現実感喪失症候群
Noa
第1話 少女 カリン
「またアイツはゲームしているのか」
男がタバコを吸いながら女に聞いた。
「えぇ、自室に籠ってずっと」
女は男の顔を見ずに答えた。
その手には包丁と夕飯のおかずになるであろう野菜が握られている。
「フン、就職したと思ったら鬱病で部屋から出てこねーとは、とんだ親不孝者だな」
男の眉間にはシワがよっている。右手には二本目のタバコが握られていた。
「………」
しばらくの間、二人は沈黙していた。
その沈黙を破ったのは、先ほどの話の主だった。
「…今日は、日曜日?」
「そうよ」
「そっか、じゃあ、こっちが現実なんだね」
男はさらに眉間にシワを寄せてギロリと睨んだ。
「お前、まだ寝ぼけてんのか?ゲームばかりしているから、現実かどうかもわからなくなるんだ!いい加減、仕事をしろ!現実を見ろ!」
少女は無言で俯いたまま、部屋へと戻って行った。
「言い過ぎなんじゃないかしら?」
「これくらい言わねーとわからないんだよ、アイツは」
そしてまた、夫婦の間を沈黙が訪れる。
「現実を見ろ…?どっちが現実かもわからないのに、どうやって?」
少女はブツブツと呟きながら、机に向かって椅子に腰掛ける。そのままスリープ状態にしていたゲーム機を起動させた。画面には二頭身のキャラクターが映し出されていた。
「父さんはゲームも、引きこもりも、嫌いだもんね。でも、僕の気持ちを少しは考えてくれてもいいじゃないか」
メガネをかけ、コントローラを握ると、それまで虚ろだった瞳を真っ直ぐに画面へと向けた。両親と話す時とは違い、その瞳には光が宿っていた。
「これが現実か夢かなんてわからない。なら、好きな物の中で過ごしていれば、どっちにいても僕は幸せなんだ。だから………邪魔しないでほしいな……」
*
「………」
少女はゲームの電源を落として布団へと潜った。
携帯電話に表示された時刻を見ると、午前一時と書かれている。
「今日は、もう寝るか。なんか異様に眠いし」
充電器に携帯電話を繋ぎ、少女はもそもそと寝返りをうつ。
(今日は、ゾンビじゃないと良いな…)
強烈な睡魔に襲われ、一分と経たないうちに眠りへと堕ちていく。部屋には、静寂が訪れた。
「ここは、学校…?」
目の前には小さな靴箱がいくつも置かれている。見るからに子ども用のようだ。
「小学校…そうだ、ここは、僕が通っていた小学校だ」
ぼんやりとしながら玄関ホールを見渡す。奥には中庭が見えた。小学生の頃によく遊んだことを思い出す。
「変わらないな、ここは」
廊下に出ると、すぐそこに保健室があった。当時、体調を崩してよく通っていた思い入れのある数少ない場所だ。
「……ちゃん…」
「…?」
不意に後ろから声をかけられた。振り返ると、そこには幼馴染みのカリンが立っていた。
「カリン」
「どうしたの?もうみんな体育館に集まっているよ?」
カリンは笑顔でそう言うと、グイッと少女の手を引いて体育館へと向かった。
「カリン、久しぶり」
「何言ってるの?毎日会っているじゃない」
「あれ、そうだっけ…そう、だね、うん、ごめん」
「もう、しっかりしてよ。もうすぐ球技大会なんだからね」
カリンが『球技大会』と口にした途端、ボールが跳ねる音が聞こえた。
どうやら体育館でバスケットボールをしているようだ。掛け声や声援が廊下まで聞こえてくる。
「ほら、もうみんな待っているんだから。早く入ってチームに貢献して来なさいよ」
カリンがガラリと扉を開くと、二つのコートでバスケットボールが行われていた。数人の男子が少女を見つけ、声をかけてくる。
「あ、やっと来たな!」
「おせーぞ!お前がいないから負けそうじゃんか!」
「それはお前が下手だからだよ」
「早く来いよ!」
少女は胸の奥が締め付けられるような気がした。長い間感じていなかったその感情が何なのか、今はまだわからない。だが、とても懐かしい気がした。
「ほら、行っておいで」
カリンが背中をポンっと押してきた。自然と足がコートの方へと向かっていく。
(あぁ、この時間がずっと続けば良いのに…)
そう思った瞬間、目の前の同級生たちは姿を消した。
「…あれ?」
呆然と立ち尽くす少女に、また声がかけられた。
