あれからとこれから

第423話 特別編① わたしと一緒に映画に出演(で)て!

 タケル・エンペドクレスは異世界の魔王である。

 だが、もともとは地球人だった。


 異世界に転移し、愛を知り、絶望を知り、無力を知ったそのとき、彼の前にチカラあるものが現れる。


 自らの長すぎる生に飽いていたその男の名前はディーオ・エンペドクレス。

 比類なき魔王であるにも関わらず、彼は自らの死を望む。


 理不尽な死に瀕していたタケルに興味を持ったディーオは、自らのチカラを少年へと譲渡する。


 その瞬間から、タケル少年は名をタケル・エンペドクレスと改め、異世界どころか地球をも股にかけた大冒険へと出発した――



 *



「はい、これ。頭に入れといてね」


「は?」


 ここは魔法世界マクマティカと呼ばれる異世界。

 三大陸の中央部、ヒルベルト大陸の南部に存在するダフトン市。

 近隣にルレネー河という大河川を望み、ジオグラシア海からもほど近い肥沃な土地。


 その中心街の少し外れた丘の上には堅牢な城がそびえ立つ。

 街を見下ろすように建てられたその城は『龍王城』。

 根源27貴族のなかでも最強と謳われる龍神族の王――タケル・エンペドクレスの居城である。


「いやいや、突然なんだよ?」


 城の主であり、街一番の名士であるタケル王は突然渡された分厚い冊子――大昔の電話帳くらいある厚さ――に訝しみ、自身の妻を見上げた。


「だからー、オーディション対策用のレポート。全部見ておいて」


 さも当然のようにタケル王の妻……の一人、綾瀬川心深あやせがわここみは答えた。


 ちなみに彼らがいつも集まる部屋は、異世界建築のさなかにあって、あまりにも日本的な雰囲気だった。


 大きく開かれた窓の向こうにはバルコニーがあり、その向こうには中庭と、さらに向こうには断崖絶壁、そして街が一望できる。


 室内は床暖房完備でエアコンもあり、夏冬快適に過ごせるようになっている。

 さらにタケル王のこだわりにより、絨毯が敷かれた床は、裸足で過ごすことを前提にしており、その中央には団らん用のテーブル、そして大きなソファーセットが並べられている。


 一度腰を落ち着けたら二度と立ち上がる気力がわかないと、家人たちには評判のくつろぎ空間になっていた。


「オーディションってなんの話だ?」


「だからあんたの」


「僕の? なんで?」


「受けるのよあんたが」


「はあ?」


 心深は地球から異世界へと帰ってきたばかりだ。

 フォーマルなスーツ姿であり、シャツの第一ボタンを開け、タケル王の対面に腰を下ろす。


「あー、疲れたー。ソーラス、お茶ちょうだい」


「どうぞ」


 すでに用意していたのだろう、湯気を立てるティーカップが心深の目の前に置かれる。 心深は「さすが」と一言。カップを優雅に傾けた。


 タケル王はしばし、与えられた情報のみで推論を開始する。

 のべつ幕なしなんでも訊くのではなく、まず自分で考える。

 このような思索に耽るクセがタケル王にはあった。


 ――オーディションとはつまりはテストのことだ。

 役者、歌手、演奏家などがプロとして契約を結ぶときに実力を試されるもの。


 オーディションが日常茶飯事なのは心深のほうだ。

 なのに僕のオーディションとはどういうことなのか。


 なにか良からぬことを企んでいる……?

