第8話 お迎えと僕。
「ここがヒロトの幼稚園かぁ.....」
園児たちの幼い騒ぎ声が聞こえる建物の門前に、一人の男が立っていた。
「ヒロトの組は....」
ポケットから四つに折りたたまれた小さな紙を取り出し、そこに書かれている内容を確認する。
「ヒロトはきりん組かぁ......でもほんとに俺が迎えに来ちゃっていいのかな.....」
男は幼稚園の門前でブツブツと独り言を言いながら考え事をしている。
そしてまたメモを見ながら頭を何度も上下に振り、目的地までの大まかな手書きの地図と建物の実際の地形を見比べている。
「それにしてもヒロトは絵も上手いな」
メモに書かれた地図と実際の道が建物の外から見てもなんとなくわかるほどにかなりの精度で一致していたため、メモを眺めながら感嘆を吐きつつまたブツブツと喋っている。
そんなことを続けていると、自分の子を迎えに来たお母さん方に完全に変質者を見るような目で見られてしまい、また別のお母さま方は不審者が来たのではないか、警察に電話しなくて大丈夫なのか、などを話し始めてしまった。
「これはまずい、早くヒロトを迎えに行かねば」
意を決して園内に入り込んだ男はメモの地図を頼りに目的地まで向かう。
園内はそれほど広くはないが少々道が入り組んでいるため毎度毎度立ち止まって道を確認する。
「メモに見とれて小さい子にぶつかったら危ないしな」
ようやく目的地を発見した男は、恐る恐る教室の中を覗いてみるとそこには小さな幼稚園児たちが沢山いた。
自分の親が迎えに来るのを今か今かと待ち続けている園児、先生が読み聞かせてくれている絵本に夢中になっている園児、数人でじゃれあっている園児。
様々な園児たちがいたが、目的の園児はすぐに見つけられた。
「ガラガラ」
「遅い」
教室の引き戸が勝手に開いたかと思うとそこにはヒロトが立っていた。もう準備万端と言わんばかりに肩からバックまで下げている。
「ごめんなぁ、兄ちゃんちょっと道に迷っちゃって」
「僕が書いた地図があるのになんで道に迷うの」
この出会い頭に悪態をつかれている男は、ヒロトの隣人にして笹川家長男のナオトだ。
「ごめんってばヒロト、帰りにお菓子買ってやるから」
少々困り顔をしながらも、そう笑いながら謝るナオトに、
「物で釣れるとでも思ってるの?」
と、あくまで強硬姿勢を保ち続けたかのように見えたヒロトだが、
「グミ、二袋ね」
しっかりとオーダーをしてくださいました。
「わかりましたよー、帰りに兄ちゃんの行きつけのコンビニに案内してやるからな」
親指を立てながら自信満々に言ったナオトだが、行先はもちろんバイト先のコンビニである。
今日は竹下家母に頼まれて臨時でヒロトのお迎えに来たのだ。ただ、このご時世に血縁者でもない者がこんな小さな子を迎えに来ても普通は引き渡されることはないだろう。ナオトはそれを気にしていた。
「だいじょうぶよぉ~、私が先生にちゃ~んと話しておくし、ナオト君の特徴も伝えておくからぁ~」
と、竹下家母は相変わらずくねくねニヘラっと言っていたが、そんな母だ。やはり心配なのである。
そうこうしているとヒロトの後ろのほうから声が聞こえる。
「ヒロトくんのお迎えの笹川さんですか?」
なんとも柔らかく、母性にあふれつつもハキハキとしたかわいらしい声が聞こえる。その声の聞こえる方に目をやると、同時に、ナオトの中に電流が走った。
その声の主は髪は毛先があごの先端に付くか付かないかぐらいの黒髪のショートヘアで、身長はナオトの目線ぐらいまでの高さで少々小柄である。ピンク色のエプロンを身にまといその姿があまりにも似合っているきりん組の先生である。
先ほど目にしたときは気づかなかったが、これが驚くほど美人である。美人と言っても世間で言うところの『キレイ系』というよりは『かわいい系』の方が割合は高いだろう。
ナオトは仮にも小説を書いている人間なのでいろいろな比喩表現や例え言葉を知っているし、使ったことも何度もある。だが『言葉を失う』という経験や『電流が走る』という経験をここまで率直に体験したのは、自分の人生ではもちろん小説の中ですら無いことであった。それほどにまでにナオトの思考は停止し、同時に見とれてしまったのである。こんな体験はもう後にも先にも起こらないであろう。
