十四 すずかぜいたる

   すずかぜいたる


 葉月。

 やっとこさ訪れた盛夏の見晴らしは、あれもこれもきっぱりと色が濃ゆい。生命に彩られて躍動感があり、ことごとに力を強く感じる。

 反面、なんとなしに、耳が塞がれたようにくぐもった静寂があり、遠くで唄うセミの鳴き声のみが微かに鼓膜に届きつく。きつい陽光は眩しく照りつけ、反って辺りを白く霞ませた。それらは軽い眩暈とともに、幼いころの思い出か、幻想かなにか、どこか現実とは違う世界への変転を夢想させる。

 現に、薄手の黒いキャミソールに丈の長い黒のカーデガンを羽織、黒のワイドパンツに黒のサンダルと、平常通り黒尽くしの葵さんでさえ、甚だしい陽射しを浴びて、身体が透けてしまいそうだ。向こうであがる陽炎と重ねると、その存在の正確なのかも不安になる。

 周りには、ひとっ子一人見つからない。

 かっきり青いとしか云いようのない空に、これまた白いとしか云いようのない雲が、時間の流れをせき止めるが如くむくむくと山脈を作っている。 

 しかれども、僕の知っている思い出の中の渡辺家は、そこにはなかった。

 小さいころ、いわゆる幼なじみとして、日ごと遊びに行った懐かしいたたずまいは見えない。頭には瓦を乗せ、足には石垣を履いたモルタルの屏に囲まれ、真新しい日本家屋が顔を覗かせている。

 その様子も返照し、どこかぼやけてますます頼りない。

「何年か前に建て替えられたらしいですね」

 僕の不自然な表情を見てか、葵さんは云いながら黒いメットを取った。

 とたん、現実に引き戻され、もともとそこにあったはずの様々な音があちこちから飛び込んでくる。半音を下げる救急車の音や、カタカタと電車が線路を踏みしめる音、甲高いバイクのエンジン音、どこか雑踏の足音や話し声。どれも見えないところから聞こえてくるのに、ぼんやりした夢の中から押し戻されたと気づくには十分な雑音だった。


 暑い。


「昔からでかかったですけど」

 僕は、夏の幻想の薄気味悪さをいささか楽しんでいたので、その余韻に浸りながら機材を担ついで門の前に立つ。

 葵さんが呼鈴を鳴らした。さっきより鮮明なセミの声が暑さを煽る。

「はい」

「加茂神社のものです」

「どうぞ」

 インターフォンごしで、葵さんと澪ちゃんのおっちゃんとのやり取りがあり、僕たちは門の中へ踏み入った。

 小さいがよく手入れされた陽当たりのいい庭がある。が、どこかしら雰囲気が暗い。

 なぜだろうとは知れないが、雑草が生え放題で、ゴミが散らかされ、陽当たりの悪いじめじめした庭を見ているような心持ちだ。

 玄関前で待つ葵さんは、二階のカーテンの締め切られた窓を見ている。あの辺りだと澪ちゃんの部屋だと思うが人のいる兆しがない。

「よう来てくれはりましたなぁ。どうぞ入ってください」

 まだ色褪せていない昔ながらの引戸をガラガラとひいて、澪ちゃんのおっちゃんが迎えてくれた。何日も空いていないのに少しやつれた風骨だ。

 こちらから連絡する必要はなかった。あれからしばらくして、澪ちゃんのおっちゃん、ようするに渡辺さんから祈祷依頼の連絡が入ったのだ。

「失礼します」

 葵さんに続いて中に入る。玄関は広くて板の間があり、二階へ上がる階段が見えた。

 空気が重く、なにやら臭う。

「渡辺さん、少し空気を入れ換えましょうか」

 葵さんは、あがると「失礼します」と云って、左にある客間へ入り、縁側の引戸を開け始めた。

「はぁ」

 戸惑いながら、渡辺さんと僕も、葵さんと同じように各部屋の窓を開けてまわった。

 僕の気に掛かったのは、各部屋のあちこちにいろいろな寺社のお札が貼られていることだ。大小さまざまで斜めや横、重ねて貼られたものもあり、とても気味のいいものではない。こないだお邪魔したときにはもちろんなかった。