 当の心深本人は、メイドの赤猫族のソーラスから茶葉の産地を聞いたりして談笑している。


「うーんおいし。この茶葉、地球に持っていったら売れるだろうなあ」


「おそれいります。そちらはわたしの故郷で栽培している茶葉になります。お褒めに預かり光栄です」


「そうなんだー。タケル、ソーラスの故郷の茶葉農園買ってー」


「簡単に言うなよ」


 思索を中断し、心深へ向き直る。

 彼女はソファーに背中を預け、脚を組み直した。


 ストッキングに包まれたまぎれもない美脚。

 世界中がため息をつく仕草である。


 タケル王は妻の脚を見ていることを悟られないよう、同じくソーラスが淹れてくれたお茶を飲みながらチラ見する。


「投資よ投資。買収して加工して地球で売りさばいて大儲けしましょう」


「まあ考えておくけど……」


「ありがとうございます。母が働いている農園なので助かります」


「だって。普段からお世話になってるソーラスの家族のためになるなら、ねえ?」


「はい。ですが、ご無理はなさらないよう、お願い申し上げます」


 ペコリとソーラスが頭を下げる。

 ピコン、と猫耳が震える。


 無理はするなと言いつつ内申は嬉しいのだ。

 メイド然とした態度を崩さないソーラスだが、彼女の獣的特徴である猫耳や尻尾は非常に雄弁である。


「それはそうと、わたしが居ないあいだ、タケルとは何回シた?」


「ぶほッ」


 タケル王は吹き出した。

 ゲホゲホとむせる。


「タ、タケル様とは、その……」


 顔を赤らめ、口ごもるソーラス。

 思いっきりセクハラだが、事実タケル王とソーラスは雇用関係を超えた肉体関係にある。


 それは妻が不在の間、タケル王の夜の世話が、メイドたちに許可されているからである。


 誰から許可が? もちろん、妻たちの合意によってである。


 タケル王には3人の正妻がいるが、他のふたりが内容などを気に留めないかわりに、心深だけはセクハラまがいの報告を求めてくる。


 それはおそらく彼女が一番嫉妬深いからだろう。


「えー、いいじゃん教えなさいよ。てか教えて。わたしがいないあいだにHするのはいいけど、どんなことされたのかだけは教えなさいよ。あとでそれ以上のことしてもらうから」


 心深はニヤニヤしながらそう言った。

 自分以外の女性と夫がいたしている……。

 それに対する嫉妬もあるようだが、純粋に性に対する興味が強いようだ。


「……タケル様はベッドの上ではとてもに紳士です。ふだんのぶっきらぼうな態度がうそみたいに情熱的で。最近、個人的にですがシチュエーションプレイをお願いすることが多く……」


「お願いって、ソーラスのほうがお願いするの?」


「はい、文句を言いつつもこちらの言う通りにしてくださいます」


「マジでマジで!? へえー、どんなことをお願いするの?」


「設定としましては、わたくしがアナクシア商会に奴隷として売られ、タケル様はわたくしを買ったスケベ貴族という役どころです」


「あっはっはッ、スケベ貴族! あながち間違いじゃないし!」


「おい」


 小さな抵抗を試みるタケル王だったが、完全に黙殺される。


「自慢の拷問部屋にわたくしを連れてきたタケル様が、イヤがるわたくしに覆いかぶさり、『諦めろ、おまえはもう故郷には帰れない、ここで僕の慰み者になるしかないんだー』とツバを吐きかけながらおっしゃり、わたくしは『やめてー、助けておかあさーんっ』と泣き叫びますが、結局最後は無理やり姦つ――」