「あれが貴女の理想の学校生活だったの?」
振り返るが、そこに人の姿はなかった。
「今、そこに誰かいたのかな…あれ、何で僕はここにいるんだっけ…?」
まるで霧がかかったかのようについさっきまでの記憶が思い出せない。だが不思議と不安はなかった。
「…あ、職員室に行ってみようかな」
まだ思考はぼんやりとしたままだが、少女の足は職員室の方へと向かっていた。
「あれ、こんなに近かったっけ?」
気がつくと、目の前には職員室の廊下があり、右側には目的地の職員室があった。
「懐かしいな」
「おぉ、こんなところで何しているんだ?」
職員室のドアが開き、中からほっそりとした二十代後半くらいの若い男性が出てきた。
「先生、おはようございます。ただ通りかかっただけですよ」
何故「おはようございます」と言ったのか不思議と気にはならなかった。
「あぁ、おはよう。神沢とは一緒じゃないのか?」
神沢とはカリンの名字だ。いつも一緒に行動するから、恐らくセットで覚えられているのだろう。
「いえ、今日は一緒じゃないですね」
「そうか」
「はい、それじゃあ、失礼しますね」
「あぁ、チャイムがなるまでには教室に戻れよ」
「はい」
男性教師と別れ、ふと窓の外を見た。
空がオレンジ色に染まり始めていた。
「…夕方--逢魔ヶ時になる」
廊下の電気が消え、薄暗くなった。教室の電気も消えている。
「…帰らないと」
玄関ホールへ向かおうと階段に赴くと、一人の少女が立っていた。
「何処に行くの?もうすぐ授業が始まるよ?」
「カリン、退いて。僕は帰る」
「どうして?」
「君はカリンじゃない。それに、これが現実だとしても、皆は僕のことを嫌っているから、僕一人が帰っても別に問題ない」
カリンはキッと睨んできた。だが、少女はもうどうでも良かった。
「じゃあ、これが現実かどうか、確かめてみようか」
そう言って、窓を開けた。小学校の二階に位置する職員室だが、打ち所が悪ければ骨折くらいはするだろう。
「な、やめ…」
「じゃあね」
少女は躊躇することなく、飛び降りた。
「………」
気がつくと、今度は自分のベッドの上だった。
「…これは、現実か?」
携帯電話には午前八時と表記されていた。
「…朝か。少し散歩でもするかな」
寝間着からジーンズにTシャツという、いたってシンプルな服装に着替えて部屋を後にした。
「…眩しいな」
外に出るのは一週間ぶりくらいか。窓があるから太陽には当たるが、こうして直接日の光に当たるのは本当に久しぶりだ。
「…やっぱり、死ななかったな」
フッと先ほどまで見ていた夢の内容を思い出す。だが思い出せたのは自分が窓から飛び降りた光景だけだった。
「いつもの事だけど、何で飛び降りた時だけ痛みがないのかね」
これまでに何度も繰り返してきた『夢の中での飛び降り自殺』だが、一度として痛みを伴ったことはなかった。
「まあ、怖くはないから、別に何ともないけどな」
気分を変えようとゲームセンターへ足を向けたが、まだ朝の八時半。開いているはずもなく、そのままUターンした時だった。夢の中で聞いた声が聞こえてきたのだ。
「あれ、久しぶり!こんなところで何しているの?」
「…カリン」
カリンの姿は夢の中で見た少女の姿ではなく、自分と同じ成人手前の少し子どもっぽさの残る大人の女性のような容姿だ。
「私、ここで働いているんだ。リサは何しているの?」
リサ、私の名前。だけど、なんだか違和感がある。何故だろうか?
だがカリンは気にする様子もなく勝手に話を進めた。
「あ、もしかして大学サボって遊ぼうとか考えてた?!あれ、そもそもリサって大学生?社会人?」
顎に人差し指を当てて、カリンは小首を傾げた。
「…フリーターだよ」
「え、本当に?!」
心底驚いたと言わんばかりに目を丸くする。小学生の時から成長していないのかと思うほどに変わっていない。
「ごめん、そろそろ帰るよ。仕事頑張って」
「あ、うん!またね!」
私は踵を返し、帰路につく。
「また、あとでね…」
カリンがそう呟いたことを、少女は知らない。
これが夢なのか、現実なのか、あなたにはわかりますか?
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