 葵さんは、誰になんの了解も得ずお札を剥がした。

「うえ!」

 お札が貼られていた壁を見るなり、僕は思わず声をだした。

 そこには、あきらかに血で書かれた文字が「許さん」とある。達筆だ。

 夏の怪談が流行る理由が腑に落ちる。確かに、この暑いのに背中に悪寒を覚えた。

「知らんまにそんなんがあちこちに出てくるんですわ」

 渡辺さんは、いたずらのばれた子供のようにばつの悪い顔をする。もう慣れてしまっている加減か、気色を変えるようなことはない。

 葵さんは、お構い無く次々にお札を剥がしてまわる。剥がしたあとには、やはり血で塗られたような茶色い文字で「死ね」「滅べ」などと記されていた。

「こんなんしたらあきませんよ~」

 おろおろと露骨に困った顔をする渡辺さんに、葵さんは一言だけ云った。

「は、はぁ」

 渡辺さんは、それでもなにか云いたそうだが、僕もお札に手をかける。

「ちっ」

 不意に舌をうつような音を聞いて渡辺さんを見たが、相変わらず人の良さそうな愛想笑いをしていた。家屋にあがってから、ずっと何かに見られている気分もあわせて思い過ごしたようだ。

 ひととおり剥がし、客間の机のまわりに敷かれた座布団に腰をおろすように云われた。渡辺さんがお茶を用意して、湯飲みを並べ、僕と葵さんの向かいに座る。

「早速なんですけど、お話をお伺いしてもいいでしょうか?」

 机に剥がされたお札の厚い束を置いて、葵さんがよそ行きの声でおっとりと尋ねると、渡辺さんがうつむいたまま話をはじめた。 

「二年になりますかな。例の事件をきっかけに澪が躁鬱を患いまして、ほんまに困り果てとるんです。妻にしても、突然家をでて行方も知れず、先生、ほんまになんとかしてください! 澪に普通の生活をさせたりたいんです!」

 渡辺さんは、珍しく取り乱して頭を深々と下げた。

「例の事件? といいますと?」

 僕には、それが加茂神社で起こった死亡事故だとすぐに合点がいった。ところが、葵さんにはおよそ分別いくはずがない。

「加茂神社で二年前にあった災害の二次的な事故ですわ。ご存知でっしゃろ?」

 聞き返されたのが意外だったのだろう。渡辺さんは目をぱちくりと瞬かせた。

「その件は僕の方がよう知ってます」

 あわてて僕が両手を机に載せる。

 葵さんは、「そうなんですか?」といった面持ちでこちらを見て小首を傾げた。

「まだ、職員が常駐してへんころの話ですし、葵さんは、あんまりご存知ないかと思いますが、地震で荒れた境内を復旧しようというボランティアがありまして、そのとき、落ちてきた狛犬の下敷きになって、一人亡くなってはるんです。ボランティアを呼び掛けたのは澪ちゃんやったんで、たぶん責任を感じたんやと思います」

 うまい具合に葵さんをやり込めたとは思えなかった。なにか隠してるな。くらいは察知しているだろう。

「では、渡辺さんはその事故で亡くならはった方が澪ちゃんを苦しめてると?」

 意外にもとくに僕の話に踏み込んでくることはなく、葵さんは渡辺さんの表情の変化に注視していた。

「いや、それしか考えられんのですわ」

 渡辺さんは持っていた手ぬぐいで額の汗を拭いた。

「澪ちゃんの躁鬱だけですか?」

 至極落ち着いた様子で、渡辺さんや僕を観察しながら湯呑みを両手で口に運ぶ。もはや葵さんには味方として認識されてはいないことをヒシヒシと感じる。

「せやから、この、壁に文字が浮かんだり、妻が行方不明になってもうたり、私も随分痩せましたんや。なんや食欲ものうて、夜も寝られんのですわ。なんしか澪が心配で心配で」

 僕の知っている渡辺さん、澪ちゃんのお父さんは、もっと頼りがいのある人物だった。きちんと叱ってくれる大人と云うか、子供心にも信頼できる大人だという理解でいた。

 最近でも、思慮深く、やさしく、カッコいい大人だという印象を崩さずにいた。

 しかるに、ここに座る渡辺という老人とは、まるで別人のようだ。弱々しく、疲れ切っている。

「とりあえず、二階を拝見しましょうか」

 拉致があかないと考えたのだろう。葵さんはすぐに二階へのぼった。

「澪、加茂神社の方が来てくれはったで」

 渡辺さんが澪ちゃんの部屋の扉を叩く。この屋敷で唯一の洋間のようだ。

 返事は聞こえず、しばらく沈黙した。

「入ります」

 葵さんは云うがはやいか、扉を開けた。

「くっさっ」

 僕はつい声を出してしまう。云いようのない匂いと生暖かい空気が、葵さんが開いた扉の向こうから押し出されてきた。中は、もちろんひどいありさまで、脱ぎ散らかされた服があちこちに散乱し、食べかすやゴミがここそこに積まれている。足の踏み場もないとはよく云った。

