第34話 死と再生と誕生⑩ ディーオ・エンペドクレス

 巨大な石造りの牢獄の中、僕を見下ろす男が、突然震えた。

 ズシン、と牢全体が軋み、次いでズズズズズ、と断続的な振動が襲ってきた。


『――なんと、それは真か! 異なる世界だと! その言葉に嘘偽りはないであろうなナスカ・タケルよ!』


 地震の原因は目の前に男だった。

 僕が異世界から来たと、ウソやまやかしが介在できないこの念話を通じて伝えた結果――大喜びである。まるで狂ったように笑い始めた。


 男の身体の周囲、その大気が歪んでいる。

 セーレスが魔法を使うときと同じ現象――魔力の発現だが、その規模は彼女のときよりも遥かに大きなものだった。


『ふはははははははっ! 万の年月を重ねてよもやこれほど愉快なことがあろうとは! この世界の外の存在か! 考えたこともなかったぞ――!』


 ゴゴゴゴゴゴゴっ――!

 いい加減牢どころか、塔が崩れかねないほどの揺れになってきた。

 この男にとっては、僕が異なる世界からやってきたということがそれほどまでに衝撃的なことだったようだ。


『ふふ、これはいい。さあ詳しく話せナスカ・タケルよ、疾く話せ。我は貴様の話が聞きたい。つぶさに聞いてやるから思うまま語り尽くせ』


『話すのはいいけど、僕はあんたをなんて呼べばいい?』


『む。呼び方などなんでもよいが、というか我は先程名乗って……正式には名乗っておらなんだか』


 いやまあ、名前は聞いたよディーオ・エンペドクレスって。

 じゃあディーオでいいよね?


『そう、だな。それでいい。なかなか肝が座っているないと小さきものよ』


『誰が小さきものだよ』


 自分が小柄なのは知ってるよ。

 気にしてるんだから言わないでくれ。


『は――、いやスマンスマン。悪い癖でな。我は思ったことは全部口にしてしまう。そして何より自分の好奇心を満たすことを優先してしまうのだ。いい加減エアスト=リアスにも直すよう言われているのだがな……』


