惑星に抱く
ほしのかな
惑星に抱く
先程までの揺れが嘘のように静かになった。この船もようやく軌道に乗ったのだろう。ともすれば墜落するのではと密かに抱いていた不安も
がんじがらめに体を縛るシートベルトを外し、恐る恐るヘルメットを取ると、肺に涼やかな空気が満ちた。どうやら酸素供給装置はしっかり自分の仕事をこなしている様だ。ほっと胸を撫で下ろし、深く息を吸い込む。
人工とは言え、思いの他空気が旨い。
従来のRT156型とは違い、この船に積まれているEXT85型はマイナスイオンまで発生する。正直無駄な機能にしか思えなかったが、空気がこんなに旨く感じるのなら、あながちそうとは言えないかも知れない。
「あー、肩こった」
大げさに首や肩を回すと、体のあちこちからバキバキと音が鳴った。その音は豪快でいっそ小気味いい。「このスーツは重すぎる」そんな事を愚痴りながら、ごつごつとしたヘルメットを放る。頭の三倍ほどもあるそれは放物線を描くことなくふわりふわりと流れていく。
「シルキス、ここは無重力なんですから、重さなんて分かるはず無いでしょう?」
シアン色の長い髪を一つに束ねたルヴァンが、何時もの笑みを浮かべたまま言った。その声は子供の悪戯を咎める時の様に呆れた色を含んでいる。
「あー? 離陸時のGに呻いてたのはどこのどいつだよ、ルヴァン? あいつに見せてやりたかったぜ」
「アンナに? それはいけません」
そう言うとルヴァンは少し困った様に付け足した。
「不甲斐ないと怒られてしまいます」
相変わらず尻に敷かれているのか、とからかおうとして止めた。
透き通るアイスブルーの瞳が、優し気に細められていたからだ。きっとその視線の先には、残してきた愛しい妻が見えているのだろう。
俺はそんなルヴァンから目を逸らし、ソファーに座った。
「……アンナは……元気か?」
テーブルに置いてある電子モニターを弄び、さも大切な操作をしているかの様に振舞いながら、そう尋ねた。
俺とルヴァンとアンナは物心ついた頃から、三人一緒だった。居住スペースが隣接している上に親同士も仲が良く、まるで大家族の様に仲良く育ったのだ。泣き虫ルヴァンとおてんばアンナ。二人と遊ぶ時間は本当に楽しかった。三人は共に遊び、共に学び、恋をして……。
アンナはルヴァンを、ルヴァンはアンナを生涯の伴侶に選んだのだ。
(ま、それが正解だよな)
ルヴァンは少し大人しすぎる所もあるが、優しく誠実だ。それに俺よりずっと頭が良い。今だって俺に付き合って現場にいるが、本来ならもっと楽な高給取りの管理職にだって就けたはずだ。もっともこいつはそんな事を基準に仕事を選ぶ奴では無いけれど。
アカデミー時代の事を思い出すと少し可笑しい。幼馴染同士の三角関係なんて、今思えば有り触れたドラマの様なシチュエーションだ。
だが傍観者にはよくある話でも、自分に主役級の役が割り振られた場合は冷静で居られない。自分でも何を悩んでいるのか分からなくなる程悩み、苦しんだものだ。
(──主役”級”って言うのが曲者だったけどな)
過去の自分を皮肉り、思わず失笑する。目の前のモニターに広がる緑色の電子表示を、意味も無く指先で突っついていると、ルヴァンが隣に腰掛けた。柔らかな華の香りがふわりと舞う。
「相変わらず元気いっぱいですよ。臨月だと言うのに忙しく駆け回ってますから。少しは落ち着いて欲しいんですけどね。それから……」
澄んだ氷を思わせる瞳をしばらく宙に彷徨わせると、ルヴァンはワザとらしく咳き込んで続けた。
「君に会いたがっていましたよ。僕達が新居に越してから、君とアンナは一度も顔を合わせて居ないでしょう?」
ルヴァンが覗きこむように首を傾げると、しなやかな髪がさらさらと水の様に流れた。
穏やかなその口調は決して責める様なものでは無い。それなのに俺の心はどうしてこうも騒ぐのだろうか。「そうか」と呟いた声は、自分でも驚くほど掠れていた。
視線は相変わらずモニターの数字や文字の羅列を追っていたが、その内容は駆け抜けるばかりで、少しも頭に入らなかった。
隣で小さく息を吐く音が聞こえる。
年々余所余所しくなる俺とあいつの関係を、ルヴァンは純粋に心配しているのだろう。それでも決して、俺達に何があったかは聞いて来ない。