 そんなゴミの中に、澪ちゃんは三角座りをして頭を膝にうずめていた。膝を抱える左の手首には、これ見よがしに包帯がまかれている。

 葵さんはすぐさま澪ちゃんを通り越して部屋の奥へ行き、カーテンをたたみ窓を開く。窓の下はさっき見た庭がある。葵さんは注意深く庭を見ていた。

「澪」

 渡辺さんが澪ちゃんの肩をゆするが、澪ちゃんはなんの反応も見せない。

「あ、そっとしておいてあげてください」

 渡辺さんの行動を見て葵さんはそれを制した。

 葵さんは澪ちゃんの横にしゃがみ、右手を澪ちゃんの額に、左手を後頭部に当て、ぼそぼそと耳元で囁いた。渡辺さんが見たら、なにか呪文を唱えているようにも見えただろう。

「さぁ、いつごろからどんなことがあったんか、詳しく教えてくれるかな」

 葵さんは澪ちゃんの隣に、自分が座れるだけのスペースを作るため、ガサゴソとゴミを押しやって、澪ちゃんと同じように三角座りをした。澪ちゃんはまさに操られたように頭をこくっと一つ動かすと、寝言でも云っているように眼を半分閉じたまま語り始めた。それを見て、自分が何度聞いても相手にもしてくれなかったのにと渡辺さんは小声で僕にこぼした。

「小二ん時。鹿児島のばあちゃんちで過呼吸の症状がはじめて出たん」

 澪ちゃんの答えは簡潔だ。

「原因はなんやと思う?」

「ばあちゃんがしてくれたじいちゃんの話」

 葵さんの質問に、最低限の情報しか示さない。必然的に葵さんの質問の回数は増える。

「どんな話?」

「じいちゃんが戦争で死んだ話」

「おじいちゃん、戦争で亡くならはったん?」

「うん」

「どうやって?」

「飛行機に乗って、船にぶつかったって」

 特攻だ。僕はすぐにそう思った。何年か前に流行った映画や小説で興味を持った。

「それから症状はどうなっていったん?」

「そのときからしばらくでんかった」

「次に出たのは?」

「何年か前の夏」

「二年前やろ」

 澪ちゃんの答えの後に、渡辺さんが口をはさんだ。

「そう」

 澪ちゃんはまたこくっと頭を落とした。

「あの事件がきっかけやな?」

 今度は渡辺さんが続けて聞き始めた。

「わからん」

「なんでやねんな。それしか考えられへんやろ?」

「わからん!」

 澪ちゃんは両耳をふさいで頭を膝へうずめた。

「渡辺さん、そっとしといてあげてください」

 葵さんは立ち上がり、一とおり仕事を済ませた様子で部屋を降りた。すぐに僕にカメラを設置するように指示をすると珍しく庭へ出ていった。僕はもちろん澪ちゃんの部屋にカメラを用意する。もう一台は一番血文字の多かった仏間に置いた。

「ありがとうございました」

 渡辺さんは深々と頭を下す。

「また明日、機材を取りに来ます。ご祈祷はそれからになります。焦らずにやりましょう」

 僕は渡辺さんにそう云った。


「何か隠してますよね」

 神社に帰るなり、葵さんの鋭い視線とともに棘のような言葉が飛んできた。

「隠すつもりはないんです」

 僕は正直にそう云って、あらためて隠す必要なんかないなと自分で納得をした。

 葵さんは僕の言葉に嘘がないことで安心したのか「そうですか」と隣の部屋へ着替えに行った。

 着替えが済むと、例のごとくちゃぶ台を挟んでの作戦会議をはじめる。

「どう思います?」

 聞きたいことは僕の方でたくさんあったが、さきに質問されてしまった。

「澪ちゃんのことは、よく知っています。やっぱり二年前の事故のことを自分の責任のように感じてると思います。それがきっかけとなって症状として表れていてもおかしくはないかと」

