馨……さん!」
姉さんという言葉を忍は飲み込んで、忍が駆け寄ってくる。しかし、堀内が手前で忍を抑え、事情を説明した。
「馨さんを隔離施設に移す役目は僕がやります」
「……しかし……」
二人の仲は知っている。
もしかしたら、逃がすのでは……堀内がそう考えるも、馨が先手を打つ。
「なによ、あたし達の別れを邪魔するの? それだったら、こっちの大原先輩も一緒にくればいいじゃない」
堀内が大原を見て、大原が堀内を見る。
実のところ大原は地下通路で相当まいっていた。緊張の連続だったし、地下通路は暗くじめじめしており不快指数が高すぎた。
隔離施設までの見張りなら、少しは休息できる。大原はそう思っていたが、さすがにこの状況でそれは口に出せない。
結果、堀内は多少の情があったのか、それを了承した。もしかしたら、大原のことを気遣ってのことかもしれない。
「いいだろう。二人でこの女を隔離施設に連れていけ」
「わかりました」
「任せとけ」
大原は静かに安堵の息を吐く。
忍が主導し、馨は市内にある第三隔離施設にバスで運ばれることになった。そのバスは市バスのもので、市内の数か所に止まり、隔離施設行きの人間を乗せていく。
忍はバスに乗り込む際に、堀内と大原から身体検査をされて武器や手錠、手錠の鍵を取られたが、逆にそれをすることで大原は気を抜いたのか、忍と馨が隣だって座ることを許し、自分は最後方に座った。
そのバスの中、忍が馨に告げる。
「第三隔離施設は、姉さんがいった場所の地下に繋がる扉があるよ」
「地図は?」
「そこまでは無理だった。どれがどの資料か判別する暇がなくて」
「いいわ。地図よりも、フリーパスが欲しいし」
「そっちの話だけど、アクセス権も上手くはいかなかったよ。電気が遮断されて、全ての扉にアクセスすることができなかった。扉の電力は個々別々に流れているから認証があれば開くけど、その隔離施設の扉にはアクセスできなかった」
「……まぁ、こういう状況だし、仕方ないわね。もう一つのほうは?」
「そっちは今、谷崎さんに任せてきた」
「……あんた、大丈夫? 谷崎さんとうまくやってる?」
「……どうかな?」
あのファミレスの件以降、谷崎は忍と少し距離を置いている。そうなるのも当然だと忍は思っていたので、自分から近づこうとはしなかった。
「あのね。谷崎さんは良い人じゃない」
「だから、何なんだよ……」
「嫌いなわけ?」
「嫌いじゃないよ」
「じゃあ、好きなわけ?」
「こんな状況で何いってんのさ」
忍がそういうのも無理はない。確かに、こんな状況だ。
しかし、馨は気にもしない。
「こんな状況っていうけど、あたし達は、こんな状況の中で生きてきたのよ」
「……それはわかっているよ。でも、どうしろっていうんだよ。谷崎さんはいい人だけど……、僕は人間じゃない」
「組成は人間よ。桜ねぇだってちゃんと子供産んだじゃないの」
「それはそうだけど……」
「話すこと話して、受け入れてもらえないなら諦めなさい。住む世界が違うってことなんだから。でも、話す前に一方的に諦めるのは止めなさいよ。桜ねぇの旦那は、桜ねぇだけじゃなく、あたし達全員のことを知った上で桜ねぇと結婚して、子供まで作ったんだから」
「……」
「まっ、桜ねぇは美人だし、旦那さんはさえない人だけどね」
「いい人だよ、旦那さんは」
「美人と付き合えるなら、我慢できるでしょ」
「そういう人じゃないよ」
「ならいうけど、谷崎さんは違うわけ?」
「……」
そこで忍はまたまた黙る。
「あんたは男の子なんだから、しっかりしなさい」
「……なんで、そんなことまで口を出すんだよ、馨姉さんは」
「あんたが姉離れして、独り立ちしてくれることが、今現在のあたしの夢だからよ」
「……他人事だと思って」
「そりゃ、そうよ。他人事よ。この事態も所詮他人事みたいなもんだし。菫を見てみなさいよ。あいつ、あたしの救援要請断ったんだからね」
「あぁ、僕も連絡取れないよ……」
「あそこまでいけとはいわないけど、あんたも自立の一歩を踏み出しなさい」
今まさに隔離施設に送り込まれる姉と、送り込む弟の会話ではなく、そんな話をしているとは思ってもみなかった大原だった。
第三隔離施設は、収容人数が六〇〇人と体育館並みの大きさを誇る施設だった。実際、平時は体育館として使用されてもいる。
しかし、強度は体育館とは比べ物にならない。
馨達、隔離施設に収容される者達がバスを降りると、VAT隊員が彼らを取り囲む。全員が銃を構え、いつ吸血鬼化してもいいように安全装置も解除していた。
大原は忍に手錠の鍵を渡すと、そのままバスの傍らで待つも、忍は馨についていく。
しかし、入口にきたところで問題が起きた。
「ちょっと、どういうこと?」
隔離施設は、感染しているかどうか判別するための施設だ。感染した者はその場で殺害されるが、中に入った人間を全員殺すための処刑場ではない。
にもかかわらず、そこにいたVAT隊員は、自分は施設内に入ろうとはしないのだ。
とすれば、中にいるのは、武装も何もない。丸腰の人間だけになる。
「中にVAT隊員がいるんですよね」
まさかこんなことになっているとは忍は想像していなかった。
中にVAT隊員がいなければ、吸血鬼化、不死者化した人間を殺害する人間がいない。とすれば、感染していない人間も、彼らに襲われることになる。
忍の問いにVAT隊員は、わずかに目をそらす。
「……いいから、中に入れ!」
入口は何重にもなっている。
通常は長い通路と感じる入口だが、今はその通路は三つの区画に分かれていた。それぞれが上下に開閉する厚い鋼鉄製の扉で仕切られている。
手前からA、B、Cとすると、B、Cの扉は閉められており、Aの区画に入るとAの扉がまず閉められ、次いでBの扉が開く。Bの区画に入るとBの扉が閉まり、その後、Cが開かれて、Cの区画に入るとCの扉が閉められる。そして、最後に施設内に通じる扉が開くのだ。
こうした構造であるために、施設内に吸血鬼がいたとしても入口にたどり着くことはほぼ不可能となっていた。
しかし、忍の手で手錠を外され、進んで先頭に立った馨は、VATを睨みつける。
「ふざけるんじゃないわよ。あんたら、中にいる民間人を見捨てるつもり? 中に吸血鬼やら不死者がいたら、対抗する術がないじゃないの!」
「……」
VAT隊員には言葉がない。そこで馨も忍も悟る。この町の崩壊はすでに始まりつつあることに。だから、馨はやり方を変えた。
「あたしは盛運学生よ。あんた達に代わって中の人間を仕切ってあげるから、銃器を渡しなさい。それと食料を大量に、今、ここにある全ての食料を先に中に入れなさい」
「武器の携帯など許されるはずがないだろう!」
何を馬鹿なことをいっているんだと、隊員の一人がいうが、そもそも、施設内にVAT隊員がいないこと自体が許されるようなことではないのだ。
「B区画まで銃器と食料を持っていけばいいのよ。そうすれば、あたしがB区画で銃器を手に入れても、A区画の扉は閉まっているから、あなた達に危害はないでしょ」
「そういう問題ではない。隔離施設内の民間人に銃器を渡すことは禁じられている」
「隔離施設内にVAT隊員がいないというのはある意味禁じられていることではないんですか?」
忍が優しい口調でいうのだが、目は笑っていない。
「今、あんた達がしているのは見殺しじゃなくて、処刑よ。民間人の処刑」
その極端であっても的を得ているだろう言葉に、VAT隊員だけでなく、そこに連れてこられた者達も動揺する。
ただ、馨も忍も判断していた。この隊員は処刑という言葉に怯えていると。
それはつまり、押しきることができるということだ。
「おい、何をしているんだよ」
騒ぎを見たのだろう大原がそこにやってくるも、忍はそれに構わずに一旦、馨以外の民間人を下がらせた。
「何をしているんだよ」
大原が続けていうので、VAT隊員が忍の行動に口出しするタイミングは失われた。が、民間人が放れたことを確認すると、馨がその場にいる隊員に語りかけた。
「いい? よく聞きなさい。あたしとあの子はティグニティーの一員よ」
「……?」
目の前の隊員はそれに気付かなかったが、その横にいた隊員が気付く。
「……ティグニティーだと……」
「そうよ。もし、あたしの要求通りにしなければ、あの子はそれを即座にティグニティーに報告する。ここから生きて帰っても、あなた達に先はないわ」
まさに脅迫に等しい表情と口調だ。
隊員はわずかにたじろぎ、馨と忍を交互に見る。
「いい? あたしはこのまま大人しく施設内に入る。でも、武器と食料と一緒でなければ入らない。さっきもいったようにB区画まででいい。そうすれば、あなた達がきちんと手順を踏めば、あなた達に害はない。あたしは元盛運学生で重火器の扱いには長けている。しかもティグニティーなんだからなおさらよ。あたしは別にあなた達に中に入れとはいわない。あなた達が中に入らなかったことも誰にもいわないわ。あたしがきちんと中を管理するから。人手が足りない状況で、隔離施設の管理を盛運学生に任せても、非常事態なんだから、構わないはずよ」
「……」
「……」
隊員の表情と見たこともない馨の顔。
それに押されて大原は何もいえない。そして、沈黙の後に隊員が諦めた。
「わかった。B区画までだな」
「ええ、お願いね」
馨はそこで再び表情を緩める。
ティグニティーを知っていた隊員が、数名の隊員に話を通し、結果、彼らが即座に動く。トラックに入っていた食料、別の車両に保管してあった銃器を取り出し、B区画にそれを置いた。
「食料は次いで入る者達に持たせる。いいな」
「えぇ、構わないわ、それで。じゃあ、あたしは約束通りに中に入ることにするわ」
一段落ついたところで、馨は悠々と中に入っていく。
「気をつけて」
「大丈夫よ。この程度」
「そうは思うけど、この場合で他にいう言葉はないしね」
「まぁ、そのとおりね」
忍と馨が軽口を叩きあうが、すぐにA区画の扉が閉められた。すると忍が今度は扉の操作室に足を踏み入れた。画ごとにモニターがあり、A区画からB区画に足を踏み入れる馨の姿が映し出された。しかし、問題がある。
「施設内のモニターが……」
真っ赤に染まっていた。
カメラ自体は壊れないように強化ガラスの内側に設置されているが、そもそもそのガラスが赤く塗られているために、A~C区画のカメラは無事だったが、肝心の施設内のカメラが全滅状態だった。
「……もう中にいるんですね」
開閉ボタンを操作していた隊員は何も語らない。
だから、中に入らないのだ……とも何もいわない。それでも入るべきであることを知っていたからだ。しかし、入れなかった。
蛇の巣穴に入ることなどできはしない。外にいれば安全なのだから……。
「音声も……」
映像も、音声もない。中の様子は外にはまるでわからない状況だ。ただ、逆に忍は感心する。こういう状況を考えていたからこそ、馨は食料を気にしたのだ。下手をすれば食料も届けられないかもしれないからこそ、今のうちに長期に渡っても大丈夫なだけの食料の確保を要求した。
そういう姉なのだ。
馨はB区画で銃器の点検をし、それを装備する。その後、食料と銃器をC区画に全て運びだし、モニターに向かってGOサインを出す。
B区画に至る扉が閉められ、それを背中越しに感じながら、馨はその場に膝をつき、銃を構えた。
そして、施設内の入り口の扉が開かれ、数秒後、銃声が鳴り響いた。
中の様子はわからないがC区画のモニターは無事であり、そのモニターに映る馨は、完全に扉が開かれるのと同時に立ち上がり、さらに銃弾を何発も放っていった。
そして、一通り中を見回すと、モニターに向かって笑み、食料と銃器を施設内に運んでいった。
もう大丈夫かな。
そう判断した忍は、そこを出ていく。ただ、忘れずにそこにいる隊員に告げた。
「銃器と食料はできる限り、中に入る人に持たせてください。取り合いになっても困るので、個人のものではなく、全員の物を分担させて持たせるって付け加えて……」
細かいところまでいいながら、忍はそこを出るが、返ってくるとは思わなかった声が返ってくる。
「お前、あの女が生きてここから出られると思っているのか?」
「この程度で帰ってこられなかったら、生きていませんよ、僕達は……」
忍は涼しげな顔でVAT隊員に告げた。
しかし、そこを出ると再び、質問が投げつけられる。
大原だ。
「おい」
「後はここの人に任せて、戻りませんと」
「それはわかってんだよ。それよりも、ティグニティーってのはなんだ」
もともといかつい顔が、さらにいかつくなっている。それに反するように忍は笑みを浮かべながら平然と答えた。
「ティグニティーは、復興省に属している政府の秘密機関のことですよ。管轄は復興省でも、基本的にはVATとは異なる組織です。対吸血鬼というよりも、主に吸血鬼の力を武力に還元するための研究を行っているところで、そこの行為は表ざたにはなっていませんが、各国ともに力を入れているものです。他にも表沙汰にできないような仕事をしています。もっとも僕達は下っ端の汚れ仕事を請け負うトカゲの尻尾的な存在ですけどね。秘密機関なんで、知らない人もいますが、知っている人がいてよかったですよ」
言い捨てるように忍はゆっくりとバスに向かう。その背を呆然と眺める大原だが、その視界に映る忍は、思い出したように振り返り、
「あっ、このことは内緒ですよ」
と告げてきた。
施設内は、死体が溢れていた。
おそらく感染者の一人が不死者ではなく、吸血鬼になったのだろう。それに対処できずに中にいたVAT隊員が発砲。多くの死者を出しながらも、どうにか吸血鬼を倒したが、結局、そのVAT隊員も死んだ。もしかしたら、死んだ後に生き残っていた民間人が偶然倒したのかもしれない。
馨が中を確認したときには、不死者が数体うごめいていたが、馨は正確な射撃でそれらを倒していた。
とはいえ、中にはもはや誰もいない。
知性のある吸血鬼ならともかく、知性なき不死者の場合は、こういうことになる。つまり、噛みつき、意識を失った相手に再び噛みついて、結局殺してしまうということだ。
動き回る人間がいればそちらに反応するが、動かない人間ばかりだとこうなってしまう。
体育館並みの広さを誇るその中を馨は歩き回るが、やはりそこには生きた人間はなく、死体だけが溢れていた。
が、馨はそれに構うことなく、隣接した扉に手をかける。
隔離施設は、感染の可能性がある人間を三日間隔離する場所だ。三日過ぎても吸血鬼化、不死者化しなければ感染していないことになるので解放される。つまり、ここで人間は過ごさなければいけないので、最低限の施設は揃っていた。
つまりはトイレや、倉庫等だ。
通常の体育館とは違って、それらに窓はないし、出入り口は一つだけだが、そういったものがなければ、使用目的のないただのコンクリートの建造物になるので、どこの隔離施設にもそういったものは備え付けられていた。
血みどろになった扉の前に立つ馨はそれに手をかけるも、ノブを回しても開かない。それはつまり中から鍵がかけられているということだ。それを察した馨は言い放つ。
「聞こえる? 中に人がいるんでしょ? こっちの吸血鬼やら不死者は殺したから、出てきていいわよ」
「……ほ、本当か!」
「本当よ。出てきなさい。食料もあるから。というか、そこにいられると邪魔なのよ。使える物が入っているんだから」
「……本当にいないんだな?」
「いないわよ」
肯定する馨だが、それと同時に背後から女性の悲鳴が聞こえてくる。馨に続いて中に入ってきたものだ。
悲鳴を上げるのも当然だろう。中には死体が溢れているのだから……。
馨がいなければ、おそらくその女性は引き返して、扉を開けてと泣き叫んでいたに違いない。
「い、今の悲鳴はなんだ!」
「当たり前でしょ。死体の山を見れば、悲鳴もあげるわよ」
「……ほ、本当にいないのか?」
「そこで一生暮らすわけ? いっておくけど、こっちには銃器があるし頭も使えるから、開ける気になれば開けられるのよ。それをちゃんと開けてと頼んでいるんだから、開けなさい」
「……」
馨のいっていることももっともだと思ったのだろう。
ゆっくりと扉が開き、憔悴した人間が数人、そこから出てきた。
「……何人?」
「四人だ……。他の部屋にも逃げ込んだものがいると思う」
「そう。じゃあ、全員に無事だから出てきてっていってくれる? あたしよりも、あなた達のほうが説得力あるでしょ?」
それもまたもっともな言葉だった。
同じ状況を体験した人間のセリフのほうが説得力があるのは当然だ。
馨は開け放たれた扉の中に入ると、中を確かめ、力強く頷いた。
入ってくる人間、入ってくる人間が次々に悲鳴を上げ、部屋の片隅に逃げるように集まっている。さらにいくつかの部屋に繋がる扉が開き、そこからも人が出てきた。
合計すれば四〇人というところだろう。
「あなたで最後?」
「……は、はい……」
赤ん坊を抱いた母親が、赤ん坊を抱きながら頷いた。
「赤ん坊……あぁ、そっか。あなたのほうが感染の疑いなのね」
赤ん坊なら噛まれた瞬間に下手をすれば死ぬ。力加減のできない不死者ならそうなるだろうし、吸血鬼なら赤ん坊は狙わない。
「あ、あたしは噛まれていません」
「まぁ、どうでもいいわよ。ただ、どうして赤ん坊まで連れてきたの? って思っただけ。でも、そりゃこんな状況じゃ赤ん坊を預ける人なんていないわよね」
勝手に疑問を口にして、勝手に解決した馨は、両手を強く叩き付け、全員の注目を集めた。
「さて、とりあえず、ここはあたしが管理させてもらうから、よろしくね」
「……君は誰だ? VAT隊員じゃないだろう?」
閉じこもっていた男性が、怯えながら質問する。
「そうね。あたしは盛運高校の元学生よ。素行不良でこの間退学になったけど。まぁ、射撃の腕は確かだから、安心して」
「ちょっと待ってくれ」
一人の男性が進み出る。
おそらく共に入ってきた人間だ。
「私も盛運高校の学生だった。TO一二の第七席、武田昌憲だ。自警団には入っていなかったが、訓練場で射撃は続けてきた。君の腕はどうなんだ。君は自分に任せろというが……」
「まぁ、確かにあたしは成績最下位みたいなもんだけど、大丈夫よ」
いいながら馨は、元盛運学生の武田に、死んでいた誰かの履いていた靴を渡す。
「それを投げて。あたしが撃つから。……そうね、もう、三人ぐらい、一緒に投げてもらおうかしら。そこの人と、そこの人、あと、そこの人。そこらへんの靴を取って。血まみれなんて気にしない気にしない」
三人の男を指差した馨の言葉に、男達は躊躇しながらもそこらにあった靴を取る。
「いいわよ、いつでも投げて」
馨は銃さえもかまえていない。
それを訝しながらも、合計四人の男性が、それぞれのタイミングで靴を放り投げた。
ある者はキャッチボールするかのように弓なりに、あるものは真上に、ある者は野球のピッチャーのように、あるものはタイミングを大幅に遅らせて。
しかし、全員の目の前で、その四足の靴が宙を踊る。
一度ではない。四足の靴が、それぞれ、二度、三度空中で跳ね回るのだ。銃声に驚くよりも、まるでマジックのように跳ね回る靴に目を奪われる面々だった。
「どう?」
靴がほぼ同時に床に落ちたと同時に、馨が武田に伺いをたてるが、武田はすぐには返答できなかった。
「これでも、兄弟の中じゃ、射撃の腕は二番手、三番手なのよ。まっ、役立たずの長男がいるから一番にはなれなかったけど。で、もう一度聞くけど、あなたがあたしの代わりにやってみる?」
「……」
武田はごくりと息を飲みながら、
「問題はない」
と告げた。
馨は当たり前のように頷くと時計に目をやった。
「ということで、銃器はあたしが持つわ。悪いけど、あなた達には渡せない。大丈夫よ。人間撃ったりしないから。感染していても、人間として死ぬまでは殺さない。それと、今までここにいた人達には申し訳ないけど、今までいた時間はリセットね。今から三日後に、吸血鬼化しない人は感染してないって断定するわ。あたしは射撃の腕はあるけど、自己申告の時間が嘘でもあたしにはわからないし。それと、トイレにいくときは一人でいくこと。複数でいって、あたしの目の届かないトイレで一方が吸血鬼化して、一方を噛んだら困るでしょ。だから、トイレは一人でいくこと。ただし、ここにいるときはできるだけみんなと一緒にいたほうがいいわね。せっかく広いんだから、ボール遊びしていてもいいわよ。後は、食料はできるだけ節約ね。で、これも面倒だろうけど、ここにノートがあるから、そこに名前を記入して。名前書かないと、誰が三日経過したかあたしには判別不可能だから。で、あたしはちょいちょい寝るけど、まぁ、異変はちゃんと察知するから、安心してあたしを寝かせてね。ただ、こんなあたしにも生理現象はあるし、みんなの前でするのも嫌だから、あたしもトイレは使わせてもらう。そのときだけは元TO一二、七席の武田さんに銃を持たせるわ。ただまぁ、そのときに誰かが吸血鬼化しないようにとりあえず祈っていたほうがいいわね。で、質問は?」
あんな射撃の腕と、この状況に何ら怯えていない自信に溢れるその言葉、そして、ここまで立て続けにいわれて、質問といわれてもあるはずがない。
そして、馨はいうべきことはいったとばかりに、本題に入った。
「ということで、あたしが強制命令することはたった一つよ。さぁ、みんなで、ここを掃除しましょうか」
さも当たり前であるかのような言葉に、全員が血まみれの体育館を見ながら息を飲んだ。しかし、それを断れる者は一人もいない。
五日目の夜もふけ、もうすぐ六日目に達しようとしている。
その時分でもVAT本部は活動していた。
しかし、状況は悪すぎた。
二次感染者の総数は四〇体を越えていた。数だけみれば多すぎるというわけではなかったが、その大半が隔離施設外での発症だ。よくもここまでこちらの目を盗んで感染者を増やしたとほめたくなるような数字だ。しかも、その大半が、自分達がくるまでの三時間に行ったに違いなく、改めて今回の覚醒吸血鬼の異常性が際立っていた。
さらに厄介だったのは、報告があったように、感染者の三割程度が自警団に暴行されたと訴えていた者達であり、病院で不死者化した者や、自宅で不死者化し、家族を襲ったものが含まれていた。
そして、最大の問題は、懸念していたように覚醒吸血鬼の行動原理を受け継いだに違いない吸血鬼の存在だ。
四〇体のうち、吸血鬼と思われるものは三体だったが、その三体は吸血鬼化したと同時に、道路の封鎖を行い始めたのだ。道路を封鎖されればVATの行動は鈍る。そうなれば、感染拡大だ。
どうにかVATはこれを阻止しようと動くのだが、今回の吸血鬼や不死者の出現場所はバラバラで、VAT隊員は各個に対処せねばならず、総数が圧倒的に足りなかった。
VATの総数不足を補うのは自警団と盛運学生だ。中でもTO一二の堀内はありとあらゆる部隊に回されていた。覚醒吸血鬼は地下通路での動きも少なく、危険性は薄いと判断されたのだ。
それよりも今は拡大する吸血鬼の動きに対処するほうが先だった。とはいえ、吸血鬼は知性を持ち手強い存在。
自警団や盛運学生が受け持つのは中心部の不死者を一体ずつ倒していくことだった。
郊外の不死者は早々に方をつけなければ、それこそ安全地帯がなくなりかねないことになるためにVATに任せ、比較的不死者の多い中心地を自警団と盛運学生が対処する。
中心部は住宅は少なく、市民はほとんど全てが退避しているので、不死者を見付けやすく、また民間人に被害を及ぼす可能性も低いために物量作戦が可能だとの判断だ。
しかし、すでに夜。
見通しは悪い。
幸いなのは不死者は知性がないということで、故意に物影に隠れて急に襲ってくることはないことと、ユリアシステムが人間側にあるということだった。
しかも山中や地下通路と違い、街中の場合は地図と居場所がはっきりと確認できる。残念ながら、高低に関してはサポートされていないが、それでも、はるかに離れた場所にいても、その建物にいるのか、どの建物に面した道にいるのかがわかるだけで発見の難易度ははるかに変わってくる。
自警団も盛運学生も、ユリアシステムに随時目を配り、その居場所を特定する。そして、各部隊がそれぞれの方向から進み、三方から取り囲んだ上で一斉射撃を行い不死者を倒していく。
成果としてはまずまずだったのだが、残念ながら時間と手間のかかる作業であり、それをヨシとしないものもいた。
自警団の汚点というべき藤本、落合の二人だ。
堀内は二人と顔を合わせたと同時に自身の怒りを抑え付けるのがやっとだったが、二人は堀内を覚えてもいなかった。
それどころか、念密な作戦の上での行動にも拒絶を示し始める。
「おいおい、こんなちんたらしてていいのかよ」
「そうだぜ、不死者程度、どうにでもなるじゃねぇか。吸血鬼はいねぇのか?」
不死者にも聴覚があるし、それに反応することはわかっている。
故にできるだけ音をたてないように行動するのが基本であるにも関わらず、二人はそんなこと気にもしなかった。
しまいには、
「ちっ、おい、落合」
「あぁ、そうだな」
と互いに頷きあうと、車両を一つ占領してしまったのだ。
「何をしているんだ、あんた達は」
その隊にいた堀内が二人の行為をとがめるも、そんな言葉、二人には届かなかった。
「うるせぇよ、ガキが」
「俺達に任せておけばいいんだよ。こいつでちょっとばかり、不死者狩りでもしてやるよ」、
「待て。単独行動など許されていない」
「はっ。ガキはちまちまやってな。俺達は、二人だけで十分なんだよ」
堀内の制止など何の効力を持つこともなく、藤本と落合の乗る車はそのまま闇夜に消えていった。
ついに覚醒吸血鬼が出現してから六日が過ぎる。
市役所に泊まり込んでいた高野は疲労もあってか、いら立っていた。なぜ自分はまだこんなところにいるのだ。なぜ雑用的なことをこなさないといけないのだ。にもかかわらず自分のもとには苦情ばかりが押し寄せる。その苦情も今となっては怨嗟の声だ。
『こんな事態になったのは市長のせいだ』
『計画を立てていないからだ』
『こんなときのための行動指針がなかったからだ』
『なぜ情報を全て公開しないのか』
『市民の退避をなぜしないのか』
『我々を殺すつもりか』
「まったく、どいつもこいつも!」
市長室にいた高野はテーブルにあった書類を叩き落とす。
「なぜ、この事態が私のせいになるというのだ! 計画? 行動指針? そんなものはすでに公開しているではないか。そこに立っているだけで情報が勝手に舞い込んでくるとでも思っているのか! 欲しければいくらでも資料はある! それを入手しようとしないのが私のせいか! 目に触れるように広報にも定期的にのせておるわ! そもそも避難計画はVATの管轄で私ではないし、全ての情報など私も知らん! それとも何か? この壁を越えた先に避難させろとでもいうのか!」
どんな問題も、その身に降りかかれば他人のせい。そういった人間は、その他人を非難するときの声は大きいものとなる。
国民の大半が吸血鬼など過去のことだと思っている。思っているからこそ復興省が叩かれて予算が縮小されているのだ。真剣に吸血鬼のことを考えていればそんなことはしなかったはずなのだ。だが、こうして現実的な問題になれば、意見はコロリと変わる。
自分が意見をコロリと変えたことにさえ、気付かないほどだ。
高野市長自身も、吸血鬼など過去のことだと判断していたし、早々に逃げてやると考えていたが、それが不可能と判断してからは、できる限りのことはしてきた。
しかし、無理なものは無理なのだ。できないことはできず、終わったことは終わったことだ。この先、どうすればいいのかなど、吸血鬼に聞いてくれ。
高野は一人頭を抱えていた。しかし、そこに副市長の石黒が入ってくる。
「市長」
「なんだ?」
「食料の配布の件ですが……」
「そのことか」
外出を制限している現在、食料はそれぞれの自宅に配布しなければいけない。しかし、VATは送られてきた食料を役所に送ってくるだけで、それ以上はしない。
つまり、役所の責任で配布しろということなのだろうが、だからといって、できることとできないことがある。
原霧市に、どれだけの数の市民がいることか。
町内会単位で配布しようにも、まさか町内会長に取りにこいとはいえない。配布しようにも人手が足りない。護衛の人間もほぼいない。
配達しようにも、その町内に人がいるのかもわからない。全員避難している可能性とてある。
どの避難先にどれだけの人間がいて、どれだけの食料が必要なのか。そもそも避難先に食料は届けられているのか。それらの情報は、避難先から伝えてもらわなければ把握もできない。
住民を避難させても、吸血鬼や不死者の動き次第で、また移動することになる。
「自警団か盛運学生の手は借りられないのか?」
「どうも、ほぼ全てが吸血鬼や不死者の掃討に狩りだされているようで……」
「食料はこっちで配れか? なら、元盛運学生で、自警団に所属していない者もいるだろう。そういった者達を集め、銃器を配布し、協力を求めろ」
「わかりま……し……た」
言葉の調子がおかしい。
市長は先ほどから机に肘をつき、頭を押さえていたために副市長を一切みていなかったが、その声に気付いて顔を上げた。いや、あげたと思ったが、違った。市長は突然、殴りつけられ、壁に打ち付けられたのだ。
強い衝撃を受けて市長は気を失ってしまう。
扉を開けるのと、その脳天を撃つのはほぼ同時だった。
谷崎と忍は市役所に進んで配備を願い出ており、二人は市長室の前にいたのだが、谷崎は忍が立ち上がるまで気付かなかった。嫌、忍が立ち上がったのと物音がしたのは、ほぼ同時に感じられたのだ。
それこそ、何、今の音?