「こらッ! いい加減にしろ!」


 さすがのタケル王も大きな声をだした。

 それ以上はいけない。

 なぜなら次回心深にそれ以上を要求されてしまうからだ。


 いつも献身的に尽くしてくれるソーラスたっての願いだから聞き入れたが、本来無理やりなどというのはタケル王の好むところではない。


 ソーラスはイヤがる芝居をしながらもギュウギュウとタケル王自身を締めつけてきて、相当興奮していたようだが、タケル王は萎える自分を鼓舞するのに必死だった。


「ふーん、そっかあ。ソーラスはそういうの好きなのね。ま、わたしはいいかなー。普通に優しく抱いてもらえればいまのところは満足だし。ね?」


「しらねーよ」


 タケル王は顔を真っ赤にし、ぶっきらぼうに応えた。

 というか「いまのところは」とはどういう意味か。

 夫婦生活が長くなり、倦怠期になれば違ったことを求められるのだろうか。


「あ、そうだった。真希奈返すわね」


 心深はショルダーバッグのなかからスマートホンを取りだす。

 異世界には似つかわしくない地球の利器である。


 電源ボタンを押す。

 すると画面にはパッツン前髪の黒髪少女が現れた。


『ぷはー、心深さん、到着したらさっさと起動してください。なにお茶なんか楽しんでるんですか!』


 画面のなかでプンスカと怒りながら抗議する少女。

 心深は「メンゴ!」などと舌を出しながら軽い調子で謝った。


『まったく。魔法世界マクマティカはインターネットが存在しないから真希奈の能力が制限されてしまいます。タケル様、タケル様の魔力をお借りしますね』


「ああ」


 ブツン、と画面が暗転する。

 それからものの十秒たらずでバン、と扉が開いた。


「タケル様ー、ただいま戻りましたー!」


 現れたのは画面のなかそのままの、等身大の少女だった。

 黒髪にパッツン前髪。セーラー服を着用。

 元気の塊みたいな少女はタケル王へと抱きつき、胸の中に頭を擦りつける。


「ああ、おかえり。なにか問題はあったか?」


「特段おおきなものはありませんでしたー。心深さんがテレビ収録のとき、大物女優さんにクドクド嫌味を言われていたくらいですー」


「なんだ、いつもどおりだな」


「はいー!」


 真希奈はタケル王自らが生み出した人工的な高次元生命体――精霊である。

 彼女は本来肉体をもたず、本体は賢者の石シードコアに格納されている。


 そこからデータのみを転写した状態で電脳世界に常駐することがほとんどだが、インターネットがない異世界では彼女の能力も限定されてしまうのだ。


 現在の姿はそんな不便を解消するため、ヒューマノイド型のインターフェイスを介して、父であるタケル王へと甘えに甘えていた。


「真希奈ー、よけいなこと言わなくていいから」


「申し訳ありません、真希奈はタケル様ラブなので、心深さんのいいつけの優先順位は二番目なんですー」


「くッ、この」


 心深は腕を組んでソファにふんぞり返る。

 タケル王は真希奈をヨシヨシしながら心深に問うた。


「で、どうする。目障りならその大物女優、消すか?」


 心深はギョッと目を剥いた。

 タケル王はあくまでもフラットな表情だ。

 ソーラスはふたりの中間に静かに立っている。


「いや、別にそこまでじゃないから。なにもしないで」


 心深は慎重に言葉を選んだ。

 ここでいつもの軽いノリで「じゃあお願い」などと口にすれば、明日の朝には大物女優の姿かたちは所属事務所ごと消滅する。物理的に。跡形もなく。


 いとも容易くそれができるだけの個人的な武力の持ち主。それがタケル王であるとわかっているのだ。


「そうか。必要になったらいつでも言えよ」


「必要になることなんてないし、ババアの嫌味なんて蚊ほども効いてないから問題ないわよ」


 わたしの旦那、こういうところが恐ろしいわ……と心深は改めて思う。

 彼の中には明確な線があって、その線から内側に入ったものにはとことん執着する。

