[短編(市場)]第840話 ちょっかいをかける。

 その日、魔女は一人で本を読んでいた。

 まだ朝靄のかかる樹海のなかで、湿った空気のせいか、橙の鱗にできた水滴を無視して、紫色の衣を身につけて、座って、分厚い本を片手で支え、もう片方でページを繰っていく。

 一分ほどで、次へ。示された道を辿る視線は、いっさい狂うことなく導かれていく。

 と、彼女の背後から、室内外をしきる布をかき分けて、小屋の中から顔を出したのは青いやつ。魔女の同居人ではあるが、召し使いでもなんでもない彼は湿った空気をめいっぱい吸い込んだかと思うと、じっと彼女を観察し始めた。

 紙が小さな音を立てて、背中を背にくるりと反転する。爪に付けられた滑り止めを使って、まためくられる。

 はたと目を見開いた青は、ゆっくりと足を踏み出した。雑草の抜かれた地面を、音を立てぬよう踏みしめて、尻尾が擦れないよう軽く、ぴんと持ち上げて。

 彼が近づいてこようと、橙は見向きもしなかった。ただただ、本を読む。それはただの小説で、冒険家が記した手記を、一般層に向けて書き下ろしたものだという。

 やがて彼は、彼女の背後をとることに成功する。しばらくは気配を殺しながら様子を伺っていたが、一向に気づく気配がないので、にんまりとした彼は仕掛けることにしたようである。

 後ろ足に力を込めて、上半身をばねのように縮めて、わずかに両前足を浮かせると、びよんとその背中にとびかかる。

 べしゃ、と本が地面に落ちて、びくんと、ばくばくと。そんな反応を示した橙の肩に顎をつき出すと、じろりとした赤い目が彼を見つめる。

 なんでそんなことを、という内容の問いかけに、やりたかったから、と楽しそうに笑う同居人ではあるが、続けて怒ったか、と問いかける。

 しばしの沈黙のあと、怒ってはない、という答え。しかし侮蔑の感情の込められたその視線に、おずおずと青は自身のスペースへと移動して、横になる。

 本を拾い上げ、土を払い落とした彼女は、先ほどまでのページを目指して繰っていく。

 ご飯は食べたの、と問いかけられても、もう聞こえていない様子だった。

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