と思った時には、忍は扉を開けそこに立つ副市長の頭を撃ちぬいたのだ。
「忍君?」
「感染していたようです」
「副市長が? いつ?」
谷崎にとっては当然の疑問だ。副市長の行動など把握はしていないが、感染が疑われる場所にいたとも思えなかった。
しかし、すでに死んだ副市長の顔を見れば、確かに不死者であることがわかる。
牙こそ生えていないが、青白い顔、濁った瞳。それは不死者の特徴だ。いわば、瞳孔が完全に開き切ったものなのだ。見間違いなどありえない。
その銃声を聞いた職員もやってきたのだが、副市長の不死者化にも驚いたが、市長室で倒れている高野市長を見て、思わず天を仰いだ。
高野市長は、強欲で傲慢で権力欲の塊のような人間だったが、それでも、職員の統制はとっていた。
しかし、市長室には不死者と化し、すでに死んだ副市長と、気を失った市長がいる。
こうなれば、結果はわかる。
「……残念ですが、高野市長は隔離施設に移させていただきます」
「で、ですが……」
隔離施設からは怪しげな噂が流れていた。
そこはもはや隔離ではなく、単なる処刑場になっているという噂だ。通常の隔離施設なら三日で帰ってこられるが、その噂が本当ならば市長は帰ってこない。
職員に市長が隔離施設に移されるのを止める権限などなく、ため息をつきながらそこにいる盛運学生に頼んだ。
「申し訳ありませんが、議長の自宅に向かい、議長を連れてきていただけませんか?」
議員は議会、立法の主であって、行政の主ではない。しかし、市長もなく、副市長もない。
こうなると議長を旗頭に統制を取るしかなかった。
「僕が市長を隔離施設に運びます。谷崎さんは議長を……」
「……わかった」
淡々と絶望が滲み出すような返事をしながら、谷崎は了承し、一足先にそこをさる。
そして、忍は誰にも聞かれないように呟いた。
「これで通行手形が手に入ったよ、馨姉さん」
真夜中の第三隔離施設で、三度目の銃声が鳴り響く。
反響する音が全員の鼓膜を刺激して誰もが飛び起きる。と、同時に祈るのだ。自分ではないことを、自分の隣にいるものではないことを。
しかし、全員の祈りが届くはずもない。
突然の覚醒で思考が鈍くなったのが幸いしたのか、悲鳴こそあげなかったが、その男はうろたえ、その場から這うように逃げ去る。
「はいはい。ごめんなさいね」
まるで闇に照らされる懐中電灯の光が声を発しているようだった。しかも、その声は軽やか。
何があったのかを理解していない者はほとんどいなかった。怯え、震え、動揺著しいのは、新たにそこにやってきた者達で、初めからここにいる者達は平静でいられるはずもないが、取り乱すようなことはなかった。
「大丈夫?」
光が男を照らし、光の中から現れた手が男の頬に触れる。
「残念だけど、あなたの知り合いさんは不死者になった。だから、死んだ。悲しいのもわかるし、怖いのもわかる。でも、もう終わったわ」
落ち着かせるように声の主はいう。そこでいくつかの光がその人物をさした。現れる少女は八巻馨。この隔離施設の、ある意味、主だ。
彼女を照らす光が、今度はそこに倒れる男にうつる。誰もが知っている。知らないはずもない。ここで一日程度とはいえ、共に過ごしてきた者だ。
「じゃあ、みんな悪いけど、神様でも、仏様でも、誰にでもいいわ。冥福を祈って。彼は人間として生きてきた。最後は不死者になったけど、ちゃんとした人格のある人間で決して化け物じゃない。人間よ」
全員がその言葉に導かれるように祈りを捧げる。
「ほら、あなたも」
傍らで寝ていた男が馨を一旦見詰めたが、死んだ知り合いをもう一度みて、そして、瞳を閉じた。
八巻馨がここにきて、三人が不死者になった。しかし、馨の自信は実力を伴っており、不死者になったと同時にその人物を射殺した。その狙いは外されることなく、誰かを襲う暇もなくその者達は死んでいった。
馨は別に死者に関しては、何を思うわけでもない。正直、生者に対しても何かを思うわけではないのだ。不死者は当然として、たとえ人間を殺しても心が乱されるわけでもないし、神も仏も信じているわけでもない。
それでも人間として扱い、人間として祈りを捧げさせる。
周囲の恐れや怯えにさらされ、疑心暗鬼になり、無残に殺され、死んでからも気味の悪い物として同族たる人間に扱われる。もし、それが目の前でさらされれば、そこにいる者達の心理には多大な影響を及ぼしていただろう。
しかし、馨はそれをしない。結果、そこにいる者達は思うのだ。
たとえ自分が感染していたとしても、どれほど怪しい状況であっても、馨は決して不死者になる前に殺害することはなく、たとえ不死者になっても、吸血鬼になっても、誰を傷つけることもなく殺され、そして、人間として弔ってもらえる。
そこには死しかないとしても、こうして全員に自分の死を悲しんでもらえ、丁重に扱ってもらえるのなら、それがいい。
こんな状況だからこそ、そこの者達はそう思うのだ。
そして、馨はその心理を誰に教えられるわけでもなく理解していた。
「じゃあ、この人を運んで頂戴。後は、あたしがやるから」
「……いや、私達もやる」
「そう? じゃあ、手伝って。ただし、静かにね。他のみんなは寝てちょうだい。人間、休息は必要なんだから」
馨の態度からはここが隔離施設であることも、非日常であることも感じられない。その上で射撃の腕も優れ、率先して事を進め、威圧することも、怒りをさらけ出すこともなく、他人だけをこき使うこともない。
それがそこにいる者達にとってどれほど助かっているのか。
そこまで馨はわかっていない。なぜなら、馨にとって、この状況は確かにかつての日常だったのだから。
水はまだ供給されているのが幸いで、バケツに水を入れ、馨を中心に床についた血のりを落とす。当たり前だが、血まみれの場所で平静でいられる人間はいない。といっても、馨自身、もともと掃除好きだっただけでもある。
ぞうきんがけが終了しようとしたところで、聞き直れた音がそこに響き渡った。
新たな人間が、この施設に入れられてきたのだ。
馨が何いうわけでもなく、入口付近に立ち、元盛運学生の武田もそこに立つ。
どう考えても、馨の容姿だけで人を納得させるのは難しいためだ。
「悪いわね、毎回毎回。いうのもなんだけど、あたし子供だから、ああしろ、こうしろっていってもなかなかねぇ」
「……ここが普通の避難所に見えてしまうからだろうな。だから、自分の知っている世界の常識をここでもあてはめてしまう」
「あぁ、なるほどね」
馨は納得しながら、扉が開くのを待った。
そこにくるものは大抵不安な表情でそこにやってくる。中に吸血鬼や不死者はいるのか。この場所は大丈夫なのか。自分は感染しているのか、感染している人間はどれほどいるのか。
さまざまな不安だ。
が、そういった人間が目にするのは、少女なのだ。しかも、整然とした体育館。
予想を外し、状況を理解するのがやや遅れるが、やはり少女の言葉を素直に受け入れる者はない。なので、武田が説明を行うのだ。
今回入ってきたのは真夜中ということもあって七人程度だったが、最後の一人は喚き散らし、誰かに無理に押し込まれて入ってきた。
それはこの町の市長、高野光一郎と盛運学生の菊池忍だった。
「放せ! 放せといっているんだ! 私はこの町の市長だ! 市長だぞ! たかが学生の分際で、こんなことをしてどうなるかわかっているのか! この町にいられなくしてやるぞ! 私は感染していない! 殴られて気を失っていただけだ!」
しかし、忍は聞く耳をもたず、それこそ馨を見て笑みを浮かべた。その状態で忍は市長を中に突き飛ばし、自分はC区画に留まった。
と同時に扉が閉まる。
「姉さん、中の写真を撮って。ここが安全だと証明しないと、僕もそっち側だ」
「了解」
返事を返した後に、馨は滑らされたカメラで中の様子を撮った。
数分後に再び扉が開き、今度は馨がそのカメラをC区画に入れる。そこにはまだ忍が立っていた。
「ネットワークは寸断されたけど、個別の扉の認識は残っている。市長さんのはいったん削除されたけど、僕がまた入れておいたから、ネットワークに繋がっている扉も大丈夫なはずだよ」
「外の様子は?」
「たぶん、駄目だね。ここから出ない方向で考えたほうがいいよ。地下通路の地図は無理だったから、自力でどうにかして」
「わかったわ。こっちは多分、大丈夫だから、自分のほうに専念して。菫は?」
「家にいってないから、何しているのかさっぱり」
「了解。菫にもし会えたら、使えそうなのは殺すなって伝えておいて」
「わかった」
会話はそこで精一杯で、入口の扉が二人を分かつ。
馨の姿が見えなくなると、今度は忍がモニターにカメラをさらす。すると、C区画とB区画を繋ぐ扉が閉まり、忍はカメラだけをそこにいれ、再び、そこで待つ。
そこまでしないと、そこを管理するVAT隊員は安心できないのだ。
カメラの画像を確認した隊員は、そこの整然とした映像を信じられなかっただろうが、信じる以外に道はなかった。
結果、忍はようやくそこから出る。
「……あの女はいったい、なんなんだ……」
怯える口調で、ティグニティーを知っていた隊員が忍に問う。
しかし、忍は端的に答えるだけだ。
「僕の姉ですよ。……じゃあ、僕はいきます。もし、あなた達が本部に帰れないほど状況が悪化していれば、あなた達も施設の中に入ったほうがいいですよ」
異常な、それでも、それが正解なのだろうと思ってしまうような言葉を残し、忍は恐れのない足取りで去っていった。
「許さんぞ、許さんぞ、あの小僧!」
市長の怒りは冷めやらない。
しかし、そこにいた面々の視線は、市長ではなく、馨に向けられている。目の前にいるのはこの町の市長だ。逃げ出していなかったのかという思いもあるし、市長でもここに送られるほどの状況なのかと嘆息するものもいる。ただ、全員に共通しているのは、馨という少女は市長に対してどう接するのか……ということだった。
主導権が市長に移ってしまえば、状況は悪くなるだけだと本能的に察しているのだ。
しかし、馨は馨だった。
「さっきの小僧は、あたしの弟の菊池忍っていうの。で、あたしはその小僧の姉の八巻馨。名前聞いてわかるとおり、血は繋がってないけどね」
「あの小僧の姉だと! いいか、お前達兄妹はもはやこの町にはいられないからな!」
「どうでもいいわよ。それよりも、ずっとあなたを待っていたのよ。通行手形さん」
「なんだと!」
立ち上がった市長は、自分を誇示しようと胸を張るが、そんなのは意味がなかった。
「さて、一緒にいきましょう」
何気にいいながら、馨の手にした銃が市長の顔面に突きつけられる。
「何をしているんだ?」
全員に名前をかかせ、状況の説明をしていた武田が馨の行動に気付いて近づいてくる。
「銃器が全然足りないのよ。状況が悪化すれば、ここにある銃器じゃ全然足りないの」
「まだ、充分にあるぞ」
「いったでしょ。状況が悪化する可能性があるって。で、あたしは自分でいうのもなんだけど、悪党でね。盛運学生の倉庫にあった重火器を盗んで、地下に隠してきたのよ。でも、それが商売相手に奪われて移動された。で、あたしの読みだと、この隔離施設から向かえる場所に、移動された重火器があるはずなのよ。で、そのためには扉の鍵……認証を外さないといけないの。で、この人は市長さん。全ての認証をフリーパスできる人ってことよ」
今更、馨の人物像などそこにいる誰も興味はなかった。そもそも、あんな射撃の腕など、まっとうな人間にはないのだ。
「ということで、この人があたしには必要なのよ」
「お、おい、誰か。この女をどうにかしないか!」
高野市長がわめくのだが、そんなことをする人間はどこにもいない。いるとしても、新たにそこにきた人間達だけで、勇気のある人間は、止めようとするが、ここに最初からいた他の男性がそれを止める。
「で、申し訳ないと思うけど、急がないといけないから……。全員でいきましょうか」
さすがにそれにはざわめきが返ってきた。
「ここから逃げると?」
武田が尋ねるが、馨は首をふる。
「駄目よ。あなた達は知らないかもしれないけど、最初の吸血鬼は地下に逃げた。今、どうなっているのか知らないけどね。さらにいえば、外は安全とは限らない。ねぇ、そうでしょ?」
今度の言葉は、新たに入ってきた者達に向けられる。
ついさっきまで外にいたものだ。
たった一日のタイム差でも、状況は目まぐるしく悪化する。
それを証明するかのような表情を、新たにここにきた者達の表情は物語っていた。
「あたしは逃げることを許さない。いい? 地下で逃げた人間が外に出る前に吸血鬼や不死者になったら、どうなる? 迷路の中で、鬼ごっこでもする? 駄目よ。三日経過して、感染していないことが証明された人間は地下に移す。区画の隔壁を開けない限りそこは安全圏。つまり、地下は最後の安全圏なのよ。その安全圏を安全圏でなくしてしまうような行動を、あたしは許さない」
珍しく強い言葉。
馨がいう言葉にどう足掻いても逆らうことなどできはしない。無論、市長は必死に抵抗しているが、全員見て見ぬふりをしている。
それに馨の言葉は正しい……いや、最後の希望に思えるのだ。
「さて、こういう状況になったら仕方ないわ。みんなで地下に入って、宝探しよ」
本当に宝探しにいくかのような陽気な言葉に、やや嘆息しながら全員が起き上った。
六日目の朝を迎えたころ、復興省の一角にあるティグニティー本部の最奥でその組織を率いる壮年の男が、切れ者風の青年に指示を出す。
「どうやら原霧市の状況は悪化の一途を辿っているらしい」
「そのようで」
「ここままいけば特A級第三フェイズに移行するだろう。後は雪崩のように地獄に化すのみだ」
「……覚醒吸血鬼、二次感染者が生存しているにも関わらず、三次感染者が現れた場合の特別の呼称。つまり、最悪の事態を指す……。……それで私が呼ばれたのは?」
「うちの研究員がぜひとも不死者の素体が欲しいといっていてな」
「……」
「VATとは話がついている。今回は向こうの不手際だからな。今回の件を抑え込むための全面協力と引き換えに、ティグニティーの参加を許可してきた」
「なるほど、VATの正規の増員として原霧市に向かうのですね」
「そうだ。ちょうどいいことに、あの町には八巻馨、岩倉菫、菊池忍の三名がいる。奴らを使って不死者を捕獲してこい。吸血鬼ならば、なおいい」
「しかし、彼女達が使えますか? 運よく生き残ってきた程度の子供ですよ」
「死んでも構わん。何なら囮にでも使えばいい。どのみち安値で買った子供だ。変わりはいくらでもいる。それにあの三人は今まで生き残っているのだ、相当、運がいいだろうから、使い道はあるだろう」
「了解しました」
「頼むぞ、飛田宏平」
飛田と呼ばれた男は、そのままそこを出ていくとすぐに行動を開始した。
第四章
通常の第三フェイズは三次感染者の出現でしかなく、通常、そのまま作戦が終息していく。つまり、その時点で、覚醒吸血鬼は当然として、二次感染者の大部分を殺しているのだ。吸血鬼、不死者を倒し、近くにいた者を隔離施設に。それを繰り返すことで町は正常化していくのだが、今回は違う。
覚醒吸血鬼を取り逃がし、二次感染者の数は膨大。二次感染者のうち、おそらく終局的に五人が吸血鬼となったが、彼らは即座に道路の封鎖を行いつつ、人間を襲撃。
結局、不死者は倒せても、吸血鬼は一人も殺せずに時間が経過。三次感染者が出現してしまった。
当初こそは気にもしなかったが、ここまでくるとVATも理解せずにはいられない。
この町の立地は非常にまずいのだ。
四方を山に囲まれ、町からでるには細長く危険な山道を走るか、トンネルを抜けるしか方法がない。
しかし、吸血鬼はそのトンネルを破壊。
あっけなく町は孤立した。
空からの輸送手段よりも、陸をつかった輸送手段のほうがこういった場合は利用価値が高かったが、それはもはやできなくなり、山を背後にした東南地域の一角には次々に不死者の反応が現れている。
その場所の不死者を掃討したくても、そこにいたる道は横倒しにされた自動車やトラックで封鎖され、軽々には向かえない。どうにか動かしても、夜になれば進んだ分以上に後退する。
そこにいるのに、そこに向かえない状態が続いているのだ。
しかも、この時点に達したところで、三日目から動いてなかった覚醒吸血鬼が動き出す。
まったく動き出していなかったし、地下よりも地上の対処に追われていたVATはこれを取り逃がし、おそらく覚醒吸血鬼は外に出たと思われた。
不死者は殺せても、相手戦力の要である吸血鬼は野放しだ。
住民の退避も後手に回り、取り残された住民の家には火が放たれ、外に逃げたところで吸血鬼に襲われ、そのまま不死者になる。
避難所ももはや満員状態で、バスの中で夜を過ごす市民も数多く出た。
状況は、馨や忍の予想通りに悪化した。
地下通路に足を踏み入れていた八巻馨一行がぞろぞろと隔離施設に戻ってくると、何やら騒がしかった。
念のため、元盛運学生の武田をそこに残していたが、懸念していた通り、自分達がいない間に、新たな人間が連れてこられていたのだ。
幸い誰も吸血鬼化不死者化していなかったが、武田と誰かが口論しているのはすぐにわかった。
「だから、いっているはずだ。この銃器は一人しか使えない。君に渡すわけにはいかないんだ」
「あたしは盛運学生よ。ここまで不死者を倒してきたし、みんなを守ってきた」
「ここは隔離施設だ。いつ誰が不死者化するかわからない。君に、この場は制御できない」
「なら、あなたなら制御できるっていうわけ?」
地下通路で何があったのか、というよりも押しつけただけだろうが、重火器の多くを高野市長に背負わせた馨が、その口論を聞いてにこやかに現れた。
「あら、現役TO一二の第五席、若松さんじゃないの。お久しぶり」
こんな状況で、旧知だが、決して好意的に思っていない人間に会った若松は不運だったといえるだろう。
「八巻馨……。あなたもここにいたのね」
「そうよ。で、申し訳ないけど……」
武田は手にした銃を近づいてきた馨に渡す。
「ここの銃器はあたししか持ってはいけないのよ。あぁ、市長さん、その武器はここに置いてね」
「なんで、私がこんな荷運びをしなければならないのだ!」
「それはあなたがあたしのお手伝いさんに昇格したからよ」
それを昇格といえるのかはわからない。
「それで?」
「武器は見付けたわ。……あら、安心した顔して。なに、置いていかれると思った?」
「そんな思いが心をかすめてもおかしくはないだろう」
自分がここに残らされる理由は、充分納得できるものだったし、それは裏返せば信頼されている証拠だというのもわかっていた。
ただ、一人でここに残され、他の人間は全員地下に向かったのだ。不安になっても仕方ない。
「まぁ、そうね。でもちゃんと戻ってきたでしょ。幸い地下で不死者化した人もいなかったわ」
「ちょっと、待ちなさいよ。なんであんたが仕切っている感じになっているわけ?」
「実際仕切っているからよ。あたしが一番腕がいい。こんな状況で平静さをなくすこともない。何より、掃除好きだしね」
「馬鹿なことをいわないで。あんたの成績は最下位でしょ。こっちは五席よ」
「だから? だって、あたし、本気で授業を受けたことも、試験をうけたこともないもの。ティグニティーの人間もあたしの本気なんてみたことないわよ。下手にみせるのも一つの腕よね?」
「……ティグニティー……?」
その言葉を若松が口にするが、それに馨は構わずに告げる。
「面倒だから、もう一度やってあげるわ」
「また靴を投げるのか?」
「乾パン入れた缶があるでしょ?」
「そうだったな」
そして、馨は最初の人間達に見せたような魔術じみた射撃を見せ、若松を含めた全員を黙らせた。
菊池忍は単独で行動していた。
もはや統制は取れておらず、学生一人にこだわる人間はいない。そこにいれば命令を下し、いなくても探さない。
一週間程度で、そこまで状況は悪化している。
車両の運転は一八歳からになってはいるが、学校でも車両の運転の実技は行われており、学校卒業と同時に免許が交付される。
故に忍も車両は扱えるが、実際のところ、それは盛運高校とはまるで別、ティグニティーと呼ばれる復興省の秘密組織で訓練を受けたためだ。特に忍は適正が優れており、その歳にして自動車、バイクだけではなく、装甲車から果てはヘリまで操縦することができた。
非常事態であるために、忍が車に乗っていても咎められることはなかった。
そして、忍は目的地にたどり着く。
どうしても、確かめておく必要があったのだ。
この町の崩壊の度合いを知るために……。
もし崩壊しているのであれば、もはや組織に属しているわけにはいかない。
忍が訪れたのは、覚醒吸血鬼が出現した公園から車で五分程度のところにある第一隔離施設だ。
もっとも大きな施設で、収容人数は二〇〇〇人。普段は文化系のホールとして使用されているところだが、馨のいる第三隔離施設と比べると、そこに送られる人間があまりに多かった。
隔離施設の担当者が空きがあると本部に伝えているかららしい。多少離れた場所からも、空いていると報告がくれば、そこに人間を連行していくのが普通だ。
しかし、それは考えにくい。
第三隔離施設は、馨がいなければとっくに崩壊していたはずだ。とすれば、他の施設も同様の状況になっていてもおかしくはない。
そして、その予想は当たっていた。
広大な駐車場は静けさが漂っていたが、それでもそこに銃声が聞こえてくるのだ。
忍は車を降り、隔離施設に向かっていく。向かうごとに銃声の音が大きくなる。銃声がはっきりしてくると同時に、今度はそこに笑い声が混じっていることに気付く。
身体と同じように心もまた壊れるときがある。TO一二首席の堀内のように生真面目な人間ばかりではない、次席の谷崎のように優しい人間ばかりでもない。その心と選択権に指針を持たず、状況に流される人間は集団心理に飲み込まれ、いつしかその心が自分の知るそれとは乖離してしまう。
行動の選択権を持つのは、そこにいるリーダーだ。VAT隊長大石のように人を率いる器を持つ人間、馨のように類まれなる技術を持つ人間、もしくは人の心理を知り人を導ける人間。そういった人間がそこにいれば、状況の悪化を抑えられるだろうが、その器を持たない人間が群れのリーダーとして立てば、リーダー自身が状況に押しつぶされてしまう。
リーダーが道を外れれば、そのリーダーを真似るのが部下だ。
「何してんだ、てめえら。逃がしてんじゃねぇよ。あいつら不死者だ、感染者だ。殺しちまえ。後一分しかねぇぞ!」
「次、連れてこい。いいか、制限時間は一分だ。一分間だけ逃がしてやる。せいぜい長生きしろ」
「おい、そこのじじいとばばあは、向こうに連れていって殺せ」
「ここにくるのは全員感染者だ! 俺達が生え残るためには感染者を殺さねぇといけねぇんだ。小隊長は奴らに殺された。感染者を殺すことが、この町のためなんだよ」
「おい、小僧、自販機で飲みもん買ってこい。その後はてめえの番だ。盛運学生のTO一二なら、きっちり時間内に殺せよ」
「は、はい」
忍はそこに姿を現さず、首を振る。
辺りは血みどろ、血の海だ。
おそらくここを率いていた小隊長が不死者に殺されて統制をなくしたのだろう。
誰が感染者なのか、感染者はどれくらいいるのか、自分は生き残れるのか。馨ほどの射撃の腕があれば、そんなことに頓着はしない。そうでないとしても、不死者を迅速に殺すためには周囲の人間が巻き添えになっても仕方ないと割り切れる非情な心があれば、ここまで酷くはならなかっただろう。
中途半端にこの任務につき、不死者の出現と同時に民間人を殺害してしまい、さらに小隊長さえも不死者に殺された。しかも、街中の状況は最悪。
どのみち民間人は死ぬだろう。だったら、より安全に、より確実に不死者を殺すために、この隔離施設にきた人間を全員殺してしまえばいい。
それを遊びにしてしまうのは、彼らの心が簡単に折れ、集団心理の中で罪の意識が薄くなったためだ。
もはや逆らう気力もなくなった民間人は、大人しく自分の処刑の順番を待っている。
馨のような技量など持たない忍としては、そんな人間達をその場に残すしかなく、自販機に飲み物を買いにきた少年の後を追って声をかける。
「何をしているんです、北河先輩」
TO一二、八席の北河の身体は血まみれで、振り返ったその顔を見て忍はいうだけ無駄だと悟った。
「なんだ、菊池君か。君も遊びにきたのかい?」
「……いえ。立ち寄っただけです」
「なんだ、遊んでいけばいいのに。どうせ彼らは感染者だよ。殺しても構わないんだ。それが僕達の仕事だしね。だから、遊びに使っているんだ。楽しいよ」
言葉の使い方が少しおかしくなっている。
北河は主体性が少なく、他人に依存しがちなところがあった。その状態でここに配置され、そして、凶暴な先輩隊員に囲まれていれば、こうもなるだろう。
「……帰ります」
「そうかい? 先輩達に紹介するのに」
自分のしていることがどういう行為なのか、北河はまるで理解していない。最大の根拠が大を生かすために小を殺すになっているのだから、その行動に向かうのもそう難しいことではなかっただろう。
最大の問題は、隔離施設に送られる人間が多すぎたことに違いない。VATの人数で抑え込める人員をはるかに超えていたのだ。
しかし、この有様は常軌を逸しているのは確かだった。
とはいえ、今の忍には、この人数を相手することはできなかったし、民間人の全てを守り切る術はない。
一旦、引き返し、まともな神経を保っている誰かにこの惨状を伝えるしかなかった。
一週間が経過した頃。
八巻馨、菊池忍の兄妹である岩倉菫は、重い腰を上げようとしていた。
今まで小島小枝香と共に籠城し、一人で麻雀をしている日々だったが、状況は悪化し続けている。
「……あなたのお友達は、手強いわね」
「……」
小枝香は何もいわずに菫を見上げた。
春海のことは菫には何もいっていない。しかし、菫の落ち着き払った様子や、詳細な情報を知っていたことからも、菫が普通の人間ではないことはわかっていた。
だから、なぜ知っているのとの言葉は口にせず、驚きもしなかった。
あぁ、やっぱり知っているんだ。
その程度だ。
「モールであたしはあなたの友人を見たわ。盛運学生の制服を身に着けて、民間人を殺害した。あれによって、VATは盛運学生を排除するしかなくなった。頭のいい人よ。どんな手段を用いようと、何をしようと、あなた以外に殺されるつもりはないみたいだわ。あたしはそれでも彼女はVATに殺されると思ったけど、甘かったみたいね……」
「……」
「あなたはそれでいいの?」
「……それで……って?」
「あなたは彼女を見殺しにする? 人間は、復興省は、決して甘くはない。どんな手段を用いても、吸血鬼は殺すわ。このまま籠城をしていても、あたし達も死ぬ。吸血鬼の手ではなく、人間の兵器によってね」
「……どういうことですか?」
「あなたの友人の覚醒吸血鬼は生存、二次感染者もおそらく生存、そして、おそらく三次感染者も出現。これはつまり特A級第三フェイズ。雪崩のような地獄への第一歩。この後、吸血鬼は町の一部を完全に支配下に置き、その数は増える。これが第四フェイズ。そして、その一画を始点に勢力圏を広げていく。その時点でVATは吸血鬼の殲滅を諦めて撤退の準備。これが第五フェイズ。第六フェイズにVATは撤退。そして、第七フェイズに移り、防衛省の手によって、絨毯爆撃が始まる。この家はそこで破壊されて、あたし達は死ぬ。早期解決ができれば第三フェイズでおしまい。三次感染者を覚醒吸血鬼や二次感染者と同じように殲滅し、その感染者の数を抑え込みつつ、日常が戻る。でも、この町はもう抑え込めない。日常には戻れない」
今まで沈黙していた分を一気に吐き出すかのように菫が告げてくる。
「……外に出るんですか?」
「出なければ、ここでなすすべもなく死ぬわ。でも、問題は外に出て、何をするかよ。あたしはどうでもいい。あなたはどうするの?」
「……」
答えられるはずもない。菫はいっているのだ。あなたは自分の手で友人を殺すのか? ……と。助けることのできなかった友人を、殺すことで助ける? それを簡単に実行に移せるはずもない。実際のところ菫もここで結論を出せというつもりもなかった。
「さっきもいったように、吸血鬼は町の一部を占領する。この家は残念だけど、その占領地に近い。吸血鬼の行動によっては、ここは占領される。だから、今のうちに移動しないと手遅れになる。答えはすぐに出す必要はないけど、それを常に考えて」
「……」
菫はそこで久方ぶりに携帯の電源を入れた。かける相手は忍だ。それをしながらも菫は小枝香に家を出る準備を進めさせた。食料や水、最低限の準備は必要だった。
「ようやく繋がったね、菫姉さん」
「家から出るわ」
「……早いね」
「場所が場所だから、占領される前に移動するわ」
「……確かに。その家の近辺にはすでに不死者がうろついている可能性があるから、気をつけて」
「吸血鬼は?」
「占領地区の構築をしているはず。そこらにいるのは知性のない不死者だから、家にいればまだ大丈夫。ただ、どのみち退避したいといっても、家の前まではいけない」
「どこまでいけばいい?」
「家の場所を考えて」
「……あの公園ね……」
「そういうこと。そこまでいけるよね」
「大丈夫」
「問題は、避難所も満杯になっているってことだよ。だから、申し訳ないけど、隔離施設に入れるようにする。第三隔離施設には馨姉さんがいるから」
「……それは嫌」
「とはいっても、それしかないよ。でなければ、自由行動になる」
「そっちがいいわ」
「なら、郊外に出たところで好きにして構わないよ」
「そうする」
「じゃあ、今すぐバスを向かわせるよ。公園で待ってて」
「了解」
菫は即座に行動に移し、押し入れに入れてあった鞄を取り出す。その鞄の中には、彼女の武装一式が入っていた。
VAT隊長の大石は憔悴していた。
大石は間違いなくマニュアル通りに行動した。問題は、そのマニュアル自体が通常の覚醒吸血鬼用に作られており、今回の覚醒吸血鬼はそこから外れていたことだ。
臨機応変に動けばいい。
そういうのは簡単だったが、この場合の臨機応変は、彼女が山に籠り火を放った段階で、その山を爆撃するか、大量の増員を行うかの二つに一つだけだった。
あの時点での爆撃を行った場合、人はそれを賞賛するだろうか?
