放浪者

ほしのかな

放浪者

「おっかしいなー。この辺の筈なんだけど……」

 ヴィスタは防塵用のゴーグルをひょいとずらしながら、古びた地図に目を落とした。

 ゴーグルを外すと世界は途端に透明感を取り戻す。ヴィスタは己の目で直接見る世界が好きだった。出来ることならゴーグルなど着けたくは無いが、見渡す限りの砂地を歩く場合はそうもいかない。この砂漠で瞳を晒せばあっという間に砂と日差しにやられてしまうだろう。

 ヴィスタはゴーグルの隙間から地図と景色を慎重に照らし合わせた。それだけで目に涙がじわりと滲み、ひりひりとした痛みが襲ったが、それをぐっと堪えると榛色の瞳を細めた。

「いやいや、流石にこれは無いだろ……」

 視界に映るその光景に思わず苦笑が漏れる。地図を回したり裏から見たりしてみても目の前の状況は変わらない。ヴィスタは腹を好かせたジャッカルの様に落ち着き無く右へ左へと歩き回っていたが、やがてぴたりと立ち止まると口元を覆う布を下げて重苦しい空気を吐き出した。

「あー。迷った。本気で迷った。完全に迷った。いい年して迷子かオレは」

 ヴィスタは獣のように低くうめいたかと思うと、古地図をくしゃくしゃと丸めて放り投げた。


 砂埃にまみれ色あせた肩掛けの隙間から、力強い褐色の腕が覗く。

 十七を迎えたばかりのヴィスタは、血気盛んな性格で冒険心が強く行動力のある若者だ。それは若さ特有の無謀さを兼ね備え、彼の利に働くこともあれば害を成す事もあった。そしてその利害を図りきれない未熟さが、彼の最大の欠点だった。

 砂に埋まるように着地した地図の塊を、ヴィスタはちらりと一瞥した。途端に襲った微かな後悔を、髪を掻き毟ることで振り払う。

「さて。どうするかな」

 ヴィスタは行く手を阻む山のような砂丘を恨めしげに見上げた。

 予定ではもう目的のオアシスに着いている頃合だ。ここへ来てのこの巨大な砂丘越えは完全に想定外の出来事だ。

 ──いや、違う。うすうすは感づいていたのだ。この地図が間違っているということに。思い返せば、目印の物が見当たらなかったり、ある筈の無い物があったりといった細かな相違点がいくつもあった。

 しかし、どうしても信じたくなかったのだ。父に託されたこの地図が、全く役に立たない代物であることを。

 ヴィスタは暢気に目を瞬かせている相棒の背に積んだ皮袋の中身を確かめた。その頼りなさに思わず舌打ちが漏れる。数日前に立ち寄ったオアシスで補充した水はもう幾らも残っていない。丘を登ることは出来るだろうが、その先がどうなっているのか全くわからないのだ。補給が出来る確証が無い今、水と体力を無駄に消耗する事は命を削ることと同じだった。

「一度戻るか……?」

 背後に残る己の足跡を視線で辿り、その考えに首を振る。水も食料もどこまで持つかわからない。それにあのオアシスだって偶然に見つけた物なのだ。再び探し当てられる自信はヴィスタには無かった。

「オレよくここまで生き延びて来れたな……」

 まったく頼りにならない地図を当てにして長い間旅を続けてきたのだ。意外と何とかなるもんだと楽観視していた過去の自分が恨めしい。取り返しのつかない状況になって初めてヴィスタは己の無謀さと運の良さを呪いたくなった。


 途方にくれてしゃがみ込むと、憎らしいほど赤茶けた砂が視界を埋め尽くす。ヴィスタは忌々しげにそれを振り払った。小さな砂の粒が、皮手袋に包まれた掌に押されてさらさらと流れる。そのひとつひとつがまるで春節祭の米菓子の様で、ヴィスタは盛大に顔をしかめた。

 まだ今よりももっと幼い子供だった頃、ヴィスタは春節祭の供え物である米菓子をこっそりつまみ食いしようとしたことがある。少しだけならばれないだろうと高をくくっての事だった。大人たちの目を盗み、そろりそろりと皿に手を伸ばした瞬間。「何をやってるんだ」と、父の声が頭のすぐ後ろで響いたのだ。驚いたヴィスタはうっかり皿をひっくり返してしまい、床中に米菓子をばら撒いてしまったのだ。その後父にこっぴどく叱られたヴィスタは、小さな米菓子を一粒一粒拾い集める羽目になったのである。

