第26話 本物だから


 十分ほど時間が経っただろうか?


 正確な時間はわからない。

 確実に時間は過ぎているだろうが、今起きている状況が俺の時間間隔を狂わせていた。


 部屋は静かで物音ひとつしない。

 聞こえるのは凛の吐息と、身体を動かしたときにする布の擦れ音だけだ。

 凛は既に泣き止んではいるが、どうやらここから動くつもりはないらしい。

 相変わらずさっきの態勢のまま、顎を俺の肩に乗せ両腕を背中に回してきている。


 俺はというと、そんな凛とたまに視線を交わし、二人して目を逸らしてしまう……。

 さっきから、その繰り返しをしているだけだ。


 そのやりとりを繰り返す度に体の芯から熱くなるような……そんな熱が体全体に帯びてゆくのを感じる。

 部屋にとりつけられたエアコンは確かに稼働しているのに、この熱さのせいでちっとも涼しくならない。

 本来、熱さなんて嫌なものだが、この熱だけは妙に心地よく思えた。



「あの、翔和くん……」



 凛の声に反応し、俺は彼女を見る。

 目が合った凛は、物欲しそうな眼をしながら顔を近づけてきた。



「か、顔が近いって」

「近くありません」

「いや、それは……」

「やっ」



 短く拒否の言葉を言う。

 凛の目から強い意志を感じ、俺はそれに気圧され目を閉じた。


 頭の中に何故か、『リップって塗ったか?』と女性のような気遣いが頭に浮かぶ。

 ……いや、流石にそれは早いような。

 そんな心の動揺に身体が反応したのだろう。

 自然と身構え、口元にはやたらと力が入った。


 だが、口に何か当たることもなく、代わりにコツンと俺のでこに彼女の頭がぶつかった音が鳴った。



「……私がやっていたことは、間違いじゃなかったんですね」



 そう呟くと同時に、彼女の吐息が顔に当たる。

 甘く、心に響かせるような彼女の匂い……。

 それが間近に感じ、俺は生唾を飲み込んだ。



「ほんと……嬉しかったよ」

「ふふっ。素直に言われると、こちらもなんだか照れ臭いですね」

「わりと恥ずかしいことも多かったけどな」

「私も恥ずかしかったのでお相子です」



 凛の顔が離れ、熱が接触部からひいてゆく。

 俺は薄目で凛が離れたのを確認してから目を開ける。

 すると、再び目が合った彼女は顔を紅潮させ、はにかむ笑顔を俺に向けてきた。


 ……その表情は反則だろ。

 元々の魅力と相まって、その笑顔がいつも以上に輝いて見える。

 俺はそんな凛が直視できず、彼女から視線を逸らし誤魔化すように頰を掻いた。



「色々と悩ませたみたいでごめん……」

「別にいいですよ。悩むことも、考えることも私にとっては新鮮で全く苦ではありません」

「強いな凛は……」

「強いのは翔和くんのお陰ですよ」

「そっか……。でも悩むこともあるんだなぁ。いつも真っ直ぐで、突き進むだけかと思ってたよ」

「私だって悩むことはありますよ。全てが初めてですし、自分が正解だと思った行動が本当に求められているとは限らないことぐらい、わかっていますから」



 凛は寂しそうに笑い、俺の肩に再び頭を乗っける。

 その頭をぽんぽんと優しく叩いた。


 凛はいつも真っ直ぐだ。

 それは出会ってからずっと変わらない。

 この前みたいに親のことで悩むことがあっても、いつも俺に対しては直球で迷いがないように見えていた。


 でも——違った。

 本当は彼女も不安を抱えていたのだ。

 それを俺は考えていなかった……。


 ……いや、それは違う。

 俺が目を背けていただけで、気づかないように鈍感でいようとしていただけで……本当は感じていたのだ。


 時折甘えてくる彼女を見ていれば、それは容易に想像がつく。

 凛はその行動で俺を確かめていたんだ。


 ——本当に拒絶されていないか。

 ——自分の行動で俺が反応してくれているのか。


 それを甘えることで確かめていた。

 不安だから、確証が欲しいから、言葉じゃわからないから……。

 肌に触れることで、俺の気持ちを知ろうとしていたんだ。


 それも俺が隠そうとしていたから。

 俺が心を閉ざして、防衛線を張っていたから。

 ——凛は俺の深層心理を知りたかったのだろう。



「不安にさせてばかりでごめん」

「ううん。いいんです。まだ半ばですけど、素直に嬉しいですから。翔和くんが前に進んでくれて……。だから昔のことは気にしないでください」



 首を左右に振り、凛はにこりと笑った。

『気にしないでください』と彼女は言うけど……それで納得してはいけない。


 ……俺は酷い奴だ。

 そう認めなくてはいけない。

 だって俺は、彼女と出会ってからの数か月、ずっと壁を張っていたんだから……。


 全ては“凛のことを思っての行動”として、“俺みたいな人間と関わってはいけない”、“彼女の行動を勘違いしてはいけない”、そう自分の心に言い聞かせてきていた。


 けど、この行動の本質は違う。


 俺は自分にそう言い聞かせながら、結局はでしかなかったのだ。

 ——自分が傷つきたくないから。

 ——もう二度とあんな思いをしたくないから。


 彼女のためと責任転嫁をして逃げていただけ……。

 不安を抱えながらも一生懸命だった彼女を、拒絶していたなんて……それは、どうしようもなく臆病で——卑怯なことだ。


 自覚すると今までの自分の態度が腹が立ち、同時に胸が苦しくなった。



「もう存在しない過去なんて、気にする必要はありません」



 まるで俺の心中を察したように、凛はそう声を掛けてきた。

 俺は、彼女の顔が見えるように身体を少し動かす。



「凛は、『気にする必要はありません』って言ってはくれたけど。気にしないとダメだろ……。昔あったことが原因で、今後どういう影響があるかわからないし……」



 凛の言葉を否定するように、俺はそう言った。

 あの時とった行動への後悔、そしてあんな態度を見せていたから、気にしないのは無理がある。

 今後に不安しかないような、そんな態度をしていたのは、変えようがない事実だから……。


 嘆息して肩を竦めてみせると、凛は鋭い目つきで見つめてきた。



「私は、それでも気にする必要はないと思います」

「いや、だけどな」

「過去は所詮、記憶と記録でしかないです。思い出に浸ることはあっても、消え去ってしまったものを悩む必要はないんですよ」

「………………」

「私たちに出来ることは“過去”を基にことです。過去にも未来にも苦しむ必要はありません。過去はもう存在しませんし、未来はまだ存在していませんから……悩むとしても、今この時というだけです」



 俺は凛の言葉を黙って聞いた。

 いつもは屁理屈の一つでも言うところだが、何も言葉が出てこない。

 そのぐらい、凛の言葉が胸に刺さった。


 過去を基に今を生きるか……。

 考えること、乗り越えないといけないことが山積みだな。


 俺は床に視線を落とし、ふぅと息を吐いた。

 そんな俺の頭を凛は優しく撫でてくる。



「なので、翔和くんが頑張るのであれば行動あるのみということです」

「はは、凛らしいな。でも、頑張りたいと思えるのは、凛のお陰だよ」

「違いますよ。あくまで選択したのは翔和くんです。変わることを、進むことを……選んだのは自分ですよ」

「そっか……」

「だから、卑屈にならずに自信を持って欲しいです。過去の自分に憂いて後悔するのではなく……今の自分の変化に喜び、未来に希望を抱いてください」



 凛は俯く俺の顔を両方の手で支え、優しく微笑む。

 慈愛の女神さながらの、全てを包み込むような優しい笑みだ。

 そして、



「翔和くんは決して独りではないんですから」



 不意に、すとんと胸のつかえがとれた気がした。

 同時に暗くなりそうだった俺の気持ちが、徐々に晴れてゆくのを感じる。


 いつだってそうだ。

 彼女の一言に救われ、彼女の存在に心が奮わされる。


 ……頑張らないといけない。

 それは生半可な努力では成しえないけど、逃げずに努力したい。

 だって、こんな素敵な女性の隣に立てるようになりたいから……。


 俺は頷き、彼女の顔を目を逸らさずに真っ直ぐ見つめた。



「なぁ凛。さっきのことなんだけど……」

「さっきのことと言うと『待ってて欲しい』のことですか?」

「ああ」

「では、その『待ってて欲しい』は、何を待てばいいですか? 出来ればしっかりと誤魔化さずに言って欲しいです」

「それは、その……」

「「………………」」



 無言で見つめ合う。

 言葉を出そうにも、上手く出てこない。

 ひたすら焦燥感が煽られてゆくだけだ。


 そんな俺を見て、凛はくすっと笑い俺の鼻をちょんと突いてきた。



「ごめんなさい。ちょっとだけ欲が出て、意地悪しちゃいました」

「……欲が出たって、お前なぁ」

「ふふっ。今更ながら、好きな人を揶揄いたくなる心境というのがわかった気がします」



 悪戯を企んでいる子供のように無邪気に笑みを浮かべた。



「わかってますよ翔和くんのことは……。全てに踏ん切りがつくほど、人は簡単には出来ていません。昨日と今日で直ぐには変わりませんし、ようやくスタートラインに立った翔和くんに無理強いはさせたくはないです」

「……心得遣いは嬉しいけどさ。でも、何も言えないなんてこと、男として……その、情けないだろ? 臆病だし、はっきりしないのは……」



 俺の気持ちは固まっている。

 これからのことでまだ不安はあるけど……やるしかない。

 そう決めたからこそ、ここまでしてくれる凛にけじめをつけないと人として、一人の男として駄目なことだと思う。

 凛も、その言葉を求めている筈だから……。


 しかし、凛は俺のそんな胸中とは裏腹に「いいじゃないですかチキンでも」と、思っていたことと反対のことを口にした。

 てっきり、『男らしく本当の気持ちを言って欲しいです』みたいなことを言うと思ってたけど……。


 俺は首を傾げ、凛に聞き返した。



「チキンって、藤さんみたいなことを……。まぁその通りだけど、それだとダメじゃないか?」

「翔和くんの気持ちが知れて私的には大満足ですよ?」

「そうは言うけど——」

「それに、雰囲気に流されてとか、けじめとか、義務感とか……そんなの私は求めてないですよ。だから、“翔和くん自信の言葉と気持ち”を首をながーくして待ちます」

「待つって、凛はそれでいいの……か?」

「勿論です。無理に関係を進めたくないですし、翔和くんの気持ちの整理がつくまで待ちます。ただ、これだけは約束してください」

「……約束?」

「もう一人で悩まない。逃げないって」



 まっすぐに俺の方を向き、初めて見るような真剣な顔でそう言ってきた。

 俺は、その雰囲気に思わず息を呑んだ。



「約束する……それは、絶対」



 数秒の沈黙の後、ゆっくりと頷き俺はそう返答した。

 凛はほっとしたように、「よかったです……」と呟く。そして、にこりと笑うと凛は安堵の息を漏らしたのだった。


 お互いに気持ちが通じ合ったからか、独特のしんみりとした雰囲気に部屋が包まれた感じがした。

 動悸がより激しくなり、むず痒く、そわそわと落ち着かない。


 だが、凛にはそんな様子がなく、寧ろ生き生きとした大変元気が良さそうな感じだ。



「そうです、翔和くん」

「うん?」

「待つとは言いましたが、私は今の行動を止める気はありませんよ?」

「え? いやいや、今の流れだと『待つ』ってことだから凛は落ち着いて学校では大人しくするんじゃ……」

「私がそうなると思いますか?」

「あー……ですよねぇー」



 ドヤ顔で言う凛に俺は思わず苦笑した。


 凛の心臓破りのアピールや行動。

“待つ”って言っていたからそういう行動は控えると思っていたけど……。

 まぁ、俺の考えが甘かったということか。



「これは最早、勝ち試合です。それを確固たるものにするために、手を緩めるわけにはいきません」

「いつから試合してたんだよ」

「恋は駆け引きです。つまりは勝負事なので負けていられません」

「負けず嫌いだなぁ」

「ふふっ。それが私ですからね」



 どんなことにも根気強く、一生懸命なのが凛だ。

 ちょっとだけ……いや、かなり猪突猛進なところがあるのは心配だけど。

 でも、こんな自信満々な笑顔を向けられると元気が出てくるんだよなぁ。



「私にも自分の考えがあります。これはですから」

「それってどういう……」

「それは秘密です」

「俺が色々言ったのにせこくないか?」

「秘密主義の翔和くんには、言われたくないです」

「……それもそうか」

「だから、その時を楽しみに待っててくださいね?」



 凛はまるで俺を誘うように妖艶な笑みを見せた。

 白い手を伸ばし、俺の頬を撫でてくる。

 無駄に色っぽいその仕草が俺の不安を煽ってきた。



「うわぁ。なんかすげぇ怖いんだが……」

「それは私も同じです」

「うん? 同じ……?」

「なんでもありませんっ!」



 何故か顔を赤らめて、ぷいっと顔を背けた。


 ……何だろう?

 彼女が何を考えているかわからない。

 それは少しだけ不安だ。


 けど、それ以上に彼女の動きや仕草が可愛らしく不安を消し去ってくれる。

 きっと、彼女がしようとしてくれている何かは“俺の為”だということがわかるからだろう。

 だから、そんな彼女がどうしようもないほど愛おしくなるのかもしれない。


 俺は凛の頭に手を乗せ、優しく頭を撫でた。



 ——両親を狂わせた“恋”という感情。



 俺はそれを今まではただ憎み、そして認めようとはしていなかった。

 実際、今でも嫌悪している。

 ころころと心変わりしていた、あの両親の醜い姿を……。


 でも、そんな両親のことで一つだけわかったことがある。


 それは——人を好きになること。

 両親が追い求め続けた、人に好意を抱くという感情だ。

 その気持ちだけは、凛を通じて理解したと思う。


 けど、これは両親と一緒ではない。

 恋に恋した人間と同じように俺は溺れたりしない。

 ——それは断言できる。


 いつかなくなるかもしれない恐怖はある。

 だが、それ以上に……。

 そんな不安を払拭出来るぐらい凛を信じられる気持ちが、確かに俺の中で芽生え始めている。


 だから……あいつらと同じにならない。

 いや、なるわけがない!!

 そう心に誓い、俺はじゃれついてくる彼女の頭を撫で続けた。


 目を細めて身体を寄せてくる凛を見ていると、夏祭りの最後に言われたあの言葉、光景が昨日のことのように蘇ってくる。


 あの時は布団を被って逃げるだけだった。

 そして、今日も同じ。

 凛は待ってると言ってくれた。

 優しさから、俺に逃げ道を用意してくれている……。


 でも、それにいつまでも甘えてはダメだ。

 いくら恥ずかしくても、潰れそうなぐらい緊張しても……あの時の言葉を返さないといけない。

 言わないと前に進めないから——。



「……俺の気持ちも“本物”だから」



 消えるような小さな声だったと思う。

 もしかしたら、聞こえていないぐらいかすれていたかもしれない。

 でも、急に彼女の抱き締める力が強くなった……そんな気がした。


 だから俺は……。

 それに応えるように凛を優しく抱き締めた。






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