[日記]文を読めないとは
先日、このような内容を見た。
日本語を読めない人は一定数存在しており、彼らは助詞などを読み替えたり、書いていないことを付け加える傾向がある、と。
なるほど、たしかに。単語の意味を拾っていけば、およその文章は分かるから、いつの間にか助詞を読み違えて、全く違う文章が出来上がる、ということだ。
それも、長い文章を用意すると情報が増えるため、主語がすりかわっている、なんていう状況もよくありそうなことである。
さて、では文章を自主的に書いている人はどうなのだろう? 読めていない人が一定数いるのが確かであるにしても、書いている人は、相対的に割合が少ない、何て言うことはあるのだろうか? あるような気はする。
いや、そもそも書くと、読むはやることが違うから、そうでもないのだろうか? 読むうえで書いていないことを読み出した、としよう。ではそれを書き出してください、と指示したとき、読み取られた情報と書かれた情報が一致している、ということも考えられる。
例えば、アンに言われてメアリーが椅子に座った、というような文を、アンがメアリーに言われて椅子に座った、というふうに認識されたとしよう(そもそも順序が変わっているので解釈違いはそうそうないだろうが)。
このとき、もとの文は解釈された内容とは異なるが、解釈された内容を書き出したものと比較すれば、これは全く同じ情報を持つことになる。
すなわち、イメージしたものを書き出した場合、この読めないという方に分類することができないのだ。しかも原文が存在しないため、その人は読めるのか、という問いに対しては、解なし、と答えざるを得ない。
もちろん、ここで登場するのは読み返しだが、これは、内容をすり替える癖のある人がやるとどうなるのだろうか? しかも脳内に元のイメージがあるのだから、書いていることをスルーして満足する。それはもう悲惨なことになることは、想像に難くない。
しかし実際はどうなのだろうか。人一倍読み返している書いている人たちは、ある程度は読む力そのものは鍛えられているはずである
そこに記されている情報を一つずつ汲み取り、何が足りないのか。そういったものも、なんだかんだで特殊な技能である、ということなのだろうか?
ひとまず、書くにしても読むにしても、ちょっとばかり特殊なようだ。誰でもできるもの、と遠慮せずに、日本語読めます、と胸を張ってみてもいいのではないのだろうか
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