 でも、線の外側にいるものには一切の容赦はしない。


 たとえ自ら手を下すことになったとしても、アリを踏み潰すように無感情に実行するのだ。


 怖い。恐ろしい。冷徹。

 でもそういう危ないところにもゾクゾクしたものを感じる。


 たまに醸し出す危険な空気に女として、どうしようもなく濡れてしまう。

 おそらく近くで聞いてるソーラスも下着がマズいことになっているだろう。


「おまえがそういうならいいけど……真希奈、一応その女優ババアの詳細教えてくれるか」


「やめなさい」


 真希奈が答えるより先に心深が遮った。

 この話はここでおしまいだ。

 早く話題を変えなければ。


「それよりも真希奈、ちょっと半分貸しなさいよ」


 そう言って心深はタケル王の胸へとダイブする。


「はー、死ぬほど落ち着く」


「重いぞ」


「重いっていわないの!」


「まったく……」


 最初は鬱陶しそうにしていたタケル王だったが、スッと腕を回して力強く抱きしめてくれる。


「えへへ」


「ま、とにかく仕事おつかれ――って、そうじゃなくて」


 そこでタケル王は最初の疑問を思いだす。


「なんなんだよ、その分厚いのは」


 両手が真希奈と心深で塞がっているので、顎でテーブルのうえの電話帳――みたいな冊子を指す。


「うん。だからオーディション対策のレポートだってば」


 心深はタケルの首根っこに唇を寄せ、トロンとした目をしながら答える。


「おまえの?」


「だからあんたのだってば。グルゥビィズ2の……ブリザードブルーって役の」


 グルゥビィズとは地球で大流行した超大作ハリウッド映画である。

 数多くのヒーローたちが様々な垣根を超えてひとつの悪に立ち向かうハイパースペクタクルエンターテイメントムービーだ。


 そして綾瀬川心深は、グルゥビィズでも非常に人気の高いヒーロー、レッツゴーフブキ役として出演し、その健全な色気と華麗なアクションで世界中にファンを獲得している。


「ブリザードブルー!?」


「いまブリザードブルーと言ったか心深よ!」


 バーン、とリビングルームの扉が開かれる。

 現れたのは金髪に長い耳が特徴的な翡翠の瞳の美少女と、銀髪に褐色の肌が特徴的な琥珀の瞳の美女だった。


「あ、セーレス、エアリス、ただいまー」


 タケル王の胸を離れた心深が、満面の笑みを浮かべてふたりの元へと向かう。

 三人はその場でしっかりと抱き合い、頬を寄せ合って親愛を確かめ合う。


 金髪の美少女はアリスト=セレス。通称セーレス。ハーフエルフでタケル王の妻である。


 銀髪の美女はエアスト=リアス。通称エアリス。褐色肌の魔人族であり、同じくタケル王の妻だった。


「お腹おっきくなったわねー。どう、順調?」


「うん、なんにも問題ないよ」


「ああ、最近ではお腹を蹴るようになってきてな」


 現在ふたりは妊娠中だった。


「へえ、触らせて触らせて」


 心深は絨毯のうえに膝をついて、セーレスのお腹へと頬を寄せる。


「どう、わかる?」


「正直わかんない」


「だろうな。まだたまーに蹴るくらいだからな」


 あはは、と3人は笑いあった。

 タケル王はそんな妻たちを目を細めながら見ている。


 セーレス、エアリス、心深は、世界や種族がちがうが、紛れもなくタケル王の正室であり、愛おしい伴侶だった。


「それよりも心深、ブリザードブルーって聞こえたのは気のせい!?」


「そうだ、今度の新作にブリザードブルーが出るのか!?」


「そう、そのとおりなのよ!」


 タケル王にはなんのこっちゃ、という話だったが、妻たち3人には共通の話題らしい。


「オーケー真希奈。ブリザードブルーってなに?」


「タケル様、どこぞの音声アシスタントごときと真希奈を一緒にしないでください。いいですか、ブリザードブルーというのは――」


 真希奈の説明によると、ブリザードブルーとはアメリカンコミック『グルゥビィズ』に登場するダークヒーローおよびスーパーニンジャ。