『エアスト=リアス?』


『我が唯一の従者よ』


『響きの似た名前のやつを知ってる』


『そうか。ではその者もまた精霊種に恩恵を受けたものであるのだな』


 また小さな地響き。僕の言葉が男の琴線に触れるたび、塔に振動が走る。


『改めて名乗ろう。我が名はディーオ・エンペドクレス。魔族種根源27貴族が一角、龍神族の王などをしている。ナスカ・タケルよ、ディーオと呼ぶことを許そう』


『うん、僕はナスカ・タケル。普通の――いや、引きこもりの高校生だったんだけど……ねえ、魔族種ってみんなキミみたいにフレンドリーなの?』


『ふれんどりーとな。それはどういう意味だ』


『初対面なのに気安いって意味だよ』


『ほうほう、さすがは異世界の言葉。なんとも珍妙よな』


 ディーオは、まるで子供のようだった。

 威厳のある低い声なのに、僕に話を強請る様は尻尾を振る犬、というより尾を振るドラゴンのようだった。


 そうして僕は、限りなく少ない最後の時間を使って、地球のことを話し始める。

 結果的に、それは正しい行為だったと言えた。


 *


 僕のいた世界。地球。丸く青い惑星。


 まず宇宙という概念。

 銀河という外枠。

 太陽系という内枠。

 その中に唯一発生したとある生命の星。


 食物連鎖の頂点ヒト種族――人間というカテゴリー。

 人間が中心となることで発生する様々な事象――連環。


 解き明かされた自然科学。

 蓄積された歴史。

 発展した政治経済。

 花開いた文明文化。

 開発された兵器大系。

 そして延々と続く戦争。

 内戦、紛争、冷戦、現代戦、非対称戦と。


 それらの大枠を簡単にまとめ、僕なりの言葉と解釈で訥々と話していく。

 ディーオは、僕の話をただ黙って聞いていた。


 そして話は僕のことにも及んでいく。

 長年両親と顔を合わせず、仕送りだけもらって暮らしていたこと。

 学校での人間関係でトラブルを抱えていたこと。

 自分の興味のあることしか知識として取り入れてこなかったこと。

 高校に行かず、ずっとネットゲームばかりしていたこと。

 うるさい幼なじみの女の子と、酷い喧嘩をして眠りについたこと。

 気がついたらこの世界にいたこと、などなど……。


『ふむ、実に興味深い話よな。貴様はそうしてハーフエルフの娘の庇護のもと暮らしていたが、領主を通じて教会に目をつけられたということか。不運なことよ』


 ディーオが語る教会――人類種神聖教会アークマインは、この魔法世界マクマティカの人類種による単独統一を目指しているらしい。


『やつらは人類種以外の種族を認めていない。不遜にも、魔族種や精霊、妖精、獣人やエルフも根絶やしにし、あるいは隷属させるつもりでいるようだ』


『じゃあ、セーレスは……僕と一緒にハーフエルフの女の子が捕まってるはずなんだ。その子は……?』


『残念だが手遅れよ』


 手遅れって。


『貴様を庇い立てしていたことで異端審問にかけられ殺されているか、殺されないでも死ぬよりも酷い目に遭っているだろうよ。ヒト種族とエルフの間の子であればなおさらな』


『バ、バガンダは――、セーレスの異母姉妹であるリゾーマタの領主は、彼女の身柄が必要だって言っていたんだ、だからそんなことは――』


『その事実があったところで、身の安全が保証されるわけではあるまい。あるいはその領主が手ずからいたぶる心算やもしれんではないか』


『そんな……!』


 本の中で読んだことがある。

 拷問以外にも様々な責め苦はあると。

 女であれば、女であることを後悔するようなものまである。


 中世ヨーロッパで時の権力者が領内の処女を囲い込み破瓜を奪う初夜権や。

 魔女の烙印を押され、民衆裁判の果てに火炙りの刑に処された魔女狩り。

 日本でも島原の乱に代表される踏み絵や異端審問などなど……。


 ヒトは信じている神や教義が違うという理由だけで、心から憎みあい、殺しあうことができる生き物だ。


 相手を、自分と同じ血の通った人間だと思わず、下等な劣等種だと、家畜以下だと思いこめば、ヒトなど簡単に殺せてしまう。


 そんな目に、彼女が――セーレスが遭っているのかもしれない。

 今この瞬間にも。

 そして、もう二度と彼女に逢えないかもしれない。


『ぁあ、あああ、ああッ――!』


 僕は唐突にやめた。

 一段上から自分自身を他人事のように眺めることを。

 途端に、激痛すら生ぬるい、死に直結する痛みの信号が脳を埋め尽くす。


『何をしているナスカ・タケルよ。自ら断っていた痛覚を戻してなんとする。夜明けを待たずして貴様、死ぬぞ』


「だず、げる」


『何――?』


「セーレス、だすげ、いく……!」


 念話に対して久方ぶりの肉声で応える。

 とても自分の喉から出ているとは思えないダミ声だった。


『正気か』


 枯れた巨木のような眼の前の男にすがり、なんとか身を起こす。

 改めるまでもなく、身体は死に体だ。

 でも、意志だけが炎のように燃え盛っていた。


『やめよやめよ。今にも破裂しそうな血袋の分際で。そも教会の聖騎士部隊は一国の軍隊にも匹敵する精鋭中の精鋭よ。貴様が五体満足であったとしても殺されるだけであろうよ』


「がんげい、なぃい……!」


 歩こうとして膝から崩れる。

 足首がおかしな方向に曲がっている。これじゃ歩けない。

 仕方ないから這いずって壁際の、明かり取りの元へと向かう。


『ここは監獄の塔の最上部。塔には聖騎士部隊が配備されておる。それでなくとも、ここから落ちれば即座に死ぬぞ』


 僕はディーオの念話を無視して石造りの壁に縋り付き、なんとかよじ登ろうと試みる。だが、指先に一切力が入らず、ズルズルと身体を削るばかりだった。


「ぐ――、があっ、ぐうぅ……!」


 それでも諦めるわけにはいかない。

 今こうしている間にも彼女が辛い目に遭っているかもしれない。

 そのことを考えないようにしていた自分自身に怒りが湧いてくる。


 早く助けに行きたい。

 早く顔が見たい。

 でも身体は思うように動いてくれない。


『どうにも理解できんな。そのセーレスとやらは貴様のなんなのだ? 単に異邦人である貴様が最初に出会っただけの存在ではないのか? 貴様を突き動かすのはなんなのだ。恩義か、義務か、それとも愛とやらか――?』