 葵さんは僕の話を受けてしばらく黙り込んでしまった。

「その事故って云うのがなぁ~」

 云いながら伸びをする。

 僕はじっと葵さんを見る。

「なんですか?」

 伸びをした後そのまま両手を後ろへ着いてこちらを見た。

「この事件について、詳しく話しておこうと思って」

 僕は少し真剣な面持ちで両こぶしを握って机に置いた。

「いや、いいですよ」

 葵さんは両手を後ろへ着いたまま、疲れた様子だ。

「なんでです?」

「重要性を感じないからです」

 僕の質問を即答で返してくる。だが、今回は引けない。僕には、確かめないといけないことがある。

「だめですよ。聞いてください」

 いつになく怖い顔をしていたであろう僕の顔を見て、いつもと様子が違うことを汲んだ葵さんは、両手を膝の上に戻し、姿勢を正した。

「では。どうぞ」

 もういつものように涼しい顔をしている。

「二年前の夏です。震度三くらいの地震がありましたよね。震度三程度なら何回も地震ありましたから、覚えてないでしょうけど」

 僕は葵さんの表情をつぶさに観察しながらゆっくりと話を進めていく。

「そうですね。私も覚えていません」

 そんなはずないんですよ葵さん。その言葉が喉まででかかった。

「震度三でも、なんの耐震対策もしていなかった老朽化したこの加茂神社は、倒壊の危険に直面しました。取り壊すかというところまで行ったんです」

 葵さんは膝の上で袴をつまんで折り目を押したり伸ばしたりしている。

「ボランティアが集まって耐震工事を、町内のあの田中工務店さんが先頭になってやったんです。それを呼びかけたのが、当時高校二年生だった澪ちゃんです」

 葵さんの様子が明らかにおかしい。いつも冷静でおっとりとしていて、人の話は真摯に聞くのに、今はそわそわしてこの場から逃げ出したいといった印象だ。

「念のために聞きますけど、葵さんはこのボランティア、参加されてませんよね?」

 葵さんも神社の関係者であることは二年前も変わらないはずだ。

「私はそんなんあったんも聞かされてません」

 葵さんは下を向いたまますぐに答えた。

「そうですか。実はこの工事中にボランティアの一人が、倒れてきた狛犬の下敷きとなって亡くなられました」

 僕は葵さんの眼を見て話している。葵さんは視線を合わせるのが嫌なのか眼を伏せる。

「土御門隆助さんといいます」

 葵さんはビクッと身体を震わせた。

 僕は少し黙って葵さんの様子を伺った。

「この方は、青年実業家で、当時三十三歳。貿易関係の会社を経営されていて、国内でも国外でも熱心にボランティアをされていたそうです」

 僕は、どういう訳かとても胸が苦しかった。そのつまったものを吐き出そうと、一息に云った。それでもまだ下を向いたままの葵さんに、もう一言付け加えた。


「そっくりですよね。葵さんの彼氏に」


 葵さんは小刻みに震わせた声でやっと返事をした。

「な、なにを云ってるんですか、そんなん、ようあることですよ」

「そうですか」

「そ、そうですよ」

 僕はどうしてか、冷たい返事をした。

 ここまで動揺している葵さんを見ても、まだ僕には確信が持てなかった。それはそうだ。彼氏が事故で死んでしまったことを受け入れられずに、自分の過去を改竄して記憶しているなんて、現実ではなかなかあることではない。それも聡明な葵さんがだ。

「でも、この日、葵さんもボランティアに参加してたはずなんですよ」

 ここまで来たらもう仕方がない。今更終わることはできまい。

 僕は伊藤から渡された資料の中にあったボランティア名簿を葵さんに差し出した。そこには、「土御門隆助」のすぐ下に「葵しおり」と書かれている。特徴のある筆跡からも、葵さんの直筆であることは間違いない。並んで書かれているということは、一緒に来た可能性を表している。

「なんですかこれ」

 葵さんは気色を失って少し白くなっている。

「当時のボランティアの方の名簿です。受付で来た順に書いてもらったそうです」

 葵さんはしばらく名簿を眺めていた。少し身震いしたかと思うと、強い口調で云った。

「確かに、私の彼は土御門隆助です。この署名も私が書いたものです! でも、隆助は今カンボジアに出張していますし、私はボランティアには参加していません! なんの嫌がらせですか!」

