ユメオチ

木下美月

ユメオチ

 色の淡い沢山の花は、顔の見えない女の美しさを際立たせる。水色の空さえも薄くて、今にもなくなってしまいそうだ。

 待ってくれ、男はそう言おうとしたが、音にならず。伸ばした手で触れようとした肌は幻の様にすり抜けて、掴むことは叶わなかった。






「またあの夢か……」


 幻の世界が溶けるように消えた後、男はベッドの上で目覚めた。

 夢の中で美しい女性を追いかけてはいたが、この世界だってそんなに悪くない。

 美人ではないが家庭的な妻と、元気な子供が二人。四人家族で住む家は十分な広さだし、仕事も充実していた。

 それでも夢を見るのはどうしてか。

 初めて見たとき、男は背徳感を感じた。

 愛する妻がいながら、幻とはいえ別の女にうつつを抜かすなんて。

 しかしそれは最初だけだった。

 何度も見る内に、夢の中の事だと開き直っていたのだ。

 何より、男は間違いなく妻を愛していた。その事実が罪悪感を無くしたのだ。

 男は毎晩あの夢を楽しみにする様になった。

 幻の様に掴み所がなく、気が付けば儚く消えてしまう。

 もしかしたらこれから素敵な出来事が起こるかもしれないと、平凡なこの世界を彩っていた。


「アナタ、おはよう。最近寝覚めが良いみたいね」


 リビングに降りると、美味しそうな朝食と共に妻が待っていた。


「ああ、君が作るご飯が美味しいからだろう」


「まったくもう」


 夫婦円満の家庭では子供達の幸福度も高く、男が仕事に出る時間には二人の子供も起きて来て、男は温かく見送られて家を出た。


「先輩、おはようございます」


 会社でも男にはそれなりの地位があったし、沢山の部下に慕われていた。


「先輩、この前の会議での提案良かったですよね。発想が自由というか。あ、よかったら仕事終わった後飲みに行きません?話聞かせて下さいよ」


「うーん、まあ、偶にはいいだろう」


 部下と夕食を食べてくると、妻に連絡をしてから男は仕事に取り掛かった。


 満たされた生活だ。

 職場でのストレスもないし、家庭の不満も感じない。

 勤務が終わった後、男は部下に夢の事を話した。


「へえ、確かに妙ですね。現実に難がある人なら夢に逃避するのもわかりますが、先輩は幸せに満ちた生活を送っている。浮気願望だって無いんでしょう?」


「当たり前だ。だから不思議な夢だと言ってるんだ」


「じゃあ、あくまで想像ですけど、夢が先輩にとっての娯楽って考えはどうですか?青春の様なトキメキや、儚くも美しい人物像への憧れ。映画を鑑賞する様な心理があるのかもしれません」


 部下は、減りが遅い男のグラスを見ながら続けた。


「だって先輩、タバコやギャンブルは勿論、酒もあまり飲まないじゃないですか。いくら生活が豊かでも、心には娯楽が必要ですよ。それを無意識下で夢に見てるんじゃないでしょうか?」


「夢で精神を癒してるとでも言いたいのか?」


「そんな感じですかね。まあ、夢の中でくらい自由にしたっていいと思いますよ。そのおかげで上手くいってる生活かもしれないじゃないですか」


「それは言い過ぎだろう。しかしまあ、確かに所詮夢だ。あの世界で俺が何をしようと、ユメオチで終わる。となると、お前が言う様に悪い事などないのかもしれないな」


 こうして男は満足感に促され、帰路へ着いた。


 また夢を見れるだろうか。

 夢は夢で終わるから、自分だけの秘密の娯楽にしておこう。

 新しい玩具を買って貰った子供の様に、期待に満たした胸の内を、男はゆっくり収めてから今夜も寝床へ入るのだ。






 そしてけたたましいサイレン音で目を覚ました。


「あぁ……またあの夢か」


 呟いた青年は名残惜しそうに起き上がった。

 広いコンクリートの室内には、使い古されて薄汚れたベッドが沢山並んでいる。

 その内の一つで目覚めた青年は、隣の男からの揶揄で機嫌を悪くする。


「なんだい兄ちゃん、夢を見る余裕があるなんて見上げたもんだよ。俺なんか泥の様に眠っちまって、気付いたら起床の時間さ。ま、精々他の奴らみたく壊れない事を願うぜ」


 二人を除いた大勢は虚ろな目をそのままに、規則的に移動を開始する。


 何百光年も離れた星から未確認生物がやって来てから一年が経つ。

 地球を征服するソレを、人々は“サイコ星人”と名付けた。

 彼らは地球の技術者や開発者など、価値ある人物をサイコ星に連れ帰り、それ以外の無能者を地球で労働させた。地球の動植物や鉱物に興味があるらしく、労働時間は一日の大半に及ぶ。

 朝と夜に与えられる食事はサイコ星人の残飯で、睡眠時間もごく僅か。

 過労死する者も多い中、サイコ星人は人間を道具の様に扱った。

 軈て人々の心は壊れ、扱われるがまま、道具の様にただただ働いた。


 そんな中で、この青年は未だ夢を見ていた。

 夢に見ていたのは、青年が思い描いた未来。家庭を持ち、部下に慕われ、夢の中でも夢を見る。平凡だが幸福な生活を送りたい。そんな些細な願いすら叶わない世界になってしまった。


「あいつはわかっちゃいない。こんな酷い生活の中では、夢を見る事だけが心の生命を保っているのだと」


 働きに出るために、部屋の出口に殺到する列に混ざった青年は呟いた。


「しかしこの現実こそがユメオチで終わってくれればいいのにな。……さて、こんな事考えてる俺もいよいよ危ないかもしれない」


 いや、もしかしたら周りの奴らは夢の中で生きているのかもしれない。だから現実であるこの世界を虚ろに過ごしているのか。

 それはまさに夢堕ち。

 心と身体を切り離す様な行為だ。

 しかし、こんな現実世界なら見切りを付けてしまった方が良いかもしれない。

 その考えに至った青年は二度と口を開く事も無かったし、瞳に光を灯す事も無かった。


「隣のあいつも壊れちまったか……。確かに娯楽は心を救うが、娯楽に埋もれちまえば現実が疎かになる。夢は見ても魅せられちゃいけねえな……俺は現実で踏ん張って生きるとするか」


 ただ一人、夢に堕ちていない男は、未だに希望を捨てていない。

 それは強さなのか、愚かなのか。

 現実に生きるか、夢に生きるか。

 どこに幸福があるのか。

 それは当人の心にしかわからない。

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ユメオチ 木下美月 @mitsukinoshita

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