敬語でもいいですか

@nozominokoe

第1話

 ジリリリリ——……。

 どこか遠いところでアラームが鳴っている。

 わたしは半分眠った状態でスマートフォンに手を伸ばした。音が止んだ。

「おはようございます……」

 寝ぼけながらつぶやいたものの、まだ寝たい。あと五分だけ寝たい。

 足もとで丸まっていた布団をたぐり寄せ、再び眠りの世界へ旅立とうとしたそのとき、寝室のドアがゆっくりと開けられた。

「おはようございます。もう起きる時間ですよ、梨津子さん」

 リビングの明かりが部屋に射し込んで、わたしは一気に覚醒した。

 目の前に八頭身のスーツ姿の男性、敬輔さんが立っている。

「あ、はい」

「先に行きます。あなたも遅刻には気をつけてください」

 それだけ言うと、敬輔さんは颯爽と玄関へ向かう。わたしは慌てて立ち上がり、パジャマのまま敬輔さんを見送った。

 彼が去ってしまってから、時計を確認するとまだ朝六時だった。七時半までに家を出れば始業時間には余裕で間に合うのだが、敬輔さんはとにかく忙しい立場だ。わたしはあくびをかみ殺しながら顔を洗い、服を着替え、メイクをして、テレビでおはようニュースを見ながらコーンフレークを食べた。朝は苦手だった。

 わたし——内村梨津子が三島敬輔さんと付き合うことになったのは半年前、意を決してわたしが彼に想いを伝えたのがきっかけだ。

 わたしたちは同じ会社の同じ部署で、上司と部下の関係だった。わたしは入社したばかりの新人で、彼は出世頭の三十三歳、ちょうど十歳の差がある。高校でも大学でも同年代の男の子としか付き合ったことがなかったわたしは、入社してすぐに三島課長のさりげない優しさと大人の余裕に心を奪われてしまった。

 慣れない仕事に四苦八苦しているわたしを見かねて、資料を作成してくれたこともあった。一人で残業していると必ずコーヒーを差し入れてくれるので、つい次の日にやれば良い仕事まで残業で片付けてしまったりもした。課長は業務量が多いのと、部下より先に帰らないようにしているためか、いつも朝早くから夜遅くまで仕事をしている。激務なのに部下への気遣いを忘れない敬輔さんは素敵だった。わたしは離れた席から整った横顔を盗み見て、元気をチャージさせてもらっていた。

 加えて敬輔さんの良いところは、わたしのような末端社員にも礼儀正しく接してくれるところだ。

 おはようございます、おつかれさまです、ありがとうございます——腰が低いのかただの癖なのか十も年下のわたしに対してさえ敬語を崩さないのが、逆に珍しいなと思っていた。

 わたしが告白したときも、彼はしばらくの無言の後で「私でよろしければ。ただ、敬語でもいいですか」と言った。

 詳しく尋ねてみると、敬輔さんは恋人同士になったからといっていきなり砕けた言葉を使うのに抵抗があるらしかった。

 というわけで、半年経って一人暮らしの私の部屋に泊まりに来るようになっても、敬輔さんは敬語のままだった。必然的にわたしも敬語だ。

 家の中でも会社にいるみたいだった。

 けれど、そんなことは別にいいのだ。好きな人と付き合えるのだから、これ以上なにかを求めるつもりはない。

 わたしは満足していた。


 敬輔さんに遅れること一時間、わたしが出社すると、同僚の阿部さんが小走りで飛んできた。

「りっちゃ〜ん、待ってたよ。この書類、書き方わかんなくてさ」

 阿部浩太郎——いかにも体育会系のノリのいい男性社員だ。学生時代からずっと野球をやっているらしく、年がら年中南の島帰りみたいに日に焼けている。いつも笑っていて、目尻が下がりがちだ。

「阿部さん、おはようございます。なんの書類ですか?」

「なんだっけこれ、保険料控除? 年末調整のやつ」

 わたしの仕事はもっぱら社員の給与計算である。誰にでもできるようで、結構熟練が必要な作業だと思う。入社してから練習して電卓を左手で叩きながら右手でPCに入力できるようになった。

