5-カユウ
手術のことはよく覚えていない。麻酔を打っていたので当たり前だ。最初に目が覚めた時には、謎の気だるさと見慣れない真っ白な天井のおかげでげんなりしていた。手術したから音が聞こえるというわけではないので、世界は相変わらずの無音だった。
無音という表現は、今振り返ってからだからこそ可能だ。
もうあの日から一週間以上が経過した。
しばらくは病院のベットの上で読書をして過ごした。私は昔から小説が好きだ。まさに本が友達という人間なのだ。でも貪るような読書は好きではない。好きな本を何度も何度もじっくり読み返した。その事が後に生きた。
手術の傷も治った頃に、初めて音を聴くことになった。
というのも、人工内耳を使用するのは傷が癒えてから機械をさらに付け足し、やっと機能するようになるのだ。
初めて聞いた音は、お医者さんの椅子のタイヤが転がる音だった。本で、「カラカラ」とか「ゴロゴロ」という音がこれに当たるというのを知っていたので、こんな感じなのかと驚いた。
そもそも、音というのは不思議だ。目に見えないのにしっかりとした刺激がある。音源の場所によって聴こえ方が違う。何をするにも、音が生まれる。とても新鮮だった。どれだけの驚きと感動があったかは語る気ならいくらでも語れる気がする。
そして、喋る訓練を始めた。「あいうえお」というのにとても苦労した。一日十数時間の練習を数日続けて、やっとその五文字の発音ができるようになった。楽しくて、呪文のように「あいうえおえういあ」と唱えて遊んでいる。
ただ、母音に慣れても子音がなかなか難しい。コツを掴むしかないので、色々と試行錯誤して当てずっぽうにいい感じの音を出すしかない。そして、それを繰り返すのだ。
「でん……き、けとる。と、いうのわ、ひじょおに、え……べ。んり。だ」
ある程度喋り方を覚えてからの練習に、小説が役立った。何度も読んだ文章というのは、頭になんとなく残っているので声を出すことに集中できた。この文自体はそんなに読み込んだことはなかったが。
次第に、音にも慣れて、喋りもこなせるようになってきた。イントネーションなどが未だに不安だし、喋るのに時間がかかるもののある程度の会話はできるようになった。そこまでに三ヶ月ほどかかった。
これが早いのか遅いのか、はたまた標準的なのかはわからないが、とにかく上達したのは喜ばしいことだ。
「カユ……う。ソ、ヨ」
自分の名前と、ソヨの名前くらいは呼べるようになった。しかし、自分で録音して聞いてみるとあまり上手な喋りではなかった。
そういえば、自分の声というのは喋っている時と聴こえ方が随分違うのだ。自分で言うのもなんだが、ちょっぴり可愛い声をしてる気がする。
“このカユウ様にお似合いのいい声じゃないの”
と、ドヤ顔で台詞を吐いてみたかったが、鏡の前で手話にした。だって、口に出したら、
「この……カ、ユウしゃまにおにぁ……あ!いの……んんんん!!!」
すごくもどかしいのだ。いつかスラスラと言えるようになりたいものだ。それにしても、私はよく努力していると思う。こんなに熱心に何かに取り組むのは初めてなので、どうも疲れてしまった。久々に遊ぶ日でも作ろうか。
あ。
そうだ。
「アサ、ギ……さん?そろそろ……」
ソヨの名前を呼んであげよう。
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