二 くされたるくさほたるとなる 六月九日午前

   くされたるくさほたるとなる


 六月九日

 今朝方まできつく降りつけていた雨は、いつの間にか静かにひいて、あたりは朝もやで白くけぶっていた。どこかでキジバトの鳴く声がする以外は森閑を保っており、ひんやりとしていて少し背筋が伸びる心地だ。こちらから見える石段や灯篭は、ところどころ鮮やかな深い緑に苔むして、雨露を浴び、瑞々しくたたずんでいる。

 濡れた木々や土の香りを胸一杯に吸いこみ、石でできた小さめの鳥居をくぐると、境内を竹箒で掃除する夢幻的な巫女の姿が見えた。

 今にも降り返しそうな、灰色の雲の小さな隙間から、不釣合な青空がのぞく。そこからのびる金色の陽射しが、木の葉のふるいを通り、木漏れ日となって彼女を照らす。その姿は、幾らか神がかって見える。

 おおかた、巫女と云うと、黒髪の長いのを想像するかもしれない。ところが彼女のしっとりとした髪は、確かに漆を塗ったように黒かったが、おかっぱに揃えられ、襟足のみがちょうど背中にかかる程度の長さだ。

 ここからはよく見えないけど、それでも美しいのがわかる。

 さすがに「神職」と云われるだけあって、凛とした雰囲気を漂わせている。

 さりながら、儚げで小柄なその姿は、本当にこの人で大丈夫なんだろうか? という一種の不安を抱かせた。背の丈は百五十五くらいだろう。

「あ、あのう……」

 僕は元来の人見知りである。もともと他人と関わるのが面倒な方だし、初対面の人と話すのはどうもうまくない。相手が美人であればなおさらである。

 おどおどした様子で彼女の顔を覗き込み、今にも消えてしまいそうな声をかける。

 誰とも関わらずに生きていけるなら、それに越したことはない。きちんとした理由を考えたことはないが、人と話すことくらい煩わしいことは他には知らない。

 だいたい、近頃の十九の男にしては地味なファッションで、アジア系の暖色の緩いニットTシャツに、茶系のカーゴパンツをはいていた。制服貸与とはいえ、家に一人でいる時ならまだしも勤務初日にこの普段着はどうかと、自分でもためらったぐらいだ。

 人と関わるということは、自分の自由をいくらか制限されるものだ。とはいえ、社会に関わっていかなければ、今のところ僕は生きてはいけないだろう。

 彼女はすっと顔を上げると、きょとんとこちらを見た。潤った大きな黒目は重さを感じさせ、本当に「きょとん」と音がしそうだった。

 白衣(しらぎぬ)との対比もあって、やや色黒なのが目立っていたが、そんなことなんかどうでも許せてしまうほど、やはり彼女は美しかった。

 つけまつ毛じゃない天然の長いまつ毛は量が多い。それから、やたらキレのある二重の眼には力が宿っている。まぶたが重いのか、眼が開ききっていないところが観音様のようだ。涙袋の厚いのも、人情深く見せるのにかっている。高くてもとんがっていない鼻と特徴のある柔らかなヘの字口もそうだ。