 黙々と石壁に血痕を塗りたくる僕に、ディーオはついに苛立ったように声を荒げた。


『答えよ、いと小さきヒト種族よ。己の命よりその娘が大事なのか。貴様の粗末な命を対価にするほどの情や絆がそのハーフエルフにあるというのか!?』


 ズシン、と稲妻のような激震が轟いた。

 僕は壁からずり落ち、床に仰向けに倒れた。

 頭の後ろが生暖かい。

 顔を横に向ければ、僕は真っ黒な血の海に沈んでいた。


 もう起き上がる力も残っていない。

 だけど、僕は叫んだ。

 腹の底から、叫ばずにはいられなかった。


「うる、ざい……ごの、グソ野郎……、邪魔しやがって……!」


『何?』


「おまえ、だけじゃない……、どいつも、こいつも……僕の、邪魔、ばっかり、しやがって……!」


 心深も……学校の担任も……領主のババアも……教会の奴らも、みんなみんな……!


 カラカラに乾いた眼窩から涙が出た。急速に冷たくなっていく肌を灼くような、灼熱の涙だった。


「大切か、どうかなんて、知らないよ……!」


 今まで、誰かに想われたことも、想ったこともないんだ。

 でも、ようやく初めて、何かが形になりそうだった。

 僕はそれを確かめに行きたい。

 ただそれだけなのに……。


「ぢぐ、じょう……!」


 恨めしい。

 邪魔をするすべての者達が。

 ちっぽけな我を通すこともできず、誰何の悪意に翻弄され続ける自分自身が。

 僕が今縋っているのは、たったひとつの小さな感情。

 これまでの短い人生で抱いたことがない気持ち。

 そのたったひとつの気持ちが叫んでいる。


 セーレスアレを誰にも渡すなと。

 セーレスアレは自分のものなのだと。

 セーレスアレを殺すのも僕ならば。

 僕を殺すのもまたセーレスアレでなければならない。


 まるでおもちゃを強請る幼子のような稚拙な感情。

 駄々をこねたくとも、ポンコツの身体はいうことを聞いてくれず、彼女の元に駆けつけることもできない。

 そればかりか、急速に失われていく体温と意識に、自身の明確な死を悟る。


「どいつも、こいつも……僕自身も……!」


 許さない。

 目の前に立ち塞がるすべての愚か者たち。

 よくもよくもよくもよくも――――よくもッ!


