夜の生きもの

鷲見恵

今と過去に繋がっているもの

時計は2時を指している。たぶん。

娘は泣き止まない。

耐えきれなくなりそうで、せめてテレビくらいつけようと思ったが、邦彦に気づかれて咎められる可能性を考えてやめた。

夫の邦彦は娘にテレビを見せることを嫌う。たとえ1ヶ月に満たない乳児であっても。

だからこそだと邦彦は言うが、圭子には理解できない。

産後の身体も回復しないまま、大人と誰とも話すこともないまま、乳児の生殺与奪の

権利はないけれど、命と安全をはかる義務が委ねられているのだ。

気がおかしくなる手前ってこんな感じかな?特にテレビが好きなわけでもないが、ちょっとくらい見たって良いと思うのに。

もともと育児に協力する気もなさそうな夫だが、娘を見る目は優しいと言えなくもない。少なくても圭子に対する目線よりは。だが夜間は気難しい。

夜泣きが激しい娘に対して本気で舌打ちする。

そのたびに圭子は心臓がぎゅっとなってひっくり返る気がする。

もともと、誰かに怒られたり、相手の気を悪くすることが苦手なのだ。

夫が舌打ちすると、石つぶてを投げられた亀のように甲羅の中にでも

閉じこもってしまいたい。


時計は2時30分になった。娘はさっきよりは声が小さくなってきた。

退院したての時よりはマシかな・・・。

努めて前向きに圭子は考えた。自宅で初めて娘と二人きりになった時は

恐ろしかった。何しろ、一晩中近く泣いていたのだから。

体重が平均より重く生まれ、体力があるのだろうか、泣き方が激しかった。

圭子は病院で習ったばかりの腸閉塞の事とか本気で心配した。

結局、疳が強いということらしい。見も知らぬ世界に生み出され、

何もかもが恐怖の対象であるようだった。

最近、ようやく圭子にだけは慣れてきたのかもしれない。

泣いておらず、眠ってもいない時には、圭子の目をじいっと見上げる。

圭子はその顔を見ると、どこかで会ったような忘れてしまった親戚の顔を

しているなと思う。そういう思いはまだ愛情とは呼べないかもしれないけど、

その原型になり得るものかもしれなかった。


時刻は3時となった。

小人がリビングを横切った。

小人? 圭子は目を疑った。

でもそれは小人だった。

ディズニーの白雪姫に出てくるような踊って歌っていそうな小人ではなく、スーツを着たおじさんだった。

東海道線に毎朝乗ってくるような。山手線だっていい。

ただし、身長は見たところ30cmくらいだった。


圭子は声が出ない悲鳴をあげた。

あやうく抱いていた娘を取り落としそうになった。

「驚かしてすみません」

スーツの小人が言った。

「3時になると鍵が開くのでね」

私はあなたのおじいさんに大変世話になったものなんです。沢井って言いますけど、聞いたことあります?。」

圭子は首を振った。

自分は睡眠が不足しすぎているのだろうと考えた。沢井という小人は続ける。

「今はこんなですが、元は普通の人間だったんです。

戦場から戻ってきて、今はこのありさまで。ちょっとあなたにご用が

あってきました。」

「普通は、戦場から戻ってきたにしても、大きさまでは変わらないと思う」

圭子は声を絞り出してつぶやいた。鳥肌が立って、体ぜんたいが震えていた。

「そうですよね。まったくその通りだと思います。

でもね、こういうのを何て言うのでしたっけ?、ダーウィンは言ってたかな。

適者生存とか。今の私の役回り上、小さい方がまあ都合が良くて。

驚かせるだろうなと思っていたけど、まあ必要があって来たわけです。」

沢井はセールスマンのようにぺらぺらと良く喋った。まあまあの笑みを浮かべて。

本当に以前は保険か何かの営業をしていたのかもしれない。

「ところでおじいさんのことは知っていますか」

「母方?父方?」

「母方です」

「四十歳のお盆に飲み過ぎて死んだ、私の母は十六歳だった。勝負事に強い暴君だった。祖母は祖父が死んでせいせいした顔をしていた、私の母は今でも叩かれた事や酒を買いに行かされた事が嫌な思い出として残っているとおおまかには聞いていたと思う」

「酒を飲むようになったのは終戦後と聞いてます。まあ、正気じゃ生きていけなかったんだわと思っています。繊細な人でしたからね」沢井はそこだけ勢いなく伏し目がちに言った。

「あなたは正気でいられるの?」

「いられますよ。大体、小人になっても平常心でしたからね」沢井はふたたび前を向いて、まあまあの微笑みを浮かべ、話を続けた。


「お子さんがお誕生、おめでとうございます。

お祝いも言いたかったけど、私は今日は警告を伝えにきたんです。」

「警告?」

「そう。おじいさんにも頼まれたし。」

沢井ははきはきと話し始めた。

「お子さん、ちっとばかり、お腹に澱みがあるんです。

ずっとぐずぐず泣いているでしょう?。

ご機嫌麗しい日がほとんどないのもそれが原因じゃなかんのけって

思ってるんですわ。たまにあるんですよ、お腹にいる時から持って来ちゃう子が。

澱みを吸い取る必要があるんだべが。やりますか?」きっと故郷は北のほうだ。圭子の母の実家に行くとこんな感じでみんなしゃべっていたのを思い出した。嘘ではないのかもしれない。でも小人って、よどみって・・・。


「ちょっと、澱みってなに?」

「人間が太古の昔から受け継いでいる記憶、イメージっつったらいいんかな。

人間にとって良いと思われるものもあるけれど、そもそも太古の昔から存在している

ものだから悪も善もなくて。それがなぜだかこっちに来ちゃってる。」

「こっちってこの子に?」

「そう」

「よくわからないな」

「うーん。まあ、そう言うのはわかるっけど。オレも説明ヘタなんだよなあ」

沢井はため息をついた。

「太古の記憶って、人間が意識していない無意識の中にある人類共通の記憶

みたいなもんです。ほら、聞たことないですか。世界のあちこちで同じような

モチーフの神話が見られてこんなに遠く離れてるのに何だべなとか。ユングとかは

集合的無意識のって言ってたような。

人類共通のだから、精神の奥に潜れば理屈の上では誰でもアクセス可能でありますが、さっきも言ったように善なるものもあるが、悪にアクセスする場合もあります。

善も悪もそもそもないわけで。下手にアクセスすると、こっちの精神がやられます。娘さんはお腹にいたときに、そこにアクセスしていて生まれてくるときに一緒にもってきたってことかな。」

「吸い出さないとどうなるの」

「まず、生き死にには関係ないです。だけど、天才と何とかは紙一重ってことになるかな。娘さんがぐずり倒しているのも、気持ち悪いんだと思いますよ。おじいさんは自分みたいにならないかって心配してました。」

「死んでるのに?。」

「そう、死んでるのに。」

「何で知ってるの?」

「そりゃ、話したから。」

「い?」

「おととい。」

圭子は途方に暮れた。

「おじいさんは繊細な人だった。戦争なんて無理。でも勇気はあった。私は敵方からの爆撃で半分死んだんです。残り半分を救い出してくれたのがおじいさんでした。

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