その気遣いが心地よく、また申し訳なかった。
「お前が心配する様な事は何も無い。只少し、言い合いになっただけだ」
「言い合いに?」
「ああ。……だが確かに長い間意地を張る物でも無い。俺も大概子供だな」
ため息を吐きながら隣を見ると、二つのアイスブルーが真剣な色を湛えて俺を見ていた。それは、燃える様なアンナの瞳とは対照的に静かだった。
氷に閉じ込められた静かな炎がそこにある。どこまでも深いその瞳から、俺は目を逸らす事が出来なかった。
「君は僕に隠し事をしているでしょう?」
静かに向けられた言葉の切っ先は少し尖っていた。
こいつに嘘は吐きたくない。
俺は暫く考え込むと「そうだな」とだけ言葉を返した。それ以上深く語るつもりは無い。アンナとのくだらない喧嘩の内容なんて、こいつが知らなくてもいい事だ。
(いや──違う)
こいつには知られたくないのだ──。
知らず気づいた自分の気持ちに、思わず笑みが零れた。
その笑みをどう受け取ったのか、ルヴァンは一際大きなため息を吐くと、拗ねた様に頬杖をついた。
「全く相変わらずですね。君も、アンナも」
「拗ねるなよ。……心配かけて悪かった」
仰々しく拗ねた素振りをするルヴァンの髪を軽く引っ張る。長く伸びている割に痛みの少ない髪は、さらりとして心地良かった。猫っ毛で癖の強い自分の髪とは、全然違う手触りだ。
「どうせ僕はいつも
そう言って口を尖らせるルヴァンは、子供の頃と少しも変わらない。泣き虫ルヴァンの様相だ。
俺はどうにも可笑しくなって、大げさに肩を竦めると続けた。
「どう考えても除け者は俺だろう。いや、この場合”除け者”と言うより”余り者”か」
自傷気味に笑うと、子供の様な自分の意地が馬鹿らしく思えた。僅かにいつもの調子を取り戻した俺は、ルヴァンの背を叩きながら捲くし立てる。
「お前らは似合いの夫婦だよ。俺はどちらにも頭が上がらない。きっとお前らの孫の代まで俺は振り回されるんだ」
やれやれと盛大に息を吐くと、ルヴァンがクスクスと笑った。
「素敵じゃないですか」
「何が素敵なものか」
バケーションのキャンプに付き合わされる事や、学校行事のビデオ係りにされる事。終いにはキッチンの戸棚の修理にまで駆り出される事など、俺は考えうる限りの想像をルヴァンに話した。
恐ろしいだろう? と同意を求めた所で、ルヴァンは声を上げて笑った。
「それは本当に、恐ろしく素敵なプランですね」
そう言ってルヴァンは、遠い未来に思いを馳せるように目を細めた。
「帰ったらまた、お茶会を開きましょう。アンナ特製のチーズケーキをご馳走しますよ」
「では、手土産に胃薬を持っていく事にしよう」
一瞬真剣な視線を交わした後、どちらからとも無く笑い声が上がる。
新しい芝が薫る庭で行われるお茶会は、きっと楽しい事だろう。お世辞にも料理が上手いと言えないアンナが、一生懸命作った料理を囲みながら思い思いに他愛の無い会話を交わすのだ。
「そんな物を持ってきたら、またアンナに怒られますよ」
彼女の恐ろしさは良く知っているでしょう? ルヴァンはクツクツと笑いながら俺を見た。
「ああ……あの隕石なんて比べ物にならないくらいには、怖いな」
船の正面に張られた大きな窓からは、光る尾を引く彗星が見えた。
少しずつけれど確かに近くなっているそれをもっと良く見ようと、席を立つ。
「僕達はまず生き残れないでしょうね」
俺の後に続くように窓際に立つと、ルヴァンは小さく笑った。額を窓に押し付けるようにして、外に広がる景色を見ている。その横顔が酷く儚い様に思えて、俺はルヴァンの頭をガシガシと撫でた。
色々な感情が入り混じり、悩んだり喧嘩もしたが、今はただこいつらに幸せになって欲しいと思える。こんな状況になるまで、それに気がつかなかった事が悔しい。泣き虫ルヴァンも大人になって、俺もまた、少し大人になったのだ。
「あいつに、言って来たのか」
「……いいえ。具体的には。シルキスと一緒だって言ったら、どうせろくな任務じゃ無いんでしょって怒ってましたけど」
「そりゃ……帰ったら怖いな」
「ええ。帰ったら怖いですよ」
お互い窓の外から視線を逸らさず、言葉だけを交わす。
窓の外は、果ての無い闇。
次第に輪郭がはっきりとしてくる彗星。
そして──青い蒼い
「あれが、僕達の星……」
