期間限定常設展

韮崎旭

期間限定常設展

 今日もどこへも行かなかったのが嵯峨亨だったのかもしれない。私は思い返す。彼はしかし住居から歩いて12分くらいのコンビニエンスストアにおそらく買いに行ったはずだと。新聞を読むことができなくなって久しいのに、それを気に留めることもしない。気に留める能力が欠落した場合、新聞というものがこの世にあったとしても、人間の力ではどうにもできない気象現象のように思われてならない。今日は新聞が特に気象現象のように思われてならなかったがそもそも新聞の存在や概念を意識しないので、新聞がこの世にあるということに気が付かない。そういう意味で、やはり新聞は嵯峨亨にとって気象現象なのだ。


「このヤギはおいしそうだ」私は言うと、ヤギいわく、

「私はヤギではもうない、国防軍の装甲車だよ。食べたっておいしくない」

「私は血を求めてやまない。装甲車から流れ落ちる血はきっととても甘いのだろうね」

「ああ、哀れなトロールさん。あなたは冷戦末期の水爆実験でとうに蒸発したのに、自信が生きていると思っているのね」

「なんだと?」

「では私はこれで」


 人間と会話することがなくて久しい。2014年度社会的引きこもり調査審議員会による、社会的引きこもりの定義によれば、一日に三度のチャーハンより斧で斬殺するのが大好きだとされている。でも叩き切るのに斧は鉄鍋よりも適しているさ、それは誰だってチャーハンより新鮮な脳が食べたい。新鮮な、生臭いとも思わないような、温かな体液に包まれて安眠している人間の組織が食べたくはないか。それは柔らかで、春先の菜の花の光。あなたの手をそっと握り返すの。それは冬の陽だまりのように、あなたの味覚を静かに壊すの。待っていたならいつまでも死亡し続ける運命。悪いことはないさ、明日はきっと引きこもりの定義など意味をなさない殲滅になるのだから。恐ろしくないのか?

 答えはもう、聞きあきたろうに。


 焼きそばがないことに気が付いてぞっとするが、そもそも私は嵯峨亨がこの手のごみみたいにカロリーばかりある焼きそばが死ぬほど嫌いなことをよく知っている。1997年に水爆実験で蒸発したからではないことは明白である。なぜならその頃嵯峨亨は受精卵ですらなかったから……。社会的引きこもりの定義が初めて行われるのには、あと34年を待つ必要があった。当時の観念では、それは回避的な神経症の一表現型ともされていないかった。個人の問題に帰されていた。なぜなら誰も、それを自分とかかわりのあるものとして、それとかかわりを持ちたくなかったからだ。そうだろう?


「週刊連載 死傷者」はこういうタイミングで創刊され、成人向けの書籍としては異例のヒットを飛ばした。みんな死体が見たい。若い女の裸とかは普段から見飽きている。そもそも当人が若い女だったら本当にわざわざ金を払って見たくもない。そのケースは大いにありうる。でも若い女の死体なら全然見たい。というわけで別に若くも女でもない人間の

必ずしも死んでいるとは限らない写真が大半だったにもかかわらず、「週刊連載 死傷者」はとにかく黎明期だっコンビニエンスストアでどこでも、目玉商品になったのだ。そのせいで一部の封建的な保護者たちから忌み嫌われもしたが、若者はそんなことは気にしない。彼らは土地の値段の下落に気が付き始めていた。穀物はもはや、それそのものでは剤足らないと。だいたい、それはまあ若い女がそれなりに何かしらの着衣や着衣の不在で写真に写っていたら、写真であるというだけの理由で心惹かれたりはするのだが、そこには生活が映り込んでしまいがちだ。しかし死体には生活がない。無機質だ。ゆえにみんな死体が好き。


「もう三日も誰とも口をきいていないな」壁に向かって嵯峨は言う。もう壁しか信用できない。信用などない。壁があるだけだ。焼きそばのカロリーが愚劣なように。人を生活習慣病にする以外、何の役にも立たない。焼きそばだって好きでそんななりをしているわけではない。しかし一歩外に出たら社会生活の臭気がありありと目に見える。そんな場所で生きていたいか? それはあなたを真っ先に鈍麻へと、誘い込まずにいられない悪辣だ。あなたを不必要に活性化させ、「生きる目標を持っている」かのように誤認させ、生活に意味を与えてくれるような無為で無作為な害悪だ。あなたは触れるべきではない。それであるなら、社会的引きこもりの定義に不都合にも収まり、「もう三日も誰とも口をきいていない」状態を常とする方がはるかに生産的だ。三日も誰とも口をきかない人間が誰かと結婚したり家庭の再生産をすることがどれほどあるのか、彼らの怨嗟は家庭へと向くだろうか、最小の社会へと。向くだろう。その怨嗟は家庭の継承の断絶により一部は晴らされる。ゆえに彼らは人口減少に貢献できる。ゆえに彼らは不遇な(ということになっている)「社会的引きこもり」を再生産することがない。ゆえにかれらは人口減に貢献できるので、社会的引きこもりの人々は人間の存在という代えがたい罪悪の削減に貢献できるのである。

だからといって嵯峨亨の感じている惨めさが減退することはない。


 とてつもなく血の巡りが悪いのですぐに知らぬふりをして夜間営業の蕎麦屋へ逃げ込んだ喧騒のことは忘れてしまった。柳の若い芽吹きのすこやかさを歌う詩人の病んだ肺は今日も喫煙でこの世の掃き溜めへと追いやられているが、そういったことが関心事とはなりえないのが、物質乱用の常態化した現代社会であり現代日本であった。私は夜間用の医薬品を自分で量を加減して服用すると吐き気をこらえながら机に向かった。悪い油。絶対にろくでもない油で揚げられた揚げ物のせいで吐き気がしていた。神経質な指がお前はもう使ものにならないから青酸でその血液を清浄にせよ、と笑うのを聞きながら、こんな時間に深夜営業の蕎麦屋に逃げ込むなんてどれほど社会的引きこもりになっていくのかと将来に関して考えている。交友関係の閉じられたありさま、精神科だけが外出先……。精神科に行かなくてはならないが、精神科に遅刻してしまうかもしれない。公共交通機関、人身事故、うん、ありうる、私自身がなにか不具合を持つかもしれない。精神に不具合を抱えているのに

精神科とまで不和を抱えたらどうしよう。精神科とは仲良くしないといけない。遅刻してはならないのだ。

 嵯峨亨のように引きこもっている場合でもなく、私には精神科という用事がある。遅刻はできないから、徹夜することにしたがこれはこれで朝方に仮眠をとりそのまま一二時間くらい眠り続ける心配があった。しかしもし寝坊したら、これから二週間分の医薬品が受け取れなくなるのだ。ああ、向精神薬抜きでこのひどい精神を、この欠陥的被造物をどうやって受け入れたらいいのか考えただけで途方に暮れてしまう。精神科に行かないわけにはいかない。他医を当たるという提案は簡単だがその実態の面倒さを無視している。はやく睡眠導入剤とか、もっと使い勝手のよさそうな医薬品を出してほしい。抗精神病薬にはうんざりだ。私はそれを服用できないから、精神科に遅刻するのではないかと常時おびえていることになる。でも、もし、エチゾラムとかあれば。不安が。多少は。

 揺れている月の水面を映しながら虹彩は嘲笑う。この消耗に意義は無い。

 黒い遊覧を飛び越して、裏返った憧憬が語るさま、喉を裂いて笑えと。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

期間限定常設展 韮崎旭 @nakaimaizumi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