するとは思えない。
あの時点で大量増員を決定できただろうか?
いいや、できはしない。
結局、大石は通常の覚醒吸血鬼に違いないという先入観が邪魔して、知能戦に負けた形にはなったが、おそらく他の人間であっても同じ結果になっただろう。
この町で、杉沢春海が覚醒した段階で、この町の命運は決したといえた。それでも、たとえ最悪の未来が決定していたとしても、最悪の中にも差は生じるのだ。
ただし、それを為すのは大石ではなかった。
「失礼、大石隊長」
「?」
大石が声のした方向を見ると、そこには見慣れぬ男が立っていた。VATの服を着ているが、どうにも違和感を覚えた。
「私は飛田宏平と申します」
「……君か……」
報告はすでにきていた。
VATは復興省の所属だが、VAT創設当初より表沙汰にできない仕事や研究を担当するティグニティーという組織が存在していた。その二つはそれぞれに独立してはいたが、同じ復興省に属するのは確かであるために協力関係にある。だが、ティグニティーはそれこそ暗部といえる組織であるために大半のVATはその存在を知らず、知っている人間もいい印象など持ってはいない。
ただ、吸血鬼に対する組織であるのは確かであるために、その感情を制する必要がある。逆にそれができない人間がVATの隊長になどなれるはずもない。
「お邪魔して申し訳ない」
「いや、協力しろといわれているからな。好きにするといい。ただし、報告はしてくれ。同士討ちはごめんだ」
いいながら大石は情報担当の隊員に、指示を出す。
それを確認した飛田は礼をいうと、そこを去り、自身の端末でとある情報を引き出した。
八巻馨、岩倉菫、菊池忍の三人の情報だ。
第三隔離施設は、この町の中で、ほぼただ一つ平静を保っていた場所かもしれない。
「ということで、今いった一三人はおめでとう。三日経過しても吸血鬼化しなかったから、解放よ。といっても、外のVAT隊員はあたし達を中に入れても、外に出してくれないから、地下にいてね。地下の人は全員安全だと確認されているから安心よ。まぁ、ここにいてもいいけどね。食事は誰かちゃんと取りにきてね。後、今後のために男の人は、下にいる元盛運学生の武田さんに銃器の取り扱いを習っておいて。だからって、勝手に武器を持ち歩かないように。以上、一三人の方、お疲れ様」
緊迫感はないが、やるべきことは全て行っている馨の言葉だ。
取り戻したい日常を取り戻した気がするために、誰も文句はいわなかった。
一三人は、ほっとした顔をして地下に降りていくものの、この施設にくる人間は続々と現れる。それでも、こうして解放されていく人間がいるし、その人間達は馨を信頼しているので、連鎖的にその信頼感は受け継がれていった。
ただし、一人だけ落ち着かない者がいる。
TO一二、五席の若松だ。
彼女はこの場所にきて、馨と口論してからずっと馨とは距離を置いていた。自分のほうが優れているといった嫉妬からくるものではなく、生理的な嫌悪感とも思えない。嫌うというよりも、警戒しているといったほうが正しいのかもしれない。
ただ馨は若松が自分を警戒していることを知っており、彼女が行動を起こすのを待っていた。
TO一二次席の谷崎は現在、退避人の回収部隊にいた。退避を願う者達からの連絡を受け、もしくは呼びかけた上で、それらの者達をバスで送り届けているのだ。
しかし、町の一部は吸血鬼に占領されつつあり、避難所の数が足りなくなっている。
そこに忍から連絡があった。
忍はいつの間にか姿を消していたので、当然のように谷崎は叱責する。
「あなた、今どこにいるの!?」
「本部に向かっているところです」
「本部? どうして」
「少し事情がありまして。それよりも、あの公園覚えていますよね」
意味ありげな表現だったので、どの公園かはすぐにわかった。
「覚えているわ」
「あそこに僕のもう一人の姉がいますので回収して頂けませんか?」
「……えぇ、大丈夫よ。いけるわ」
「姉をどこで降ろそうと構わないんですけど、退避人の方々はどこに送っていますか?」
「避難所はどこもいっぱいで受け入れてもらえない。仕方ないから隔離施設に運ぼうかって、隊員さんが話している」
「それなら、第三隔離施設に送ってください。他の隔離施設は絶対にダメです」
「どうして?」
「他の隔離施設は……満杯だからです。いいですか、第三隔離施設ですよ」
「わ、わかった。伝えてみる」
「お願いします」
忍は詳細を口にしなかった。谷崎にそれをいえば、自分から足を突っ込むのではないかと考えたからだ。ただ、谷崎は、その言葉の意味を正確に理解していたわけではなかったのだ。谷崎奈央の常識の中には、そういった現実が含まれていなかったから……。
谷崎に真実を告げなかった理由の一つは、忍はすでに本部にたどり着いていたからだ。そこで情報を伝えれば、対処されるはず。少なくても、そこに人は運ばれないだろうと判断してのことだったが、ここでもまた予想が外れる。
本部に入ったと同時に、見たくもない人物が現れたからだ。
「久しぶりだね、忍君」
「お久しぶりです、飛田さん」
「命令が下りた。君には協力してもらう。他の二人は?」
協力とは仕事だということを忍は理解していた。こんな状況での仕事などろくなものではない。経験上、忍はそれを知っていた。
「菫姉さんの居場所は掴めません。馨姉さんは隔離施設です」
「なら、すぐに探したまえ。馨のほうは今すぐ連れ出す」
「ちょっと待ってください。今重要な報告を届けにきたんです」
「どうでもいいことだな。君達にとって大事なのはティグニティーの命令を聞くことだけだ」
「……報告するだけです」
「これ以上は時間の無駄だな」
飛田という男は元からこういう男だった。自分に力があると思っているわけではなく、巨大な力を持つ組織に仕えているという自負があるのだ。そして、自分達のようなトカゲの尻尾には興味もない。それでも報告はしなければいけないのだ。
「悪いですけど、報告が先です。その後、協力します」
しかし、忍の腕が取られる。
「いい加減にしてくれないか? 君達が生活できているのは我々のおかげだ。忘れてもらっては困る。自分達が買われた身分であることをね」
「……わかりました。少し待ってください。すぐです」
この状況などティグニティーにとってはさしたる問題ではない。この町の住人がいくら死のうと関係ないのだ。だから、どれほど重要な問題でも、突き詰めれば、市民が死ぬだけであり、やはり関係はないということになる。
忍は取り出したメモ帳に、『第一隔離施設で殺人行為が行れている。即刻、第一隔離施設の閉鎖を』と書き、それを通りかかった隊員に、隊長に渡すように告げた上で渡した。
「さて、満足したかい、正義の味方君。今度は悪党になってもらうよ」
「……」
困ったことになった。忍は心底そう思う。この手の交渉は、全て馨の担当なのだ。
谷崎の乗ったバスが公園に到着するも、そこには誰もいなかった。しかし、バスは空車の状態でまずここにやってきたため、まだきていないだけかもしれない。
バスを運転する隊員との会話で、少しは待てると告げられたために谷崎は探しに向かうことにした。
まずは公園か……。武器を装備した谷崎がそう思いバスから遠ざかった直後、バスのクラクションが鳴った。思わず背後を振り返ると、その運転手が窓から顔を覗かせて叫ぶ。
「吸血鬼だ!」
突然の反応だったに違いない。
不死者は力はあっても移動速度は鈍い。スピードを支える力はあっても知能がないためにそれを使えない。バスは不死者の反応を確かめてルートを選び、ここにきたのだ。にも関わらず、印が現れたということは吸血鬼以外にありえない。
谷崎は慌ててバスに戻ろうとしたが、その眼前に人影が映った。
それは明らかに人だ。谷崎の優しさがそこで裏目に出る。
「先にいってください。後で合流する地点まで向かいます」
そして、その言葉を口にしてしまうのだ。現れた印の主が、杉沢春海であることを知らずに。そして、その人影が小島小枝香であることを知らずに……。
彼女が戻ってくるのは驚くに値はしない。
そこだけが彼女と彼女の接点なのだから……。
「……」
杉沢春海は、自らが覚醒した公園に立つ。
死なないために春海は行動してきた。VATが到着するまでが勝負であることはわかっていた。それが三時間であることまではわからなかったが、彼女は見事にそれを成した。
移動距離を伸ばし、電気等を奪うことで混乱させ、人間を襲い、なおかつ襲われた人間にはそれを気付かせない。
春海のしたことは、ほぼ忍が思い描いたことと同じだった。
結果は功を奏し、杉沢春海は一週間たった今でも殺されずにそこに立ち、あれほど執拗な追撃をしてきたVATも今は春海だけに拘っている暇がないのか、追ってもこない。
後は、殺されるのを待つだけ……。
彼女の中にあるのはそれだけだった。
小枝香は、考える。
春海を救えなかったのは自分だと……。
救わなければいけなかった。
多くの人の死は全てが自分の責任だ。
あのとき、春海のいうとおりに殺していれば、多くの人は死なずにすんだ。
だが、それは無理だ。
他の誰かならともかく、春海のされてきたことを知っている小枝香に、その場で彼女を殺せというのは無理な話だった。
たとえ、それが彼女にとっての解放であり、彼女自身が望んでいたとしても……。
一週間。
それだけの時間。
それだけの間に出た死者。
それを知ってもなお、小枝香には決断できなかった。
なのに、菫とともに公園に向かっていた小枝香の視界には、その友人が立っていた。
小枝香が視認した以上、菫がそれを認識していないはずもなかった。しかし、菫は小枝香が春海に向かって走るのを止めず、その成り行きを見守ることにした。
春海の気持ちが菫にはわかる。
実感としても理解できるし、何よりも、自身にのみ聞こえる声がそれを教えてくれる。
春海は決して小枝香を襲わない。襲う理由がない。たとえ衝動があっても、春海は決して小枝香を襲わない。
それは確信だ。
そもそも春海がそこに現れたのは小枝香に殺してもらうためなのだから。
菫にとって想像できなかったのは、春海がここに戻ってきたということだが、それは春海や小枝香にとっては当然のことなのだろう。
そして、何よりも菫の失敗は、そこにもう一人、谷崎奈央がいたということだったに違いない。
いかに死角だったとはいえ、菫はそれに気付くのが遅れた。
谷崎は公園に向かう人影を追った。この近辺には吸血鬼がいる。避難させないと。
そんな義務感に突き動かされた谷崎はユリアシステムを介した情報端末に目を移す。
吸血鬼はこの近く。そして、動いていない。
それを瞬時に判断した谷崎の視界に、そこに立つ少女と、そこに近づく少女の二人が映った。
谷崎の脳はその二人の存在をいち早く認識する。
立ち止まっている少女は吸血鬼。
そして、走りよる少女が自分が見かけた人影。
だからこそ、谷崎は何一つ迷わなかった。
有効射程に入ったと同時に、谷崎が銃を構え、春海に向かって銃弾を放った。
それは命中しなかった。
有効範囲ギリギリ。練習でなら当たっただろうが、走っていたところから立ち止まっての射撃で身体は完全に静止はしておらず、緊張感によって心が乱れていたからだ。
「放れて!」
谷崎は叫ぶが、春海は早かった。
彼女の思考はただ一点、『殺されるのは小枝香のみ』だ。だからこそ、それ以外の人間、自分を殺そうとする人間はただの敵でしかなかった。その動きは谷崎にとって脅威だった。
吸血鬼相手に一人で立ち向かってはいけない。それが鉄則だ。VATでも単独で吸血鬼に向かわない。
かなうはずがないからだ。
銃を構えていた谷崎は動揺そのままに狙いをつけずに銃弾を放つ。しかし、春海は真っ直ぐに向かうなどという愚行をせずに、左方に一旦避け、三角形の頂点を結ぶように谷崎に襲い掛かった。
谷崎がそれについていけるはずもない。
菫は人生で初めてといってもいいくらいにゾッとした。
銃声が聞こえた。誰かがいたのはわかった。が、春海が死ぬなら死ぬで仕方ないと割り切っていたし、相手が複数なら春海は逃げに入る。単独なら単独で向かった人間が馬鹿なのだ。そして、小枝香はまだ春海に近くはないので、大丈夫だろう。
それでも、放っておくわけにはいかずに走り寄ったのだが、そのとき視界に映ったのは谷崎奈央だったのだ。
谷崎のことは菫も知っていた。自分の弟に目を掛けてくれているありがたい存在で、馨と同じように菫も、谷崎に好意を抱いていた。しかも、忍は谷崎に他の人間とは違う感情を抱いている節もある。
その谷崎がたった一人で吸血鬼に向かい銃弾を放ち、単独の谷崎に春海が襲い掛かろうとしている。
ここで谷崎が傷ついたら、忍に言い訳ができない。
どんな状況であろうと、淡々とマイペースを貫いた菫の全身の血が一気に引き、そして、一気に駆け上った。
キラリと何かが光った。
身体能力と動体視力が優れる春海であっても、それを認識できたのは幸運だ。
ナイフ。
恐るべき勢いで投げ放たれたナイフが、見事なタイミングで自分に向かってくる。このままのスピードで突き進めば、そのナイフは自分の頭部を斜めに突き刺す。
その光景が見えた瞬間、春海は己の身体を捻ることでナイフを避ける。だが、それで終わりなどとは二人とも思ってはいない。
身を一回転させるように自分を止めた春海は、当たり前のように、そのナイフを投げ放った相手に向かおうとしたが、その相手は春海には想像もできなかったほどの速さで自分の眼前に迫っている。
谷崎は呆然としていた。なぜ自分は生きているのか、信じられなかった。何よりも、信じられないのは、目の前の光景だ。
二人の少女。
少女だろうと思うが、その姿をはっきり視認はできない。
光りを反射するナイフを両手にした少女が、細かく、素早く身を動かしながら吸血鬼の少女を切り付けていく。そのナイフは決して止まらない。右のナイフを突きつけた直後に左手のナイフが相手の胴体を水平に薙ぐ。そして、少女の顔面を貫き損ねた右のナイフはそのまま後方から少女の首筋を狙う。
信じられるわけがない動きだった。
左右の手がそれぞれ自由意思で動いているようなものだ。右手の動きに、決して左手はつられない。右手の動きの隙を、左手の動きがカバーし、左手の動きが止まったときには、右手のナイフが相手を切りつける。
それに加えて、足技が繰り出され、攻撃手段であるナイフをためらわずに投げ放ち、それさえも囮にしてしまう。そして、次の瞬間には空手だった手にはどこから取り出されたのかナイフが握られているのだ。
どれほど時間をかけようと、その少女の動きを真似できる人間はいないに違いない。
一体、どちらが怪物なのか……。
谷崎はそう思ってしまう。なぜなら、谷崎は驚いているからだ。
『あの吸血鬼は、なぜ闘えているのかと……』
それは圧倒的にナイフを手にした少女が吸血鬼を上回っているからに他ならない。
菫はギリギリのところで谷崎を救ったが、その本能を抑え付けるのがやっとだった。
殺すべきか。
殺さざるべきか。
小枝香に殺させるべきではあるが、これ以上手を抜いてしまえば、牙は谷崎に向かうかもしれない。それだけはなんとしても避けなければいけない。
殺すのは簡単だ。簡単だからこそ、春海はまだ生きている。ギリギリで浅く傷をつけるに留まっているからだ。
攻撃を薄くすれば、春海は逃げるだろうか。
距離をとれば逃げるだろうか。
谷崎は攻撃をしかけないだろうか。
谷崎が攻撃をしかけようとしなければ、春海は逃げるだろうか。
春海と谷崎。相反する二人。敵同士の二人。
これが春海だけであれば、谷崎がそこにいなければ、相手を身動きできないようにするのも、捕縛するのも、殺すのも簡単だ。
しかし、その両者に挟まれているのが最悪なのだ。
二人の間に入っている菫は、本能による攻撃を制御するので精一杯で、それ以上の思考が働かなかった。
だからこそ、その少女の行動に完全なる隙を作ってしまう。
一撃。
牽制ともいえる攻撃が春海の顔面を引き裂いた。滑らかという表現が相応しい一線がその顔を斜めに走る。
それが発端だった。
浅い攻撃で死ぬようなものではなかったが、そんなこと小枝香にはわからない。ただ、殺される。それだけが彼女の中を埋め尽くした。だからこそのとっさの動き。
「止めて! 春海を殺さないで!」
絡み合うように動く二人の間に、小枝香が割り込もうとする。
「!」
「!」
その予想外の動きに菫が多大に反応した。それはそうだ。すでに春海は防戦一方、菫が攻撃を一方的に仕掛けていたのだ。
殺すわけにも、傷つけるわけにもいかない。
菫は自らの四肢に必死でその指令を与えた。結果、自分のナイフは小枝香を傷つけることはなかったが、あろうことか、菫は体勢を大幅に崩し、その場に倒れてしまった。
それも次なる攻撃に移れないほどの体制でだ。
そして、春海は目前の人間に対して吸血鬼としての本能が働いた。
『さぁ、彼女を引き込め』
頭に浮かぶ声が、それに拍車をかけた。
首筋に走る痛み。
それを菫が感じた瞬間、彼女の身体からは力が抜けていく。攻撃しようにもできない。
菫の中に浮かんだのは、これでは谷崎を守れないという一点で占められていたが、谷崎は守られるだけの存在ではなかった。
銃声。
二人は直近。距離は放れていない。目の前で自分を助けてくれた人間が噛まれている。それはつまり、吸血鬼の動きも止まっているということだ。
わずかにそれれば菫に当たるが、それでも谷崎の銃弾は本来の実力を発揮し、春海の右頭部に直撃する。
だが、そこでも小枝香が身体を入れる。
「逃げて!」
頭部へは命中したものの、その銃弾は脳を破壊するには至らず、顔面から血を流した春海は、小枝香の背を見詰めながらも、その視線を切って一瞬で姿を消した。
「大丈夫!?」
谷崎はもはや吸血鬼から菫へ意識を移すが、当の菫は噛まれたと同時に携帯を取り出していた。だが、意識が遠ざかり、目的の相手に連絡ができない。
だから、菫は告げる。
「忍に……このこと……を……伝えて……」
意外な一言を告げ、菫は意識を失う。
「ごめん……なさい……」
小枝香が、自分が何をしたのかを悟る。
自分を助けようとした菫を犠牲にしたのだ。
谷崎は何がなんだかわからない。それでも携帯の履歴を調べると確かに忍への連絡先がある。
「……この人の名前は?」
谷崎が小枝香に尋ねると、小枝香が答える。
「……岩倉菫……さん」
忍はいっていた。もう一人、姉がいると。
この人が……。
そう思いながら、谷崎はとにかく忍に連絡を入れた。
忍は飛田と共に行動していた。
馨の居場所はわかっているが、菫は連絡を絶っているだけで家にいるかもしれない。そう考えた飛田は先に菫の自宅に向かった。しかし、入れ違いだったのだろう。自宅には誰もいなかった。相変わらず汚い部屋を見回しながら、飛田は判断した。
「つい最近……いや、ついさっきまでいたようだな」
飛田の視線が忍に向けられる。
「疑っているようですが、僕は知りません」
「君は自分の立場をわかっているのかな? ティグニティーがいなければ、君達の居場所はないも同然だ」
「……」
いいがかりだ。
しかし、そこに連絡がきた。間の悪い。相手は菫だった。しかし、見付かったらそれまでと判断して、それを受けた。
「もしもし?」
「……し、忍君?」
「……誰……? 谷崎さん?」
忍はその声で相手が谷崎だとすぐにわかった。問題は、なぜ菫の電話で谷崎が自分に連絡をしてきたのかだ。
「……あ、あの……菫さんて、あなたのお姉さん?」
「そうです。どうしたんです?」
「……あ、あなたのお姉さんが……吸血鬼に噛まれたの」
「……」
忍は言葉を止めた。
しかし、誰にもわからないだろう。
わかるはずのないことだったが、忍の頭は明確に動いていた。
決して、驚愕したわけではない。あの菫がどうして噛まれるような事態になったのかはわからないし、それは確かに驚きだが、噛まれたという事態は、忍の思考を遮ることはなかった。
「菫姉さんは何をしていたんです?」
「わからない。吸血鬼がいて、あたしを助けてくれて、でも、菫さんと一緒にいた子が吸血鬼を庇って……それで……」
吸血鬼を誰かが庇った?