 引きこもっていた頃から、僕は多くを望んでいたわけじゃなかった。

 笑われてもいい。褒められなくてもいい。邪険にされてもいい。

 正真正銘、そういう生き方を望んでいたはずだった。


 でもセーレスは、僕以上に何もない子だった。

 最初は憧れた。大人がいない世界でたったひとり、生きている彼女を。

 それに比べて僕は、大人がいなくなっただけで、生きていくことすらできない。

 情けなかった。嫉妬した。


 それでも僕は彼女の側にいたいと思った。

 助けられたはずの僕が、実は彼女を助けていたと知った時、嬉しかった。

 右も左も言葉もわからないこの世界にきて、初めてよかったと思えた。

 彼女さえいればそれでいいと思った。


 だから、あの夜、誓いを立てた。

 ずっと彼女の側に在り続けようと。

 ふたりで旅をして、一緒に笑顔で暮らせる場所を見つけようと。


 それなのに――


 紅蓮の記憶。

 暗転する視界。

 硬い地面の感触と猛烈な痛み。

 巌のような男たちの腕に雁字搦めにされるセーレスの姿――


「死ん、でる……場合じゃ……!」


 でも、現実は無情だった。

 僕は死ぬ。

 一秒先か。十秒先か。

 数分も保たないだろう。


 その事実が増々、僕の憎悪に火を注ぐ。

 セーレスを苦しめる全てのものを――今すぐ殺してやりたい。

 僕は心の底から、本物の殺意が溢れるのを自覚した。


『ナスカ・タケルよ』


 頭の中に静かな波紋のような声が舞い降りた。


『貴様の小さな命の灯火が消えるまでの間、我の言葉に耳を貸すがいい』


 そうしてディーオは、僕の返事を待つことなく静かに語りだした。


『我は――――――――――貴様が羨ましい』


 酷く言葉をためらったあと、ディーオはそう言った。

 狭まる視界の中、男の金色の目を睨みつける。

 ディーオの満月のような瞳孔が、真っ直ぐに僕を写していた。


『我は、我の悠久の生に、ついぞ意味を見出すことができなかった……いや、かつてこの手にあったものを、我は忘却してしまったのだ。万年という長い月日によってな』


 念話を通して、ディーオの思考が大河のように、ただ流れ込んでくる。


 最初の千年は力だけを追い求めた。


 次の千年は戦いだけに明け暮れた。


 次の千年は無気力に過ごした。


 次の千年は世界を歩き回った。


 五千年目にして知識欲に取り憑かれた。


 六千年目にして世界の全ての知識を吸収した。


 七千年目は自身の中に埋没し真理を探求した。


 八千年目にして変化を求めて再び世界を放浪した。


 九千年目にしてようやく、限界を知った。


『根源貴族の王とはな、どいつもこいつも死者ばかりよ。長い己の生のなかで感情は萎み、その精神は太古の神樹のように老衰していく。次第に無気力になり、他者に興味をなくし、己自身にも飽いていく。それに比べてヒト種族の業のなんと深いことか。感情のなんと瑞々しいことか。その短き生のなんと多様で鮮烈なことか……!』


 それは、ディーオの生涯こそ、ある意味僕の理想だった。

 自分のことにしか興味がなく、自身のしたいことしかしてこなかった男。

 ただひとつ違うのは、ディーオには無限にも等しい時間があった。

 なまじヒト種族数百回分の生によって、立ち止まり、振り返り、迷い続けた。


『我がアークマインに捕縛され、このような醜態を晒しているのもな、実は我が道楽・・の一部よ……』


 ディーオはあらゆる種族の知識と叡知を得、その生態を観察し続け、それでも不可解極まりない種族がヒト種族だった。


 限られた時間に脆弱な身体。

 無限の繁殖力と欲望を持ち、飽くなき戦を延々と繰り返す蛮族中の蛮族。

 万年に迫ったディーオの最後の研究テーマは『ヒト種族』だったのだ。


 ディーオは、ヒト種族から神や魔王と恐れられながら、時に嗜虐にヒトを弄び、時に真摯に力を貸し、枝葉に実りつつある青い果実が熟すのを、今か今かと突き回して愉しんでいた。


 アークマインの聖騎士部隊が大挙してディーオの討伐に乗り出すと耳にすれば、自ら奴らへと近づいて適当な激戦を演出し、最後はわざと捕まって見せたのだ。


 ディーオという根源貴族の一角を討伐したアークマインは自分をどうするのか。

 それによってヒト種族の世界はどう変化するのか。

 他の種族たちの反応は?


 そんな愚かしくも気長な実験の最中だった。

 目の前に贄として僕が供されたのは――


『我はこの世界の外の世界など考えたこともなかった。頭上を振り仰ぐ蒼穹の彼方に、異なる神々の叡知が存在するなど想像すらしなかった。貴様の話しを信じるならば、我もまた小さき世界の狭窄な神にすぎないのであろう』


 それだけに惜しいと、重い溜息とともにディーオは零した。


『貴様を今ここで死なせてしまうのが実に惜しい。もっと早く貴様に出会っていれば、あるいはヒト種族一種のみで繁栄を極めるという別世界も見れたやも知れぬ……』


 僕は、ディーオの言葉を黙って聞いていた。

 ことここに至り、もうそれくらいしかすることがなかった。


『して、ナスカ・タケルよ』


 男が手を差し出す。

 僕はそれが巨大な龍のアギトに見えた。

 僕という存在をまるごと飲み込むほどの、大きな化物の口がゆっくりと開かれていく。


『生を放棄した我が、生にしがみつく貴様に、最後の問いを投げよう』


 ディーオの手――龍のアギトが、刀剣よりも鋭い歯が、そっと僕の身体に触れる。

 つぷりと、歯先が皮膚を食い破った。


『その心に未だ未練と憎しみの業火が燻り続けているのならば、ヒトという理を捨ててでも成すべきことがあるというのならば――』


 悪魔が――、否、龍神の魔王が囁く。

 でもそれは、僕にとっては神の祝福そのものに聞こえた。


『我が無色の力と神龍しんぞうを受け取るがいい』


 ――前置きが長いんだよ……。


 僕は正真正銘最後の力を振り絞って頷いた。

 次の瞬間。

 僕の身体は龍に丸呑みにされた。

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