第5話 君の名は⑤ 異世界と水浴び(僕が)

 異世界。

 地球ではないどこか遠く。

 科学とは異なった文明、もしくは別の物理法則の上に成り立つ世界。

 どうやら僕がやってきたのは、リアルで『魔法』が存在する世界のようだった。


 *


 さくさくと若草を踏みしめながら、僕は昨夜散々追い掛け回された森の中を歩いていた。


「オイム……スメット!」


 あの後、女の子はそう言って顔をしかめた。

 僕の頭の先で鼻を動かしながら言っていたので、どうやら「臭い」と言われたようだ。


 そりゃそうだ。ずっとネトゲにログインしていて、丸二日は風呂に入っていなかった。

 おまけに一日中歩きまわり、最後は汗だく泥だくで逃げ回っていたのだ。


 半ば強制的に手を引かれて歩かされていた。

 僕は、一晩寝てもフラフラだった。

 全身は筋肉痛でギシギシ言っているし、靴下一枚隔てた足裏は腫れ上がって感覚がなかった。


 それよりも。

 自分が置かれた状況がまだうまく飲み込めていなかった。

 魔法が存在する世界なんて、RPGとかライトノベルとか、そういう媒体ではよくある設定だと思っていたが、まさか本当に自分がそういう世界にきてしまうなんて。


 ただ普通に寝て起きただけなのに……。

 もしかして神隠しなんて言われている世の中の行方不明者は、実はこんな感じで違う世界に飛ばされた人たちなんじゃないだろうか……。

 菊地秀行先生がそんなことを言っていたような気がする。


 向こうの世界、日本のことを思い出す。

 両親と最後に会ったのはいつだったか。

 一昨年までは一年に一回くらい会っていたが、

 去年はクリスマスも正月も帰ってこなかった。

 相変わらず生活費、と呼ぶには少々多い金額が仕送りされていたので、僕はまあ人並み以上には恵まれた方だったと思う。


 親戚のおじさんは同じ市内に住む父方の弟に当たる人だ。

 海外に行ったきりの両親に代わり、何かあればこのおじさんを頼ることになっていたが、僕のほうから頼ったことはない。


 いろいろ学校で問題は起こしていたから、おじさんにも連絡は行っていたはずだが、あれこれ叱られたことは一度もない。お互い不干渉を貫いていた。

 なんだか血の繋がった親戚、という感じがしなくて、まるっきり他人のような感覚だった。


 逆に幼なじみの心深は、こっちが引くくらい干渉してきた。

 僕が学校に馴染めなくて、不登校になってからも毎朝起こしに来てくれていた。

 最後に彼女と交わした言葉はお互いを罵る汚い言葉だった。

 もう多分、二度と会えないし、謝ることもできないんだろうな――


 気が付くと、女の子が立ち止まり僕を見ていた。

 木漏れ日の下、深くかぶったフードの奥からじいっとこちらを見つめている。


「あの、僕って何処に連れて行かれるのかな」


「ナステイ、ステム」


 言葉は全然わからないけど、会話の流れから「もうすぐ着く」みたいなことを言われたんだと思う。

 到着したのは昨夜の、一方的に僕だけが思い出深い清流だった。


 改めて見てみると、とても美しい場所だった。

 ゆうべは優しい月の光だったが、太陽の強い光を浴びてハレーションを起こした水面は、まるで意志を持って、はしゃぎまわっているようにもみえる。


 ふと、女の子が微笑みながら水面に手を振った。

 せせらぎの音が大きくなり、水面の反射がギラギラと強くなった――ような気がした。


「なにかした?」


「…………」


 僕を無視して女の子は上流を目指しズンズン進んでいく。

 玉砂利を歩くたびに足は痛かったのだが、気のせいかここに着いてから痛みが和らいでいる気がする。


 しばらく進んでいくと、目の前に荘厳な滝が現れた。

 高さ三〇メートル、幅も同じくらいあるだろうか。

 膨大な水が垂直に叩きつけられ、猛々と水煙が立ち込めている。

 陽光を浴びて虹が差す、一種幻想的な光景に僕は魅入ってしまう。


「すごい」


 圧倒的というより他にない。

 マイナスイオンなんてエセ科学の類だが、霧のように立ち込める微粒子状の水を浴びていると、体の奥底から活力のようなものが湧いてくるのは気のせいなんかじゃない。


 唐突に。

 僕の手を掴んでいた女の子が、こちらを振り返り笑う。

 なんだろう、お気に入りの風景を気に入ってもらえて喜んでいる、って感じじゃない。

 これから悪いことをしてやろう、というイジメっ子特有の邪悪な笑みだった。


「ほーッ、ほうッ!」


 水の矢を放ったときと同じ掛け声で、僕は思いっきり水の中に叩きこまれた。 


「な――ちょッ!?」


 急ぎ立ち上がろうとすると頭を押さえつけられ、ものすごい力で沈められる。


(マジかよ、殺される――!?)


 などとそんなことはあるはずなく。

 指の腹を使ってガシガシと頭を洗ってくる。

 ちょ、やめて、自分でできるから! シャンプー無いとキシキシするから!

 なんて訴えたところで彼女は手を止めてくれない。

 息継ぎの度に手を払おうとするが、まるで水に絡め取られるみたいに身動きが取れなかった。 


「てか本当に動けない!? これも魔法!?」


 全身を水の触手に絡め取られていた。

 なんつープレイだよおい。

 服の隙間から水の触手が侵入してくる。

 くすぐった気持よくて変な声が出る。


 やめ、やめて、そんなデリケートゾーンにまで入ってこないで!

 そうして、全身くまなく清められながら、僕の心は汚されてしまうのだった。

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