「大きいな。やっぱ地球儀とは全然違う」
「当たり前ですよ。……でも僕は逆に、地球儀がどれだけ精巧だったのかに驚いてます」
「そうか? 形は同じだが、何かが違う……何だろうな」
確かに形だけなら、アカデミーで見た卓上地球儀と何ら遜色は無い。だが今なら、あの地球の形をした置物は”空っぽ”だったのだと分かる。それは決して質量の問題では無い。
もし俺が地球儀を開発する人間だったのなら「この地球の模型を作る事なんて出来ない」とそう言ったかも知れない。それ程に圧倒的な違いがあった。
「これが地球儀なら俺が回してやるよ。この位置じゃアンナも俺達の町も見えやしない」
たった一日離れていただけなのに、大地は俺を引き付ける。胸を締め付ける郷愁を誤魔化す様に、声を張り上げて言った。
「流石シルキス……頼もしいですね」
そう応えたルヴァンの声は微かに震えていた。
「……すみません……地球があんまり綺麗だから」
すみません。ともう一度続けてルヴァンは顔を伏せ細い肩を震わせた。
こいつに声も無く泣くなんて芸当が出来るとは思わなかった。
「謝るな。俺が一人で勝手に志願したんだ──お前はあいつの所へ帰れ」
顎の先で軽く脱出ポットのある通路を示す。
船ごとあの彗星に突っ込むと言う、作戦とも呼べない作戦を実行するのに、二人も乗っている必要は無い。ここまで来たのなら、後は照準を合わせて微調整をしながら前進するだけだ。
「お前がここまで来てくれたってだけで十分だ」
(──他の誰でも無いお前が)
他のやつとバディを組んでいたなら、こんなに落ち着いてここにいる事は出来なかったかもしれない。
いつだって共に居てくれるルヴァンが、どれだけ俺の支えになっていたか。
(お前が一緒に居てくれるから、俺は俺で居られるんだ)
「俺も照準がぶれない位近づいたら脱出する。だから先に行っててくれ」
努めて明るく言えば、長い沈黙が返って来る。
「ルヴァン?」
涙を堪える様に眉間に皺を寄せている友の名を、大切に呼んだ。一音一音ゆっくりと発音すると、それは特別な言葉のように思えた。
「……いえ、一人では帰りません。それこそアンナに怒られます」
「そんな事を言ってる場合か──」
「帰るときは一緒です。僕は君のバディでしょう?」
涙に濡れた瞳で、けれど強くルヴァンは言った。
滲むアイスブルーは、宇宙に浮かぶ地球そのものだ。
(ああ、そうだ)
いつも俺の後を着いて来る泣き虫ルヴァン。でも、俺が本当に困った時、泣きながらも助けてくれるのはどんな時でもこいつだった。泣けない俺の代わりにルヴァンが泣いてくれるのだ。
「……泣き虫ルヴァン」
「なんですか?いばりんぼシルキス」
懐かしい呼び名で呼び合うと、そこだけ時の流れが止まったような錯覚に陥る。
この船は星を越えて、宇宙を越えて
「ありがとう」
「僕の方こそ」
窓の外には、暖かな青。
悠然と浮かぶその姿は、言葉に出来ないほど美しい。
きっと隕石の衝突の危機など、この星自身も気付かぬ間に過ぎるだろう。
そうして誰にも気付かれぬまま、その危機は去るべきなのだ。
『モクヒョウホソクシマシタ』
コンピューターが無機質な声音で告げる。
『モクヒョウトノショウトツマデアト1900ビョウ』
船内のモニターに目まぐるしい速度で減っていく数字が映し出される。事務的で淡々としたそのカウントに、僅かに足が震えた。
「シルキス……絶対に守りましょうね」
懐かしい空をその目に宿したルヴァンが笑う。
俺はその瞬間確かに、この笑顔がこの世で一番綺麗なものだと、そう思った。
その細い手を、力の限り握る。
ルヴァンもまた、震えていた。
目を閉じれば、白いテーブルクロスを広げて、楽しそうにお茶会の支度をするアンナが見える。
その傍にはルヴァンと俺と小さな女の子。
アンナ譲りの赤毛を結った少女は、アイスブルーの瞳を煌かせて笑うのだ。
少し焦げ付いたチーズケーキを頬張りながら。
「──ああ。絶対だ」
ただ願わくば、彼女の笑顔が曇らないように。
まだ見ぬ子らの笑顔が守れますように。
地球儀を回せば、還る場所が見える──。
惑星に抱く ほしのかな @kanahoshino
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