第9話 年下上司と僕。
「はぁ......」
ヒロトを無事幼稚園まで迎えに行くことができたナオトは、二人で河川敷を歩きながらバイト先のコンビニにむかっていた。
幼稚園を出てからコンビニへの道中、ナオトは何度も大きなため息を吐いた。何か悲しいことがあったわけでもなければヒロトの気を引くための工作でもなく、心の中にある抱えきれない感情がただひたすらにため息として漏れ出しているのである。
「はぁ........」
「兄ちゃんうるさいよ」
「ごめんなぁ.....」
「はぁ........」
この調子である。
ナオトはぼけーっとした様子で生気を根こそぎ抜き取られた屍のようになっている。ゾンビの再来だ。
ナオトから見た先生は、どのような言葉をもってしても形容しがたいほどに魅力的だった。現在彼女もいなければ大学卒業後には女性との関係など全くと言っていいほどに無くなってしまった男が、そのような女性に出会うだけでは飽き足らず最後にあんなことを言われてしまったのだ。もし世界征服でもするのとアレで恋に落ちないようにするのとを天秤にかけた場合、圧倒的に後者の方に傾き切るだろう。
「なあヒロトぉ......なんで俺はあのときお名前だけでも聞いておかなかったんだろうなぁ....」
完全なまでに恋に落ちてしまったナオトは、ここにきて後悔の念がプツプツと湧き上がってきた。
ヒロトも、ナオトのこの有り様を見て毒を吐く気も失せ一言こう言った。
「でも先生を困らせないようにあの状況をすぐにどうにかしようとしたのは偉いと思うよ」
まだこんな小さな幼稚園児がだ、アピールもされていない行動の本質を見抜き、それを言葉にして相手を称賛している。将来は大物になると確信せざるを得ないだろう。全国の上司は彼を見習ってほしい。
ヒロトからの希少な称賛の言葉を受け取ったナオトなのだが、いつもとは違い様子がおかしい。
「ありがとなぁ....、やっぱあそこで名前聞いたりとかは迷惑だったよなぁ.....」
「俺は....正しかったんだよ.......」
「はぁ.......」
なんとナオトが騒ぎ出さない。どういうことだ。何が起こった。ヒロトからこれだけの言葉をもらったのだ。いつもなら、
『ううわああああああああああああ!!!!!!ヒロトが褒めてくれたあああああああああ!!!!そうだよなぁ、俺は偉いよなあああああああああ!!!!!』
と狂喜乱舞しているところであろう。それが少しでも喜ぶどころかまだ満足しきれていない様子である。
これにはさすがのヒロトも驚きの顔を隠せない。
「先生.....名前なんていうのかなぁ.....」
「はぁ.......」
またため息を吐きながら独り言をブツブツと言い続けているので、そんなナオトを見かねたヒロトは、
「そんなに気になるなら自分で聞きに行けばいいじゃん」
「う~ん.....でもさぁ....急に押しかけて『名前を教えてください!!!』なんて言うわけにもいかないでしょう。映画じゃあるまいし....第一そんなことするためにわざわざ幼稚園に乗り込んだらそれこそお巡りさん呼ばれちゃうよ.....」
ここでヒロトがおもむろに立ち止まり、呆れたように言いながら、
「だからさぁ.......お母さんに頼んでまた迎えにこられるようにしてあげるって」
ヒロトは自分が漫画に出てくるようなような言い回しをしてしまっているのも自覚しているし、そういう場面では決まって照れ隠しをする人がこのような言い方をするものだが、やはりこの幼稚園児の場合は照れ隠しのために呆れた風を装っているわけでもなく、単純に呆れている。
とは言ってもここだけの話、呆れのみでこんなことを言っているわけでもない。ヒロトとはそういうやつなのである。
「え.....?」
ナオトは奇跡のような言葉に目を丸くしている。まさに『鳩が豆鉄砲を食ったよう』がぴったり当てはまる顔である。
「ヒロトさん......もう一回言ってもらってもいいですか.....?」
まだ状況を飲み込めていないナオトであるが、確かに聞こえていた。それでももう一度その奇跡のような言葉を聞きたかったのである。だがしかし、ヒロトがそんな甘いわけがなかろう。
「言わない」
そう言ってまた歩き出してしまった幼稚園児だが、ナオトは活動の絶頂期に達した間欠泉のごとく生気を取り戻し、さらにあふれ出てくる感情をそのまま声に乗せながら駆け寄った。
「あぁぁあああああああありぃぃいいいいいいいいいがぁぁああああああああああああとぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!」
「兄ちゃんうるさいよ」
河川敷に喜びの声が響き渡る。涙を流しながらヒロトに駆け寄るナオト、いつも通りの『うるさい』が、この二人に帰ってきたのである。
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