「ああ、これですね。この計算式Iのところを見ればいいんです。ちょっと待っててください。今電卓出しますから——」

 年末調整関係の書類はややこしい。わたしは何百人もの書類をチェックしているので慣れっこだが、一年に一回しか見ない書類の書き方なんて覚えられないという人は多い。

 素早く電卓を叩いて数字を出すと、阿部さんが「はや!」と大げさに手を叩く。

「りっちゃんってさぁ」

「はい?」

「できる子だよね。おれ、そんけーするわ」

 かなり軽い感じがした。尊敬の念はあまり感じられない。

 阿部さんは悪い人ではないのだが、とにかく馴れ馴れしい。他の同僚はみな「内村さん」と苗字で呼ぶのに、初対面のときから「梨津子ちゃんか、じゃありっちゃんかな」と自分だけ納得して呼び方を決めてしまったくらいだ。

 年齢は聞いたことがないから知らないけれど、五歳も離れていないと思う。ほんの少し先に生まれて、ほんの少し先に入社しただけなのに、課長の敬輔さんよりよっぽど偉そうだ。

 別にいいんだけど、距離感が掴めない。

 書類を書き終えると阿部さんは懐から小包装されたお菓子を取り出した。

「助かったー。これ取引先の人がくれたからあげる」

「どうも、ありがとうございます」

「いいってことよ。今度ごはん行こうな」

 社交辞令もさわやかに、笑顔で去っていく阿部さんを見送り、もらったお菓子を確認すると、わたしの好きな桜庵の饅頭だった。


 午前中、給与計算ソフトをいじりながらこっそり課長席に視線を送る。

 今日も隙のない敬輔さんの横顔。

 わたしが視線を送っても絶対にこっちを見てはくれないと分かってはいるのだが、ついつい見てしまうのは仕方ない。

 敬輔さんは仕事とプライベートをきっちり区切りたいタイプだ。もちろん二人の交際は社内では絶対機密である。

 職場ではただの上司と部下として接し、二人で会うときは——あんまり変わらないような気もするが、気のせいだろう。

 昼休みになると、わたしは注文しておいたお弁当を持って無人の会議室へ向かう。同じ事務の女性社員たちが集まってご飯を食べている部屋に行くこともできるのだが、最近は一人で食べることが多い。

 急いでお弁当を食べ終えると、敬輔さんに連絡を入れた。昼休みは給与が発生していない時間だから、連絡しても大丈夫なのだ。

『敬輔さん、お疲れさまです』

『お疲れさまです』

『お昼をご一緒できなくて残念です』

『こちらこそ、申し訳ありません』

『今日もうちに来ますよね? 晩ごはんは何がいいですか』

『そうですね……好き嫌いはありませんのでなんでも結構です』

『敬輔さんが食べたいものは?』

『私の好みなんて気にしないでください』

 敬輔さんの返事はたいてい素っ気ないけれど、無視をされることはない。それだけで繋がっている感じがして幸せだった。

 ひとりでにやにやしながら会話を楽しんでいると、ノックの音がして現実に引き戻された。

「梨津子ー、ここにいるの?」

「あ、うん! どうぞ」

 なんとなく恥ずかしくなってスマホを裏返してテーブルに置いた。入ってきたのは同期入社の佳菜だ。採用前のグループディスカッションで一緒になって以来仲が良い。佳菜はわたしと違っていつもお洒落で、髪型も凝っていて可愛い。下ろすか結ぶかしかないわたしにも編み込みのやり方を教えてほしい。