「あの~、笹川さん?」
首をかしげながら再度声をかける先生。
あまりの出来事に完全に立ち尽くしているだけのナオトは、その声が聞こえつつもうまく言葉が出てこない。
「あっ.....あのっ......えっと...........」
完全にパニックになっているナオトの足元から、
「ゴンッ」
鈍い音が聞こえる。
「いいっっってえええええええ!!!!!」
先生のあまりの美貌に見とれてしまっていたナオトのすねをヒロトが膝で蹴り上げたようだ。
ナオトは自分の左すねを両手で抱え床にしゃがみ込む。ヒロトに『痛い』と言わされることに慣れすぎたこの男は、反射的にまたささくれの時のように大きな声をあげてしまった。
「兄ちゃん気持ち悪い」
ナオトの叫び声を聞いた先生は慌てた様子でこちらに駆け寄り、ナオトの背中に手を置きながら、
「大丈夫ですか!?」
と心配した様子で声をかける。
そんなことをされてしまったナオトは痛みと癒しの両方に挟まれ心中大荒れである。
「いやっ...あのッ.....だいじょう....ぶ......です.......」
涙を流しそうなのをグッとこらえて強がってはみるものの、やはり痛い。
「ヒロトくん!!こんなことしちゃダメでしょう!!!」
その癒しボイスでヒロトをしかりつける先生。
「先生大丈夫だよ。兄ちゃんは丈夫だし」
「丈夫でも丈夫じゃなくても人のことを蹴ったりしたらいけません!!」
この物語始まって以来の普通の価値観を持った善良な人間が登場したのかもしれない。
「すみません笹川さん、普段はこんなことする子じゃないんですけど......」
普段から人のすねを蹴り上げる幼稚園児がいるのであれば、それは幼稚園児ではなく生物兵器だ。
「いや、ほんとに大丈夫です....もう痛みも引いてきましたし......」
必死の強がりを見せるナオトだが、実際のところヒロトには感謝していた。
こんな美人で可愛い女性に対して釘付けになってしまった結果まともに話せませんでした。なんて醜態を晒さずに済んだのである。
「でも....」
「せんせーーーーー!!はやくつづきよんでよーーーー!!!」
教室の中から大きな声が聞こえる。
そういえば、先生は絵本の読み聞かせを中断していたのだった。
「あの.....子供たちも待っているので.....絵本.....読んであげてください.....ヒロトは僕が連れ帰りますので......あ、身分確認って免許証とかで大丈夫ですかね....?」
先生を困らせないように必死に事態を収拾しようとするナオトは、何とも男らしい。まあこの事態の原因がナオトである以上そうとも言い切れないかもしれないが。
「いやぁ大丈夫ですよ!!ここまでヒロトくんが積極的にお話ししているだけで十分わかりますし、お母様のほうからも特徴などもお伺いしていましたし....」
「ああ、そうですか。ならヒロト、帰ろうか......」
この会話だけで『積極的にお話ししている』と言われてしまうヒロトは措いておくとして、ナオトの心配を余所に案外すんなりと引き渡しが終わってしまった。昨今の幼稚園がこんなガバガバでよいのだろうか。
ただここでナオトの頭の中には一つの疑問が浮かぶ。先生は一体『竹下家母からなんと自分の説明を受けたのか』ということだ。
「あのー、一つお伺いしたいんですけど、僕ってそんなわかりやすい特徴ありますかね....?」
先ほどは言葉を失い、まともに会話すらできなかった男が、よく言えたものだ。
するとそれを聞いた先生はクスッと笑い、
「う~ん、どうでしょうね....ただ.....」
そう言って少し間を開けた後、
「想像してたよりかっこいいお兄さんが来て、少しびっくりしちゃいました」
少し照れながらもニコッと笑みを向けたその顔は、おそらく『先生』としての笑みではないだろう。
「せんせーーーはやくぅーーーーー!!!」
また教室の中から声が聞こえる。
「それでは私は戻りますね!!またいらしてください!!」
そう言葉を残し、先生は子供たちのもとへと帰っていった。
ナオトは後にも先にもないと思われたあの体験を、こんなにも早くに繰り返すことになるとは夢にも思っていなかっただろう。
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