第23話 方舟の鯨座 part【9】

「これが‥『女神の宝石箱』‥‥」


 月下はポーラスが消えた場所に落ちた小さく素朴な指輪を手に取る。指輪の内側を覗き込むと、落書きのような拙い文字で『エンヴィア』と彫られていた。

 右手で小さな指輪を握り締め、渦中の人物マナロの様子を伺う。地面にへたり込み、武器を握る力も無い少女に何と声をかけるべきか悩んでいると、その場に居るはずの無い人物の声が聞こえてくる。


「はぁ〜マナロちゃん、ポーラス殺しちゃったの!?」


 声の主はミラ川に隣接した神殿に居る筈のエンヴィアその人である。幽霊のように突如として現れた彼女に月下は直感的に後ろへ飛び退いていた。しかし、当のエンヴィアの視線は月下の右手へと向けられた。握り拳の大きさから中に物がある事を確認すると、シオンの天照と同系統の瞬間移動で月下を捕まえる。そして、驚きに途惑う月下は知らんぷりのまま右手の握り拳を開くと指輪を奪い取った。

 目まぐるしく変わる状況に誰もが置いていかれそうになる中、エンヴィアは月下に向けて告げた。


「おめでとう! アンタが持ってた指輪は『女神の宝石箱』だ! つまり、ヒューガチームの勝利ってことだね!」

「「———は?」」


 エンヴィアの突然過ぎる終了宣言。思わぬ決着に月下とマナロは同じ言葉を漏らしていた。


「あの、待って。私、ヒューガの味方はもう止め‥」

「登録はヒューガチームだし~その後どう関係性が変化しても所属は変更出来なかったよね? 事実、アンタはスパイしてたわけだし~」


 月下はただひたすらに否定したかった。元の仲間を裏切ってまで敵であるマナロ達に協力したのに、この結末は何だ。まるで、二重スパイではないか。


「大体、貴女神殿に居るんじゃ‥」

「いつ、アタシが永久に居るなんて言ったよ? ルールはアタシに渡した方の勝ち。アタシが奪い取るのを妨げない時点でアンタはアタシに渡した事になるんだよ」


 横暴だ。そう言いたいのは罪の心からか。月下はマナロの方を見ることが出来ない。この世界で長くを共にしたクランメンバーなのに、今は顔を見る事が心底怖い。


「それじゃ、月下。アンタ達は勝ったからくじら座から転移させるよ」

「ま、待ってよ! これは、正当な勝利じゃ‥」

「はい、さよ〜なら〜また会う日まで」


 月下を転移させたエンヴィアは、くじら座全体に届く上位者権限のアナウンスで決着を告げる。一通りの作業を終えた彼女は茫然としたマナロへ視線を向ける。


「邪魔者は消えた所で本題に入ろうか。マナロちゃん?」


 マナロを見下ろすエンヴィアは屈託の無い笑みを浮かべているが、その背後には得体の知れない恐怖が潜むように思えた。


「まさか、この為?」

「おいおいおい〜何様だよ? マナロちゃん如きの為に勝負に肩入れしたとでも思ってんの?アタシも安く見られたね」


 肩を掴みながら冗談混じりを装っているが、瞳は笑っていない。


「『公平をとるためバランス良くした』。アタシの一番嫌いな奴がよくやるやり方さ。フェアにしたんだよ。アンタ達のチームはちょっとズルいからね」


 彼女が話題にしているのは裏で引き入れようとした月下のことだろうと、予測したマナロは反論を述べようとする。何故なら、駆け引きを含めたうえでの勝負のはずだからだ。少なくとも、あの場で戦っていた8人はそれで納得するタイプのはずである。


「月下さんは、あくまで個人協力です」


 しかし、エンヴィアにとって月下は左程影響のある人物では無いのか話が噛み合ってないと首を傾げる。


「違うよ? アタシが言いたいのは‥‥」

「その辺で良いのでは? エンヴィア?」


 エンヴィアの言葉遮り、二人の間に割って入ったのはロイヴァスである。


「君はまず彼女に事情を説明するところから始めよう。ポーラスが死ぬ可能性は最初から0ではなかった。何故なら、他ならぬ君が最初にルールで死を許容したからだ。誰も死なない結末は選べただろう?」

「なにさ、アンタまで不公平とか言うの? アンタがなんだよ?」


 エンヴィアが何を言おうとロイヴァスのつかめない表情に変化はない。結局、エンヴィアが折れて指示に従い、苛立った声で語りだす。


「ポーラスを殺した時に聞いちゃったと思うけど、アレが元々の射手座なんだわ。時期が来れば覚醒するのに‥アンタそれを殺しちゃう?」

「聞き捨てならないね。それだとポーラスは時期を間違えて殺した場合、詰みになっていたのでは?」


 マナロでなくとも他の理由でポーラスが死ぬことはある。詰みになるなら、ゲームとして、確率として、あってはならない事象だと述べるロイヴァスにエンヴィアは正論だと認めて肩を竦めた。