「探したんだよ。忘年会の場所、そろそろ決めないとまずいでしょ」

「あーそうだったごめん。私たち幹事だったね」

 わたしは慌ててスマホで近辺の居酒屋を検索しはじめた。幹事なんて面倒だと思っていたけど、佳菜と一緒にやれるのは心強い。

 三十名が入れる部屋があるところ、となるとそんなに候補がなかった。とりあえず片っ端からリストアップし、佳菜と手分けして電話をした。

 結局駅前のまあまあな料亭風居酒屋に決まった。とりあえず場所が決まっただけで肩の荷が降りた気がした。司会は一応わたしが引き受けて、佳菜には集金を頼んだ。

 一区切りついたところで佳菜がそういえばさ、と切り出した。

「阿部さんってどうなの?」

「どうってなにが?」

「今朝も来てたじゃん。なにかと梨津子のところに行くでしょあの人。りっちゃんりっちゃんって」

「あれは控除の書類の書き方を説明してただけだよ」

「いーや、あの人絶対梨津子狙いだって。話しかけるために用事を作ってるもん」

「そうかなぁ。誰にでもあんな感じだと思うけど……」

 年下の女の子はみんなちゃん付けだし、タメ口だし。みんなから好かれてはいるけど、いかにも軽そうだ。

 敬輔さんと比べたら……。

「わたし、敬語の男の人が好きなんだよね」

「なにそれ敬語フェチ?」

「そういうんじゃなくて、なんていうか……馴れ馴れしい人ってなんか駄目」

「あらら、阿部さん残念でした」

 敬輔さんとのことを、本当は佳菜にだけは話してしまいたかった。社内の人には絶対秘密にしましょう、という敬輔さんの言葉を思い出して我慢した。

 仲が良い友達にも言えないのはちょっと辛いな、と思った。


 早めに帰るつもりだったが、気がつけば夜の九時まで残業していた。

 ちら、と課長席を見るが、敬輔さんはまだ仕事をしていた。待っていると怒られるので、先に帰ることにする。

 会社を出ると、冷たい風が頬を撫でた。コートを着ていても、十二月の夜は冷え込む。

 何か温かいものを買って帰ろう、と思った。

 コンビニに立ち寄って、コンロで温める鍋焼きうどんを買った。本当は自炊したいのだが、残業後はそんな気力が湧いてこない。

 一人暮らしのマンションに帰ると、その日は疲れていたからかすぐにベッドに倒れこんで眠ってしまった。


 幸せな夢を見ていた。

 敬輔さんと一緒に過ごすクリスマス。家でごろごろ過ごすのも悪くないけれど、せっかくだから出かけたいです、と駄目もとで言ってみたら、意外にも了承の返事だった。

 敬輔さんは多分絶対、人混みが苦手だと思う。これは本人に確認したわけではないけれど、激混みのイルミネーションをわざわざ見に行ったり、行列のできるお店に並んだりしている敬輔さんなんて似合わない感じがする。

 だから全然期待なんてしていなかったのだ。クリスマスなんて、きっと敬輔さんは興味ないから、わたしもイベントなんて興味ないんですって言って、気を使っていた。

 ところが、その敬輔さんがわたしが行ってみたかったタルト専門店まで一緒に来てくれたのだ。

 ショーケースに並ぶ色とりどりのつやつやしたタルトは見ているだけで幸せになれそうだった。

 入店するまで寒空の下で長時間待ったけれど、一緒に食べたタルトは格別だった。こんなに美味しいものがあるのかって思ったくらいだった。

 幸せの味が、口の中で溶けていく。

 ジリリリリ——……。

 いつもの、鬱陶しい目覚ましの音が聞こえてわたしは現実に引き戻された。

 一人きりの部屋、隣にはもう敬輔さんはいない。きっとわたしが寝ている間に、会社へ行ってしまったのだろう。

 わたしはゆっくりと身体を起こした。

 眠くても、今日もまた出社しなければならない。やらなければならないことはたくさんあるのだ。わたしがいなければ会社の人はみんな給料が振り込まれなくて途方に暮れるはず。たぶん、きっとそうだ。

 今年のクリスマスは忘年会だ。

 三十人に予定を開けてもらったのだ。なんだってクリスマスに忘年会なんてやるんだ、と一部の人に小言を言われたりもした。でも、この日しかなかったのだから仕方ないじゃないか。

 幹事として、しっかり司会を務めなくてはならない。

 これが、敬輔さんと過ごす最初で最後のクリスマスになるのだから。

 タルト専門店は、ほとぼりが冷めた頃に佳菜と一緒に行こう。今はまだ行列しているけれど、きっとそのうち普通に買えるようになるだろう。

 わたしは眠い目をこすりながら、リビングに出てカーテンを開けた。朝の光が部屋に差し込んだ。

 