「あれだって考えてみれば親父のせいじゃないか。急に驚かせたりするから……」

 ヴィスタは唇を尖らせながら呟いたが、その目には笑みが浮かんでいた。

 ヴィスタの父親は大工だった。毎日重い建材を運ぶ彼の体は筋骨隆々としていて、腕も足も大樹の幹のように逞しかった。ヴィスタはそんな父親の腕にぶら下がって遊ぶのが好きだった。幼いヴィスタが彼の腕にしがみつくと、彼はそのままクルクルと回ってみせるのだ。遠心力に振られる体が面白く、ヴィスタは何度もそれをねだった。しつこいと怒られる事もあったが、大抵の場合は「ようし。来い!」と彼らしい豪快な笑顔でヴィスタに腕を差し伸べてくれたのだ。

「親父……」

 ヴィスタは真っ直ぐに手を伸ばすと、柔らかいばかりの空気を掴んだ。

 しばらくそうしてぼんやりとしていたヴィスタは、思い立ったように先ほど投げ捨てた地図に駆け寄った。しわくちゃになった紙を広げて綺麗に畳み直す。細かい砂を払い落とすとそっと懐に仕舞い込んだ。


 旅立ちの朝、父は子に地図を託した。父親自身が旅人だった頃、歩いてきた道のりを書き留めた地図だ。すす茶けて古くなった紙が歳月の流れを感じさせた。ヴィスタは地図を受け取ると、小さくなった父の背に別れを告げた。父は振り向くことなく声を張り上げ「行って来い」と言った。

「“ただいま”なんていう日が来ないこと知っていただろうになぁ」

 ヴィスタは膝を抱えたまま、空を仰いだ。

 ゴーグル越しの空は茶色く濁っている。


 旅人は帰らない。

 それはこの世界の決まりごとの様なものだった。


* * *


「ノーブル。まだ行けるか?」

 ヴィスタは先ほどから好き勝手に遊んでいる相棒の元へ駆け寄った。

 ノーブルと呼ばれた相棒は、細い足と黒々と豊かに生えた睫が印象的な──ラクダだ。

 彼女は思慮深げな漆黒の瞳を震わせてじっとヴィスタを見つめている。涙に濡れたその瞳は共に旅をする相棒の行く末を案じているようにも思える。もごもごと動く口は、今にも彼を励ます言葉を発しそうだ。

「ノーブル……」

 だがヴィスタは知っていた。彼女が朝食んだ乾草を反芻しているだけで、何も考えちゃいないということを。

「ああ。全く頼もしい相棒だ」

 ヴィスタはノーブルの長い鼻面を撫でながら言った。気持ち良さそうに目を細めるノーブルの背中のこぶは張りを失いふにゃりと横に垂れている。さすがのノーブルも長い旅路が堪えている様だった。

「俺たちはもうずいぶんと長い間一緒に旅をしてきたな」

 暑さに体が焼ける日も、容赦ない寒さに凍える夜も、先の見えない砂嵐も、珍しいご馳走にありつけた日も。共に故郷を旅立ったあの朝からヴィスタとノーブルはいつも一緒だった。

「オレはこの丘を越えようと思う。……戻っても回り道しても結果が同じなら、少しでも前に進みたいんだ」

 ヴィスタはノーブルの首筋に顔をうずめると、消え入りそうな声で続けた。

「お前一人で引き返せばあるいはこの前のオアシスまで戻れるかもしれない」

 一見愚鈍にも見えるラクダだが、その足は想像以上に速いのだ。人間では足をとられまともに歩くことの出来ない深い砂地でも、ノーブルは器用にバランスをとりひょいひょいと進んで行ってしまう。荷を降ろした彼女が本気で駆ければきっと水場まで辿り着けるだろう。