 最初はレッツゴーフブキの命を狙っていたが、フブキの美しさに一目惚れし、雇い主を裏切って仲間になる……そんな硬派なんだか軟派なんだかわからんキャラらしい。


「ほーん。というかなんでセーレスとエアリスまで知ってるんだ?」


「それは、心深さんの英才教育の賜物です」


 どうやらタケル王がいないところで、心深は自分以外の王妃ふたりの懐柔に成功していたらしい。


 自分が出演している映画を見せるため、わざわざ地球からテレビ、プレイヤー、ポータブル電源を持ち込み、解説付きで連日鑑賞会を開いたのだという。


 その結果、いまではアメコミ映画のファンになってしまったとか。


「あいつめ、僕のいないところでそんなことを……まあいいけど」


 タケル王が当初懸念していたこと。

 その最大のものは妻たちの関係である。


 3人もの奥さんを娶るにあたり、妻同士が仲良くやっていけるのかが不安だった。

 だが、関係はすこぶる良好で、タケル王としては自分が仲を取り持つ必要がなくなってホッとしている。


 だが……心深がアメコミ映画というツールを使って、セーレス、エアリスとの距離を縮めていたとは思わなかった。


「さらに、その後ブリザードブルーはレッツゴーフブキと公私ともにパートナー……恋人同士になるようですね」


「なに? 恋人!?」


 タケル王は眉をひそめる。

 なぜならレッツゴーフブキとは心深であり、その心深に役的にとはいえ恋人ができるとなると、心中穏やかではいられないからだ。


 どうやら妻たちの懸念もまさにそこにあるらしい。


「ついに来るべき時がきたね。どうするの!?」


「ブリザードブルー役は決まっているのか!?」


 セーレス、エアリスに詰め寄られるかたちで心深が詰問されている。


「うん、それなんだけどねえ。チラ。実はまだ決まってなくて。チラ。これからブルー役のオーディションが開催されるの。チラ」


 まあまあ、とふたりを抑えながら心深は、わざとらしい仕草でタケル王を見る。

 嫌な予感がした。

 とりあえず先手を打っておく。


「僕はやらないぞ」


「なんでよッ!?」


 心深が激昂した。

 カツカツとタケルに詰め寄り、腰を折り曲げて顔を覗き込んでくる。

 相変わらずきつい眼差し。だが美人だ。掛け値なしにそう思う。


「おまえ……やっぱり僕になにか面倒事をやらせるつもりだったんだな」


「面倒事なんかじゃないわ。夫として妻を助けるのは当然のことじゃないの」


「内容にもよる。とりあえず何をさせたいんだ?」


「ブリザードブルーになって!」


「はあ?」


 まったく要領を得ない。

 どういうことなのか。


「つまり、今度制作されるグルゥビィズ2に先立って、メインヒーローのひとりであるブリザードブルーのオーディションが行われると」


 心深の説明……プレゼン大会が始まり、タケル王はようやく妻の狙いがわかりつつあった。


「そうよ。あんたはそこでブリザードブルー役を射止めてちょうだい。是が非でも!」


「あのなあ……」


 タケル王は沈着冷静な男だ。

 心深がこのように押しが強い性格だからか、幼馴染であるタケル王は、子供の頃から何事も一歩引いたものの見方をするようになった。


「どう考えても無理だろ。役者なんてやったことないのに。そもそもスタートラインにすら立てないよ」


 タケル王は素人だが、役者のオーディションがどういうものかくらいは知っている。


 まずアメコミ映画なんだから何はなくとも就労ビザが必要。これ絶対。

 さらにどこぞの劇団、あるいは芸能事務所に所属していることが大前提。何故ならオーディションの情報は業界内でしか流れないからだ。


 芝居の経験もあればあるだけいい。

 さらにオーディションにはレジュメも必要になる。


 ヘッドショットと呼ばれる顔写真。デモリールと呼ばれる自分が出演するシーンを集めた映像作品。さらにはモノローグ……一人芝居を収めたデモテープやビジネスカードも必須だ。