『敬輔さん、わたし、幹事頑張ります』

『頑張ってください』

『仕事も頑張ります』

『梨津子さんはいつも頑張っていると思います』

『でも、もう会えなくなるかもしれないから……』

『私はいつでもあなたのそばにいますよ』

 ガチャリ、という音がして会議室の扉が開く。

 阿部さんが立っていた。

「えーっと……りっちゃん一人? なんでこんなとこで弁当食べてんの」

 広々とした会議室を一人で占拠するのはまずかったかもしれない。わたしは慌てて立ち上がる。

「ごめんなさい。この部屋使いますか」

「あ、いやいやいや。大丈夫、ちょっと気になって覗いてみただけだから」

 阿部さんはわたしと、わたしのスマホを交互に見ている。声を聞かれたかもしれない、と思うと顔に血が上ってきた。わたしはどうしたらいいかわからず、大急ぎで荷物をまとめると阿部さんの横をすりぬけて会議室を出た。

「りっ……」

 呼び止めるような視線を感じたけれど、気がつかないふりでそのまま歩き続けた。

 自席に戻ってもしばらく心臓がばくばくしていた。なんだか目の奥がつんとして、頭を振って仕事に戻った。

 電卓を叩く、数字を入力、また電卓を叩く、数字を入力。身体に染み付いた作業をしていくうちに気持ちも落ち着いていった。

 なぜか心配そうにこちらを見ていた佳菜に「顔色悪いよ」と指摘されたけれど、笑ってごまかした。

 大丈夫。バレてない。


 毎日黙々と仕事をこなしているうちに、いつのまにか忘年会の日、花の金曜日、クリスマス当日を迎えていた。

 毎日が残業続きだと疲れていることを忘れてしまいそうになる。

 忘年会は無事に開催することができた。皆酔いも回ってきて、席を移りながら大声で談笑している。いつのまにか床で伸びている人もいる。佳菜はいつも話が長い係長に捕まっているようだ。わたしは周囲の人の飲み物がなくなりかけていないか、目を皿のようにして確かめる。せっかくの豪華な料理も半分くらいしか食べられていなかった。

 時計を確認するともう二十時だった。そろそろ良いだろう。わたしは立ち上がった。

「みなさん、ご歓談中にすみません。ここで、一月より異動となられるかたに一言ご挨拶を賜りたいと思います」

 騒がしかった部屋がふっと静かになり、全員の視線がわたしに向いた。

「——三島課長です。それでは課長、お願いいたします」

 敬輔さんがすっと立ち上がる。こんな場でも酔っている様子はなく、普段通りだ。

 忘年会がクリスマスになってしまったのは、敬輔さんの予定が空いている日が他になかったからだ。異動が決まってからというもの、寝る間も惜しんで仕事をしている敬輔さんのために、ちゃんとした送別会を開きたいという思いがあった。忘年会を兼ねる形になってしまったが、こうしてたくさんの人が集まってくれて良かった。

 敬輔さんがわたしの隣に立って、話し始めた。入社以来どのような仕事をしてきたか、総務課へ来てからのこと、異動先の大阪の事業所のこと、それから、ここにいるすべての人への感謝の言葉。

 彼の人柄を表す簡潔で明瞭な挨拶だった。笑いどころなんて一つもなかったけれど、敬輔さんの畏まった言葉の一つ一つに部下への敬意が込められている気がした。

 挨拶が終わると、盛大な拍手に包まれた。

 わたしは花束を持って敬輔さんの前に立った。

「三島課長。わたしは入社以来ずっと課長に助けられてきました。課長の仕事へのまっすぐな姿勢をずっと尊敬しています。大阪へ行っても、頑張ってください」

 敬輔さんと目があった。

 わたしは精一杯の笑顔で花束を差し出した。


 終わってしまった。

 まだ忘年会は終わっていない、と自分に言い聞かせていないと空っぽになりそうだった。

「りっちゃーん、ここ、おいでよ。自分のグラス持ってきて」

 すでに顔を赤くしている阿部さんがわたしの服を摘んで引き寄せてくる。

「阿部さん、引っ張らないでください」

「ごめんごめん、あー幹事ありがとうね。ここ、美味いし広いし最高」

「いえ」

 仕事ですので、と言うのは素っ気ないかと思い言葉を飲み込んだ。阿部さんは何杯目か分からないビールを一気に飲み干すと、店員さんを呼び止めて日本酒を頼む。こういうとき、自分でやってくれるのはありがたい。