「それでもオレは、お前に着いて来て欲しいんだ」

 搾り出すように発したヴィスタの声に引き寄せられるように、ノーブルは彼の頬に鼻先を寄せた。

「ノーブル……」

 ヴィスタはノーブルを力いっぱい抱きしめるとその首筋にキスを落とした。


 ヴィスタは皮袋の水を一口含み己の喉を潤すと、ノーブルの口に水を流し込んだ。ノーブルが長い舌で器用に水を飲み下すのを見届けると、ヴィスタはあぶみに足をかけ一息にその背に飛び乗った。

「行くぞ、ノーブル」

 ヴィスタは茶色い毛が生え散らかったノーブルの後頭部から、ぐっと遠くに視線を移した。丘の上は砂煙に巻かれぼんやりと霞んでいる。その霞の向こうを見通すように目を凝らしながら、その一歩を踏み出した。

 力が入り強張る足を溶かすように、暖かいノーブルの体温が伝わってくる。ヴィスタはノーブルの体に薄く積もった砂を払うと、ねぎらう様にその毛を撫でた。

「大丈夫だノーブル。きっとこの丘の先にオアシスがあるはずだ。親父の描いた地図は当てにならなかったが、まるっきり見当違いの方へ歩いてきたわけじゃないさ」

 そうだ。とヴィスタは己に言い聞かせる。きっとこの山のような丘の向こうにに捜し求めていたオアシスがあるはずだ。旅の途中で立ち寄る為の休息所オアシスではなく、永住するための居場所オアシスが。ヴィスタはともすれば沈みそうになる自分の気持ちを奮い立たせるように、勤めて明るく振舞った。

「オアシスに着いたら、仕事見つけて家建てて、優しくて家庭的で巨乳の可愛いい女の子を嫁にもらう! もちろんお前の婿さんも探してやるからな」

 ヴィスタが鼻息荒くそう言うと、ノーブルは至極どうでも良さそうに口を動かした。

「この重いだけの荷物も、いくらか生活の足しになってくれると信じよう」

 ヴィスタはノーブルの背に括り付けられた麻袋を叩きながら言った。麻袋の中には故郷から持ち出した生活用品や大工道具、そして旅の途中で仕入れた何やら良くわからない民芸品などが乱雑に放り込まれている。それにどれだけの価値があるのかは分からない。思わぬ高値がつくものもあるかもしれないし、どれもこれも役に立たないゴミかもしれない。

 けれどもそれが、ヴィスタとノーブルの旅の全てだった。

 これまでの旅路を詰め込んだその麻袋は、ノーブルの背が揺れる度かたかたと小さく囁いた。


* * *


 山のような砂丘を上り切ると、途端に視界は開けた。

 日は既に傾き始め、眩しいばかりの煌きで空を大地を染めている。夕日を受けた砂が時折小さな赤い光を放ち、真っ直ぐに縁取られた空と陸の境界のその向こうから、群青の夜が溶け出していた。

 世界の全てを一望するようなその光景に、ヴィスタは思わず息を呑んだ。

「ノーブル……」

 ヴィスタは震える声で呟くと、鐙を踏みしめ身を乗り出した。ノーブルの首を抱える手に知らず力が籠もっていく。

「……オアシスだ」

 丘を下りた先の平地に、大きな黒い影が落ちていた。

「オアシスだ。オアシスだ!」

 東に姿を伸ばすその影の正体は、目を凝らさずともはっきりと分かった。

 ヴィスタは瞬くことも忘れて繰り返す。言葉にすることで、夢にまで見たその光景を留めておこうとするように、幾度も言葉を転がした。

「ノーブル! 遂に着いた。着いたんだ! 本当にデカイぞ。街がある!」

 体の底から沸き上がる震えが体中を駆け巡り、出口を求めて嵐のように吹き荒れる。その衝動に従うままに、ヴィスタは獣の様な咆哮を上げた。

 その叫びにノーブルは短い嘶きで答えると、堪えきれぬように地を蹴った。

「行こうノーブル!」

 一人と一匹は転げ落ちるほどの勢いで、丘を駆け下りた。

 巻き上げられた砂塵の煌きを引き連れて、ただ夢見た場所へ駆けていく。

 夕日に染まる砂漠は赤いビロードの絨毯の様にオアシスへと続いていた。

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放浪者 ほしのかな @kanahoshino

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