ありえないことではない。
それが友人だとしたら、相手が吸血鬼だと割り切れずにそういう行動をとるものがいても不思議ではない。
なんにせよ、菫は自由行動を望んでいた。
「わかりました。近くの家……に運んでください。無人の家はあるはずです」
「でも……」
「お願いします。後は僕がそこに向かいますから」
「……わ、わかった。でも、あなたのお姉さんは……感染している……」
「わかります。大丈夫ですよ」
忍は静かにそう告げると、電話を切った。
「誰からです?」
「……」
忍は答えず、何かを考えていた。
「聞こえないのかな?」
「……いいえ、聞いていますよ」
忍は飛田と向かい合う。そして、いうのだ。
「申し訳ないですが、あなたを殺すことにします」
「……?」
飛田は一瞬の沈黙の後に笑った。
「私を殺す? そんなことをして、どうする? できるのか、君に。それで生きていけると? 君のような子供が。ティグニティーから放れて生きていけると思っているのかい?」
「……えぇ、まぁ」
忍は飛田の言葉など気にも留めずに再び携帯で連絡を取る。
「ユリア、問題が起きたんだ」
『どのような?』
「菫姉さんが感染した」
『……そうですか。よりにもよって菫さんが感染ですか。兄さんは喜ぶでしょうか?』
「いいや、ぬか喜びするよ。僕達は君の兄さんの側でも、君の側でもない。僕達は僕達だ」
『でしょうね……』
「そういうことだよ。それで、お願いがあるんだ」
『反応を消すのですね』
「うん。頼めるかな?」
『あなたの頼み。そして、感染したのはあなたの兄姉。しかも菫さん。いいでしょう。反応を消すことを認めます』
「都合が悪くなったら、そのときは反応を出してもいいから」
『そうしましょう。それだけでいいですか?』
「いや、もう一つ。今からいう座標に反応の表示を」
忍が座標を口にする。
『あなたの前ですか?』
「この人を殺す理由が必要でね」
『いいでしょう。身をもたぬ私の手足となる契約ですからね。その程度はしましょう』
「よろしく」
そして、忍は携帯を切る。
眉をしかめるのは、飛田だ。
「君の会話相手は誰かな? それに菫が感染したといったようだが……。反応を消すとはどういうことだ? それに反応を出す……とは……」
忍が携帯端末を指し、飛田も自然、それに視線を移す。だが、そこで飛田は見た。新たな反応がある。どこか……座標はどこか。
「……私……か?」
ユリアシステムを介したマップ上に新たな不死者の反応が出た。しかし、その反応は、まさに自分が立つ場所だったのだ。絶句した後、それを問いただすために飛田が視線を上げたが、そこには銃口を向ける忍がいた。
「殺す前にあなたの質問にお答えします。僕の連絡していた相手は、ユリア」
「……ユリア?」
「知っているはずです。吸血鬼大戦のおりに人間の味方をし、原初の吸血鬼を滅ぼした少女。その後、ユリアは死んだことになりましたが、ユリアは死んだんじゃない。原初の吸血鬼の仕組んだ『因子』から世界を守るために、その身を失い、今では『ユリアシステム』として生き続けている」
「…………何を…………」
「僕は生まれた時からユリアの声を聞いていた。『誰か聞いていますか?』『聞こえていますか?』。残念ですけど、僕はその言葉の意味を五歳になるまで理解できなかった……。そういう環境でしたから。でも、その声が聞こえていたから、もしくは聞こえるような存在だから、生きていた。普通の状態でも会話はできるんですけど、まぁ携帯を使ったほうがはっきり会話ができるんです。そして、『ユリアシステム』そのものであるユリアと僕達は協力関係にある」
「……達……だと……」
「ティグニティーも、あなたも、あまり見る目がないですね。姉さん達は、手を抜いているんですよ。一人で吸血鬼を複数相手にすることなんて、僕の兄妹には簡単なことです。トカゲの尻尾とあなたはいいましたが、逆です。僕達はいつでもティグニティーなんて尻尾を切り落とせる」
「………………待て、私と手を……」
「ユリアに願えば、吸血鬼の反応を消すことも、その逆も……簡単だ。そもそもユリアは人間の全ての行為を好意的にみているわけじゃない。これで、あなたを殺す理由は充分ですよね」
「ま、待て!」
その家の中で銃声が鳴り響いた。
谷崎はただ動揺していた。
自分の前で起こったことが全て夢のように感じられたのだ。いや、現実だとは思いたくもなかった。菫の動きも、菫が感染したことも、小枝香という少女の行動も、あの吸血鬼のことも、忍の言葉も……。全て谷崎の現実を越えている。
菫を空き屋にまで運び、その上で谷崎は律儀に引き返してきたバスに乗り込んだ。次々に人が乗り込んでくるが、それさえも認識できない。
呆然と。あのわずかな時間に起こった光景が繰り返し頭の中を巡っていた。
しかし、その連絡が現実に引き戻す。
「谷崎さん? 忍です」
「……」
「……大丈夫ですか?」
「……そう思える?」
「思えません」
「あなたはなんなの?」
「……」
自分で連絡をしてきたにも関わらず、忍は結局そこで沈黙してしまう。
忍が普通ではないことなどもはや決定的だ。
「……あたしには話せない?」
「……」
「会って話しましょう、忍君」
「……」
「会わないつもり?」
「……いえ……」
「なら、とりあえず会いましょう……」
「今、どこです?」
「今は……」
そこで初めて谷崎は気付いた。自分がどこにいるのかを。
「ここは……第一隔離施設……だと思う」
「……! 急いで戻ってください。そこはもう処刑場と化している」
「えっ?」
しかし、すでに遅かった。谷崎は外に出ており、すでにバスは出発していた。そして、そこに谷崎の顔見知りの少年が立っている。
「やぁ、谷崎先輩。嬉しいですよ、ここにきてくれて」
血まみれの服を着たそれは、TO一二の八席、北河だった。
『……』
「言葉はないの?」
『君の言葉は真実だった……そういうことだな』
「当然よ。あたし達はあたし達。死の側にも、生の側にも立てない存在」
『奇妙な存在だな』
「そう思うわ。でも、あたし達はいわば、あなたが生み出したと同様よ」
『そうだな。ある意味私の子ではある。しかし、なぜ、君達だけが?』
「あたし達はあたし達だから。あのタイミングで、あたし達の町が壊滅していなければ、そして、あたし達の兄妹としての絆がなければ、こうはならなかった」
『人の意思か』
「そうね……。そうともいえるわ」
『だが、残念とは思うが、同時に喜ばしい。君が君であり続けている事実が、意外に嬉しく思える。子ではなく、対等の話し相手としてな』
「同じことをいっていたわ」
『だろうな。私達にはもはや会話をする相手は君達しかないのだから……』
「意外に詰まらないの?」
『いないよりは、いたほうがいい……その程度のことだ。妹はどうか知らんがな……。……さて、話はいつでもできる。そろそろ目覚めるといい』
それは突然の目覚めだった。
小枝香でもその程度はわかる。噛まれた者は一時間から三時間程度意識を失うと。だが、まだ三〇分程度しか経過していない。
「……菫……さん?」
「……おはよう」
菫は小さく息を吐くと身を起こした。
「ここは?」
「公園のすぐ近くの家です。空き家みたいで……」
「そう……」
嘆息。次いで、
「谷崎さんと、春海さんは?」
「谷崎さんは、ここに菫さんを運んでまた任務に……。春海は……わかりません」
「……」
そこでようやく小枝香は頭を下げた。
「ごめんなさい……」
自分のせいで菫は感染した。許してもらえるはずもない。そう、感染……したのだ。
なのに……。
「どうして?」
その肌の色や瞳孔を見る限り、春海と同じ吸血鬼に見える。しかし、感染したとはいえ、吸血鬼になるには最低でも二日必要なのだ。しかも、外見的な特徴はあるものの、その内面、性質は何も変わっていないようにみえるのだ。
「……あたし達は……普通ではないから。特にあたしはもともと春海さんと同じように『因子持ち』なのよ。そして、あたしはいつでも覚醒することができていた。感染がきっかけではあるけど、いつでも覚醒できたから、すぐに目覚めて、人としての生を捨て、吸血鬼としての存在している。だから、あまり気にすることはないわ。それにあたしは吸血鬼化しようとも、あたしのままよ」
そこで菫は自分の身体を探る。
「あたしの携帯は?」
「……ここです」
小枝香が携帯を渡すも、菫の言葉の意味を受け入れることができないままだった。
そんな人間がいるのかと。それでもあの戦いの光景はまさに現実だった。受け入れるしかないのはわかっていても、できることとできないことがある。この人はなんなの? そんな思いを抱く小枝香を無視して、事は進む。
「忍? 今どこ?」
菫の電話の相手は忍だった。しかし、忍はかなり慌てている。
「車の中。谷崎さんが処刑場になっている隔離施設にいったんだ。助けにいかないと!」
「……いってらっしゃい。こっちは大丈夫だから」
「ごめん、姉さん。ユリアには頼んでおいたから、大丈夫」
「わかった。がんばりなさいよ、男の子」
自分よりも谷崎を選んだ。姉よりも別の女の子を選んだ。その選択をした忍を褒めてあげたい菫だったが、すぐに表情を消す。
「……あなたはチャンスを逃した」
「……!」
立ち上がり、小枝香を見下ろす菫の視線は、冷たく光る。
それは吸血鬼化したからというわけではないだろう。
「……何度でもチャンスがあるわけじゃない。あのときが最後のチャンスだったかもしれない。それでもあなたは助けた」
「……ごめんなさい」
「謝ってほしいわけじゃない。あなたはあなたの選択から逃げないでほしいといっているだけ。殺してと願う彼女を助けた選択を……」
「……」
責めているわけではなく、助けた事実を受け入れろ。
菫はそういっているが、その言葉の底に何があるのかがわからない。
「もう二度と、彼女と出会えないかもしれない。その覚悟はしておいて」
「…………あっ……それは……」
「あなたのせいじゃないとしても、この結果はあまり喜ばしいことではないの。だから、あたしはあなたを守るという役目よりも優先することができた」
あんなことをしておいて、見捨てるの……なんて言葉がでるはずもない。ただ、延々籠城していた菫が何を目的に行動するのか疑問に思った。
「何をするんですか?」
「原因を探し出すわ。春海さんを覚醒に追い込んだ人間に、その事実を突きつける。春海さんの家族を探し出す」
「……」
菫の目には覆すことなどできない決意が見える。
そして、菫は小枝香にいうのだ。
「この現状を生んだのは、多くの人を殺したのは、あなたではない。あなたでもなければ、彼女でもない。彼女を追い詰めた人達よ。その人達に、この惨劇の原因が自分達であることをわからせる。もう死んでいるなら、不死者化しているのなら、仕方ない。でも、まだ生きているなら、それを突きつけなければあたしの気がすまないわ。いい、小枝香さん。この現実は決してあなたのせいじゃない。友人を殺せないあなたでも、友人に自分を殺させたかった彼女のせいでもない。よく考えて。普通の生活をしている人間が、そんな選択を化されてしまうことなんてありえないのよ。そんな普通の生活を送らせなかった者達の責任なのよ。そして、それに気付けなかった者達、気付いていながら放置していた者達の責任なの。原因を作った者達には、その原因である自覚を持たせる」
菫は、自分の身体を確かめ、武器がどれほど残っているのかを確認する。
そして、小枝香に手を伸ばした。
「どっちを選ぶ? どっちを選んでも、彼女に会える可能性は少ない。あたしと放れて一人で彼女を待つか。それともあたしと共にくるか。一人で待っても、不死者に襲われる可能性が残る。安全な場所は時間を追うごとに減っていく。あたしとくるなら、あたしはあなたを守る。だけど、あたしのいく場所に彼女がいるとは限らない。彼女は、またあの公園に戻ってくるかもしれない。そうだとすれば、ここを放れることは彼女との再会の可能性を減らすことにかもしれない」
待ってはくれない。考える時間はもうない。今すぐこの手を取らなければ菫はいくだろう。
だが、小枝香は迷わなかった。
「いきます。春海に全ての罪を押し付けたまま……死なせたくないから……」
誰が春海を追い込んだのか。それは菫以上に小枝香のほうがよく知っているのだ。
「いくわよ。運が悪ければ、地獄の中に」
「はい」
小枝香は力強く頷いた。
第一隔離施設では、余興が行われていた。
狩りだ。人間を使った狩り。
第一隔離施設は三階建てで、ホールとしても使われており、コンサートや演奏会でも使用されている。小会議場などの様々な部屋もあり、全てが頑強に作られていた。
また第三隔離施設のように、通路には防火シャッターのような扉もあって、不死者が発生した場合、それを食いとめるような構造になっていた。
その中で、死体が溢れるその中で、谷崎は逃げている。
ここにきて、忍がなぜここにくるなといったのかを谷崎は悟った。
そこはもはや処刑場となっていたのだ。
共に連れてこられた者達は、避難所だと思っていたにも関わらず、その場で銃口を突きつけられて、老いた者はその場で殺され、女性はどこかに連れていかれた。抵抗した者はその場で殺害。そして、子供や大人を一人ずつ施設内に逃がし、選ばれた隊員が後を追って殺す。
もうずっと彼らはそれを繰り返していた。
そして、それは盛運学生であっても同じだった。谷崎は止めようとしたのだ。何をしているのかと。正気なのかと。しかし、正気の人間ができることではないし、中の様子をみれば、彼らの蛮行をみれば、訴えるだけ無駄であることがわかったはずだ。
現に忍はそれがわかった。
問題はそれを訴える機会を逃し、隊員に渡したメモが隊長にまで届かなかったという点だろう。この事態を面と向かって否定した谷崎は、狩る側ではなく、狩られる側になっていた。
第一隔離施設にようやく忍が到着する。
怪しまれるわけにはいかずに、駐車場から放れた場所に車を止め、徒歩で死角になるような場所を選んで近づいていく。
その上で忍は、自分のみに使える方法を選択する。
「ユリア」
『……どうしました?』
「先に謝るよ。ごめん。僕個人のことで、こんな頼みをするのは間違っていると思う。だけど、助けたい人がいるんだ。だから、今からいう座標に複数の不死者の反応を出してくれないか?」
ユリアと忍達兄妹は、協力関係にある。いわば契約のようなものだ。
菫のときも、飛田のときも、その契約に必要なことだったが、今回は単なる私用だ。
本来してはいけないことだとわかっているし、馨も他の兄妹も、そんな私用を提案したことなどなかった。
だが、今はそれに頼るしかないのだ。
拒絶されるかもしれない。
忍はそう考えていたが、ユリアはいう。
『人としての感情……純粋な思いからきているあなたの頼みを断るわけにはいかないでしょう。……あなたにそんな感情が芽生えたことは、私にとっても喜ばしいことですよ。心のない、感情のない、あの頃のあなたがそんな願いをするほどに成長したのですから……』
本心でいってはいるのだろう。だが、それは慰めの言葉も含まれている。本来、してはならぬこと。本来は拒絶するべきこと。
ユリアもそう考えている。
だが、それを曲げるだけの意味があるのだと、だがしかし、本来はこんな手段を取るべきではないと、そんな思いが込められた言葉だ。
「ごめん。ユリア」
『いいえ。喜ばしいのは本当のことですよ』
あの頃の忍には、何もなかった。それを知るのは、やはり忍とユリアの二人だけなのだ。
そして、忍は座標を伝えた。
入口付近。それこそ、狩りのスタート地点にいた隊員の一人がそれに気付いた。誰か一人は常にユリアシステムをチェックしているのだ。
そのマップ上に、突然、不死者の反応が出たのだ。
「おい、不死者の反応が出た」
「どこだ」
「……この施設内だ。一、二……五体もいやがる!」
「馬鹿いってんじゃねぇ。五体もだと!」
「見逃したのか? 全員殺したはずだろ!」
「だけど、マップに出ているんだ。ユリアシステムが間違えるはずねぇだろ! 誰かがヘマしたんだよ! お前等も確認してみろ!」
「……クソっ、東に五体か。二人はここに残れ、後は全員で向かうぞ! 他の連中にも伝えろ!」
十数人の隊員がマップをみながら東の方向に歩き出す。それはもう遊びではなく、本気の狩りだ。
息を飲みながら、東に進む一向だったが……。
それは入口に背を向けることになる。誰もが、その銃声を耳にするまでは気付かなかった。
入口からすっと入ってきた忍の姿に。そして、忍は背を向けていた隊員達を背後から射撃したのだ。
一発、二発、三発。
忍の射撃の腕前は、確かに馨には及ばない。遠く及ばない。
それでも、並みの兵士……嫌VATに今入隊しても、即座に精鋭になれるほどの腕前は誇っているのだ。
しかも、的となる者達は、背を向けているのだから、狙いを外すことなどない。
相手は背後からの急襲に完全に出遅れた。振り返った者達はそのまま的になり、横に飛び身を伏せた数名だけがどうにか命を繋ぐ。
しかし、反撃しようとしたその視界を、階段に向かって走る学生の姿が映る。
「クソ、なんだ、あいつは!」
「おい、どうすんだ!」
「不死者は!」
「どっちを追うんだよ!」
多くの仲間が今の射撃で殺された。
しかし、背後には不死者がいる。
どちらを追えといわれても、即座に判断などできるはずがなかった。
施設内に響く銃声は緊張感を増させたが、今更必要以上に気に掛ける者はいない。
「おい、不死者はどこだ? 一階か?」
「いえ、いませんよ」
二階の会議室にいた隊員は、その部屋から出ると、最初に出会った学生にそう尋ねたが、その相手が銃声の主であることなど気付かなかった。
そう、肩を撃ち抜かれるまでは。
「一つ聞きたいことがあります。ここにきたはずの盛運学生の女生徒はどこにいますか?」
額に銃を突きつけながらの質問に隊員は首を振る。
「し、しらねぇ。あの学生の坊主が追っていること以外は知らねぇよ」
「そうですか」
そして、忍は引き金を引く。
不死者の反応が出た。自分達も合流しなければ。さすがに本物が現れれば、こんな狂気に身を落とした者もそう考える。そして、誰も忍が新参者だとは思っていない。冷静ならば、気付いたかもしれないが、不死者という存在は彼らの思考を麻痺させる力があった。
故に、忍は一人ずつ確実に、出会った隊員を殺していく。
三階の会議室で、北河はようやく谷崎を発見した。彼は狩りに夢中でいまだに不死者の反応に気付いていない。
壁を背に崩れ落ちた谷崎は、正気を失った北河にそれでも訴える。
「あなたは、何をしているの! 盛運学生が何を!」
「何をって、町を救っているんです。感染の疑いがあるのだから、全員殺せばいい。そうすれば、確実に町の人は救われる」
「あなたはその町の人間を殺しているのよ」
「何が悪いんです。何も悪いことはないんですよ。僕が狩る側で、あなたが狩られる側。そして、あなたはこうして狩られる」
銃弾が谷崎の頭上の壁に命中する。
「怖いでしょう? 怖いんでしょ、谷崎さん。はっはっは、あなたでも怖がることがあるんですね! これはいい。結局、次席なんていっても、その程度なんですよ、あなたは!」
銃口が谷崎に向けられる。
「さよなら、先輩!」
歪んだ笑みを向けながら、北河が谷崎の内に流れる血を求めようとしたが、それはできなかった。
数発の立て続けに撃たれた銃弾が、北河の後頭部を貫きつくす。銃弾はその全てが外すことなく命中し、そこには巨大な穴が開いていた。
「谷崎さん」
目的を果たした忍が、慌てて谷崎に駆け寄る。
「しのぶ……忍君」
死を間近にした谷崎は崩れるように忍に抱きつき、そして、忍はそんな谷崎を抱きしめる。
「大丈夫。もう大丈夫ですよ」
「……もう……どうして……どうしてこんなことになっちゃったの!」
錯乱してもおかしくない。泣いても、叫んでも、何もおかしくはない。この状況事態が、どうかしているのだ。
平和な日常が崩れても、それでもどうにか踏み止まっていた谷崎の心が、死を目前にしたこと、助けられたこと、そして、忍のその姿をみたことで一気に崩れ、谷崎はそれまで耐えてきた全てを吐き出すかのように涙を流し、叫び続けた。
「もう大丈夫です」
忍はそう告げながら谷崎を抱きしめるが、地獄にはまだ先があることを忍は知っていた。
第五章
事態は第四フェイズにとっくに突入していた。
原霧市の一部が完全に吸血鬼に占領されてしまったのだ。しかも、その勢いは決して止まらない。安全圏を確保した吸血鬼は、その行動範囲をさらに広げる。
拠点から放れた場所。
最大の避難所に、その夜、吸血鬼が殺到したのだ。
多くの人間が噛まれ、多くの人間が殺された。何よりも、多くの人間が逃げ出した。しかし、逃げ出す方向は吸血鬼によって仕組まれていたのだ。
前方に吸血鬼によって誘導された不死者の群れがいれば、逃げられる方向に向かうのが心理だ。だが、その方向はすでに吸血鬼に占領されつつある場所であることを彼らは気付かなかった。そして、多くの者が、自らの足で、吸血鬼の拠点たる地区に足を踏み入れてしまう。
VATの本部では、もはや決断が迫られていた。
第四フェイズは本来あってはならないのだ。しかし、現にこうして第四フェイズに移行してしまった。
それはつまり、押しとどめることのできない現実に向かっているということだ。
どうにかして第四フェイズで食い止めようとしたのだが、吸血鬼は町中に火を放ち、山肌から流れる風で火が広まり、視界不良に陥ってしまった。しかも焼け出された住民は助けを求め本部に殺到してくるありさまだ。
「吸血鬼の一部は、昨夜のうちに町の四方に散り、それぞれの地点で拠点を作り始めています。そのうち西方の地点では第六隔離施設が襲撃されました。第六隔離施設は小規模ではありましたが、昨夜のうちに三体の反応が増えております」
それはつまり、どれが吸血鬼の反応かわからないということだ。
「しかも、吸血鬼はVATの装備を奪取。昼間であろうと、軽々には倒せません」
「……」
部下の報告を大石は目を閉じて聞いていた。
もはや見たくもない光景だ。
ユリアシステムによるマップには、もはや数えきれないほどの反応が現れている。
もはや大石が選べる道は一つしかない。
「VAT隊員の所在を確認しろ」
「了解しました」
部下はすでに、その言葉を覚悟していた。
すでに夜。
吸血鬼の世界だ。
そんな時間に外にいること自体、一般市民にとっては自殺行為でしかなかったが、もはやどこにいればいいのだというほど、その地区の家は潰されていた。
地下施設という、おそらく唯一の安全地帯への入り口を発見できた者は幸いだが、そこを見付けた人間がもう一度外にでて、それを知らせることなど簡単ではないし、そこに逃げ込む人間が多ければ、吸血鬼もそこを見付ける。
一般人が簡単に入りこめる地下ならば、吸血鬼もまた入れる道理。広大すぎる地下施設は、地下という側面もあって完全な結界とはならないし、繋がりがある以上、その中に一人でも死者がいれば結界ではない。そして、一人も死者がいないはずもなく、発見が容易だった地下施設にもすでに不死者が入りこんでいた。
原霧市の一部は、こうして人間にとっての生き地獄となっていた。
後はもう、狩られるだけなのだ。
撤退の準備を始めたVATは、もはやそこを放棄し、そこに取り残されたものは見捨てられたと同意。さらにもはや安全といえる場所はない。
それでも、吸血鬼の世界といえる闇夜の中に、一台の車両が飛び込んでくる。
「助かった。お大事に」
淡々とした口調で車から降りてきたのは岩倉菫と小島小枝香だった。
岩倉菫と小島小枝香は、まず春海の家に向かった。その家は小枝香が知っていたが、その中は無人だった。
自分は自分。生者でも死者でもないと語る菫には、吸血鬼の制約は働かず、容易に杉沢家の中に足を踏み入れるが、家の中は荒されているものの、やはり中に人はいない。
だが、春海がここでどんな人生を送ったのか、それを目にした二人はそれを引き起こした人間を見付けるという意思をより固く誓う。
だが、手掛かりらしい手掛かりはない。
「……どう思う?」
菫にはこういったことは苦手だ。
「わかりません」
そして、小枝香も唇を噛みながら、そう答えた。
春海がどんな境遇にあったのかを聞いてはいたが、その目で見るとやはり納得などできるはずがなかった。
なんで、こんなことができるのか。
そんな気持ちでいっぱいだ。表情から何を考えているのかわかった菫は、小枝香の肩に手を置くと、こういう推理が得意な人間に連絡する。
馨だ。連絡するとすぐに出る。
「あんた、何してんのよ」
第一声がそれだ。よくもシカトしてくれたわね。という言葉が、口にした言葉の中に含まれているが、菫は気にもしない。
「人を探しているのよ」
「なんで、人探し?」
「覚醒吸血鬼の両親」
「……よくわからないけど、わかったわ。でも、人となりは知っているわけ?」
「少しは……多分」
菫が視線を小枝香に移し、同時に携帯をスピーカーにする。
「覚醒吸血鬼って公園で覚醒したんでしょ」
「自宅はそう放れてない。今はその家にいる」
「で、家にはいないのね」
「そう」
「家の中は?」
「少し荒らされている」
「家は無事だけど、中にはいないのね。血は?」
「ない」
「その覚醒吸血鬼ってどんな環境だった?」
「……ほとんど監禁されていました」
小島が答えるが、当然第三者の声を耳にした馨は反応する。
「誰?」
「知り合い。この子が少しは知っている」
「あぁ、そう。まぁ、いいわ。……なら、その人達のことを聞くけど、その人達ってアル中か、ジャンキー?」
「いえ、違います」
「あなたからみて、その人達はまともな思考があるってことね。まぁ、あれよ。考える力のことよ」
「はい……あると思います」
「なら、VAT隊員を捕まえるか、役所の人間を捕まえて避難所を探しなさい。少しはそれでわかるはずよ」
馨は説明を省いて結論を下すも、小枝香は説明を求める。
「見つけ出せると思う?」
「見つけ出せるわ。確率論を無視するけど、必ず生きている。そういうクズは生きているものだから。そして、あんたならそいつらを発見できる。あんたの話友達と共鳴するようなところがあるでしょうしね。ある程度の場所を掴んだら、後は勘に従いなさい。そうすれば、いずれは見付かる。まぁ、さすがにすぐに見付かるってのは、断言しないけど」
「あれは、友達じゃない」
「そんなのあたしの知ったことじゃないわよ。あぁ、そうそう。取引材料になりそうな奴がいたら確保ね。できれば吸血鬼」
「取引するの?」
「するわ。成り行きで助けた人が結構いるしね」
「わかった」
簡単にいうが、ついででそんなことをいえるのは、この町にはこの二人しかいないだろう。
「じゃ、がんばりなさい。最終的な集合場所はまたあとでね。こっちはこっちで忙しいから」
「わかった」
そこで電話は切れる。
「……誰ですか、今の」
「あたしの兄妹」
その一言で、ある程度納得できた小枝香だ。
そして、菫は即座に動いた。
町中でVAT隊員を捕まえ、脅迫し、避難所の名簿にアクセスし、その人物を特定。その避難所はすでに吸血鬼の占領地にあることを突き止めたが、そこで諦めることはなく、そのまま隊員を脅し、そこまで送らせた。
そして、二人は地獄の入り口に立つ。
不死者がそこを徘徊しているのは、この暗闇でもわかる。それほどの数がそこに溢れているのだ。二百メートルほど離れた場所には横倒しにされたトラックが見える。つまり、ここまで占領地が広がったということだが、それはもう関係なかった。後はもう時間との勝負だ。
「あたしから放れても、構わない。あなたはあたしの指示に従って、歩いて、止まって、走っていればいい。あたしはあなたの移動速度を計算に入れて行動する。下手に動けば、その分危険よ」
「……わかりました」
菫の指示は、ある意味、逃げろ、隠れろよりも困難な指示といえる。危険が及べば人は逃げる。しかし、それをするなといっているのだ。
それでも小枝香は、指示に従うことを決めていた。覚悟していた。目前に吸血鬼が迫ろうと、不死者が迫ろうと、逃げないことを……。
「じゃあ、いくわ。……走って」
「はい」
そして、二人は地獄に足を踏み入れた。
パン、パン……といった単発の音が、二発続けて放たれた。しかし、三発目はない。
そこは公園の管理事務所だった。
小規模な避難所として作られたのか、それとも、単なる予算の都合か。コンクリート造りで、それなりに大きな建物だ。
とはいえ、二〇人がどうにか入れる程度でしかなく、その中にいる全員が憔悴していた。
避難所が吸血鬼の襲撃にあい、そこにいた者達は散り散りになって逃げた。逃げた人間は個別に、もしくは小集団で逃げたが、逃げた先、逃げた先に不死者が溢れている。
自分達は吸血鬼の占領地にいることを彼らは気付いていなかった。いや、そこにある情報の分析が甘く、先読みが失敗したというべきだろう。もしくは、その時点ではすでに逃げられる場所がなかったのかもしれない。
結果、彼らは逃げ遅れ、もはや逃げ場所はないのだと思いこむ。自分達の視界に入る光景が、市内全域で起こっていると考えてもおかしくはない。
ただ、彼らにとって幸いだったのは、この管理事務所はやや高台にあるために見晴らしがよく、後方は三メートルほどの崖になっているので後ろからこられる心配がなかった点だ。
そして、もう一点、知能持つ吸血鬼の大半が、すでに占領したこの場所を放れていたことだった。
それでも、もはや限界だ。
「クソ!」
盛運高校 TO一二の第三席の大原卓也はそれ以上撃つのを止めた。
「な、何してるのよ! 早く撃って! ほら、あそこにいるでしょう! 撃ちなさい! 早く! わたくしを守りなさい!」
大原は耐えていた。このわめき声に。ずっと耐え続けてきた。他の人間は誰一人声を上げようとはしていなかったが、その女性だけが叫びをあげるのだ。
平和的な親の集まり、つまりPPAの白川一枝。
その白川を大原は必至で守っていた。守りたかったわけではない。ただ、自分についてきた人間の中に白川が含まれていただけだが、守らないわけにはいかなかったのだ。
まさか、自分がこんな状況に陥るとは、最初の警報時には想像もしていなかった。
VATが何とかしてくれる。すぐに収まる。大丈夫。いずれ、VATが……。
そう思いながら、今までがんばってこられたのだが、さすがの大原もわかった。
自分達は切り捨てられたことに。大を生かすために小を切り捨てる。自分達は、その小だ。なってみると、なんとも都合のいい言葉に聞こえてくるが、だからといって、自暴自棄にはならなかった。
いや、なんとか踏ん張ってこられたのだ。
しかし、PPAの白川はすでにパニック状態に陥っていた。
こんな状況の中で不安にならない人間などいないだろう。それでも、皆不安を押し殺して耐えているのだ。しかし、耐えられない人間は、その不安を口にし、様々な負なる憶測を口にし続ける。それを聞かされる人間の不安はさらにさらに増長されるが、それを口にする人間にそんな自覚などない。
パニックに陥っていた白川は、さらに酷かった。
「もう駄目よ。もう死ぬのよ。VATは助けにこないのよ。誰か、助けて! あなた、あなたは盛運学生でしょ。あなたは戦いなさい! ほら、早く撃って!」
ずっと。
ずっと。
ずっと。
この調子だった。
大原はよく耐えた。
だから、彼の怒号が響いても、誰も大原を不快に思わなかった……。
「うるせえんだよ! ババア! ふざけんじゃねぇぞ! もうここには銃弾がほとんどないんだ。配給された銃弾は底を尽きかけているんだよ! こうなったのは誰のせいだ! あんたらが復興省の予算をカットさせたからじゃねぇか! 復興省の予算が十分だったら、もっと銃弾はあったんだ! もっと多くのVAT隊員が派遣されていたはずなんだ! その予算をそぎ取った人間が、わめくんじゃねぇよ!」
さすがに手は出なかったし、それを口にした大原はそれ以上いうことなく、外の不死者に目を配る。
だが、学生から、少年から罵声を浴びた白川の神経は擦り切れた。
「も、もうあなたなどには頼みません! わ、わたくしは、一人で逃げます。誰が、あなたのような子供に頼りますか! このことは必ず問題にしますからね!」
誰も止める隙などない。
ここを出る選択枠がないとは思わないが、だからといって、夜間のこの場所で逃げるなどありえない。
いや、ありえない行動に出るほど、白川は追いつめられていたのだろう。
平和を望み、平和だと思い、平和を信じていた白川にとって、この現実に耐えるだけの心力はなかったのだ。
「お、おい、待て!」
大原が数歩そこを出るが、すぐに思いとどまる。
駄目だ、と。
いくら残り少ない弾発だといえ、白川を救うためとはいえ、この場所に残る人間を置いていってはいけない。
引き下がった大原は、そこで闇の中から届く悲鳴を耳にした。
「……くそが……」
大原はその悲鳴を受け止めながら、その悲鳴は自分のせいだと思いながら、銃を構え、近寄ってくる不死者に狙いをすまして、引き金を引いた。
なんで自分はこんなことしてんだ。
大原は自戒する。
こんなにまっとうな人間だったか?