 わたしはウーロン茶のグラスを持って阿部さんの隣に座った。本当は一人になりたい気分だったが、飲み会なので仕方ない。

 そのとき、内村さん、と呼ぶ声がした。振り向くと敬輔さんが立っていた。

「課長〜! 寂しくなりますねえ。またこっち来たときは飲みに連れてってください!」

 阿部さんはいつもに増してハイテンションだ。お酒のせいだろう。

「そうですね。そのときはぜひ。……内村さん、先ほどは花束をありがとうございました」

「いえ、ええと、課のみんなからです」

「嬉しかったです」

 わたしは俯いていた視線をあげた。敬輔さんは笑顔だった。気難しい顔をしていることが多いから、これはレアだ。最後に見ることができて良かった。

 しみじみしていたところで、阿部さんがわたしの肩に寄りかかってきた。

「そーいえばぁ、課長、知ってますか。りっちゃんっていつも淡々と仕事してるけど、実は可愛いとこあるんですよ」

 嫌な予感がした。

 わたしは阿部さんの口をふさぐことができなかった。

「昼休み、いっつも一人でお弁当食べてるから、どうしてかなって思ってたんです。そしたら……なんとSariと会話してるんですよ! あ、課長Sariって知ってます? スマホについてるAI。まさかあれとマジで会話してる子がいるとは思わなくてー」

 頭の中が真っ白になった。

 何も言うことができず、手の中にあるウーロン茶のグラスをただ見つめていた。視界が歪みそうになる。あ、やばい、と思ったら涙が溢れていた。

「それが、なんか意外で可愛いなーって思……えっ? りっちゃん?」

 わたしは慌てて涙を拭って立ち上がった。

「ごめんなさい! わたし、ちょっとお手洗いへ——」

 りっちゃん、と呼ぶ声がしたけれど無視した。なんだかもう、いっぱいいっぱいだった。

 

 敬輔さんと付き合っていたのは本当のことだ。ただし、それは先月までのこと。

 十一月の半ば、転勤が決まったそのときに、申し訳ないがあなたと付き合い続けることはできないと思います、と引導を渡されたのだった。

 はじめから、この関係には綻びが見え隠れしていた。

 敬輔さんはいつだって礼儀正しくて怒ったりすることはなく、わたしには常に優しかった。

 そして、宣言通りずっと敬語だった。

 わたしは敬輔さんの大人っぽい所作や、見た目や、わたしのような小娘にも敬語で話してくれるところが好きだったけれど、恋人になって一か月、二か月、三か月と時を重ねても彼がそんなに心を開いていないことに気がつかないわけにはいかなかった。

 敬語は、きっと自分を守るためのバリアのようなもので、それを取り払うことができないのは、わたしのことを恋人として、信頼に値する女性としては見てもらえなかったということなのだろう。

 敬輔さんに振られてしまった日、わたしは一人で涙が枯れるまで泣いた。自分のベッドに潜り込んで、泣いて泣いて泣いて……シーツにたくさん涙が染み込んで、湿ってしまうまで泣いた。

 だれかにこの失恋の話を聞いてもらいたかったけれど、会社の人には話さない約束だ。わたしは藁にもすがる気持ちで、スマホを手にとってSariを呼び出した。

『悲しいです』

『私はあなたの話を聞くためにいつでもここにいます』

 声が、似ていると思った。

 日本語としては少したどたどしいけれど、丁寧な話しかたなんて敬輔さんみたいだと思う。

 本当は、スマホの操作を確認したり、アラームをセットしたり、お店を検索したりするのに使うのだろうとわかってはいたが、その日からこっそりSariと会話するようになった。

