少女の意地

 ホテルでの出来事など日々の些末にすぎないデイヴィッドは、少女に銀貨を渡したことなどすっかり忘れていた。


 あれから数日後、いつものように事務所に出向こうと家の扉を開けて外へとでた。


 境界壁を共有する細長い建物が連なった閑静な住宅街の一角である。

 違う区画へ移動すれば完全に一軒が独立した一軒家が立ち並ぶのだが、デイヴィッドのような独身者、またはそこまでの稼ぎのない人間はテラスハウスに住むのが一般的だ。

 いつもと同じ朝と違ったことと言えば目の前に影が現れたことだ。


「うわっ」

 デイヴィッドはさすがに驚いた。

 視界を遮ったのは自分よりも背の低い少女。銀色の髪をした少女だった。


「銀貨、返す」


 紫色の瞳がデイヴィッドを睨みつけて右手をつき出してきた。その視線は挑むようでもあり、固い意思を感じさせるものだった。

 デイヴィッドは数日前、自分が行く当てのない痩せた少女に施しを与えたことを思い出した。


「お菓子は……食べちゃったです、しかし、お金は使ってない」

「ええと……、あなたはあのときの。って、どうしてここに?」


 何しろホテル『ラ・メラート』で別れたのだ。自分の住まいが分かるはずもない。


「あのとき、わたしあなたの馬車を頑張って追いかけた」

「追いかけたって……」

 デイヴィッドは呆れて言葉を失った。

 馬車の速さに少女の足でついてこられるものか。


「あなた、街の途中でとまった」

「ああたしか事務所に寄りましたっけ」


 デイヴィッドはあの日の行動を思い起こす。たしかホテルを辞したあと馬車に乗って事務所まで帰った。

 バステライドの借りた彼の個人事務所である。


「そこからもう一度あなたを探そうと頑張った。……一日じゃ無理だったからこれだけ時間かかった」


 要するに何日もかけて地道にデイヴィッドの住処を探し当てたということか。

 天晴というか恐るべしというか。とにかくものすごい根性である。


「ああそうですか」

 その努力をもっと別の方へ発揮すればよかったのに。

「お金は十分足りていたはずですよ。あれを使えばもっと建設的なことができははずなのに」

「いらない」

 少女は強く言った。


「どうしてです?」

 もらえるものは貰っておけばいいのに。


「理由……ないから」

「理由?」

「あなたに施してもらう理由」


 少女はまっすぐにデイヴィッドを射抜いた。強い光を宿した瞳だった。

 この瞳をデイヴィッドは知っている。

 少女は伸ばした腕でデイヴィッドの胸を押した。咄嗟に胸のあたりに移動させた彼の手に被せるように少女は握っていた手を開いた。カランと音を立てて硬貨が石畳の上に転がり落ちた。


「じゃあ返したから」


 少女はあの時と同じドレスを着ていた。あのときよりも汚れている。

 晩秋にしてはいささか頼りない、くたびれた深藍色のドレスは飾りも何もついていない簡素なもの。


「分かりましたよ。まったくもう。せっかくの人の親切を」


 デイヴィッドは肩をすくめた。

 要らないと言う人間に対してこちらが意固地になっても平行線をたどるだけだ。

 返しに来たのなら素直に受け取っておくことにする。

 デイヴィッドは仕方なく落ちた銀貨を拾うと身をかがめた。

 少女はその場から離れようと身を翻した。

 デイヴィッドはお構いなしに銀貨拾いに専念する。


「あ、あの~旦那」


 上から声がかかってきたのはデイヴィッドが銀貨をあらかた拾ったころ。

 デイヴィッドは立ち上がって御者の方を見た。声をかけてきたのは待たせてあった馬車の御者である。


「あの子供、倒れましたけど……。放っておいていいんですかい?」


 おずおずとした口調を出す御者の指し示す方へ顔を向けると石畳の上に広がっているのは深藍色の塊、いや、ドレスの裾。


「ああもう、なんなんですかね、今日は」

 デイヴィッドは、大きなため息をついた。


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