大原は自問する。
いや、違う。俺はこんな人間じゃなかった。
大原は過去を思い出す。
腕力に優れ、頭脳も悪いわけではない。多くの人間を暴力でなぎ倒し、服従させていた。
それが大原の過去だ。
なのに彼は人を守る側の盛運高校を選んだ。選ぶしか彼には道がなかった。
殴り、嬲り、嘲笑い、嘲笑し、そして、死を選ばせた。
彼は中学の頃、同級生の少年を自殺にまで追いやった……。その現実に彼は耐えられず、贖罪するかのように守る側になることを決意したのだ。
だが、贖罪になっているとはいえない。
「結局、俺は……駄目な奴だ」
呆然と大原は呟いた。もう引き金を引いても、銃弾が放たれない。虚しい音が響き、それでも彼は立つ。装備の中からナイフを手にし、管理事務所から出るのだ。
「こいよ、化け物。俺の命ぐらいお前にやってやる。だけど、てめえも殺す!」
自決覚悟の大原だったが、その闇の中からゆっくりと現れた男は憐れむように大原を見た。
「吸血鬼」
背後にいた誰かが呟く。
まともな思考を持たない不死者は、ふらつくように歩くが、そこから現れた男はまっすぐにここに向かってくる。
この占領地に残り、逃げ惑う人間を次々に襲っていた吸血鬼が、そこに現れたのだ。
そして、それは誰にとっても絶望となる。
覚悟を決めたはずの大原だったが、不死者ならまだしも吸血鬼を道連れにできるとは思えず、管理事務所にいた人間達はその目を閉じた。
言葉なく男が進み、誰もが諦めたとき、男が急に動いた。
まるで、何かから逃げるように。
それが吸血鬼であることなど、見ればわかった。
「あの小屋まで走って!」
「はい!」
菫が小枝香に指示を出し、小枝香がそれに従うように闇夜を駆ける。
最初の投擲は外したが、それは外させるために放ったようなものだった。相手が吸血鬼であれば、菫にはやっておきたいことがあったのだ。
管理事務所から右方のほうに遠ざかった吸血鬼は逃げなかった。ただ、その目でじっと相手を睨みつける。
闇夜に現れた少女。ナイフを投げ放った少女は、他の人間とは違い、まるで怯えを抱いていなかった。
なぜか?
なぜ、怯えない?
覚悟を決めた?
死ぬ覚悟でも決めた?
だから、怯えない?
吸血鬼はゆっくりと少女に向かい、菫もまたゆっくりと吸血鬼に向かう。
「……あなたで少し実戦経験を積ませてもらう」
「?」
何をいっている?
その男には、少女の言葉の意味などわからなかった。
しかし、男の視界から少女は一瞬で消えた。
消えたと同時に走る痛み。吸血鬼は痛みの感覚も鈍くなるが、感じないわけではない。
だから、気付く。
自分の右腕が切裂かれている。
「……少し深く切り過ぎた……」
ごくりと……男は息を飲んだ。
消えた。切られた。
そして、少女の声は背後から聞こえる。
「身体の感覚が違うから、なかなか勘が掴めない」
ナイフを指で撫でている菫が、振り返った吸血鬼をじっと睨む。
その瞳。その速さ。そして、直近にしたことでわかる恐怖。男はありえないという思いよりも、その恐怖が上回り、その身体能力を生かし、恐るべき跳躍力で後方に退いた。
いや、退いたはずだった。だが、強烈な痛みと共に彼は地面に叩き付けられる。
「逃がすと思う?」
「……」
全身に走る痛みは、痛みと表現するにふさわしいものだった。
何が起きたのか。わかるはずがないが、吸血鬼は自身が吸血鬼になった際に降り注ぐように感じた『生き延びる』という本能に従った。
つまりは、逃亡だ。
逃亡を即座に選ぶほど、目の前の少女が尋常ではないことを悟ったのだ。
しかし、気付いた時には、公園に立つ大木に打ち付けられていた。
「いったはず。逃がさないと。この身体の機能を把握するまで、あなたには付き合ってもらう」
もはや逃げることはできない。
男は悟る。さらに悟った。だが、理解はできない。
なぜ。
なぜ……。
なぜ…………。
この吸血鬼は、自分とは違うのだ……と。
大原は眼前の光景が信じられなかった。
その少女は、吸血鬼の速さにも、力にもまるで劣らない。劣らないどころではない。
吸血鬼を完全に手玉にとっているのだ。
ありえないことだ。こんな。こんな現実は。
あの少女はまるで、吸血鬼を相手に自分の動きを確認しているようだ。まるで同級生を相手に習いたての技の練習をしている柔道部員のように……。
大原の上空で吸血鬼の叫びが放たれ、そして、その眼前に吸血鬼がうつぶせに叩き付けられる。次いで、少女もまたそこに着地し、それと同時に、次々に取り出したナイフを吸血鬼のアキレス腱と、膝、肘、肩に撃ち込んだ。
そのナイフは抜き取らない。それはつまり、生け捕りにするということだ。
「ありがとう。ある程度、この身体の使い方がわかったわ」
吸血鬼に対していうべき言葉ではない。そして、続けていう。
「もっとも、筋力を使った戦いは、大したことはないことがわかっただけだけど」
もともと技術の粋を持つ菫にとってみれば、吸血鬼としての筋力は技の足を引っ張るだけでしかなかった。
だが、そんなことはわかりきっていたことだったのか、菫の視線はすぐに小枝香を見付ける。
「……」
そこには避難していた人間がいるはず。その中に春海の両親がいるのか、どうか。
それを小枝香に尋ねようとしたが、その表情だけでわかる。
目的の人間がいたことを。
「四か所目でようやく発見。少し勘が鈍いわ」
目の前の常人とは思えない少女の言葉が何を指すのか、大原は気付いた。少女が現れたのと同じ場所から、数十人の市民が現れたからだ。
「さぁ、いきましょうか。始まりの部屋に」
それこそが目的。
そして、その部屋を知らしめるには、観客が必要なのだ。
原霧市の中にある商店街の一角に自警団の藤本と、VAT副隊長の竹林がいた。
「おい、どういうことだ」
「これは命令だ。この場所は君達に任せ、我々は別の地域に移る」
VAT本部からの連絡があった後、竹林はVAT隊員の所在を確認し、それぞれに集結させていた。しかも隊員同士の会話がなされ、いくつかの小隊が退却していった。
「お前ら、俺達を見捨てるつもりかよ!」
犯罪行為を繰り返し、民間人を見捨て、不死者相手に狩りを楽しんできた藤本も状況の悪化に焦り始めていた。
こんなチャンスはない。こんなに楽しいことはない。もっと、もっと、楽しませろ。
そんな気分で藤本と落合は行動してきたが、落合とはいつの間にか逸れ、自警団員も次々に死んでいくか、不死者に成り果てた。
藤本は、もはや自分の行為など顧みることもなく、この場からの逃亡を考えていたが、一人での単独行動は怖く、助けを求める民間人のために危険な場所に向かったTO一二首席の堀内とは正反対に、VATに張り付くように行動していた。
そして、竹林はそれを正確に理解していたのだ。
「いいから、お前達自警団はこの地域の不死者を掃討しろ。それがお前達の役目だ」
「ふざけんな。てめえ、逃げるつもりじゃねぇだろうな」
「馬鹿なことをいうな」
真実を突かれても竹林は動じることなどない。他の人間なら動揺しただろう。堀内なら、共に連れていったかもしれない。民間人なら、竹林はここに残ったかもしれない。
だが、もはやこの先にいるかもしれない民間人を助けることは不可能でしかなく、ここにいるのは、藤本と同じように犯罪行為に走り、殺戮を楽しみ、今は保身だけを考える自警団だけなのだ。
身を張って、助ける気にはならなかった。
この自警団の犯罪行為がある意味最大の障害となったのだ。その乱行を知っていたからこそ、覚醒吸血鬼は自警団に化け、自分達の目を欺いた。藤本のような人間の行為の中に自分の行為を紛れ込ませたのだ。
「てめえ、俺も連れて行け!」
「断る!」
自分の腕を捕まえた藤本を竹林は振りほどき、なおかつ小銃を藤本に向けた。
「お前はここに残り、不死者を狩れ。そのためにここにいるんだろ」
「ふざけんな。なんで俺が……」
「おい、藤本」
闇の中から、突然藤本を呼ぶ男が現れた。
「……お、落合か? てめえ、生きてたのか」
「いや~、死んだぜ。いい気分だ。さすが、我らが王様。想像以上の充実感だ。俺はずっとずっと、これを待っていた。チャンスがきてくれて……嬉しかったぜ」
「てめえ……なに、いってやがる」
藤本が自然銃口を落合に向け、竹林はゆっくりと車両に近づいた。
気配を感じるのだ。落合だけではなく、その背後に……。
「く、くるんじゃねぇ!」
銃弾が落合の頬をかすめたが、落合は笑った。
「何すんだ、藤本。いいから、こいよ。俺と同じになれ」
さすがに、そこで藤本は確信した。
「……て、てめえ、不死者……いや……吸血鬼に……」
「あぁ、そうさ。お前を迎えにきてやったんだよ」
「く、くるな!」
叫ぼうと無駄だった。
吸血鬼の速さに藤本がついていけるわけもなく、一瞬で、落合は藤本の銃を取り上げ、その腕を捻り上げた。
背後に回った落合は、藤本の耳元でささやく。
「さぁ、お前も我らが王『原初の吸血鬼』の洗礼を受けてくれよ。俺を介してな」
「や、止めろ!」
落合は、もはやVATなど興味なかった。ただ、藤本を迎えにきただけなのだ。
だからこそ、落合は藤本を闇の中に引きずり込み、そのまま姿を消す。だが、落合はそうだとしても、彼らは違う。
闇に潜んでいた不死者の群れが、ゆっくりと視界に入ってきた。
竹林はもはや迷わなかった。
「引け! 退却だ!」
VATの車両はそのまま勢いよく後退し、残された自警団は残されていたわずかな銃弾を不死者に向かって放ち始めた。
第三隔離施設は、この原霧市の中で、ほぼ唯一落ち着いた空間だといえた。しかし、今はそうだとしても、いつまでもこうではないことを馨は知っている。
だからこそ、馨は第三隔離施設ではなく、地下通路にきていた。
「そろそろ、まずいわよね?」
「な、何がまずいというんだ!」
高野はいまだに馨と行動を共にしていた。自発的ではなく、強制的にだ。
「何がって、そろそろ爆撃が始まるかなってことよ。もう丸一日新たにここにくる人がいないじゃない? これって、VATがすでに退却しているってことよ。この隔離施設のVAT隊員ももういないと思う。こっちにくるって選択はしなかったみたいね」
「……VATが退却? ……爆撃? 私の町をか!」
「その私の町は、もう廃墟よ、廃墟。死体溢れる町の市長したいの?」
「わ、私には責任がある!」
「虚勢でも、その態度は立派だと思うわよ」
高野はもういい加減、馨の言葉使いに慣れていた。この少女は目上の人間に対する、市長に対する口の利き方はまったくなってはいないが、確かに、認めたくもないが、そこに生存している者達のために行動している。
正義感や、自己犠牲、慈愛、優しさ……そんなまっとうな動機ではなく、どこか仕方なし……といった感じを受けるものの、行動や言動は、間違いなく生存者を救うためのものばかりだった。
「施設にいなくてもいいのか」
「いたほうがいいのは確かだけどね。まぁ、感染の疑いのある人間ってことじゃなくて、単なる避難民みたいだから」
「本当に、そう思うのか? あそこに感染した人間がいないと?」
「それは確かにそうだけどね。でも、手が足りないでしょ。地下通路の探索も始めないといけないのよ。あたしだけでも外に出られるルートが必要なの」
「お前一人、逃げるつもりか!」
所詮、そこまでか。
心の奥では、何かあるのかも……とは思っても、やはり口の利き方がなっていない馨に対して、そういう発言がでる。
「逃げはしないわよ。ただねぇ、爆撃……は、この地下通路、もつのかしら?」
急に言葉が変わるも、市長は自信をもって……とはいえないまでも、答えた。
「おそらくは、大丈夫だろう。あの施設から地下に降りるまで相当階段をおりたからな」
「そうねぇ、まぁ、なら大丈夫かな」
「だが、本当に爆撃などあるのか?」
「あるわよ。マニュアルではそうなっているから。それに吸血鬼や不死者を放っておくわけにはいかないし、人の手じゃ限界がある。だったら、爆撃してまとめて殺すのが一番の方法でしょ。効率の問題よ」
「……」
効率を持ち出されては、確かにそうだとしかいえない。
次々に入ってくる人間から、町の様子はだいたい伝えられている。
「……そういえば……」
「何?」
「なぜ、お前の携帯は使えるのだ? 私の携帯は通じないぞ」
「特別製だからじゃない? ようするに、あたし達の端末ってさ、特殊になってて、ユリアシステムに介入しているのよ。ユリアシステムからVATに吸血鬼の反応を知らせるために端末に情報が届くでしょ。その場合は電波がかなり強い。これはその逆を辿って、それぞれの端末に繋がるの。まぁ、あたしが作ったわけじゃないから、正確にはわからないけど、ユリアシステムを利用しているのは確かよ」
「……なん……なんだと?」
聞いてはいけないような言葉が馨の口から出てきた。
ユリアシステムに介入など、あってはならないことだ。世界の根幹がユリアシステムなのだ。それに一般人の介入など……ありえないし、あってはならない。
しかし、高野はすぐに理解した。
「お前は、少し勉強が足りん。お前のいっていることは不可能だ。きっと、その不正な端末は別の方法で成り立っているに決まっている。きちんと説明を聞いておけ」
「まぁ、確かに使えればいいから、正確には聞いてないけどね」
どうでもいいことであったし、よく理解していないのも確かなので馨はそれ以上反論しなかった。
「とにかく……爆撃は……確かに可能性はある。だが、それとお前一人が外に出ることとどう違いがある」
「掃討戦になるとまずいってことよ」
「掃討戦?」
「そうよ。爆撃で完全に殲滅ってのは難しいから。最後は人の手で行うの」
「助けがくるのか?」
「残念」
高野は希望を見出したが、即座に否定された。
「掃討戦は、掃討戦。掃討戦専門のVAT隊員はこう命じられているのよ『動くものは撃て』」
「……まさか……」
「そうよ。人間も標的。もういいから殺せってね。まぁ、仕方ないわよね。VATによる速やかな吸血鬼の処理が失敗、結局、町中を爆撃。それこそ民間人も含めての殺戮よ。そんなことを口外されちゃ困るから、口封じを兼ねた殺戮。まぁ、感染しているかもしれないしね。ねぇ、市長さん。あなたも権力者の側なんだから、この論理はわかるでしょ」
「馬鹿にするな! 私はそんなことはしない!」
「立場が変われば、そんなことしちゃうかもよ。何しろ、そんなことを口外されたら、国民は非難する。吸血鬼の脅威を感じてしまう。それを人一倍感じちゃう人がいれば、そして、その人が『因子』をもっていれば、また、覚醒吸血鬼の誕生よ。大を生かすために小を殺すのが、鉄則でしょ? それとも、大々的にこのことを暴露して、世界中に不安の種をばらまくの? どれだけの人が死ぬかしらね?」
「……」
理想論などいくらでも語れる。現実的で権力の側にいる高野は、馨の弁に反論できない。しかし、いうべき言葉はある。
「なら、お前はどうするのだ!」
「だから、なんとか箝口令ですむようにしたいのよ。あの人達も、市長さんもせっかく助けたんだから、そのまま生きてほしいじゃない。無駄骨はごめんよ」
「箝口令? 口止めか……」
「それが最大限に譲歩してもらえる現実でしょ。爆撃で生き残れる人はわずか、その後の掃討戦でも死ぬ人は出る。数は減る。ロイヤリティマンションも使えるだろうし、なんとかなるわ。取引材料次第でね」
そこで妙なものを聞いた高野だ。
「ロイヤリティマンション?」
「あれ? 知らないの、市長さん」
「だから、なんだそれは」
「山をくり抜いて、穴も掘って作り上げた……まぁ、核シェルターみたいなものよ。吸血鬼大戦が起こったり……あぁ、この町でもそうか。多分、あれよ。お金持ちいたでしょ、この町に……なんだっけ?」
「……秋吉か?」
「そうそう、それ。多分、その人達、緊急警報の後、VATのヘリで逃げ出したと思うわよ」
高野は一瞬、耳を疑った。
秋吉は財閥の頂点に立つ人間だが、高野の支持者ではない。互いに互いを見て見ぬふりをしているような関係だ。
だが、市長の自分はここにいるのに、嫌、そもそも抜け出すなどありえない。
「誰もここから出せるはずがない! 私だって、ここにいるのだぞ!」
「だから、脱出した人は必ずロイヤリティマンションの一人部屋に入れられて、そこで三日間一人で過ごすの。高級な隔離施設みたいなものよ。一人で過ごすって条件は、どんな金持ちでも、病気の人でも覆せないしね」
「なんで、私はそれを知らんのだ!」
「お金持ちじゃないからでしょ? あたしも市長さんは知っていると思ってたのに……」
馨がそこで高野を困ったような顔で見詰める。
「駄目よ、市長さん。権力とお金は等価交換の関係にあるんだから。権力をお金で売って、お金を稼がないと。それこそ、権力を高値で売りつけて、買った金額に見合うまでは権力を維持してもらわなければ困るって支持者に思わせて……で、またお金を巻き上げる……それぐらいしないと」
なんでこんな子供にそんなことをいわれないといけないのだ。
高野はさすがに腹立たしさを感じたが、怒鳴っても柳に風なのはわかっていたので、じっと我慢していた。
「あたしもロイヤリティマンション買えるお金はあるんだけどね。あんなとこに興味はないし」
「……待て。小娘程度に買えるなら、私にも買える道理だ」
「そう? じゃあ、あたしの口座に入っている金額教えてあげよっか?」
馨はそこで高野に顔を近づけて、その耳元で金額を囁いた。
と、同時に高野の目が見開かれる。
「なんで、お前がそんな大金を持っている!」
「そりゃ、あれよ。ティグニティーの仕事以外にもいろいろしているから」
「どんな仕事だ」
「そりゃ、どっかの研究所に忍び込んで技術盗んで買い戻させたり、各国のスパイを捕まえて売り渡したり ティグニティーの情報盗んで他の国に売り飛ばしたり、銃器を盗んでブラストに売ったり、公安さんに情報売ったり、金持ちの女の子誘拐した連中を殺して、身代金受けとって女の子を返したこともあったわね」
高野は何もいえなかった。
あまりに想像を越えていたからだ。
「……こ、子供がそんなことを……」
「いいじゃない。お金は大切よ。兄妹が自分で稼げるようになるまで、生活費から何からあたしが出さないといけなかったんだから。今でもしてるわよ。特にボンクラ長男に」
「そういう問題ではない! 倫理の問題だ!」
当然の発言だったのだが、馨は笑う。声には出さないが大笑いをするように笑った。
「あたし達はあたし達。今は人間の社会に混じって生活しているから、人間の側についているし、目の前にいる人達を救わない理由がないからこうしているけど、もともと人間がどうなろうと、吸血鬼がどうなろうと、どうでもいいのよ。あたし達は、人間のように生者の側にも、吸血鬼のように死者の側にも立ってはいないんだから」
「……」
高野は息を飲む。あまりにその言葉が強いものだったからだ。何か、あまりにも重いものをそこに感じた。いや、そもそも確かにこの少女はその言葉を口にするに相応しい存在感がある。何よりも、今までの馨の行動や言動がそれを物語っていた。
「……あの射撃の腕前も、それに関係するのか?」
「あぁ、あれ? あれはちょっと違うわよ。確かに人間に比べて力の引き出し方は心得ているけど、さっきもいったボンクラ長男に教えてもらったのが最大の理由でしょうね。ボンクラ長男は、普段は何の役にも立たないけど、なんかもう常軌を逸しているくらいに強いのよ。あたしの射撃の腕とは比べ物にならない。教え方も上手いしね。ただ、あたしは射撃はいいけど、近接は苦手。菫っていうあたしの兄妹は射撃は苦手だけど、近接は強い。でも、ボンクラ長男は射撃も近接もすごい」
「……怪物か?」
馨の神技を見ているだけに、その言葉しか思い浮かばない。
「まぁ、そんな感じよ。今はあたしからの仕送りで、飲む、打つ、買うの最低な人間生活送っているけどね」
そこで馨は、ふと思い浮かべる。
「あぁ、そうそう」
「なんだ?」
「あたしは掃討戦が始まったら、とにかく吸血鬼も不死者もVATも敵として戦うことになるから。とにかく、相手の数を減らしておかないと。取引材料を集めて交渉している間にみんな死んじゃうからね」
「だから、こうして出口を探しているのだろう? もうわかった」
「ううん、違う違う。そうじゃなくてさ」
「なんだ?」
「一人じゃなくて、二人にするわ」
「?」
高野が言葉の意味を掴み切れずに、詳細な説明を求めようとしたが、それは中断された。
銃声だ。
地下通路のせいで、反響が激しく、何発撃たれたかわからないが、とにかく近くで銃声がなった。
この地下通路の探索は、銃器が扱える数人をリーダーにして行われていたが、別の班が銃を使ったのは間違いないだろう。
「こっちね」
「わかるのか?」
「なんとなくよ」
馨が表情を引き締めて通路を走り抜けるが、たどり着いたその先に立っていたのはTO一二の第五席若松だった。
「うるさいのよ。うるさいのよ。冗談じゃないわ。あたしは、あたしは、こんな、こんなことのために、あの人を求めているわけじゃない。全ての苦痛から解放されるために、あたしは……!」
「何のこと?」
若松の前方には撃たれて死んだだろう人間が数人倒れていたが、馨は若松から視線を外さなかった。
だから、若松が振り返ったと同時に、その銃を弾くように撃つ。
強い振動と衝撃が若松の腕に伝わり、彼女はそのまま銃を落とした。
即座に馨は、若松を抑え付ける。
「錯乱してもらっちゃ困るのよね、若松さん。あたしがせっかく助けたのに、三人も殺してくれて。あなたがどうしてもっていうから、連れてきたのに、何をしてくれてるの?」
言葉そのものは穏やかだが、口調は厳しい。
半ば、本気で怒っていた。
だが、若松は叫ぶようにいうのだ。
「お前もわかるわ! あの人のすごさが! 素晴らしさが! あの人こそ王になるべき存在なのよ! でも、あたしは、あの人の素晴らしさはわかっても、それでも……あたしは……死ねない、死にたくないのよ!」
「……何をいっているんだ、その子は……?」
やや遅れて追いついた高野が呆然と若松を見下ろす。
「……あなた……もしかして、ファウスト?」
「黙れ! ティグニティーの犬が! あたしに何かしてみろ。あの方がお前を死者の世界に招くことになるわよ!」
「へぇ、そう。なるほどね。あたしを警戒していたのって、あなたがファウストだったからなのね。確かにティグニティーを含め、あらゆる機関は、ファウストの存在を知っていても、中身はまるでわかっていない。必死で捜索しているけど、ブラストと違って、行動らしい行動は起こさないからなかなか見付からない……」
「……あ、あたしを殺せ!」
「死にたくないやら、殺せやら、忙しいわね。こういう言い方は嫌いだけど、死ぬ覚悟もできてないのに、死の世界を求めるっていうのは、どうなの? まぁ、あなたはまだまだ新米ってことね。心がまだ半分、こちら側にある」
「黙れ! あたしは、あの方のためになら、なんでもできる。あの方はあたし達に訴えてくれたのだ! 自分を蘇らせろと! そうすれば、あたし達は、あの方の元で、永遠の安らぎを手に入れる!」
「はいはい、そう教えられたのね。で、教えてちょうだい? あの方って誰のこと?」
「『原初の吸血鬼』様だ!」
「あぁ、やっぱり。じゃあ、後で菫にあの人がそういっているのか、聞いてみるわ」
馨は嬉しそうに返答して、高野を見上げる。
「ネクタイ貸して」
「あ、あぁ」
「よかったわね、市長さん」
「何がだ?」
ネクタイを渡した高野は、若松の身体を代わりに抑えなら尋ねた。
「これで最大の取引材料を捕獲できたわ。生き延びられる可能性がかなりあがったわよ」
そして、馨は死体を見詰める。
「少しは浮かばれるかしらね、この人達も……」
それに対する返答はなかった。
若松を拘束した馨が地下通路を逆にたどっていくと、武器が積んであるトラックの前に人だかりができていた。
何やら、非常に殺気だっている。
「見て!」
「きてくれた!」
「助けて!」
全員が銃を持ちながら、馨の顔をみて安堵の表情を浮かべる。代表として元盛運学生の武田がやってくると、先に頭を下げた。
「すまない。数人逃げ遅れた」
「……あなたが謝ることじゃないわ。それにいってもいい言葉は一つだけよ。助かった後に『ありがとう』それだけ。まぁ、別にいわなくてもいいし。それに、こんな状況で死んだ人にいちいち謝罪はできないわ。まして、あたしにする必要はない」
馨は何が起きたのかを悟っていた。
施設内についに吸血鬼が現れたのだ。
「不死者じゃなく、吸血鬼なのね?」
「間違いないと思う。窓を割って入ってきたからな」
「わかったわ。……出口を見付けた人は?」
「幸い、出口は二つ発見した」
「そうなの? あたしはここでずいぶん迷ったのに……、あたし方向音痴だったかしら」
若松を高野に任せ、装備を整えながらの言葉に武田は反応せず、依然、暗い顔で告げてくる。
「問題は出口が前後にあることだ。ここは挟まれる」
「……どこも一緒よ。どのみちどこかから、奴らは侵入してくるわ。そして、人の臭いに反応してやってくる。そうなれば隔壁も壊されるに決まっているしね」
「……」
「この人、お願いね。絶対に逃がさないで、猿轡も外さないで。そして、殺さないで。この人は、あなた達の命綱なんだからね」
そんな指示を出しながら、馨は施設に続く階段を上っていく。
ガンガンと、扉を壊そうとする音が聞こえるが、その音は鈍かった。おそらくは不死者だ。吸血鬼はまだ残っているだろうか。
そんなことを思いながら、馨がわずかに視線を落とすと、そこには生存の象徴である馨を固唾をのんで見守る者達がいた。
「そんなに心配することじゃ、ないんだけどね」
ガンガンと体当たりをしてくる相手のタイミングを見計らって、馨はその扉を開ける。
わずかな助走をとってもう一度扉に体当たりを食らわそうとした不死者は、もはや、それ以上一歩も進むことなく、その脳を撃ち抜かれその場に崩れる。
そして、馨は施設内に足を踏み入れた。
数多の不死者が溢れているが、馨が視線を向けるのは一点のみ。
不気味に笑む女だけだった。
「勇ましいのねぇ」
「まぁ、慣れているし。そうそう、市長さんにいってなかったことが一つだけあったわ。あたしが強いのは、慶にぃに鍛えられたことと、もう一つ。実戦経験の桁が違うからよ」
馨の左手の銃から銃弾が放たれた。
その程度はなんなく避けられる。銃口を向けられる前に移動していた女だったが、それは単なる号令に過ぎなかった。
二発。
三発。
四発。
女にはわけがわからなかった。
なぜ、動き回っているのに、このスピードで動いているのに、銃声の数と、自分の激痛が完全に一致しているのかと……。
パン、パン……と、単発の銃弾は、確実に女の吸血鬼を撃ち抜く。
「さぁ、あなたはどれだけの不死者を連れてきたの? その不死者の数だけ、あなたの四肢が奪われる時間は長くなるわよ」
日常会話のような声に女は恐怖するしかなかった。
それは菫に対した吸血鬼が感じたものと同様のものであることなど、彼女は知らない。
そして、言葉の意味をはっきりと理解した。
自分だけではない。自分だけではなく、馨の銃弾は不死者にも向けられているのだ。
外れることなく、神経の集中する部分を確実に馨の銃弾は貫く。不死者は馨を敵として攻撃を仕掛けるのに、それでも馨は避けながら撃ち続ける。
何よりも恐ろしいのは、女がここは一旦引くべきだと考え、逃げようとした瞬間に、再び、四肢に銃弾が撃ち込まれるのだ。
どうしてわかる。どうして、あたしのすることがわかる。
見ているとは思えないほどの身体の動きであったにも関わらず、馨は銃弾を放っていた。それも数多の不死者を相手にしながらだ。
「あなたを捕まえるのは、不死者を殺しつくした後よ。だから、そこでせいぜい、もだえ苦しんでてよ」
傷つけているのは自分であることなど、わかっている上での言葉だ。
これ以上は、もういい。
どうせ、逃げられないのだから、これ以上はやめてくれ。
そう願う女の吸血鬼はそれだけを叫んでいた。
「ねぇ、誰か。ロープ持ってきてくれる? 吸血鬼を生け捕りにするから。よろしく~」
部屋に飛び込んでから三〇分後。
そこから顔を出した馨は、お使いでも頼むかのような口調で、不安に押し潰されそうだった面々に声をかけてきた。
「……なんなんだ、あの小娘は……」
心配するだけ損だ。
高野の言葉を聞きながら、そこにいた者達はそう思った。やはり、彼らにとっての八巻馨は希望だった。
その光景を彼らは一生忘れられないに違いない。
馨と同じように、率いてきた面々から希望として見られている菫は、数多の不死者の群れから人々を守りながら、そこにたどり着いた。
杉沢春海の自宅だ。
その家の前に菫は立ち、そこに立つ面々に淡々と告げる。
「この家の少女が、この町で最初の吸血鬼になった。なぜ、彼女が吸血鬼になったのか……あなた達にそれを見せるわ。あなた達を守り続けたのも、守り続けるのも、あなた達にこれを見せ、何が今の惨劇を招いたのかを覚えていて欲しいから」
声はどこからも上がらなかった。
驚異的な身体能力に、その技術。
自分達では為すすべもなかった不死者の群れを相手に、一人でそれを殲滅した菫が、こうして面と向かって告げたのだ。
