[日記]氾濫し、消費するもの

 短いスパンで更新されるコンテンツたちを、あなたはどれくらい視聴しているだろうか? あるいは、鑑賞だろうか?

 私はといえば、ほぼ毎週放送されるアニメしかり、毎日更新のブログしかり、ほぼ毎日更新の動画しかり……少なくとも視聴していない、とはいえない。


 で、少し前から目にするようになった気がするのだが、最近のコンテンツは、鑑賞されるものではなく消費されるものになっているのではないか、という旨の記事を見かける。

 たしかに広告含め、様々なものが嫌でも目につく。そこには技術なんてものは関係なく、単に人気を得られるか、得られないかの基準で表示されている。つまり、作品が氾濫しているのである。

 それ自体はいいことだと思う。誰かはこれを描き、私はこれを作る。大いにいいことだと思うし、自害を図るくらいならそんなことに興じればいいと思う。


 しかし丹精込めて作られたものは、一定の評価を得ているものは、果たして鑑賞されているか、と言われるとどうなのだろうとは思う。

 作品というものは鑑賞されて、初めて評価されるものである。消費しても得られる評価はあるが、それは万人受けになりがちにならないだろうか?

 色々とあって全部見たいから……それは結構である。どんな形であれ視聴者が、鑑賞者がいなければ作品は価値を得られないのだから。

 だがあなたは、鑑賞者から消費者になっていないだろうか? ただ一時の娯楽ありがとう、さようなら、となっていないだろうか?

 別に感想を、コメントを送れと言っているわけではない。その鑑賞した分だけ、あなたは何かを得られているか、という話だ。


 モブの何気ない一言にはっとするだけでもいい。

 主人公が選択した決意を噛み締めてもいい。

 分かりきっていた結末に辟易しててもいい。

 キャラクタに魅力を覚えられなかったと言ってもいい。


 ただ目の前で、部外者の私は眺めているだけに留まらない、視聴者のうちの鑑賞者であろうと、しているだろうか?

 もちろん、作業の片手間に流しているだけ、なんていうこともあるだろう。そんなときは、ちょっとの休憩に、演者を眺めてみるべきだろう。

 どうしてこれが流れているんだっけ?

 この人の語りが好きだ。

 力強い歌詞に惹かれる。

 それだけであなたは、ただ作品を消費する人であることから、脱することができる。


 私は私であるが、私は私だけでできていない。

 だから、私は作品を鑑賞するのだから。

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