死んだ人と、死ねなくなった人

虹音 ゆいが

灰色の日々

 昔は良かった。

 あの頃に戻りたい。

 どうしてあの時、こうしなかったんだろう。


 生きている限り、こんな意味もない感傷にふける事もあるだろう。


 けして時は巻き戻ったりしないのに、それでも在りし日に思いをはせる。それはとても虚しく、けれどとても幸せな事だと思う。


 本当の苦難に浸された毎日は、懐かしむ、という心の余裕さえも奪い去っていくのだから。




「…………ん……」


 俺はゆっくりと目を開けた。


 目の前に広がるのは、漆黒の闇。つんと鼻を衝く、糞尿の入り混じった臭い。

 微睡みに揺られながら、俺は体を起こした。


 辺りを見回しても、どこもかしこも闇ばかり。光の消え失せたその空間は、いつまで経っても馴染めそうにない。


 かつん、と音が遠くから聞こえた。

 それは一定のリズムを刻みながら、確実にこちらに近づいてくる。


 俺は深いため息を吐き、その時を待つ。やがて、がちゃがちゃとやかましい音が鳴り響き、


「うふふ。坊や、起きてるかしら?」


 闇に満ちた世界に、弱々しい光が差し込んだ。


 暗闇の向こうから現れたのは、一人の女。鍵の束をじゃらじゃらと左手で握りしめ、右手で鋼鉄製のドアを押し開いている。


 上等なドレスを纏う彼女は顔立ちも美しく、高貴な家柄を思わせる。みすぼらしいボロキレ以下の服を纏う俺とは雲泥の差だ。

 俺は鎖で繋がれた足を折りたたんで姿勢を正し、


「おはようございます、ご主人様」


 恭しく、礼。反吐どころか、血反吐が出そうなくらいに繰り返したその言葉を、今日もまた無心で紡いだ。


 女の笑い声。と、ことりと俺の前に何かが置かれた。


「さぁ、今日のご飯よ。たくさん食べてね」


 カビの生えたパン一かけらが、光をてらてらと反射する皿の中で転がる。俺はそれをぼんやり見つめながら、いつものように返す。


「ありがとうございます、ご主人様」

「どういたしまして。それと……今日も元気になるお薬、飲みましょうね?」


 ついで、ごとり、とやけに重みのある音と共に、皿の横に置かれたそれ。


 コップだ。その中には、青のようで紫のようで緑のようでもある、不思議な色合いと臭いを放つ何かが注がれていた。


 俺はそれを数秒眺め、


「いただきます」


 躊躇なく、それを飲む。


 やがて、異変が俺の体を襲う。


 体の臓器という臓器が不自然に脈動を始め、全身が灼けるように熱くなる。

 今度はそれら全てが一斉に捩じられたかのような、痛みと呼ぶ事すらおこがましいような衝撃に襲われる。

 体の中を支配する、地獄。俺の思考はあっという間に塗り潰された。


「げっ、ぐっが、ぁががががあがあああああああああ!!!」


 あらん限りの声を枯らし、絶叫。その現象はおそらく、2分ほど続いていたと思う。ようやく正常な状態を取り戻し、俺の思考も再び働き始める。


 俺が吐き出したらしき血の塊が、パンに染み込み皿を満たしていた。と、女の笑い声がもう一度。


「素晴らしい。素晴らしいわ、坊や! あぁ、なんて可愛い子なの!」

 

 陶酔し、狂気に染まったその声。俺が顔を上げると、女も顔を寄せてきた。


「ど、どうだったかしら? 今日のお薬は。どれくらい痛かった? どれくらい辛かった? 昨日のお薬とどこがどう違った?」


 女は俺を見ているようで、見ていない。いつもの事だ。

 俺が率直な感想を述べると、女は嬉しそうに踵を返した。


「なるほどなるほどやっぱり成分量を少し変えるだけで劇的な変化が見込めるわけね素晴らしいわやっぱり不死身って便利ね坊やがいてくれるだけで研究がどんどん捗る逃がさないわ絶対に絶対に坊やは私のモノ!」


 あぁ、壊れてる。

 こいつも、俺も。

 

 女は一度も振り返ることなく鉄扉の向こうに消え、重々しい音と共に元の暗闇に戻った。がちゃがちゃがちゃ、とやかましく音を立て、かつん、と足音が遠ざかっていく。


 わざわざ鍵なんか掛けなくても、今さら逃げやしないのに。バカな女だ。


 俺はぼんやりとそんな事を考え、血に塗れたパンにかぶりつく。4日ぶりに食べたそれは、とても美味しかった。


「……不死身、か」


 ぽつりと。女が発したその言葉が頭の片隅に引っかかる。

 

 それはかつての自分にとっては祝福であり、今の自分にとっては呪い。

 

 ただそれだけの事だ。俺は血塗れのパンにかぶりつく。


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