意見することなどできるはずがなく、そして、やはり何も口にはできなかったのだ。
数人ずつそこに案内された。
二階の一室。
固定されていた窓は今は開いていたが、ドアの外側には錠がされている。これでは中にいる者は逃げられない。しかし、それをまず確認した者達は、中を見て息を飲む。
ここに人がいたのかと……。
恐ろしいほどの異臭が、腐臭がそこに漂っている。
壁は汚れているが、その汚れはおそらく血の染みに違いない。その斑点のような染みは壁全体に広がっている。ただし、その染みの濃さはまるで違う。つまり、時間差があったのだ。それも相当な期間の差……。
床はもはやボロボロで、腐臭の原因が、そこにある糞尿のせいだとわかる。残飯のような食べ物は腐っているが、それはいつから腐り始めたのか、それはもはやわからない。
「彼女はここで生きてきた。出ることを許されず、暴力と凌辱にさらされ、糞尿もそのまま放置され、食事というよりもエサを与えられ、それで生を繋いできた」
全員がその部屋を見た後、菫はもう一度皆の前でそれを告げる。
「同情しろとはいわない。彼女を辱めたいわけでもない。そんなことをさせるためにここに連れてきたわけじゃない。ただ、何がこの惨劇を生んだのか……それはあなた達にはもう理解できたでしょう? それをすることも、それを見逃すことも、放置することも、こんな状況を生み出す環境を残したままにしておくことも、次なる結果をもたらす。あなた達には、それを覚えていて欲しいだけ。見逃すな……とはいわない。ただ、見逃した結果から逃げることは許さない。そして、覚えておいて、この惨劇を生んだ人間が、そこにいることを……」
菫の指が集団を指し、その指の先をそこにいたほとんどの者が視線で追った。
最後方。
隠れるようにそこにいたのは、一組の夫婦だ。
筋肉質で無精ひげを生やした男と、やや太り気味の女。
そこにいた者達は、それぞれに違う感情を、それでも、同じ方向性を持つ感情を瞳に宿らせ、ただじっと二人を見ていた。
そして、その二人は真実を突きつけられ、自分達のしたことを知られ、それを否定することも許されない状況の中、ただ歯をガタガタとならし、震え、怯えているだけだった……。
それぞれに思うことはあっただろう。
だからといって……との言葉を浮かべる者もいただろう。
それでも、菫の言葉に秘められた意味はわかった。
今という世界であろうと、なかろうと、あってはならぬことが、この世界にあるのだと……それを放置することは、終局的に自分の身に降りかかる可能性があるのだと……。
そして、それを放置し続けた結果、自分の身に降りかかった災厄に対して、『こんなことになるとは思わなかった』『考えてもいなかった』『どうしてこんなことに』と、その事実を否定していいものではないのだ。
「さぁ、いくわ。地下に移動しないと……」
爆撃が始まってしまう。
最後の言葉を菫は口にしなかった。
「おい」
「……?」
TO一二の第三席、大原が菫に声をかける。その瞳には恐怖も何もなく、まっすぐに菫を見詰めていた。
「……俺はいくところができた……」
「……」
ここで菫と逸れることが何を意味するのか、大原は知っている。それでも彼はそれを告げ、それをわかった上でそれを告げてきたことを菫は知った。
だから、菫はいう。
「あなたはよくがんばったわ。あの人達を守った」
「……最後……だけは、よかったのかもな。だが、最後だけだ。それまでしてきたことは取り返せない」
「それでもあなたが必死で守ろうとしたことに代わりはない」
「……ありがとよ……」
大原は真っ直ぐに背筋を伸ばし、現実に向かうべく、菫に背を向けて歩き出した。
そして、地下通路の入り口を知っていた数人が菫の直後につきながら、菫もまた反対方向に歩き、集団がそれに続いて歩いていく。最後まで小島小枝香は、集団から遅れながら、それでもなおついていく杉沢春海の両親をじっと見詰めていた。
小枝香は今こそ決断する。
それをするのは、自分でなければいけないのだと……。
原霧市のVAT本部はすでに撤収の最終段階にまできていた。
その中央の椅子に座る大石はもはや死人のように疲れ果てている。
「初動が失敗でしたね」
「……」
大石が瞳を開けてみるとそこには隊員の須山が立っていた。
「通常の覚醒吸血鬼と思い込み、通常通りの行動をとった。即座に爆撃でもしていればよかったのですよ」
冷めた目つきで自分を見る須山に対し、大石は端的に答えた。
「強硬論者のブラストらしい意見だ」
「知っていましたか?」
「今、知った」
そして、大石は再び瞳を閉じ、一方の須山は拳銃を取り出す。
「あなたは責任を取って自決した」
「覚えておけ、須山」
「なんでしょう?」
「結果論など、誰でもいえる」
「……覚えておきます」
そして、多くの隊員の目を気にすることなく、須山は引き金を引いた。
その本部に銃声が鳴り響く。
だが、誰も須山を咎めなかった。大石を責めているわけではない。大石の言う通り、結果論なら誰でもいえるのだ。ただ、このまま帰還しても、大石に対する処罰は、積み重ねてきた名誉を踏み躙るものになるに違いなかった。
「今後の指揮は私が取る。内閣府、復興省の意向である!」
その場にいた副隊長の竹林もまた、他の隊員と同じように大石の死を看取り、須山の行動に異議を唱えることはなかった。
ブラスト。
吸血鬼に対する強硬姿勢を取る組織。
すでに内閣府、復興省にまで触手を伸ばしていたのかと……そんなことを思うのみだった。
第六章
ブラストの一員である須山が指揮するVAT本隊は、原霧市を囲む山の反対側に本部を置いていた。
原霧市に散らばっていた隊員の所在と生存確認。それぞれの隊員の原霧市本部への帰還。さらに、陸路を塞がれていたために、ヘリを使っての退避。夜間の吸血鬼への対応、見捨てていく民間人や自警団、盛運学生への対処は混乱を極めたが、そんな彼らに銃口を向けながら、三日の後、VAT隊員の全てが原霧市から姿を消した。
そして、その日の夜。須山がついに命令を下した。
「原霧市に対しての爆撃を開始しろ」
大型爆撃機の音が少しずつ大きくなり、ユリアの壁を通過して原霧市の中に侵入していった。
その音は地下にいた菊池忍や谷崎奈央の耳にも聞こえてきた。
谷崎は、そんなの嘘と、最後までこの現実を受け入れなかったが、もはや信じるしかない。
「爆撃機が着ました。あれは外縁から中心に円を作るように爆撃をしてきます。ここは郊外に近い。すぐにきますよ」
「……」
谷崎は背後を見る。
第一隔離施設から救出された谷崎は、狩られる前だった民間人や、地下に移動する際に見付けた民間人を集めながら、ここにきた。
皆が皆、憔悴し、不安と絶望を抱えながら膝を抱えて座っている。
「ここは、狭い地下施設です。他の地下とは繋がりはない。それなりに深いですから、直撃しなければ凌げます」
「……その後はどうするの?」
「そのときに考えましょう」
忍は安心させるようにそれを告げたが、谷崎にもわかっている。その後に何がくるのかを……。
第一隔離施設から郊外に移動した忍達が選んだのは、この地下施設だった。工事途中だったのか、放置されたのか、別の目的があったのか、階段もなく、はしごしかない、それこそボーリングで掘ったような穴であり、横穴の奥行きはほとんどなく、全員が密集して、どうにか全員入れたような場所だ。
酷く息苦しく、この場に長時間いるのは困難を極めた。
しかし、ここしかなかった。
馨のいる地下施設は吸血鬼や不死者が徘徊しており、近づけない。別の入り口から合流しようかとも考えたが、都合よく会えるとは限らない。
忍は自分の実力を理解していた。
馨や菫のように大人数を守り切れる技量がないことを……。吸血鬼や不死者との戦いには慣れていたが、それは自分一人の場合、もしくは自分以上の力量を持つ者達がいた場合で、自分よりもはるかに弱い者達を守りながら戦えるとは思えなかった。
とすれば、忍にとって最も脅威なのは、半ば運任せの爆撃ではなく、不死者や吸血鬼の襲撃だ。
武器、弾薬の量も心もとない中、広い地下通路では大量の不死者や吸血鬼と相対すことはできない。
だからこそ、忍としては、この地下通路を知っていた者が助けた人間の中に含まれ、なおかつここまでこられただけで十分幸運だと思っていた。
「後は、耐えるだけです。みんなで手を取り合い、直撃しないことを祈りましょう。大丈夫、そう簡単に直撃はしません」
それは確かに真実だが、同時に気休めのようなものだった。
それでも、そこにいた者達は互いに手を取り合い、ただじっと祈るのだ。
「理由はよくわからない。吸血鬼が率いるのか、それとも、本能か。おそらくは本能だと思うわ。あたしが上で殺した不死者は目の前の人間の力量を測れず、あたしを一人の人間としてしか認識できなかったけど、そりゃ、空から爆弾落とされたら『勝ち目なし』って思うわよね。だから、連中は逃げ出すのよ。どこか、隠れる場所があるはずだってね。そして、上の隔離施設はぶち壊されているし、爆撃されれば、ここに繋がる出入り口の一部が破壊されて穴ができる。その穴を見付ければ連中はそこに飛び込む。もともと知性のない不死者は人間の臭いに引かれて寄ってくる。吸血鬼は臭いを感じても、どうするかを迷うけど、不死者は違う。この地下に入り、逃げ切ったと思ったら、今度は、人間の臭いを察して集まってくる。だから、ここはもうすぐ戦場になるわ。何しろ、ここは広い地下施設で、過ごしやすいし、動きやすいけど、同時に、いたるところと繋がっている。これだけの人間が密集していれば、そりゃもう、あたし達は撒き餌みたいなものよ。ぞろぞろやってくる」
「……」
「……」
地下通路にいる馨は全員を前にして、これから起こることを口にする。だが、その口調はいつもと何も変わらない。
ゆえに、ぎりぎり不安を抑え付けることができるが、言葉の意味それ自体は絶望しか感じない。
「いい? 爆撃機は防衛省……じゃなくて、自衛隊の管轄だけど、とにかく二種類存在する。貫通力重視と、広範囲重視の二つ。一方が吸血鬼が隠れるような建物を狙って破壊。で、逃げ場所をなくした上で広範囲の爆撃。だから、まず地下にさえいれば、大丈夫。他の地下施設も、広範囲の爆弾の一つがなぜか、見事に入口に落下……ってことにならなきゃ大丈夫よ」
「……」
「……」
それで終わるはずがないことを、全員が知っている。
なぜなら、男は全員武装しているのだ。
扱ったこともなく、触れさせてもらえなかった武器を自分達に渡した。とすれば、それをする必要があるということだ。
そして、その通りのことを告げる。
「ただし、問題があるわ。相手も人間、人情ってのがある。この地点に多数の不死者の反応があって、地下に逃げ込んだのか……と判断すれば、貫通力重視の爆撃機に乗っている人は思うでしょう。『ここに一発ぐらい、撃ち込んでおくか』『広範囲の爆撃じゃできないだろうから、ちょっと協力してやろう』ってね。多分、VATの本部も了承するでしょう。助け合いの気持ちって、大事よね」
肩を竦めながら馨は笑みを浮かべるが、その助け合いがこちらの命にかかわってくる。
そこで馨はふと表情を消し、告げてきた。
「だから、ここに群がってくる不死者はすぐに殺さないといけない。近寄らせてもいけない。あたし一人じゃ、カバーはできない。いい? あなた達は幸運で不幸よ」
「突然、何を……」
傍らにいた高野が額を抑える。幸運はいいが、不幸よと告げる必要がどこにあるのだ。
「あなた達は、結構まともな時間を過ごせたでしょ。いうのもなんだけど、他の隔離施設や、外にいれば、もっと凄惨だったと思うわ」
「……」
それは事実に違いない。
馨という存在は、確かにそんな時間を与えてくれた。
「だけど、不幸よ。おそらく、この場所には多くの……、多分、他の場所とは比べ物にならない数の不死者が押し寄せてくる。自分達のために、他の地下にいるだろう人達のためにも、最後に一つ踏ん張りをみせてちょうだい」
「……」
「……」
もはやいわれるまでもない。そこにいる者達はすでに覚悟を決めていた。自分達には希望がある。それを信じているからだ。
そして、自分が死んだとしても、その死はきっと人として弔われることになる。この中にいる者達は、多くの仲間が不死者化し、馨に殺されてきたのを見てきたのだ。
だが、彼らは恐怖と嫌悪の対象ではなく、人として死んだ。
その経験と馨という存在が、彼らに踏み止まる覚悟と勇気を与えてくれている。そんな彼らの表情を見ながら馨は頷く。
「さっきもいった通り、前後に男の人達が並んで壁を作る。不死者が着たら、一斉射撃。連中はとろいし、筋力の使い方もなってない。水平射撃で十分。下手に狙おうとしないで。そして、中心には女の人と子供、ご老体。確認した通り、何人かの女の人は武器の補給も手伝って。いいわね、最初の一列が撃ちまくる。弾が切れたら、次の人と交代して下がって。あたしは中心のトラックの上にいて、前後のフォローをする。あなた達が逃したのはあたしがちゃんと仕留めるから、あなた達は近づいてくる奴なんか気にもしないで撃ち続けること。吸血鬼が現れた場合は、もしあたしが気付いていないかもしれないから、即座に叫んで。あたしが殺してあげるから、大丈夫。それと中心の女の人。さっきの吸血鬼と若松さんはあなた達の命綱。目を放しちゃ駄目よ。市長さんはあたしについて、武器をあたしに渡してね。じゃあ、そういうことで、配置について!」
馨の言葉に、その場にいた者達が無言で頷く。
そして、それから二〇分後。
最初の銃弾が放たれた。
爆撃機の航空音、爆発音、そして、振動。
それを感じながら、そして、それが近づくのを感じながら、TO一二の大原は墓石の前に立っていた。
墓地。
そこは生者の領域ではなく、死者の領域だ。ゆえに誰もそこには近づかなかったが、爆撃が始まったためか、それとも運がよかっただけなのか、不死者の姿も吸血鬼の姿もそこにはなかった。
「……」
大原は言葉なく、そこに佇む。自分が追いつめた少年がそこに眠っているのだ。この惨劇を生んだ少女の過去を知り、大原は少年のことを思い出した。自分もまた、その少女と同じように少年を追い込んだ。
菫は忘れるなといった。その事実から逃げるなと……。否定するなと……。
もしかしたら、この惨劇を自分が産んだのかもしれないのだ。その業は、決して消えるわけではない。
「……俺は……」
呟く言葉の先に何があったのかは、誰にもわからない。ただ、近づく轟音に続き、大原の間近に爆弾が落下してきた。大原は吹き飛び、墓は破壊され、納骨されていた骨壺が大原の目前に落ちた。
衝撃で吹き飛ばされた破片か何かが大原の足を切り取り、そこから大量の血が溢れる。いや、全身が打ち付けられ、もはや生存など不可能な傷を負う。ただ、大原は自らの死を考えることもなく、眼前に落ちた骨壺を眺めていた。
少年の遺骨が入っている骨壺。
少年は死んだ。自分が追いつめ、少年は学校で自殺したのだ
「……すまなかったな…………」
大原が最後に口にしたのは、今更ともいえる……そんな言葉だった。だが、それをいうために彼はそこにきた。
だからだろう。彼の顔には死と痛みによる苦しみは映っていなかった。
爆撃機はそこに生きている人間のことなど何も考えない。戦っている人間がいることなど考えることはない。
彼らが考えるのは、翌朝に次の段階に入るということであり、その作戦は昼間に行うべきであることだけだ。
故に爆撃は夜間に行われる。
それはつまり、そこに残っている者達にとっては最悪の時間帯ということだ。
それでも、そこにいた者達は、誰を恐れればいいのかわからない状況に陥っていた。
不死者も吸血鬼も人として死んではいるが、その肉体には血が流れている。いや、流れているというよりも溜まっているという表現が正しい。表面からではわからない何かが内側から人を殺すが、その血は身体の中に残り、ほとんど凝固もせずに残っているのだ。
つまり、引き裂けば、そこに溜まっている血が噴き出すということだ。
そして、その地下通路に逃げ込んだ者達の眼前には、血まみれの少女が縦横無尽に駆けまわっていた。
町のほぼ中央に位置するこの地下通路は、中心部であるがためにあらゆる通路と繋がっているが、逆に行き止まりとなった通路もあった。つなげる予定があったのか、それとも、そこが終点だからなのかはわからない。
ただ、行き止まりのその壁は左右や下の隙間から開閉できるのではないか……という推理が及ぶために、やはり、そこが何かしらの終着点だったのだろう。
しかし、中に入ることはできなかったし、入る必要もなかった。
おそらく後方から不死者や吸血鬼はこない。
故に、彼らの前方に岩倉菫は仁王立ちし、不死者を迎え撃った。
爆撃が始まってから、どれくらいたつのか、時間の感覚はない。それでも、そこになだれ込んでくる不死者を菫はことごとく葬ってきていた。
自警団や盛運学生の中にも犠牲は出た。不死者の中にはそういった者達が、装備をそのままにして向かってきていたが、彼らはそれを使用する思考がなく、その装備はまさに菫にとってみれば、武器の補給源ともいえた。
反転するようにナイフを投げるも、次の瞬間にはその手にナイフが握られている。
あんな真似、頭で考えたからといって、実行できるはずもない。
そんな動きのオンパレードだ。
血まみれの菫に恐怖していた者達も、少しずつ、恐怖よりも感嘆という言葉が浮かびつつあった。
それでも菫は思う。
ここはまだマシだと……。
どこかに大量の不死者が押し寄せている。
それを菫は悟っていた。
そして、そこでは大音響が響き渡っている。
「撃て、撃て、撃て、撃て!」
「逃がすな!」
「またくるぞ!」
「そっちは大丈夫か!」
「怪我人が出た!」
「後退しろ!」
「弾薬を持ってきてくれ!」
おそらく今までもっとも安全な場所にいた彼らは、最後の最後になって、もっとも危険な場所にいた。
馨の読み通り、ほぼ大通りともいえる地下通路に大量の不死者が押し寄せてきたのだ。
VATが撤退してから爆撃するまで三日あった。
それは逆にいうと、感染した人間が不死者になる期間だったともいえるのだ。人間側の抵抗がなくなった中、不死者や吸血鬼は昼間であろうと人間を求め、次々に襲い続けただろう。
そして、そのほぼ全ての人間が不死者化、吸血鬼化した結果、想像を越える数の不死者が誕生し、地下に入ることで爆撃から逃れた不死者は、そこに集まる人間の匂いに誘われるように地下をさ迷い、彼らを発見する。
「止まらない、留まらない! 撃ち続けて! 怪我人は下がらせて治療してあげて! 感染していないから大丈夫!」
数は膨大だった。
大量に溢れる不死者が次々に撃ち殺されるが、倒れた不死者を乗り越えるように不死者が迫ってくる。
それこそ、徐々に不死者の死体の山が出来上がっていくのだ。
その中心にいる馨は全員を鼓舞しながら左右に銃弾を放っている。
「次!」
「!」
馨の横に膝をつく高野は安全ではあったかもしれないが、もっとも目まぐるしい状況にあり、馨の言葉に従い銃を渡し、空になった弾倉を変え、指示に従い銃を渡していた。
もはや、返事をする暇もなかった。
いかに馨といえど、この数を簡単にあしらうことはできない。しかし、逃げながら戦うという選択は始めからなかった。
怪我人は出たが、噛まれる直前に撃ち殺している。逆にいえば、そこでようやく殺せるほどに不死者の勢いはすさまじかった。
「もう少し、もう少しがんばって!」
馨は計算を変えた。
自分の計算よりも不死者の数も吸血鬼の数も多かった。
これでは、抑え込むことなどできはしない。
汗がぽたぽたとその場に水たまりを作るほど流れ出ているが、馨はただひたすら銃を放ち続ける。
しかし、その行動には少しだけ変化があった。後方にいる不死者を重点的に撃ち始めたのだ。前方の不死者はギリギリまで他の人間に任せ、自分は後方に集中する。
死者の山だ。
これだけ不死者が多ければ、それだけの不死者を殺せば、当たり前だが死体は増える。
死体を踏み越えたところを撃てば、その死体は折り重なる。それを踏み越える不死者は動きは鈍くなる。中には転ぶ不死者もいる。
馨の考えていることを後方の人間達も悟っていた。
元々人間であった彼らに対する感情はさまざまあったが、もはやそれに頓着している暇はなかった。
彼らは死体を乗り越えた瞬間を狙って銃弾を放つ。もはや手はこれしかなかった。死体の山で、バリケードを作り、足止めする。それしかなかったのだ。
「後方の後列は、前方の援護に回って! 早く!」
何の指示かと思ったが、馨が高野の前から姿を消した。
いち早く、トラックの上に乗っていたからこそ、いち早く、馨はそれに気付いた。
動きが違う奴がくる。それも二体。
馨が後方の人間の隙間を縫うように不死者の群れに走りだし、後方後列がもはや自身の思考を巡らすこともできず、ただ馨の指示に従って前方の援護に走る。
そして、馨は不死者の山を踏み越えると同時に、いうのだ。
「あんた達に、このバリケードを破られちゃ、困るのよ!」
馨の眼前には、このバリケードを象る死体を吹き飛ばそうとする吸血鬼が二体いた。
吸血鬼には思考があったが、だからこそ、この状況に高揚していた。戦いは人を高揚させ、冷静な思考を無くす。
目の前にいる人間が何者なのかを正確には把握できないようになる。
言葉にならない叫びを放ちながら、二体の吸血鬼が馨に襲い掛かる。
回るように。
回るように。
おもちゃの人形のように、馨はくるくると態を変えながら、吸血鬼に、そして、山を登り切ろうとした不死者に銃弾を放つ。
「あんたも山の一部になってちょうだい!」
接近戦は決して得意ではない馨だが、その言葉は吸血鬼の胸元から聞こえた。そして、顎に突きつけられた熱い銃口から銃弾が放たれ、その吸血鬼は脳を破壊される。
その背後を襲おうとした吸血鬼だったが、馨はその場に崩れるように倒れ、下方から吸血鬼を狙い撃つ。
いや、それは通常の馨では考えられないほどに乱雑な射撃だった。
一体の吸血鬼を倒すために、弾倉を空になるまで撃ち尽くす。もはや、狙いをつけて撃てるような状況ではなく、倒れこむようにするので攻撃を避けるのが手一杯だったのだ。
それでも、どの銃弾かはわからないが、確実に急所を撃ち抜かれた吸血鬼が馨の上に倒れてくる。
その死体を押しのけながらも、もう一方の銃は不死者の足を撃ち抜いていた。
「悪いけど、エサになってね」
立ち上がった馨は息を切らしながら、不死者の山を登り、その頂点に立つと、近づいてくる不死者の足を撃ち抜いていく。
その手持ちの銃が空になるまで……。
「市長さん! ライフル、投げて!」
馨は全ての銃を撃ち放つと、それをその場に捨て、駆けながら戻ってきた。市長は言葉をする間もなく、それでも、馨の移動スピードを考えて、ライフルを放り、それをキャッチした馨は、即座にそれを構えながら、
「あたし、ライフルはあまり得意じゃないのよ」
と呟きながら、前方に迫る一体の吸血鬼目掛けて引き金を引いた。
「ほら!」
銃弾は吸血鬼に命中はしたが、馨は自分に文句をいう。一発で仕留められなかったのだ。それでも、馨はライフルを撃ちながら、後方に命じた。
「後方下がって、中心の女の人達も! 後、トラックのエンジンかけて!」
ライフルを構えたまま馨は走り、前方目前に迫る吸血鬼に撃ち続ける。
「前方、動かないで!」
動けば、その人達を撃ってしまう。
そのための指示だが、先ほどから彼らは身動きなどほとんどしていない。戦いが始まってから今まで、耳元を銃弾が霞めるように飛んでいるのだ。隙間をぬって馨が銃弾を叩き込むことを彼らは身体と心で理解していた。
「この!」
ライフルが空になったが、吸血鬼はまだ動く。だが、馨には手持ちがない。なりふり構ってなどいられなかった馨はライフルを逆に手に取る。
「あたしはあんまり腕力に自信はないのよ!」
そして、そのまま振り回した銃身が吸血鬼の顔面にヒットした。
「銃!」
慌てて近くにいた男性が銃を投げ渡し、馨は吸血鬼の顔を踏みつけながら、その脳天を撃ち抜く。
ライフルの銃身には熱がこもる。それを握って振り回したのだ。馨の手のひらには火傷ができていたが、そんなこと気にもしない馨は、近場の不死者を撃ちながら、全員に指示を出す。
「全員、このまま前進! 後方から距離を取って! それと後列にいた人達はトラックから取り出せる限りの銃をトラックから降ろして! 女の人は食料! 急いで! 市長さん、銃の代わり!」
トラックからどうにか降りた市長が銃を馨に投げ放つ。
「前方、後しばらくがんばって!」
そう告げた馨は単身で後方に向かう。
向かってくる不死者をまず殺し、山の上に上りついた不死者を殺す。
しかし、
「しつこいのよ、あんた達」
その山を飛び越えるように、再び、吸血鬼が現れる。
高揚し、思考も、作戦も、何もなく、これだけの死体を作った馨に向かってくるが、空中では身動きなど取れない。
「穴だらけにしてやるわ!」
怒りを押し殺すように馨はそれを告げ、あらん限りの銃弾をその吸血鬼に撃ち放つ。手足がもぎれ、もはや墜落に等しい吸血鬼は痛みに呻きながら、自分を見下ろす少女を見た。
「いいかげん、あたしも疲れるわ」
守りながらの戦いは心身ともに疲労を伴う。
初めてといってもいいくらい、馨が口にした弱音を聞いたのは、その吸血鬼だけだった。
そして、その発言は誰に告げられることもない。
銃声がなり、吸血鬼が死ぬ。
「市長!」
「!」
もう何もいうことなく、市長が銃を放ち、馨がそれを受け取ると同じように不死者に向けてそれを放つ。
「トラックの準備は?」
「だいたい下ろしたぞ!」
「了解」
元盛運学生の武田の言葉に従い、馨は少しずつトラックに向かって下がっていく。
そして、その運転席に乗り込もうとするが、
「何しているわけ、市長さん。それに……武田さんも……」
二台のトラックの運転席には、市長の高野と武田が座っていた。
「この程度はできる。塞ぐんだろ?」
「君は援護を」
「……よろしく。助かるわ。車の運転は忍の担当で、あたしは得意じゃないのよ」
素直に馨は感謝をし、その銃口を後方、前方、それぞれの不死者に向ける。
そして、二台のトラックは後方に進むと死体によって作られたバリケードの前に横付けされた。
「お見事」
運転席に迫ろうとする吸血鬼を見事に撃ち抜きながら、馨はそこでも両者を褒める。
狭い通路での横付けは簡単なことではない。しかし、トラックで後輪を滑らせて横付けするのだ。大変な腕でもあった。
「ワシは運送会社を経営していたんだ。この程度はできる」
「私は、元TO一二の第七席だ」
この程度はできないと、ここにいる意味もない。
何から何まで馨に頼りっぱなしでいるわけにはいかない。市長としての、元盛運学生としての、そして、男の意地だった。
目の前で、汗だらけになって笑っているのは、女であり、子供なのだ。
「さぁ、後は前方に移動よ。全員荷物を持って。不死者はあたしが仕留める! 死体の山を越えるのは辛いと思うけど、今は耐えて!」
再び、馨は全員の先頭に立つと、全員を率いて前方に進んでいく。
「後は頼むわよ、本当」
後方は、死体で作られたバリケード。その前には二台のトラックによるバリケード。さらに、足を撃ち抜かれた不死者達。
簡単にそれらを抜けられるはずもない。
もちろん、いずれは追いつかれるだろうが、馨は方針を少し変えたのだ。
そこにいるかもしれない、誰かを信じて。
山を越えた先にあるVAT本部では、臨時隊長となった須山が爆撃が着実に進んでいるとの報告を受けていた。彼が見ているのは爆撃機の移動画面で、爆破ポイントだ。
竹林や、もともと原霧市に派遣されていたVAT隊員は、吸血鬼や不死者を映し出すユリアシステムによる地図を見ていた。その反応は爆撃時には、もはや尋常ではないくらいに増えていたために、もはやまともに見る者はなく、しかし、見ておかねばならないので、爆撃やその後の作戦に参加しない人間に任せられていた。
だが、竹林はそれをしっかりと確認していた。
次々に反応は消えるが、不死者や吸血鬼の本能なのか、それぞれが散るように逃げていく。大部分は爆撃で反応が減るが、一部は、逃げ場所を見付けたのか、消えることなく移動していた。
そして、もっともその反応が濃い、とある場所に集中していた不死者の反応が次々に消えていくのだ。ポツリ、ポツリ、ポツリ……反応がとある地点にくると消える。
多くの不死者がそこに向かい、そこで消えるのだ。
ユリアシステムに間違いはない。
これだけの反応であると、反応が重なってしまい詳細などわからないが、間違いなく、反応が消えている。
そして、今は、一方方向のみ不死者の反応が消えて、もう一方では、移動していた反応がそこに留まり、大量の反応が重なっていた。もはやそこで行き止まりになっているかのように、せき止められている。それこそ、一匹残らず……といった感じだ。
この町には地下通路がある。
竹林は当然、それを知っていた。
そして、眼前のモニターから得られる情報は、ただ一つ。
誰かが不死者を倒し、押し寄せてくる不死者を何かしらの方法で足止めし、反対方向に逃げているということだ。
所在確認が取れず死んだと判定されたVAT隊員か? それとも自警団? 盛運学生?