 僕はそれ以上何も云えなかった。本当に忘れているのか。演技なのか。事実が違うのか。どれも選ぶことができなかったからである。

「すみませんでした」

 僕は素直に頭をさげて「今日の検証の話を聞かせてください」と続けた。

 いつも切り替えの早い葵さんも、さすがに切り替わらず、少しイライラした口調で会議ははじまった。

「私は二年前の事故に焦点をあわせてません」

 間をおいて、やや大きなため息をついた。自分を落ち着かせているようだ。

「ちっちゃかった澪ちゃんにしたら、おじいちゃんの死に方は、どうやったって心に残ったんでしょう。それが二年前の夏になんかのきっかけで思い出された」

 その推理は、僕には違和感があった。確かに、澪ちゃんのおじいちゃんが憑依しているのは間違いないだろうが、発症した時期と、澪ちゃんのショックを考えると、あの事件がきっかけになっていると思うのが普通だろう。

「私が催眠をかけて答えてもらったので、あれは深層心理からの答えだと思われますし」

 やはりあの呪文のような仕草は催眠術だったのだ。でなければ、鬱の澪ちゃんがあんなに簡単に答えてくれるはずはない。

「やけど、きっかけについて渡辺さんが聞いたとき、澪ちゃんは否定も肯定もしなかったですよね?」

 僕の反論についてはなんの答えも返って来はしなかった。

「光琉くんは、第二次世界大戦についてどう思います?」

 突然の質問に、僕はその意図を量りかね、答えに躊躇した。

「光琉くんが澪ちゃんのおじいちゃんやったら、どう思います?」

 葵さんはすぐに、僕が質問の意味を理解していないことに配慮して、質問を変えた。

「悔しいと思います」

「なにが?」

 口をついて出た素直な答えに、葵さんは質問をかぶせた。

「なんでって、あの当時国民はなんで戦争してんのかも、勝ってんのか負けてんのかも、ほとんど真実を知らんかったわけでしょ」

 葵さんは、いつものように両手を膝に乗せ、じっとこちらを見ている。これといって話を遮る風はないので、僕は続けて話す。

「実際は侵略戦争やったわけやし、多かれ少なかれ虐殺や慰安婦の問題なんかもあったし、そんなことのために命を捨てさせられたわけやから……」

 そこまで話すと葵さんは口を開いた。

「ずいぶん偏った視点ですね」

 葵さんは視線を落とす。やはりさっきのことが関係しているのか、とても不機嫌に見える。

「まあいいです。結局、光琉くんも、澪ちゃんのおじいちゃんは無念だと思うんですよね?」

「そうですね。澪ちゃんもそう思ってると思います。やから発症につながったんですか?」

 そもそも僕は、いまだに葵さんの仕事に対するスタイルを理解することができないでいる。僕たちのやっていることは、あくまで「祈祷」であり「厄払い」であり、それはとりもなおさず「除霊」なのだ。そうであるならば、今回の澪ちゃんや渡辺家にも、なんらかの文字通り不成仏霊がとり憑いていると考え、それを祓うのが仕事だ。

 葵さんは違う。澪ちゃんにも、渡辺さんにも、心になんらかのわだかまりがあり、それが心身の不調や身の回りの不幸を自ら招いていると考え、催眠療法やカウンセリングを用いて治療しようという。そして、その方法が功を奏したのを、僕はわずかな期間にたくさん見てきた。

「それはおかしくないですか? 確かにおじいちゃんのことを考えたらそうかもしれませんけど、あの時澪ちゃんは、おじいちゃんのことより事故のことの方が気になってたはずですよ。自分が云いだしたボランティアで来てくれた人が亡くならはったんですから」

 僕は答えてくれない葵さんを置いて、話を継いだ。

 澪ちゃんのおじいちゃんであれ、土御門隆助であれ、渡辺家になんらかの不成仏霊がいるのは違いない。ただ、僕の考えでも、葵さんの考えでも、本人がもっとも気にしている人物が重要であることは何ら変わりがない。それがどちらなのか。

「事故で亡くなった方は、澪ちゃんを恨んでいるでしょうか……」

 葵さんはふと吐く息に乗せて小さくそう云った。

「それは…… でも、もっと生きていたいと思ってはったんとちゃいます?」

 