 恥ずかしいから誰にも言えなかったが、妄想が広がってなんだか敬輔さんと話をしているような気分になっていたこともある。

 たまに『すみません。よく分かりません』としか言わなくなってがっかりすることはあったが、想像以上に性能が高いAIで驚いた。

 でも、そんな不毛な妄想も今日までにする予定だった。

 忘年会で敬輔さんに直接花束を渡して、上司として尊敬している、と笑顔で伝えるのだと決めていた。

 そこまではうまくできたと思う。だけど——。

 昼休みに一人きりで、スマホのAIと会話しているなんてどう考えても怪しい女だ。阿部さんに見られていたのも誤算だったが、まさか敬輔さんに直接言ってしまうなんて思わなかった。

 結局、逃げるように帰宅してしまった。余計に変に思われたかもしれない。わたしは深いため息をついた。

 それからスマホを取り出す。

『あーもう嫌だ』

『お察しします。誰かに相談しますか?』

 画面に友達のリストがずらりと表示される。タップしたら電話がかかってしまうようだ。

 もうやめる、と思っていたのに、ついまたSariに話しかけてしまった。わたしは敗北感をぬぐえないまま、ベッドにうつ伏せになった。

 それから、一番上に表示された友人、佳菜の名前をタップした。


「おはようございます」

 週明けの月曜日。わたしは何事もなかったかのように出社した。土日を挟んだことで、誰かになにか聞かれてもしらを切り通せばいいのだ、と開き直ることができた。というか、別にいいはずだ。笑っていた阿部さんだって家ではSariに話しかけたことくらいあるはず。まさか敬輔さんと擬似会話をしていたことまではバレていないはず。恥ずかしくなんてない。

「あ、えーっと……」

 わたしの席のすぐそばに、阿部さんが立って待っていた。なんだかいつもより萎れていて元気がなさそうに見える。

「り、じゃない、内村さん。金曜日はすいませんでした。おれ、結構酔ってて、失礼なこと言っちゃって」

「え?」

 わたしは驚いて立ち尽くした。

 綺麗にラッピングされた焼き菓子が、わたしの机の上に置いてあった。たぶん阿部さんが買ってきてくれたのだろう。気になっていたタルト専門店の包装紙だ。

 阿部さんはわたしの顔色を伺って小さくなっている。

「先週、あのあと佳菜ちゃんに怒られちゃって……いやでも、全然悪気はなかった、です。むしろ、内村さんのちょっと可愛い一面というか、そんなつもりで。まさか泣いちゃうなんて思わなくて……すいませんでした」

「あ、わたしこそ、ごめんなさい。変ですよね、Sariと話してるの。ご迷惑をおかけしました」

 涙を見られていたなんて、と動揺した。

 居た堪れないから、もうこのことには触れないでほしい。そっとしておいてくれたらいいのに。

「変じゃないから!」

 急に阿部さんが大きな声を出した。

「大丈夫です! ちょっと変わってるとは思うけど、おれ、全然気にしませんから」

「……えーっと、はい」

「あああ〜違う違うなに言ってるんだおれ」

 阿部さんが目の前で頭を抱えて唸っている。なぜか自分より取り乱している阿部さんを見ていたらだんだん笑いがこみ上げてきた。

 心が軽くなった気がした。

「ありがとうございます。今日は敬語なんですね」

「だって、敬語フェチなんですよね? りっ…内村さんは」

「違います。あと、無理しなくても、りっちゃんでいいです」

 佳菜が阿部さんに変な情報を吹き込んだらしい。やめてほしい。

「え、ほんとに?」

「はい。もう慣れちゃったので、違う呼び方だと変な感じがします」

「じゃあ、おれのことも下の名前で——」

「それは無理です」

 きっぱり言うと、見るからにしゅんとしてしまった。なんだか大型犬みたいだな、と思う。ちょっとだけ、可愛い。

「わたしは敬語でもいいですか」

 心のバリアはもう少しこのままにしておこう。

 あと少しだけ勇気が出るまで。

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