[短編(オリ)・創作論]禁忌たる力に

 念願の禁書を開いた彼は、かつてこう口にしていた。

「全ての知は公にされるべきだ」

 あるときはこんなことも。

「高僧の言う、禁忌。これは知ろうとしないから禁忌と呼ばれているだけであって、理解すれば素晴らしき知となるに違いない」

 好奇心旺盛な彼は今、世界のあらゆる災いと知として封じ込めたと言われている本を盗み出し、食い入るように読んでいる。

 どうしてこれが禁書と呼ばれるのか。まさか、こんな数百頁の本に災厄が封じられているなんて、にわかに信じられることではない。

 この本は人類史の起源に作られたものだという。混沌に覆われた大地に住まう人々を救うべく、神が本という知識を地上にもたらし、人々が平穏に生きられる大地を生み出したのだとか。

 では、まずは混沌とは? 信徒として教義に疑問を持つなど、牢屋にぶちこまれる覚悟のある愚か者のすることだが、そんなカオスの中にどうして人間がいたのだろう?

 むしろ、人間自体もカオスの一部なのではないかと疑っているが……。

 さて、彼の方はどうだろうか。面白いことがあったのか、にやついている。

 声をかけてみても、あまりにも夢中なのか、無視された。まぁ、目一杯読ませてやるか。見回りはここまで来る気配はないし。


◆◆◆◆


 封印されていた力を解放して災厄がもたらされるパターン。そして「彼」は依り身に使われる未来が見える。


 物語の序盤で封印パワーが解き放たれて、主人公たちが奔走するパターンがあるわけですが、そもそも封印とか禁忌の力とか、どうして考えられ始めたんでしょうね。

 単に才能のある強い旅人がふらふらと諸国漫遊するのもいいし、財力にものを言わせて収集欲を満たす富豪の日常でもいい。それで物語が成立するのですから。

 しかしどうして、外部に存在する絶対的災厄を、物語に用意する必要が出てきたのでしょうか?

 魔王とかも同じでしょうね。内ではなく外に敵を用意する。まぁ、戦争とか宗派でどっちが絶対悪とかっていうのもありますが……。


 それこそ、世界的な宗教にも悪魔にとりつかれているから奇行に走る、という考え方はまだあることを考えると、やはり、性善説、なんですかねぇ。性悪説は外からのノイズによって引き起こされるのであり、敵は外側にいるのだ、と。

 物語を構築する上で、外部の共通敵を用意するのは、非常に単純明快かつ理解しやすいですからね。だから採用されやすい、とも考えられますが、さて起源はいかに。

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