なんにせよ、誰かが、集団が、不死者を倒し、生存し、逃げている。
竹林は即座に時系列になったユリアシステムの地図を用意し、それを今の地図と重ね合わせる。
おかしな報告を聞いたからだ。第三隔離施設には、何かとんでもない女がいる。
そんな話だ。
ティグニティーを竹林は知っていたし、その噂の女はティグニティーだという話もある。
実際、第三隔離施設では、不死者や吸血鬼の反応が出たと同時に、その反応が消えたのだ。
誰かが不死者化、吸血鬼化した人間を即座に殺しているということになる。そして、今まさに不死者のほぼ全てが留まっている場所は、第三隔離施設の場所とほぼ重なるのだ。
そこに誰かがいる。誰かが逃げている。そして、何かを求めている。
いや、竹林は悟った。だからこそ、告げるのだ。
「こちら本部、VAT副隊長の竹林だ」
「こちらビット一。なんでしょうか」
「今からいうポイントを爆撃してくれ。正確に、一発だけだ。その爆撃機の爆弾は地下まで貫通するか?」
「深さにもよりますが、より貫通力の高いものも装備しております。使用許可をいただければ、即座に使用しますが?」
「その使用を許可する」
「了解」
そして、竹林はそのポイントを告げた。
折り重なるような不死者の群れのポイントを……。
その音が聞こえたのか、危険を察知したのか、馨が眼前に迫る不死者を一気に殲滅すると、全員に向かって叫んだ。
「全員、伏せて! そして、互いに互いを支えなさい!」
もはや、馨の命令には即座に反応するようになっていた彼らは、即座にその場に伏せ、互いに互いの腕を絡ませあった。
そして、その直後に、轟音が地下通路に轟く。後方地下通路に爆弾が落ちたのだ。
そして、爆発。
地下通路という狭い場所に一気に放たれた衝撃はすさまじいものがあり、前方の不死者、後方に転がっていた死体が吹き飛ばされ、身の軽い者も、浮遊感を味わった。
それでも、伏せていたことや、互いを支え合っていたおかげで、傷は負っても、怪我をしても、どうにか全員死ぬことなくやり過ごす。
地下通路の天井からぱらぱらと何かが落ちてくるし、死体に押しつぶされるしと、散々な状況だったが、幸い爆撃は一度限りだった。
そして、後方の地下通路は不死者の群れを道連れに崩れ去る。
埃まみれになった馨は、頭を振りながら立ち上がると、その場で呆然とする高野市長に微笑みかけた。
「やっぱり、助け合いは大事よね?」
八巻馨は、この地獄をどうにか潜りぬけた。
第七章
「奴らの反応は?」
VATの臨時隊長須山が、そこで初めてユリアシステムに意識を映す。それを担当していた竹林は淡々と告げた。
「爆撃により八五%の反応が消えました」
「上出来だ。後は彼らに任せる」
「……本当にそれをすると?」
竹林は、新たに増員されたVAT隊員のことを知っていた。殲滅隊。元犯罪者の集団で作られた部隊だ。消えた町で戦闘訓練を積み、一般の隊員とは比べ物にならないほどの強さを誇るが、人として備わっていた何かが失われているような兵士達だった。
それを懸念する竹林の言葉だが、須山は何の反応も起こさなかった。
「当然だ。それが作戦。それが奴らを滅びつくすための最善の方法だ。そもそも、この状況で生きていると思うか? よしんば生きていたとしても、感染しているに決まっている。さらにいえば、今の爆撃で人間も死んだ。今更、偽善ぶっても仕方ない。吸血鬼に対するには、毅然とした態度で怨念の声を背負いつつ進まなければいけない」
「……」
竹林も自警団を見捨てた。爆撃も見守った。それでも、そこにいるだろう、誰かを助けたのだ。そこまでして生き残った者達を見捨てるのは抵抗があったが、それを偽善といわれても仕方なかった。
「掃討作戦を開始する。殲滅隊は原霧市に向けて出発だ。動くものは殺せ! 動いたと思われるものも殺せ! 動くかもしれないものも殺せ! そこに存在するのは、お前達以外、全員が殺すべき対象だ! 人間など、あの場所にはいない! いるのは、殺すべき対象のみだ! いけ!」
苛烈な指揮に反する者は殲滅隊には存在しなかった。
地下を出ると、そこはもはや荒廃した大地だった。
「……直撃しないで、すみましたね」
外に出た忍は、そこから出てくる谷崎に手を貸してやる。それに続いて、全員がそこから出てくるが、やはり皆同じ。
呆然と周囲を見渡していた。
「……こうまでしないと駄目なの?」
「……」
気持ちはわかるが、現実的に厳しいことを忍は理解していた。
「『平和で穏やかな世界』。それを維持するための犠牲ですよ……」
「多すぎる」
「……そうですね」
実感として、この光景を目のあたりにして、これですんでよかったなどいえるはずもなかった。
忍は、そこで谷崎を含め、外に出てきた全員に告げる。
「ここで少し休息を取った後、皆さんはもう一度、下に降りてください。理由はさっきお話しした通りです。僕達がどうにかしますので、迎えにくるまで耐えてください」
「……」
「……」
全員、言葉もない。
まさか、自分達を殺しにくるVAT隊員がいるとは思わなかったのだ。しかし、理性がそれを肯定してしまう。これを目撃した自分達の口を塞ぐ。ありえないことではなかった。
全員を人目に触れる外に出すのは、躊躇が必要なことだったが、地下は息苦しい。
どんな光景が広がろうと、一度外に出て、外の空気を吸わせる必要があると忍は判断し、谷崎も同意した。
だが、同意できないこともある。
「あなたは、本当にいくの?」
「いきますよ。殲滅隊にここが見付からないように、僕達が暴れ回って、彼らの目を引きつける。そして、その間に相手と交渉する」
「……できるの?」
「まぁ、姉達次第です。僕には手持ちの駒がないので……」
忍は苦笑いを浮かべたが、そこに連絡が入ってくる。
馨だ。
「生きてた? よかった」
「馨姉さんも無事みたいだね。こっちもどうにか無事だよ。後少しで爆撃に巻き込まれるところだったけど」
「こっちも似たようなもんよ。で、あんたの収穫は?」
「残念ながら」
「まぁ、いいわ。こっちはそれなりに手駒が拾えたから。交渉はあたしがやるけど、やることはわかっているわよね」
「盛大に暴れろでしょ?」
「そうそう、よくわかってるじゃない。で、谷崎さんとはどう……」
忍はそこで電話を切る。
御託に付き合ってはいられないという判断ができるまで成長できた自分を褒めたくなった。
「……今の、あの人?」
「えぇ。無事です」
「……」
あっけなく、当然のように生きていることを確信していた忍。つまり、それだけの存在ということだ。
それでも、谷崎はいうべきことはいう。
「……あたしもいくから……」
「危険ですし……相手は人です」
「それでもいくわ。あなたも同じじゃない」
不死者を殺すのと人を殺すのではわけが違う。
だが、忍は谷崎から目を放した。
「……この町は、僕の生まれ育った町にそっくりです。荒廃した大地に、廃墟……。そして、不死者や吸血鬼がいて、VATの殲滅隊がいる。懐かしいですよ」
「……この状況が懐かしいの?」
荒廃した大地だけならわかる。廃墟がそこに加わってもおかしくはない。だが、忍はそこに不死者や吸血鬼、さらに今からくる殲滅隊も加えた。
「……僕の故郷は、消えた町ですから」
「……なら、なおさら一緒にいくわ。あなたから、あなたの口から、それを聞かせて……」
「……そうですね」
忍はもう断らなかった。
もう一つの地下施設でも、そこを出ようとする者がいる。
岩倉菫だ。
「……いくわ。こっちに目を向けてもらわないといけないし、あたしは注目の的になれるから」
「あたしもいきます」
「守れないわよ」
「必要ありません。あたしは会いにいくだけですから。守ってもらうために一緒にいくんじゃないです」
「……そう。死なないでね」
「はい」
菫と小枝香がその地下施設を後にする。
そして、外に出た菫は小枝香を抱きしめる。そして、耳元でいうのだ。
「きっと会えるわ」
「……はい」
そこで誰に会い、何をするのか……。
菫は聞かない。
「そこまでの道はあたしが掃除しておいてあげるから……」
菫は最後にそう告げると、小枝香を置いて、その場から消える。そして、自分のいた地下施設から遠ざかり、見晴らしのいい場所に立つと忍に連絡した。
「生きてる?」
「菫姉さんも無事でよかった」
「……ユリアに伝えて。あたしの反応を出すように。そうすれば、あたしは吸血鬼として、VATの目を十分に引き付けられる」
「わかったよ。後で合流ポイントを伝えるから」
「えぇ。それと……」
そこで馨のときと同じように忍が一方的に電話を切った。
「反抗期?」
そんな的外れなことを呟きながら、菫は空を見上げる。
こい。
こい。
こい……と。
菫は殲滅隊の到着を待っていた。
「じゃ、いってきます」
いつものように、初めて会ったときのように馨は笑みを浮かべている。
「みんなはここを出ちゃ駄目よ。殲滅隊が皆殺しにくるからね。あたしがそこの吸血鬼やら若松さんやらを取引材料にして、上と交渉するから。あたしが迎えにくるまで、ここから出ないこと。じゃあ、がんばってね」
「死ぬなよ」
元盛運学生の武田の言葉に馨は笑う。
「あんなのにやられるはずがないでしょ。どうせなら、交渉がんばれっていってよ」
「……なら、がんばれ」
「えぇ、がんばってくるわね。脅迫、恐喝を駆使して取引成立させるわ」
「……」
武田は笑みを浮かべて、馨に手を振り、地下に戻る。
だが、そこにいたもう一人は、納得できていない。
市長の高野だ。
「……なんで、私がいかねばならん……」
「さっきから同じことばっかね」
「なんで、私がいかねばならん!」
「荷物持ちよ。移動するのよ。銃器もって戦うのよ、あたし。銃器持ちながら戦えないじゃない。荷物持ちが必要なの」
「……どうして、私じゃなきゃいかん」
「市長だから?」
疑問形の言葉に高野は憤然とするが、渋々大荷物をもって立ち上がった。
「どこに向かうんだ?」
「今はとにかく放れることよ。VATの殲滅隊を引きつけないと」
そして、二人は歩きだした。
何台ものヘリが原霧市に飛来し、着陸し、そして殲滅隊が降り立っていく。
「いいな。まずは吸血鬼、不死者の殺害を優先だ」
「了解」
殲滅部隊の隊長は、そう声を返す。
そして、掃討戦が始まった。
呆然と彼らは歩いている。
ヘリがきたのはわかった。ヘリが近くに降りたのもわかった。だから、当たり前のようにそこに向かうのだ。
ふらふらと、ふらふらと……。
盛運高校TO一二の堀内がそこにいた。ボロボロの服に、傷も多数。その背後には堀内と共にどうにか生き延びた生存者が六人ほど続いていたが、彼らはこれが現実だとは思えなかった。
吸血鬼が出現し、不死者が町に溢れ、町を占拠され、そして、爆撃。
逃げ場のない町の中、それでも彼らは生き残ったが、生き残れたのは単に彼らの運が強かっただけともいえる。なぜなら、たった六人だ。
十倍以上いたにも関わらず、もう六人しかいない。
不死者に襲われ、吸血鬼に襲われ、感染した人間に襲われ、爆撃で死んだ。
なぜ生き残れたのか……彼らにはわからない。
それでも、あぁ、やっと。そんな安堵の気持ちが浮かんできた。
荒廃し、荒れ果て、燃え上がる町の中、VATの姿を見かけたのだ。もう不死者はいないはず、吸血鬼はいないはず。あのVATは味方だ。
堀内は思わず叫んだ。
「こっちだ。こっちに生存者がいるぞ!」
手を振った堀内にVATは気付く。
だが、近づく彼らはその装備を手にし、構え、銃口を向けてきた。
「な、何を……」
俺達は、生き残った……。
『本当に、わかっている? じゃあ、忠告しておくけど、最後の最後になったらVATを信用しちゃ駄目よ』。
堀内の脳裏に、あの地下通路で出会った八巻馨の言葉が浮かび上がる。
だが、それは堀内の脳裏に浮かんだ最後の言葉になる。
『VATを信用するな』。
その言葉を信用し、それを行動に移すことなど……堀内にはできなかった。
「生存者を射殺。捜索を再開する」
転がる死体に何の感情も浮かばない彼らは、そのまま町中を移動する。
「あたし達は、捨てられた町で生まれ育った」
数時間前の地下施設の中、不死者の姿がなくなると、菫は小枝香にそういった。
捨てられた町。
それはかつて、この原霧市と同じように覚醒吸血鬼が出現した町だ。
「今と同じことがあの町でも起こったんでしょうね。あたし達はそれを知らなかったけど、VATの退却あたりからは目のあたりにしたわ」
「……」
「当たり前だけど、あたしは子供で今みたいに戦えなかった。だけど、まぁ、一番上の長男が強くてね……。今のあたしよりもよっぽど強くて、どうにか生き残れた。でも……、あたし達は世界のことなど何も知らなかったし、やってくる連中はみんながあたし達を殺そうとした。誰も彼もが敵だった。不死者も吸血鬼も、人間も……全員敵」
「……」
小枝香はただその言葉を聞き逃さないように耳を澄ませる。
そして、彼女達にとっての最悪は、嫌、彼女達はそう感じていないだろうが、そこから彼女達の生活が始まる。
「壊滅したのか? その町が?」
「みたいね。よくわからないけど」
VATの殲滅部隊をあっけなく射殺した馨は、その死体から銃器を奪い取り、高野に渡す。
「あたし達は町の名前も知らなかったし、後で名前自体地図から消えたのよね。まぁ、消えた町。忘れられた町。捨てられた町。いろいろ言い方はできるけど、そこはまぁ、いい実験場だったみたいね」
「実験場だと?」
高野ももはや何も気にしない。
最初にVATと遭遇した際、馨はあえて単独で殲滅隊の前に姿を現した。
それこそ、か弱い少女のように『助かった!』と喜びながら駆け寄ったのだ。しかし、結果は銃口が向けられる光景。
そして、馨は彼らよりも先に銃を抜いて、瞬く間に彼らを殺した。
馨自身、別にいわないが、その行動は高野に殲滅隊が自分達に何をしようとしているのかを見せつけるためだったのだろう。
こちらを殺そうとしていることがはっきりわかった高野としては、彼らの死に同情することはなかった。
大を生かすために小を切り捨てる。それが世の道理だが、小がそれに抵抗するのは当たり前のことで、その当たり前のことに腹を立てるのは道理に反している。
切り捨てた者には、切り捨てられた者の憎しみの刃を受け止める義務があるのだ。
「あたしの町は無人になった。まぁ、あたし達がいたし、途中で連中もあたし達に気付いたけど、正体までは掴めてなかった。うちのボンクラ長男は強いから。で、あたし達を見たものは、相手が不死者でも吸血鬼でも、人間でも殺した。だから、正体不明の敵がいるってことに落ち着いたわけ。でも、あたし達は九人しかいないし、行動範囲もそれほど広くないし、犠牲も少ない。時には、吸血鬼か不死者にやられたって解釈もしていたんでしょうね」
「話がおかしいぞ、小娘。誰もないのに、なぜ人や吸血鬼がいる?」
「それは、僕の町が訓練場になったからです。ティグニティーには生きた不死者が捕えられているんですよ。数体ほど。吸血鬼もいましたが、自決したのか、死んだのか、神経が参ったのか、今はいないみたいですけど」
「……なんで、そんなことを?」
小声で二人は話をしている。
そして、忍はライフルで公園を捜索していたVATを撃ち抜いた。次々に、次々に、隠れる隙を与えないほど早く。
自分達が狙撃されるかもしれないなどと考えてもいなかった彼らは見通しのいい公園にいたのだ。
そうなるのも当然だった。
それをして立ち上がった忍は、VATの死を完全に割り切れない谷崎の質問に答えた。
「軍事兵器に転用するつもりなんでしょう。まぁ、俗っぽいですけど。少なくても、不死者や吸血鬼は未知の存在。そんな存在を前に、ただ殺すだけなんて、人間にはできませんよね。疑問を抱き、知を探求して、人間は反映したんですから。その対象を不死者、吸血鬼に向けないわけにはいかない。それに現状を打破する必要もありますしね」
「……でも、ユリアシステムは?」
「ユリアシステムは、メインが『ユリア』ですけど、携帯端末に情報を伝達するのは人間の手によって作られた機械なんですよ。ですから、その程度はできるんです」
「……」
「でも、あの町はいまだにユリアの壁で囲まれていますし、ティグニティーなどの研究施設も同じ。反応を消せても『ユリアの壁』は消せません。各国とも似たようなことはしていますしね。それに弁護すると、何もしないではいられないでしょう? 『因子持ち』の脅威が世界に残っている以上……」
「……」
谷崎にとっては受け入れがたい事実で現実だ。ただし、わきまえてもいた。綺麗ごとはいくらでもいえる……と。
否定するなら、代案を示す必要があると。だが、そんなもの谷崎にはなかった。
「『平和で穏やかな世界』に反するような人達を捕まえて、不死者に噛ませて、町に捨てる。そして、VATの精鋭や殲滅隊がその町にやってきて、不死者狩り、もしくは吸血鬼狩りをするんです。だから、訓練場なんです」
「そこであたし達は生きてきた。人目を忍んで。あたし達も身体の構造は人間だから、吸血鬼も不死者もあたし達を狙う。あたし達の存在に気付いて、それを捜索する部隊もいたし、不死者を追ってあたし達の住処に近づく者もいた」
「……だから……あんなに?」
「そう。強い。一番上の兄はでたらめに強かったし、教え方もうまかった。といってもあたしは近接だけ、馨は射撃だけだけど。そして、あたし達の身の回りには常に敵がいた。あたし達は戦った。危なくなると兄さんが必ず助けてくれたし。かといって、安全が確保されていたわけでもないけど。怪我は何度もしたし、あたしの兄さんの一人は、あたしと同じように感染して、吸血鬼になっている。まぁ、年は取らなくなったけど、あたしみたいに平然と人間として生活しているけど」
「……どうして……ですか?」
「どうしてって?」
「なぜ、感染して生きていられる!」
「そりゃ、あたし達はあたし達だからよ」
「その意味を教えろといっているんだ」
どうにか動く車を見付けて、二人は次なる標的に向かって車を走らせる。運転は当然、高野だ。
その高野の問いに、馨は遠回しに答えた。
「簡単なことだと思うのよ。想像すれば答えはでる。不死者を捕まえて、いつでも誰でも連行して、そいつに噛ませて感染させられるのよ。何をする?」
「何をする……?」
「どんな実験をしたい?」
「感染させ、不死者にし、解剖するか?」
「うん。それも一つ。でも、他にもしたいこと、知りたいことがない?」
「……わからん」
「想像力が乏しいわね」
「黙らんか、小娘」
「わかりませんか?」
こちらも同じように車で移動する忍と谷崎だ。
しかし、谷崎も、高野と同じように即座に答えられなかった。
「答えは簡単ですよ」
「そう、答えは簡単」
「単純な答えよね」
『出産間際の女の人を感染させた』
「そういうことですよ。僕達兄妹は、年はバラバラですが、同じです。不死者化、吸血鬼化した直後に生み出された赤ん坊。それが僕達なんですよ」
「……!」
「あたし達の母は即座に殺され、産まれたばかりのあたし達は、あの町の実験施設に送られた」
「……」
「政治家に強力なコネがあったどこぞの裕福な人間の半ば趣味のための研究所で個々別々の実験の日々。忍はコミュニケーションを完全に奪われ、菫は虐待の日々、で、あたしは毒物実験よ。いろんな毒を投与されたわよ。『身体の組成は人間のそれだが、中身はどうだ? 精神はどうだ? で、あたしの毒に対する耐性はどうだ?』。で、結果は、『人間と変わらない。なのに、なかなか死なない。じゃあ、耐性があるのか? いや、数値は人間のそれだ。じゃあ、なぜ死なない?』。そんなの知るかって話しよね。ただ、あたし達は感覚でわかっていた。あたし達は、あたし達。人間でもなければ、吸血鬼でもない。生者でもなければ死者でもないってね。だから、組成は同じでも、あたし達は人間じゃないんだから、人間と比べられても困るのよ。まして、人間の世界の危機なんて、人間が解決する問題で、あたし達には関係ないしね。あたし達がどうにかしないと救えない世界に、どれほどの価値があるのか教えてほしいって感じよ。でも、とりあえず人間の世界で生きているし、救わない理由もないからこうしてタダ働きしているってわけ。それにあたしのお姉ちゃんは結婚して、子供もいるわよ。甥っ子。正常みたいだし、甥っ子はあたし達の仲間じゃない。可愛い人間の甥っ子ちゃんよ。ヘタレな司にぃなんて、その甥っ子が平和で穏やかに生きられるような世界を作ることが生きる目的みたいだしね」
「……」
嬉しそうにそれを語る馨に高野がいえるのは一つだ。いや、どうするか躊躇はしたが、聞いてみた。
「そのお前の姉の……」
「あぁ、旦那さん? 知っているわよ。お姉ちゃんのことも、あたし達のことも全部。さえない人だけど、あたし達のことを知っても、お姉ちゃんのことを知っても、それを受け入れてくれたわ。良い人よ、本当に」
「……そうか……よかったな……」
聞いてはならないことだったのかもしれない。
高野も、小枝香も、谷崎も、その気持ちは同じだっただろう。
馨は明るく、菫はマイペース、忍は優しい。
だが、その過去も、出生も、何もかもが、彼らには彼女らには想像もできないことだった。
その事実が知られたとき、人はどうするだろう。多くの人はどう反応するだろう。助けられた人々は、三人をどう思うだろう。
不死者から、吸血鬼から生まれた兄妹。どこまでも異質なその存在を、世界は、社会は嫌悪するに違いなかった。
それでもきっと、彼らは気にしないだろう。
たとえ、助けた人間に『近寄るな』といわれたところで、馨はいうに違いない。
「大丈夫、近寄らないわよ。すぐに消えるから安心して。じゃあ、ばいばい」
と。
菫はいうだろう。
「元気で」
と。
そして、忍はいうだろう。
「今までありがとうございます。じゃあ、さよなら」
と。
そして、彼らは変わらず、別の町でいつも通りに生きていくに違いない。
忍はその話を口にするが、谷崎の反応を決してみない。あえてみないようにしていた。
「僕はコミュニケーションを奪われて、五歳まで小さな部屋が世界の全てでした。語りかける相手もなく、笑いあう相手もなく、触れる相手もいなかった。でも、五歳のとき、その町で覚醒吸血鬼が現れて、研究所も混乱。その混乱に乗じて、兄が僕達を救ってくれた。そこで初めて、自分以外の人と出会いました。コミュニケーションという言葉を知りました。僕は最初、言葉も話せなかったし、筋肉もまともについていなかった。他の兄妹が交代で僕の世話をしてくれました。それをしながら、研究所を出て……、後はさっき話した通りです」
「……」
谷崎はただ俯き、ただ涙する。
なんで、こんなに優しくできるのだろう。
なぜ、人を憎まずにいられるのだろう。
なぜ、人を助けられるのだろう。
何も今は考えられなかった。
「あたし達は生者でもなければ、死者でもない。だから、感染しても、あなたのようにはならない」
「へっへ。おもしれぇこというじゃねぇか。なぁ、おい、藤本。聞いてんのか? あぁ? なんだよ、ちゃんと聞けよ」
商店街の中、薫は吸血鬼化した落合と、不死者化した藤本を発見した。
どちらもボロボロの姿だが、まだ生きている。
「なんだよ、姉ちゃん。俺と同じだろ? 王の世界に足を踏み入れたんだろ? いい気持ちじゃねぇか。お前には聞こえねぇのか? 王の声が。 自分の復活を望む王の声がよ! 俺はついに、王の御前にたどり着いたんだ! 後は復活させるだけだ」
もはやボロ雑巾のようになっている藤本を引きずる落合の言葉には力があった。
だが、菫にもわかる。
「……そう、あなた、ファウストね」
死を望む者達。