 次の日。

 検証したビデオには、澪ちゃんの部屋で無数のオーブが映りこんでいた。

「なんでっかこれ?」

 渡辺さんは画面を横切る多くの白い玉を見て、新鮮な驚きを表した。

「オーブと云われています。霊的なエネルギーだとも云われていますし、水蒸気が映りこんだとも、ほこりや羽虫が映りこんだとも云われています」

 僕はごく簡単な説明をした。

 しばらく画面を放っておくと、なにやら「ごわっ」とうめき声のようなものが聞こえた。

「なんでっかこの音は?」

 渡辺さんも画面に張り付いて離れない。僕は少し巻き戻してもう一度再生する。やはりどこからか「ごわっ」という男の低い声が聞こえる。

「なんですかね」

 正直僕にもわからなかった。発情した猫の声だと云われればそうともとれる。それはそうだが、その音が、スピーカーから聞こえるのではなく、耳元でするような聞こえ具合なのが気味が悪い。

 ひとわたり確認をすます。それ以上のものは何もなかったが、十分だろう。

「では、祈祷の日程はあらためてご連絡いたします。澪ちゃんの様子からしても、できれば加茂神社の方で執り行いたいと思っています」

 葵さんに伝えるように云われていたことを説明して、僕は機材をもって加茂神社に帰った。


 葵さんの見解はだいたいの予想がついていた。オーブについては以前云われたとおりだ。澪ちゃんの部屋は異様に湿気ていたから、水蒸気だと云われてもおかしいとは思わない。謎の声についても、隣の犬のゲップだとか、猫の声で済まされるだろう。

 案の定、葵さんは映像を確認してそう意味づけをした。

「そう云えば、壁に浮かぶというあの血文字はなんですかね?」

 機材をしまいながら、僕は葵さんに聞いてみた。

「澪ちゃんの落書きですよ。左手首に包帯巻いてましたよね。リストカットの後でしょう。その血で書いたんでしょうね。筆跡鑑定と血液型を調べればすぐにわかることなんですが」

 うすうすそう云うだろうなとは思った。もちろん僕らには筆跡鑑定も血液型の検査もできない。澪ちゃんに、あんな古風な文字が書けるんだろうか。

「ご祈祷の準備をしましょうか。予定通り明日、本堂の前に祭壇を組んで執り行いましょう」

 そう云われて席を立とうとしたとき、めまいを感じた。いや、地震だ。大きな揺れが、地響きとともにしばらく続いた。

「葵さん!」

 僕は、バランスを崩して倒れそうになる葵さんの手をつかんだ。思いのほか揺れは強く、葵さんの手をつかんだ僕もバランスを崩す。仕方がなく、葵さんを引き寄せ、胸に抱くような格好になったところで揺れは治まり始めた。

「ごめんなさい!」

 葵さんは突き放すように僕から離れた。顔がわかるくらい赤いが、怖かっただけかもしれない。


『非常に不安定な状態です。日本中のどこで大きな地震があっても不思議ではありません』

 つけたテレビでは、連日の地震について専門家がなんの救いもない解説をしていた。

『日本のあちこちで小さな火山が活動を活発化していますし、いずれ大きな火山活動につながる恐れも十二分に考えられます。かつて経験のない非常に危険な状態と云えます』

 

「光琉くん?」

 祭壇を組む僕に、葵さんは低い声で話しかけてきた。

「どうしたんですか?」

「その事故で亡くなった方って、ほんまに土御門隆助っていうんですか?」

 僕は返事に困った。

「…… はい」

「そうですか……」

 しばらく沈黙が続く。僕はなるべく作業に没頭し、いやな間を埋めようと思った。

「でも、隆助さんとは別人ですよ。隆助さんは今カンボジアですから」

 葵さんは自分に云い聞かせているようだった。

 動揺しているのは僕かもしれない。あんな葵さんを見たのははじめてだ。よく考えると、いつも弱さも隙も見せなかった。本当に記憶がないのだろうか。どこか混乱しているように見て取れる。だとしたら、彼、土御門隆助は葵さんの彼氏で、すでに死んでいることになる。

「私、ボランティアにいったんですかね? 署名してるってことは……」

 葵さんはうつむいて力なく、独り言のようにつぶやく。

「二年も前のことですもん。忘れてますって。僕なんか昨日の晩飯も覚えてないのに」

 わざとおおげさな笑顔を作っておどけて見せる。

「なんですかそれ~」

 葵さんも笑顔を見せてくれた。

「それよりこれ手伝ってくださいよ。ここどうするんでしたっけ?」

 僕ひとりで十分できる仕事だったが、ひとりではできない風を装ってそうお願いした。

「それ、前教えたやんか~」

 葵さんに笑顔が戻った。

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