やどなし

三角海域

やどなし

 随分と前の話だ。

 私はある町に暮らしていた。

 その町は、田舎でもなく都会でもない場所だった。私の家の周りは畑だが、バスに十五分ほど揺られれば、大きなショッピングモールがある。

 何か特別なものがあるわけでもない。

 普通。そんな言葉が似合う町だなと、幼いながらに私は感じていた。

 私は両親と祖父と暮らしていた。祖父は周辺の土地を所有しており、私の家庭はそれなりに裕福だった。

 両親は共働きで、祖父と共にいる時間が長かったため、私は自然と祖父になつくようになった。

 祖父の一日は、決まり事の中におさまっている。

 朝起きて、身支度と朝食を済ませると、祖母の仏壇を掃除し、線香をたてる。五分ほどだまって両の手を合わせ、それが終わると、家の前にある菜園の手入れをし、家から少し離れた小屋で野菜や果物を売る。これはほとんど趣味のようなもので、商売というよりは暇つぶしというのが合っていると思う。

 学校が終わると、私は家に荷物を放り、祖父のいる小屋まで出かける。

 祖父はおだやかな人だった。

 薄目で優し気に微笑む顔を今でも思い出すことができる。

 私が小屋に行くと、時折誰かと話しているが、基本は一人だった。

 焼き芋を作っていて、それを私に一本渡してくれる。

 優しい祖父。東京で一人暮らしをしたいと言った時、誰よりもそれを応援してくれたのが祖父だった。

 東京に出た後、なかなか生活が安定しなかった頃、祖父は両親が送ってくれる仕送りとは別に、私を支援してくれた。

 感謝している。今の私がいるのは、祖父のおかげだ。

 そんな祖父が亡くなったという連絡がきたのは、数日前のことだった。

 葬儀に参列するため、私は久しぶりに帰省した。

 町はなにひとつ変わっていなかった。

 あの頃のままの町。懐かしさよりも、なぜだか心のざわつきの方が強く感じられたのは、今にして思えば、記憶の片隅にあった「あの事」をおぼろげながらに思い出していたのかもしれない。

 通夜の後のことだ。仕事の後直行してきた私を気遣い、先に休んでいていいと言われた。その晩は、そのままになっていた私の部屋に泊まることになったので、部屋のある二階に向かった。

 やけに静かだった。まだ人は残っているはずなのに。

 薄い明りに照らされた階段をのぼり、部屋へ着く。

 着替えをすませ、なんとなく窓をあけた。

 間隔をあけ、街灯が灯っている。

 その光の先に、祖父のいた小屋がある。

 ふと、祖父との会話を思いだした。

 あの日。夕暮れ時だったろうか。祖父が小屋の外をじっとみつめていた。

「何をみてるの?」

 そう私が問うと、祖父はしばらく黙っていたが、その沈黙の後に、呟くように言った。

「やどなしがいるなぁ」

 当時は意味が分からなかった。

 やどなし。宿無しのことだろうか。それとも、他の意味があるのか。

 妙に気になる。明日、両親に訊いてみようか。

 風が吹いた。

 妙に粘り気のある風だった。



 夜。

 布団にくるまりながら、やどなしのことを考える。

 なぜこんなに気になるのだろう。

 目を閉じ、眠りに落ちようとするが、うまくいかない。

 身を起こし、窓を開ける。

 変わらず街灯がともっている。

 深夜の空気。だが、やはり妙に蒸し暑く、粘っこい。

 不意に。本当に、不意に、祖父の言葉が頭に浮かんだ。

「開けとかねえとなぁ」

 なにを? と当時の私は問うたのだろう。

「ここだよ。ここあけとかねえと、やどなしが他のところ行っちまう」

 それはよくないの?

「住み着いちまう。最初はいいけどよ、その内……」

 出てきちまうよ。

 はっきりと言葉が頭に浮かぶ。

 住み着く? 出てくる?

 何がだ?

 当時の私は、それ以上訊くことはなかった。

 だから、祖父が言うやどなしのことは何も知らないに等しい。

 身震いした。

 蒸し暑く感じていた外の空気が、いきなり冷えたように感じる。

 街灯の先。祖父が座っていた小屋。

 祖父の視線の先。

 私は窓をしめ、布団を頭までかぶり、必死に目を閉じた。



 明くる日。

 告別式の準備をしながら、私は両親と祖父の思い出を語らっていた。

「おじいちゃん、あんたのことずっと心配してたよ」

「いろいろ世話になったのに、ほとんど帰ってこられなかったのを後悔してるよ」

「おじいちゃん話下手で、友達もいなかったからね。私たちと話すときも遠慮がちだったくらいだし」

 そうやって会話をしながらも、私は昨日思い出したことが頭から離れなかった。

「そういえばさ」

 そして、会話の中、私は昨夜思い出したことを両親に問うことにした。

「やどなしってなに?」

 「すっ」という音が当てはまるだろう。それくらい、突然に両親の表情が変わった。

 父と母が私の方をじっと見る。

 じっと、じっと見る。

「さあ?」

 父が言う。

「知らないわね」

 母が言う。

 知っている。間違いなく、知っている。

 けれど、踏み込めなかった。

 じっと、じっと見つめる二人の視線が恐ろしかったからだ。

 結局、会話はそこで終わり、告別式をすませ、私は東京に帰ることになった。

 最後にまわりを散歩しようと思い、あてもなくふらつく。

 なぜだか、祖父のいた小屋に足が向いていた。

 小屋は変わりなかった。私が子どものころに過ごしたままだ。

 懐かしくなり、小屋に入る。

 ここで祖父と共に、多くの時間を過ごした。

 懐かしさに、目頭が熱くなる。

 風が吹いた。昨日と同じ、蒸し暑い風。

 違和感が、急に湧き上がる。

 なんだ? 

 会話。そう。両親との会話。

 祖父の事を話していた。けど、私はやどなしのことが気になって、あまり話が頭に入ってこなかった。

 何を話した? 何を……。

「おじいちゃんは話下手で……」

 友達もいなかったからね。

 そう、言った。

 しかし、記憶の中の祖父は、時折誰かと話していたではないか。

 単なる記憶違いか、それとも……。

 視線をあげる。あの時、祖父が見ていたものはなんだったのか。

 やどなし。

 住み着く。

 出てくる。

 背筋が冷たくなる。懐かしさに満ちていた小屋が、とたんに恐ろしいものに変わった気がした。

 私は急いで小屋を出て、それからすぐ東京へ帰った。

 やどなしとはなんだったのか。それはわからずじまいではあったが、わからないほうが幸せなんだろうと、今は思う。

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やどなし 三角海域 @sankakukaiiki

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