「そうだね。アタシがユノに頼んで出現する筈の無い時期に呼び出したから今の状況になったわけだ」

「——呼び出した理由は?」

「マナロちゃんが既に居たから。ポーラスが死のうが生きようが、マナロちゃんが死んだ時点で『射手座』はクリアでしょ」


 悪びれもせずに語るエンヴィアにロイヴァスはそれ以上何も追求することはなかった。不安からマナロは縋るように助けを求める。


「ロイヴァスさん‥」


 暫定の射手座になっていた事は彼に伝えていない。あくまで、重大な悩みとして相談していた。騙す気はなかったと訴えようとして口を開くも、その先が世に出る前に無惨にも切り捨てられる。


「——手遅れだ。君は死ぬしかなくなった」


 マナロは唾を飲み込み、身体はのけぞらせる。涙は勝手に溢れ出し、細い腕や脚は万力で締め付けられるほどに力が入る。


「まぁ、事前にユノから聞いていたから知ってはいたが」


 予想だにしていない彼の一言は、泣きじゃくる筈のマナロから涙も感情も思いも奪い去った。蚊の泣くような声も出せず、頬をひくつかせる。


「あらら、βテスターなのは秘匿するつもりじゃなかったの?」

「知り合いに会うまではそのつもりだったさ。君が出て来て話が変わった」


 エンヴィアは懐かしい知人に向けるフランクさでロイヴァスと話している。それを目の前で見せつけられるマナロは口を挟むどころではない。


「アンタ、アタシを殺したかったんじゃないの?」

「君のくじら座テリトリーで馬鹿正直に暗殺計画を話すと思うかい?」


 マナロの知らない暗殺計画。マナロの知らない情報。既に、最初に抱いていたエンヴィア介入による敗北と射手座殺害の感情は空の彼方へと消え去りそうな勢いである。


「なんだ‥元からそんな気は無かったのね。初対面で主な実績は殺人ですって言ってた癖に随分と丸くなったじゃない、レッドラム!」


 レッドラム。エンヴィアが一言そう呟いた瞬間にロイヴァスに纏わりついていた皮が剝がれ落ちていく。純然たる真人間の証拠とされるホワイトネームロイヴァスが一線を超えた証拠とされるレッドネームレッドラムへと変貌する。レッドラムと表記されたステータスを懐かしそうに触れながら、思い出話のように静かに語りだす。


「βテストで殺されてからかな‥飽きが来てね。趣向を変えて快楽も食人も拷問も試したけどパッとしないんだ。未練グレイが残ってたのにモチベは上がらない。同じ目的の君を好敵手としても焦りは生まれない」

「真っ白に燃え尽きてるね。アンタもユノに射手座ちゃんを造るように頼まれたんでしょ? アタシは用済みになったポーラスを借りてきただけだし」

「ちょっと違う。私は彼女を救うつもりだった。ポーラスもここでは死なせるつもりは無かったよ? なのに、彼女が自分から射手座を撃つからね。たまったもんじゃない」


 あの時、マナロの胸中から湧き上がってきたのは、『ポーラスを生かしてはいけない』という絵も知れぬ毒のような感情であった。理解は出来ないけれど、抑えることも出来ない負の感情。


「はぁ‥君が用意した射手座の身代わりを手に入れれば、全て解決したのに‥‥」


 ロイヴァス、改めレッドラムは武器として愛用する楽器達と背に展開し、鋸、鉈などの裁断用武器を腰に取り付けられた特注ホルスターに装着して広げる。そして、虚な瞳のマナロに最後通告を吐き捨てた。


「さて、こうなってしまうと君は居なくなった方が良い。先に冥府へ行ってくれ」


 赤色に染まる文字とレッドラムの名前は、マナロにグレイから聞いていた最悪の殺人鬼を連想させる。


「レッドラム‥グレイさんの言ってた」

「予想以上に間抜けで助かったよ。グレイがネットマナーを気にして本名を告げなかった事も幸いだ。彼はそういう所が甘いし、自分一人で解決しようとする若さがある」


 何もかもが遅かった。最初に相談した相手が間違っていた。突発的な衝動に駆られて矢を放った自分が弱かった。

 本当の意味で最期を迎えると感じたマナロは、今までの出会いと冒険を走馬灯として見始めていた。


(ああ、何か‥思い出のほとんどがグレイさんだったなぁ‥それに、今の気分は―――)


「でもラム。アタシはアンタの思い通りには進んでほしくない。獅子座よ、地獄の業火で灰を巻き上げろ」

「ッ!? エンヴィア貴様っ‥‥」


 夢見心地の彼女を現実に引き戻したのは、鼓膜が破れそうな大爆音。視界には赤いコートの切れ端すら映らない。辺りを見回すと、太い円球の物体がマナロの前を通過して大地を抉り、森を焼き払った跡のみが残される。


「ラ‥ロイヴァ‥‥さん?」

「———」


 返事はない。だが、肌を刺すような威圧感のある気配が直ぐ近くから溢れ出していた。以前にも同じ威圧感を感じたことがある。ミュケの洞窟で、初めて戦ったストーリーボス。


「いい夢見れたかい、射手座のお嬢ちゃん? 怖い現実はこれからだよ?」


 黒銀の獅子と紫紺の蠍を従えた魔獣女帝が射手座に手を差し出す。

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