[創作論]難しいと楽しいの反復横飛び

 これは面白いのか?

 そういうことは、作る上で考えてはいけないことだ、とされている。面白いと思った発起人である作者が、何かの拍子に思い浮かぶのだ。


 まぁそれは必然として捉えるとして、面白くないと考えてしまうのはなぜなのてしょうか。

 自分が面白いと思っていたものが、つまらないものの代表格のように写る。穴が見えたり、はたまた詰めていくうちに身動きがとれなくなったり。

 思うのは、手の内がばれてしまっているから、なのでしょう。

 作者自身は読者ではない。だが閃きが舞い降りたとき、自身は読者であるから、ではないでしょうか。


 例えば一作、自分の面白いと感じたものを思い浮かべてください。どうして面白かったのか、を考えてみてください。

 そこには明らかになっていく情報や、展開などがありませんか?

 影響というのは何にしても受けるもので、そういった未知が既知となった展開というものは、自身の描くものに反映されてしまいます。

 するとオリジナルという形でいくら出力しても、そこには脚本通りのシナリオしか発生しません。未知が存在しないんですよね。

 既知、既知、既知。どれだけ見渡しても心踊ったあの未知は存在せず、つまらなく感じてしまう。


 しかし作ることっていうのはそういうことで、あなたは台本を用意することはできるし、飾り付けも自由にできる。

 ただ、そこに未知はない。予定していた通りの形になってしまう。

 そう考えると、誰かの未知を用意することは、作る側としては非常に難しいことなんですね。


 維持するには気分転換がいいとは言いますが、さて、根本的な解決になっているのかどうか、顧みてみてもいいかもしれません。

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