死者の世界を望む者達。
原初の吸血鬼を崇める異端なる者達。
ティグニティーも、誰も、その存在をまだ明確には把握していない。
だが、こういう状況でこそ、彼らはその本性を表に出したに違いない。
「かっか。そうとも、ファウストさぁ。俺達は、目立たないのが心情で、それこそ死人のように静かに生きて、死ぬのを待っているのさ」
「……ちょうどよかった。あなたは充分な手土産になる。そこの彼と一緒に連れていくから、安心して」
「何いってんだ、姉ちゃん。王の言葉が聞こえねぇのかよ!」
苛立つ落合は藤本の足をぶんぶんと振る。
しかし、菫は笑った。
「あなた、何かいっているの?」
『いった覚えはないし、私は別に肉体の復活を望んでいるわけではない。ただ確かに、肉体の復活がなければ、死者の蘇りは不可能だがな。もっとも、あの男は、わたしの側にいたいと願うだけの存在。あまり痛めつけてくれるな』
「……それは無理ね」
『そうか。残念だな。まぁ、代わりはいくらでも生まれてくる。時はいずれくる。そのときをゆっくり待つだけだ』
「そうして頂戴」
そして、菫は目の前の男を生け捕りにするために、その姿を消す。
落合がそれに反応できるはずもなかった。
また、何か聞いてはいけないことを聞いた。
高野はそう思った。
真実を知って、高野自身、何も口にできなかったのだが、そんな真実などどうでもいいかのように馨が語ったのだ。
「忍はまぁ戦闘技術だけでいえば、VATの精鋭にも劣らないわよ。車両の操縦、運転に関しては兄弟の中でも随一かもしれないけどね。あのボンクラ長男は車の運転を学ぼうとさえしないから。ただ、それ以上の特技っていうか、生まれ持っての知り合いがいてね。『ユリア』っていうのよ。あのユリアシステムのユリア。なんか、赤ん坊のときから声が聞こえていたらしいけどね。で、忍を介してあたし達はユリアと契約をしたの。ユリアは基本的には人間の味方だけど、ほら、人間って時々……あれなことをするから、人間の行動すべてを許せるはずもないでしょ。で、実態を持たないユリアに代わって、あたし達が働くわけよ。まぁ、そういう依頼は別に多くないけど、これから先、多くならないともいえないわよね。人間が馬鹿すぎて、危ないことをしている連中もいるし、そうそう、ファウストもその一つよね。ユリアが人間よりも先に何か感知したら、多分、あたし達が動くと思うわ。そうそう、ユリアって知ってる? ユリアと『原初の吸血鬼』っていうのは、表裏一体。ユリアも『原初の吸血鬼』も自分達を兄妹っていっているけどね。だから、『原初の吸血鬼』が復活したとき、ユリアも蘇って、で、人間の力を借りてユリアは『原初の吸血鬼』を倒したけど、あれは『原初の吸血鬼』は『因子』を数多の人間に埋め込んだから、もう十分って判断しただけなのよ。なんで知っているかっていうと、うちの菫がなんか知らないけど『原初の吸血鬼』と会話できるのよね。だから、これは本当の話。まぁ、菫は『因子持ち』で『原初の吸血鬼』は菫に早く覚醒しろっていっているけどさ、菫が覚醒しようと、何しようと、『原初の吸血鬼』が望むような存在になるわけないのよね。あいつ、あたしの救援要請シカトしたような奴だし、そもそも、あたしの兄妹の一人は吸血鬼になって普通にドカタで働いているし」
高野の口の中は乾ききっていた。
そんな話聞いたこともないし、そんな事実があるはずがない。が、間違いなく真実なのだろう。
「……なんで、私にそれを話す?」
「聞きたかったんじゃないの?」
「誰が頼んだ」
「別に頼まれてはいないわよ」
「じゃあ、なんで話した」
「荷物持ちが欲しかっただけよ」
あっさりいう言葉は、明らかに高野の人生を狂わせるものであることを高野は気付きもせず、ただ茫然としていた。
「どういうことだ。何が起こっている!」
次々に、原霧市にいた兵士が消えていく。特に特定の場所に向かわせた隊員が次々に死んでいくのだ。おそらくそこにいるのは吸血鬼……油断したか。当初はそう判断した臨時隊長の須山が周辺の部隊をその吸血鬼に向かわせたが、完全に四方を包囲しながら、誰一人として生きて報告してくる者はいなかった。
ありえないことだ。あってはならない現実だ。現実とは思えない現実。
須山は、さらなる増員を決断し、交代要員だった殲滅部隊を送り込む。
しかし、須山は気付かない。そこにVAT副隊長の竹林がいないことを……。
高野と馨が乗った車が止まる。
「なんだ?」
「……助け合いが大切だって、知っている人かしらね」
二人の車の前に、両手を上げて降伏を示す竹林がいた。
馨は高野にその場にいるように告げ、自分は車を降りる。
「……君か?」
「といわれても、よくわからないわよ」
「爆撃は気にいってもらえたか?」
「えぇ、助かったわ」
馨も竹林も互いに誰であるのかを悟る。
竹林は注視していた。
不死者を殲滅するような噂の女。その女は明らかに多くの人間を守っている。その女がVATの殲滅部隊を許すはずがない。
ゆえに、VATの報告に耳を澄ませ、行動を読んだ。まさか、他にもいるとは思わなかったが、それでも、あの地下通路との距離を考えれば、どのあたりにいるかは読める。
「君の助けになりたい」
「それは助かるわね。もう少しかけないと駄目かと思っていたから。じゃあ、とりあえず、殲滅部隊を引き揚げさせて」
馨もさすがに読めない。目の前の人間が、ほぼ単独できたことなど。
「すまないが、その権限が私にはない。だが、大丈夫だ。誰かは知らないが、VATの殲滅隊を一手に引き受けているようなものがいる」
「……そう? どっちかしら……」
さすがに菫が吸血鬼化している事実まで予想はできない。そもそも、噛まれる姿を想像できなかった。
「まぁ、いいわ。じゃあ、通信回線を用意して。連絡先は、ティグニティー」
「……やはり君はティグニティーの人間なのか?」
「トカゲの尻尾よ」
「……そうか」
そんなはずはない。
つまりは、ティグニティーもこの女のことを知らないのだ。
竹林は、通信回線を用意することにした。
そして、そこに二人がいる。
始まりの場所に、二人がいた。
爆撃でやられたのだろう。春海の四肢は吹き飛び、それでもなお死ぬのを拒絶していた。
「……春海ちゃん」
小枝香がそっとそこに近づく。倒れ、それでもまだ生きている春海の傍らに座った。そして、その頭を膝に乗せる。
「……ごめん……。ごめんなさい」
この惨状を招いたのは、誰でもない自分。自分のわがままがこんな結果をもたらした。誰に許されるはずもない。だが、それを許すのが友というものだ。なぜなら、それを止めることができるのも友であるはずなのだから。そして、小枝香はそれを逃したのだから。
だから、ただ、小枝香はいう。
菫がいってくれたことを……。
「春海ちゃんが悪いわけでも、あたしが悪いわけでもないよ」
本心でそういっているわけではない。
小枝香の罪は罪。
春海の罪は罪。
逃れられない。
それでも、菫は断言してくれた。あなた達のせいじゃないと……。
「いろんな人があなたがされてきたことではなく、あの二人が何をしたのかを知ったよ。裁かれるのかどうかは知らないけど……。多くの人があの二人のことを知った。あの人達は、決してあの二人を忘れない。だから、春海ちゃんは、もう苦しまなくていい。もう安心して……」
「……」
もはや春海は言葉を出せない。それでも、死者となった瞳から赤い血を流す。
「あたし達は、ずっと友達だからね」
「……」
言葉なく春海は頷き、小枝香は菫から渡してもらった銃を小枝香のこめかみに突きつける。
春海は嬉しそうに笑みを浮かべると、瞳を閉じた。
そして、小枝香がいう。
「さようなら」
と。
銃声が始まりの場所で鳴り響き、終わりの鐘となる。
「聞こえているかしら? あたしはそちらの組織のトカゲの尻尾の八巻馨。そっちは、あたしを買ったおじさん?」
「……ふんっ、生きていたのか。飛田はどうした。奴からの連絡がないぞ」
「今さっき忍から聞いたけど、あの人は死んだそうです。不死者化したから」
「不死者化? 奴が?」
「こんな状況だもん、なんでもありよ」
「……それで、何の要求だ。これは公式の回線ではないのか?」
「だって、秘匿回線なんてあたしは知らないし」
「……少し待て。切り替える。こちらから連絡するから、しばらく待て」
「はいはい」
馨はそこでしばし待つが、高野が語りかけた。
「お前、買われたのか?」
「そうよ……」
そこで馨は竹林にいった。
「ごめんなさいね。聞かれるとあなたの命が危なくなるような、恐ろしいことをこれからいうから、少し離れてて」
「……」
聞くなといわれると聞きたくなるのが人情だが、竹林は勘がよかった。何もいわずに放れる。
が、高野は放れたくても放れられない。
その手が握られているからだ。
「あたし達は……、まぁ、あたしと菫と忍はね、今から五、六年前にあの町を出たの。本当は出られないけど、そこはほら、忍の知り合いだから。で、あたし達は捨て子として町を放浪。で、ヤクザってのに拾わされて売られたのよ」
「……ティグニティーにか?」
逃げるのを諦めた高野の言葉に馨は首を振る。
「違うわ。知らないおじさん。でも、すぐに殺したわ。あたしは薬が効かないし、手錠程度で動きを止められるほど菫は弱くないから。で、逃げたあたし達は、もう一度人買いのところに戻って、こう要求したの。『公的機関とか、危ない機関とか……そう、ティグニティーとかいうところに売って』って」
「お前は自分で自分の飼い主を要求したのか?」
「そうよ? 変?」
「……」
「で、今のおじさんに買われたのよ。そのときの人買いさん達は、謎の事故で死んだけど……」
「……」
「で、あたし達はティグニティーの犬として訓練を受けたわけ。何も知らない馬鹿ってことで、いろいろ日常生活から何からね。で、戦闘訓練……甘っちょろい訓練で手を抜いたけど、まぁ、とにかく捨てられない程度に仕事をしていたのよ。内部に入ってすぐに情報に強い人を捕まえて、脅して、兄弟の分の戸籍を用意して、後はあたしがお金を作って、兄妹全員、あの町とはおさらばしたわけ」
そこまで話したところで、連絡が返ってくる。
「はいはい、パラドックスです」
「…………今、なんといった?」
「パラドックス。聞いたことはあるでしょ? 時にあなたの協力者。時にあなたの元から情報を盗んで、時に吸血鬼対策室から情報を盗んであなたに売って、時に各国のスパイを外務省に売って、公安の人には犯人そのものを売って、いろんなとこから軍事技術を盗んで買い戻させたパラドックス。覚えてない?」
「……」
トカゲの尻尾に過ぎない、いつでも切り捨てられる、いつ死んでも構わないような小娘。
その程度の認識しかなかった人間に、それを語られたティグニティーの男は絶句していた。
「要求をいうわ。今すぐ殲滅部隊を引きあがらせて、生存している住民を全員保護して。ロイヤリティマンションでも使ってよ。箝口令をしいて、とにかくここであったことの口止めで抑えてくれないかしら。あまり生き残っている人間もいないと思うしね。多分……五〇〇人もいないでしょう……。その程度の数だったら、充分なお金と保証金を渡せば口止めに応じてくれるわ。口止めに応じない人もいるでしょうけど、情報操作はできているし、一人、二人程度が何を話しても無駄でしょう? まぁ、駄目だったら、任せるしかないけどね。そこまであたしは要求しない。現実を認識すれば、お金貰って黙して語らずするしかないわよね。で、取引材料として、あたしの手元には、吸血鬼が一体、菫の元には吸血鬼が二体と不死者が一体いるわ。さらにあたしの手元にファウストの人間が一人、菫のところの吸血鬼の一人はファウストの人間よ。こういう状況だからこそ、炙り出てきたって感じよね」
「……」
いうべきことはいった。
馨はただ、相手の男の返答を待っていたが、その男の沈黙は長かった。
「……お前がパラドックスだと? 岩倉菫と菊池忍もか」
「そうよ」
「そのパラドックスが……。いや……」
まだ頭が整理しきれていないようなので、馨は笑いながらいってやった。
「パラドックスってのはどうでもいいわよ。お金欲しかっただけでやっていただけだから。まさか、本名であなたを脅迫できないじゃない。今、名前をあかしたのは、あたしの要求に応じやすくするためだけよ。取引材料に、上乗せしただけ」
「……」
それでもまだ混乱にあったが、男はいってくる。
「吸血鬼が三体。不死者が一体。ファウストの人間が一人。さらに吸血鬼のうち一体はファウストの人間か……」
「そう。五〇〇人に満たないだろうの住民の命をそれで買うといっているの。口止め金や保証金もね」
吸血鬼は当然欲しい。
現在のティグニティーには吸血鬼がいないのだ。度重なる実験で吸血鬼はみな死んでしまった。
が、不死者がいるのだから、吸血鬼はまた作れる。
安易に増やすのは問題だが、突っぱねることはできる。しかし、ファウストとなると話が別だ。
何の情報もつかめない。名前しかわかっていない組織の人間は、何よりも価値がある。
彼らの思考は危険極まりないのだ。
しかし……。
「……お前達は、何を望んでいる」
「パラドックスをやっているのは、お金のためよ。今の要求はせっかく苦労して助けたから、生きていて欲しいだけ。安心してよ。あたしは別にティグニティーの敵じゃないし、あたし達三人は、今までもこれからもティグニティーのトカゲの尻尾よ」
「トカゲの尻尾が、トカゲの頭を脅迫するのか?」
「不思議よね?」
「……」
「よく考えて。あたし達はパラドックスだけど、もう一つ事実を忘れているわよ」
「何のことだ」
「吸血鬼を簡単に捕まえられるって、事実よ」
冷たく聞こえる声に、男は初めてそれに気付いた。
飛田に吸血鬼を捕えろと命じたし、三人を使えともいった。しかし、飛田はいない。死んだ。にも拘わらず、三人は三体の吸血鬼を捕えた。
その事実に初めて気付いた。
「……お前達が……」
「そうよ。結構強いのよ。気付かなかったでしょ?」
「……」
「お買い得じゃない。こんな腕のいい三人をトカゲの尻尾として利用できるんだから。それに保証が欲しければ、パラドックスを解散するわよ。お金も結構稼いだし、別のところを商売相手にすればいいし」
「……もういい」
男は完全に馨のペースになっていることに気付くしかなかった。このままでは駄目だ。
こちらのペースに戻さなければ。
しかし、この短時間で頭の整理などできるはずがない。
それに取引としては悪くない。口止めに応じなければ殺せばいいだけなのだ。
「いいだろう。取引は成立だ。今すぐファウストを送れ」
「逆よ。今すぐ殲滅隊を撤収。そして、住民の回収と保護。全員がロイヤリティマンションを出たら、引き渡すわ」
「……」
「……」
「いいだろう。要求を飲む。だが、お前達とはじっくりと話をさせてもらうぞ」
「こっちにくれば、いくらでも話せるわよ」
「お前達がこい!」
「えぇ、そうするわ」
完全に最後まで馨の手動で話が終わる。
「さっ、これで幕引きができるわね」
晴れ晴れと馨は笑い、高野は大きく首を振る。
「とんでもない小娘だ」
「ありがと」
終章
「撤収? 撤収だと! 認めない。俺は認めないぞ」
最後までティグニティーの指示に逆らっている須山に対する返答は、銃声だった。
「あなたも名誉の戦死です」
それをした副隊長の竹林は、周囲の兵に伝える。
「殲滅隊は撤収。待機している通常のVATは今すぐ原霧市に向かい、住民を発見、回収しろ。全員をロイヤリティマンションに運べ!」
「しかし……吸血鬼や不死者はまだ……」
「その担当は私達ではない」
竹林は、淡々と、それでも口元を緩ませながら答えた。
そして、原霧市のわずかな住民達は、ようやく地獄から回収されたのだ。
馨が、菫が、忍が、それぞれが守り抜いた住民達を迎えにいき、そして、彼らをヘリに乗せ、別れを告げる。それをした後は、三人が中心になってユリアシステムの反応を元に吸血鬼、不死者を捕獲していった。
そして、袋のネズミのような状況の不死者や吸血鬼を三人は次々に捕獲した。
「まぁ、ボーナスよね?」
「多すぎない?」
「じゃあ、減らす?」
「それは報告してからにすればいいよ。ティグニティーを辞めたわけじゃないんでしょ?」
馨と菫の会話に、猛スピードで車を走らせる忍も混ざる。
「まぁ、辞める理由はないし。公的機関にいるのはいろいろ便利だからね」
「怒っていた?」
「怒っていたわよ。パラドックスってばらしたから」
「だろうね……」
「いいわよ、別に。お金稼ぐための名前だったし。今はいろいろ情報網も増えているから、いくらでも稼ぐ気になれば稼げるわ」
相変わらずだ。
菫も忍もそう思う。
兄妹の中で、もっとも生活力と行動力、そして、即断力を持ち合わせた人物が馨であり、そんな馨がいたからこそ、何もわからない世界に飛び出て、そこで生きることができたのだ。そして、兄妹をも迎えることができた。
誰にでもできるようなことじゃない、逞しいほど逞しい精神を馨はもっている。
そして、それからしばらく後、ユリアの壁が完全に消えた。それはつまり原霧市から吸血鬼が消え去ったことを意味する。
全住民もすでにロイヤリティマンションに一時的に入居し、すでに大半が感染の疑いなしとなって解放された。
彼らは一時的に復興省の管轄下の場所に住まうが、保証金と口止め金を受け取って、それぞれに日本中に散り、新たな生活を始めるだろう。
馨も菫も忍も、それぞれが助けた者達に、口止めに応じて、このことを黙っているようにやんわりと告げた。
「こんなことがこない日がいずれはくるかもしれないし、それを作るのがあなた達の役目よ。すんでしまったことは仕方ないし、そういうことをせざるを得ないのが残念ながら今の世界。助かったことを喜んで。一年も過ぎれば、口止めされているなんて意識も消えるだろうから、貰えるだけお金を貰ったほうが得よ」
馨などはそんなことを告げていたが、誰もそれに反論する者はいなかった。
そして、全員を見送り、彼女達の番がくる。
「君達の乗るヘリだ。君達が捕まえたファウストのヘリはすでに本部についている。完全に取引は成立した」
VATの隊長となった竹林に馨は笑いかける。
「ありがと。じゃあ、いきましょうか」
「君達のヘリには私達も同乗するように指示を受けている。武装は解除だ」
馨の笑みに、竹林も笑みで返しながら、そんなことをいう。
が、抵抗する気もなかった馨達は素直に武装を渡した。
「では、ヘリに」
武装の解除を確認した竹林が馨達を招く。
馨が乗り込み、市長としての立場があるとして居残った高野も乗る。だが、菫はそこに座る少女に語りかける。
「あなたは彼女を救ったわ」
小枝香だった。
菫の言葉に小枝香は頷く。いまだに引き金を引いた腕に、あのときの感触が残っていた。
「……あたしは……」
自分の親戚は原霧市にはいない。ここを放れればその親戚のところに戻ることになる。
そして、同じ日々を繰り返す? そんなことできるわけがなかったし、したくもなかった。友人を殺し、友人を殺せなかったことで多くの人間が死んだ。その過程で多くの事実を知り、もはや日常に戻ることなどできない。そんな思いを抱く小枝香に対し、菫が手を差しのばす。
「……一緒にくる?」
「……いいんですか?」
求めていた言葉を告げてもらった小枝香は、それでもやはり尋ねる。
だが、菫は笑んだ。
「いいわ。友達だから……」
「……ありがとうございます」
そして、小枝香が菫の手をとって、ヘリに向かう。
最後に残っていたのは忍と谷崎だ。谷崎には両親がいる。ここには住んでいないが、自分の帰りを待っていた。だから、小枝香のような決断などできるわけがない。
かといって……。
「……また……会えるかしら?」
谷崎はそれしかいえない。
自分と忍の距離は果てしなく遠い。忍の出生も、過去も、まだ谷崎の中で昇華はされていない。想像もできない事実は、やすやすと受け入れることはできないのだ。
それでも……だからといって、拒絶など考えもしなかった。
ただ、少しだけ時間が欲しいのだ。
問題は、その時間の果てにもう一度会えるのか……。自分自身の心を整理し、きちんと忍と向かい合う時がくるのか。もう二度と会えないかもしれない。それが怖かった。
だが、忍は笑む。
「大丈夫。また会えますよ」
そして、いうのだ。
「先に一つは謝ります。でも、もう一つのことは謝りません」
「えっ?」
どういうこと?
最後まで言葉は続かない。
その口は忍の唇で塞がれていたために……。
「じゃあ、また……」
そして、忍は呆然とその場に立つ谷崎に別れを告げる。
ヘリの中、
「忍も男の子ねぇ。でもあれって勝手にしなかった?」
「慶兄さんの影響?」
「嫌よね、それ。で、菫、そっちの子は?」
何気に馨が小枝香を見ると、小枝香が頭を下げる。
「小島小枝香です……。あの、一緒に……」
「よろしくね、小枝香ちゃん。これの面倒見てあげて。部屋を綺麗にしないのよね、菫は」
「してる」
「してないでしょ」
谷崎の唇を勝手に奪った忍が徐々にヘリに近づいてくるが、そこで竹林が苦笑いを浮かべる。
「……できればの相談だが……」
「なに?」
にんまりとした笑みを馨が浮かべた。
この時点で竹林の隣に座っていた高野は悪い予感がする。
その思いを知ってか知らずか、竹林はいうのだ。
「できれば、重症でもなく、軽傷でもない場所にしてもらえると助かる」
「安心して。あたし、射撃の腕はいいの」
そして、忍がヘリに入ってきた。
谷崎は、ただ茫然とそこに立っていたが、自然、その指先が唇に触れていた。
「……」
何をされた?
キス……された?
忍君に……?
動揺しきっていた谷崎の前で、さらなる混乱が起こった。
銃声が立て続けに起こったのだ。
そして、菫によって腕や足に傷を負った兵士が叩き出され、その操縦席に自分の唇を奪った忍が座っていた。
忍が装置に手を伸ばしながら、谷崎を見て、谷崎も忍を見る。
混じりあう視線の中、谷崎は追い出された兵士を見て、離陸するヘリを見て、そして、もう一度忍をみた。
そして、自分の腰にあったはずの銃がなくなっていることに気付き、谷崎は、どうしようもないわね……と笑みを浮かべながら、続くようにいった。
「またね。忍君」
と。
「待て待て待て! なんだ、何をした!」
ヘリが離陸し、扉が閉められる。
入ってきた忍はなぜか銃を持ち、その銃は馨に渡り、一瞬で竹林達を撃ち、全員を追い出した。なのに、なぜか高野はヘリの中に残された。
叫ぶのも当然だ。
これはもうヘリジャックだ。
その中に、自分が含まれている。
あっていいことではない。市長の自分がヘリジャックの共犯になっている。しかも、この中にいるのはまともな面子ではない。
「何をしたって、ヘリジャックよ。だって、考えてみてよ、市長さん。このまま連行されたら、ついたとたんに囲まれちゃうわよ。向こうの頭が冷えるまでは、放っておくに限るわ。あぁ、大丈夫。連絡入れるって、竹林さんに伝言頼んだし」
「そういう話じゃない。なんで、私がここにいるんだ!」
そんな喚きを気にするのは、同情の視線を向けてくる小枝香一人だけだった。そして、飛び立つヘリの中、ふと馨は菫をみて尋ねた。
「あれ? 菫あんた、いつ吸血鬼化したの?」
今更か。
忍は笑みを浮かべながら、眼下に映る谷崎を見下ろす。
「また、会いましょう、谷崎さん」
心なき少年は、そこにはもういなかった。
完
Survival in the closed town 田沼和真 @uedatyouminn
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます