閑話 夏休みの終わりに

 

 時刻は夜の10時を回ったところ。


 衝撃的で、印象的で……胸に突き刺さる出来事から小一時間以上は経っていた。


 少しは動悸というのは治まってはきたものの、未だに額には汗がべったりと付いている感じがする。

 この汗は、きっと……夏だからってだけではないだろう。

 ただ――嫌な汗ではなかった。


 俺は周囲を見渡し、誰もいない車内にため息をつく。


 休日ということもあり、電車は思いのほか閑散としていた。

 凛が言うには、いつもはこの時間でも人は結構乗っているらしいのだが……。


 普通だったら混み合っていなければ、「やった。ラッキー」という程度の感想しか出てこないだろう。

 だが、今はが欲しい気分だった。


 何故なら――



「翔和くん見てください! 外の景色が綺麗ですねっ」



 俺の腕に抱き着きながら、満面の笑みを浮かべるリア神様がいるからである。

 これが満員電車であれば、“仕方ない”と割り切ることが出来るだろう。

 しかし、今は電車に人がいない……。


 そうなると、テンションがMAX状態の凛の暴走を止める手立てはないのだ。

 だから俺は、この状態に甘んじている。

 そう……あくまで仕方なくだ。


「そうだなぁ~」と俺は相槌を打ちつつ、凛が目を向けている方角をぼんやりと眺めた。


 電車が通るルートは、工場地帯を通過する。

 夕方では気が付かなかったが、この時間になるとライトアップされた工場がデートスポットと言われるほどムードを醸し出すものとなっていた。


 凛のこの様子から、これも狙っていたのだろう。



「むー……」


「うん?」



 不服を訴えるような唸り声が聞こえ、そちらを向くと凛の指が俺の頬に当たった。

「へ?」と間抜けな声を出す俺を見て、満足そうに笑っている。



「ひっかかりましたね?」


「いやいや、これは誰でも一回はやられることだろ……」


「悔しそうですよ?」


「うるせー……」



 まさか凛にこういう不意打ちをくらうとは……。

 悔しそうな表情が出ていたのか、それに気が付いた凛は悪戯を成功させた子供のような無邪気な表情で俺を見ている。


 ニマニマとしたなんとも憎たらしい笑みだ……。


 俺はせめてもの抵抗として、凛に抱き着かれている腕を動かすが……よりがっしりとホールドされてしまい、全く抜け出せない。

 それどころが余計に柔らかな膨らみを押し付けてきている。


 凛がそれをやると理性というものをゴリゴリと削ってくるので、気が気ではない。



「な、なぁ凛。腕をだな……」


「嫌です」


「流石に熱いんだが……」


「車内は冷房完備です」


「熱中症とかになったら……」


「冷えピタも保冷材も持ってきていますので、安心してください」


「うわー……無駄に至れり尽くせり……」


「私の備えは完璧ですから」



 ドヤ顔で俺を見てくる凛に嘆息する。


 隠すことも、照れることもない。

 抱き着きたいから抱き着いて、寄り掛かりたいから寄り掛かる。

 とまぁ、遠慮というものが一切なくなった凛の攻撃力は半端ないことになっている……。


 俺は、悶々とした気持ちを紛らわそうと話題を提供することにした。



「凛、そういえば二学期がそろそろ始まるけど、なんか行事とかってある?」



 雑な前振りではあったが、真面目な凛は「そうですねー」と思い出すように小首を傾げた。



「翔和くんが、あまり好きそうではないイベント目白押しと言えばわかりやすいと思います」


「……やばい。学校に行きたくなくなってきたわ」


「私もそこまで好きではないですよ」


「え……そうなのか?」


「意外そうですね」


「そりゃあ、まぁな……。てっきり率先して動くと思ってたけど」


「そうですね。確かに、先生方に実行委員などを頼まれますので、任されれば責務はこなしますが……。正直なところ文化祭や球技祭は、嫌でも目立ってしまいますので、得意ではないです……」


「あー、なるほど……。凛の場合、色々とめんどそうだもんな」


「はい……」



 凛はとにかくよく目立つ。

 ずっと一緒だと忘れそうになるが、こうやって話すようになるまでは雲の上の存在と思っていたほどだ。


 イベントごとというのは、生徒達は浮足立つ。

 凛のような目立つ存在に“あわよくばお近づきに”と思う奴は少なからずいることだろう。

 いや、からこそこの反応なのかもしれない。


 それに、真面目なところがある彼女のことだ。

 相手にしないようにしつつも厄介ごと巻き込まれたりとか……。


 才色兼備、頭脳明晰、容姿端麗。

 この言葉全てを兼ね備えたのがリア神だ。


 まぁ、男版リア神はイベントごとで問題はなさそうだけど。

 流すのとか上手そうだし、人当たりもいい…………あれ?

 そもそも俺って、学校内の凛をそんなに知らない気がする。


“かもしれない”ばかりだし……今更だけど……。



「じゃあ凛にとっても厄介なイベントか。いっそのこと、一緒にサボるか?」


「サボることはしません。それに、翔和くんがいるので嫌とも思いませんし」


「そういうもんなのか」


「はい。イベントごとは翔和くんと一緒に参加したいと思ってますよ? 文化祭は一緒に回りたいですし、球技祭では応援します」


「いや、球技祭の応援はマジでやめてくれ……。俺が活躍する場面なんて皆無だから」


「大丈夫です! ちゃんと救急箱を持参しますから」


「俺が怪我する前提かよ……」



 心配されることは有り難いが……怪我を前提というのは情けないというか何というか……。

 まぁ、実際のとこ間違いんだけどね。

 運動とか得意ではないし……。



「私は翔和くんにいいところを見せたいので、球技祭は頑張ります!」


「ほどほどにな?」


「後は、文化祭で色々と出店も回りたいですし……あ、琴音ちゃんと一緒に出し物も考えないといけませんね」


「おーい、凛……聞いてるか~?」


「文化祭が終われば次はクリスマスですし……楽しみが一杯ですっ! それからそれから~」


「ほんと、周りが見えなくなるよな……ったく」



 俺は目を輝かせながら、二学期を語る凛に苦笑する。

 楽しそうだからいいかと、彼女の計画を黙って聞くことにした。



 ◇◇◇



 それから数日後、凛は数週間ぶりに家へと帰って行った。


 どうせ、明日から学校。

 また会うだろうし、センチメンタルな気持ちにはならない……。

 だがどうしても、狭かったこの部屋が静かで……寒く感じてしまうのは気のせいではないだろう。


 思い出されるのは、夏の記憶……。

 他人と過ごす、初めての夏の記憶だ。

 それが何故かはっきりとした情景として、今も浮かんできてしまう。



「知らなかったら、悩むこともなかったんだけどな……」



 俺は壁に寄り掛かり、凛が持ち帰るのを忘れているであろう私物を見る。

 しっかり者に見えて、案外抜けている所がある彼女を思い出すと、自然と口元が緩んだ。



 俺は徐にスマホ手に取り、一本電話を掛ける。

 2コール目に『よっ色男!』と茶化すような声が聞こえてきた。



「なぁ健一、相談したいことがあるんだが……」



 こうして、俺の夏休みは静かに終わりを迎えたのだった。



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