 タケル王がいますぐ用意できるものはビジネスカード……名刺くらいのものだろう。しかしそこには所属する劇団や芸能事務所の明記が必須になる。


「はい、名刺はこれ」


「は?」


 心深がトートバッグから取り出したのは英語と日本語が併記されたタケル王専用の名刺束だった。


「この名刺、僕の名前の前に書いてある『綾瀬川シアターカンパニー』ってなんだよ?」


「あ、それわたしが作った劇団。所属はわたしとあんただけだけど」


「お、おまえな……」


「で、これがヘッドショット写真。真希奈に目一杯加工してもらったから」


「…………」


 8✕10インチの特大写真である。

 そこにはレタッチされまくってもはや別人になったタケル王の顔があった。


「で、これから英語の勉強とデモリールの作成、一人芝居の録音もするから。オーディション開始まであと一週間しかないからハリアップ!」


「まてまてまてまてッ!」


 タケル王は頭を抱えた。

 冗談でも嘘でもなく、本当にこめかみの辺りが痛くなっていた。


「勝手に話を進めるな。どうして僕がそんなことをしなきゃならない?」


「わたしがあんたにブリザードブルーになってほしいから」


「どうしても、なのか?」


「そう、どうしても」


 心深は真剣な眼差しでタケル王を見つめる。

 内心タケル王は本気でやりたいくはないと思っている。

 昔から目立つことが大嫌いで、人前に出ることが苦手だからだ。


 だが、妻の頼みを無碍に断ることができないのも理解していた。

 さらにこの場にほか二人の妻がいることも彼にとってはマイナスに働く。


「タケルお願い、オーディションを受けて!」


「そうだぞタケルよ。グルゥビィズ2にはレッツゴーフブキとブリザードブルーのキスシーンがあるのだ」


「なに? キスシーンだって?」


 セーレスとエアリスの言葉にタケル王の心がざわつく。

 キスシーン。ということはつまり――


「そうだよタケル、心深が知らない男のヒトとキスしてもいいの!?」


「――ッ、それは」


 いつの間にか、タケル王の前には、心深だけでなく、セーレスとエアリスまでもが迫っていた。


 ふたりともマタニティドレス姿である。

 妊娠したとわかったときから、そしてお腹が目立ち始めた頃からはさらに、タケル王は二人の妻に気を使うようになっていた。


 なるべくストレスになるようなことはしないように、ふたりの負担を減らすようにと、メイドたちには申し付けている。


 ここで自分がゴネることは、妊婦である妻たちのストレスにはならないだろうか。


「心深、おまえは女優だろう。これから他でも、キスシーンや濡れ場を他の男と演じることもあるだろう。そういう覚悟もないのに女優になったのか?」


 厳しいがもっともな言葉である。

 心深は「すーはー」と少しばかり深呼吸したあと答える。


「あるわ。そういう覚悟はもちろんある。でも今回は別。グルゥビィズが大ヒットして、今度のグルゥビィズ2はさらにヒットさせなければならない。その中心になるのがレッツゴーフブキとブリザードブルーのペアなの」


 心深は語る。監督とは話し合いの結果、フブキ役である心深の意見がオーディションには大きく反映されることが決まっている。


 ならば一切の妥協はしない。最強にして最高のブリザードブルーを作り上げなければならないと。


「そのうえでの判断よ。わたしはあんたがブリザードブルーになってくれたら最高の演技ができるし、あんたなら孤独で最凶最悪のブリザードブルーになれると信じてる。だから、あんたにオーディションを受けてほしいの」


「ふむ……」


 他の男とのキスシーンが嫌だから。

 そんなつまらない理由でないことにタケル王は安心していた。


 夫として思うところがないわけではないが、自分の選んだ職業で必要に求められたことを理不尽に捻じ曲げたいわけではないことがわかって安堵した。生半可な気持ちで女優業をしているのではないと。


 さらにそのブリザードブルーなるキャラクターはわからないが、プロの心深から見てタケル王がふさわしいというのならばそうなのだろう。


「はあああ……いくら僕でも一週間しか準備期間がないのは無茶だな」


「大丈夫! アクア・ブラッド・ドーム用意するよ!」


 タケル王の答えにセーレスが顔を輝かせた。

 ちなみにアクア・ブラッドドームとは、彼女の固有魔法アクア・ブラッドで形成された特殊空間のことを指す。


 ドーム内に収められたものは外部からの時間的干渉が弱まる特性がある。

 つまり、内部の時の流れが、外部よりも遅くなるのだ。


 時間が必要だけど時間がない……そんな緊急時にのみ使用されるチート能力である。


「タケル、やるのだな!」


「まあ、映画をよりよいものにしたいっていうなら……」


「うむ。回りくどく言い訳ばかり言いおって。貴様は相変わらず素直ではないな。ア

レか、地球風にいうとツンデレというやつか!」


 あっはっは、とエアリスは豪快に笑った。

 まあなんとでも言えよ、とタケル王は呟く。


 映画をよりよいものにしたいという心深の情熱に共感しなくもないし、なんならタケル王も心深の出演する映画は楽しみだし。

 自分の妻がどこぞの馬の骨とキスシーンを演じるのも正直面白くない。


 演技の素人である自分が本当に務められるものならやってやろうじゃないか。

 実際自分よりもふさわしい演者がいれば、この目で見て納得するのもいい。


 とにかく、正妻たち全員が賛成していることに異を唱えることは難しい。

 下手に逆らうと、ただでさええ今は妊娠中でさみしい夜の生活がさらなる貧困に巻き込まれることになるからだ。


「大丈夫ですタケル様、真希奈におまかせください!」


「うー……マジで頼む。おまえだけが頼りだ」


「ッ、真希奈だけが頼り……。でゅふふふ。これだけ正妻がいるなかで、真希奈だけ特別扱い。これはもう正妻を超えたも同然。でゅふッ!」


「おーい、真希奈。帰ってこーい」


 タケル王には不安しかなかった。

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