 美人であるかどうかは見る人によるのかもしれないが、嫌味がないのは間違いない。

 眼につくのは、揺れる髪の隙間から覗く緋色の小さな勾玉のピアスだ。袴の色とあっていて、いかにもおしゃれだが、巫女らしさも忘れていない。

「ようお参りで。本殿はこちらです」

 彼女は、僕を参拝客と間違えたのか、笑顔でそう云いながら、小さな社殿を指して掃き掃除に戻る。

 境内にはこの小さな本殿と、右手に社務所、その裏に遥拝所、左手に小さなお社が二つしかないほんの小さな神社だ。

「いや、あの、知り合いの記者に聞いてきたんですが……」

 僕は事情を分かってもらおうと、あわてて説明をはじめる。

「あぁ!」

 彼女はとたんにいきさつを飲み込んだらしく、ややおおげさに驚くと、

「聞いてますよ。鴨野さんですね。最近急に参拝客が増えたもんで」

と微笑む。

 彼女は左手を広げると

「こちらへどうぞ」

と社務所へ案内してくれた。

 玄関から入ってすぐの六畳ほどの座敷に通された僕は、さすがに緊張しながらも座布団に腰かけ、彼女の来るのを待っていた。

「また降り出しましたね」

 声がして、奥の障子が、すっ、すーと開いた。

 正座をして、急須と湯呑を乗せた盆を置いた彼女が、テレビかなにかで見た作法どおり部屋に入り、畳の上の盆から急須と湯呑をちゃぶ台に移した。

「梅雨入りしましたもんね」

 窓の外の格子戸のむこうで、ぽたぽたと音を立てる雨だれを見ながら、彼女の話を継いだ。いつの間にかずいぶん降ってきた。

「これからの季節は多いですもんね~」

 彼女は二つある湯呑に交互に茶を注ぎながら話す。それが雨の話なのか、仕事の話なのかは分からなかった。

 緑茶のかぐわしい香りが一気に部屋を包む。瑠璃のように透明でありながら、優しく緑に染まった茶が、コロコロと音を立てて湯呑を満たす。

「あの、伊藤さんにもお話したんですけど……」

 ん? と小動物みたいに首をかしげてこたえながら、巫女さんは湯呑を僕の前に「どうぞ」と置いた。

「あぁ、ありがとうございます」

 僕は両手で湯呑を包む。茶面に明かりが照り返し、あがっては消えていく湯気が温かい。

「あの、実は僕、霊感とかまったくないんですけど、だいじょうぶなんですかね?」

 巫女さんは急須を乗せた盆をちゃぶ台の横に置くと、こっちを向いて座った。

「大丈夫ですよ」

 そう云ってニッコリと笑う。正座をして、両手をそろえてゆったりと膝の上におく彼女の姿は、とても女性らしい柔らかさを放っていた。

「私、葵しおりと云います。父親が神主をしてるもので、私が手伝っています。とくにこちらの方を任されているわけです」

 巫女さんはあらたまって自己紹介をしてくれた。

「あ、僕は鴨野光琉といいます。よろしくお願いします」

 あわてて頭を下げた。

「光琉くんね」

 葵さんはこちらを向いてもう一つ笑顔を作った。

「葵さんは、やっぱり霊感は強いんですか? オーラとか見えるとか」

 僕は、勤務初日ということを忘れたわけではなかったが、やはり好奇心には勝てず、ついいらない質問をする。

「いえ。まったく」

 葵さんは笑顔を崩さないまま簡潔にそう云った。

「え?」

 僕は、とっさに聞き返す。

「いや、だから、霊感とかはまったくありません」

 葵さんは、さっきと同じ笑顔を保ったままきっぱりと返事する。

 それから、困惑する僕をやはり笑顔で見ながら、荷物を置く場所や着替えの場所、一日の仕事の流れなんかを簡単に説明してくれた。自分用の白衣と渋い緑色の袴も渡された。

「ちょうど、今から依頼のあった現場に検証に行くところです。今日は、光琉くんにもいっしょについて来てもらおうと思っていますので、袴に着替える必要はありません」

 葵さんは用意をしてくるので待っててくださいと隣の部屋へ出て行った。

 それから僕は、ようやく湯呑のお茶を口に運んだ。

 冷めていたが、とてもいいお茶だった。


「変ですか?」

 着替えを済ませた彼女の姿は、黒のサマーニット、黒の短めのサーキュラー、黒のタイツと、全身黒づくめだった。ピアスも黒の勾玉に変わっている。

 物珍し気にマジマジとながめる僕に、葵さんはにべもなくそう聞いた。

「葵さん、おしゃれですね…… スタイルいいし……」

 僕は我を忘れる。到底巫女には見えない。袴ではわからなかったが、お尻が大きくくびれがはっきりしている。ニットで強調される胸も、大き過ぎずバランスがいい。

 誉め言葉にはなれているのか、「お世辞はいいです」と、よそ見をしたまま一言云われた。

「雨が止んでよかったです」

 ドキドキしている僕には全く気付かない様子で、葵さんは、そのまま外に出て戸締りをし、スマホを使って雨雲の動きを確認する。

「今日はもう降りそうにないですね」

 ニッコリ笑ってマスクをすると、黒のパイロットヘルメットをかぶり、ゴーグルをつけ、黒の手袋をして、これまた黒のおしゃれなスクーターにまたがった。

 マスクの白だけがやけに目立つ。

「そこの機材持ってきてもらえますか?」

 葵さんが見た方向に、おそらくカメラやら三脚やらが入った黒い鞄が二つある。いったい何に使うのだろう。

 それをスクーターの足を乗せる部分に無理やり積んだ。

 まだメットもかぶっていない僕をおいて、「行きますよ」と葵さんはスクーターを走らせた。

 坂のすぐ下の信号で捕まっている葵さんの後ろに、自分のバイクをつけ、雑音にかき消されないように声をはる。

「近いんですか?」

「すぐです!」

 葵さんも少し大きな声で答えてくれた。


 この長い一日の最初の事件は、いくつか目の信号待ちで起こった。

 僕の前には葵さんのバイクが止まり、その前にもう一台原付が止まっていた。年のころは僕と同い年か、はたまた年下か。茶髪に染められた頭にはキャップ型のメットがだらしなく乗っかり、くわえ煙草をモクモクとふかしている。

 普段から原付を運転していると、よく見る日常的な風景だ。

 信号が変わると同時に、足をこれでもかと云うくらいにガニ股に開いた男は、原付を勢いよく発進させると、プッと煙草を吐き捨てた。


「までやごるぁぁぁぁ‼」


 けたたましいクラクションとともに発せられた大きな声が、葵さんのものだとわかるのに、数秒を要した。

 それは、中年のヤクザのようにドスの利いた低い声だったからだ。

「止まれや!」

 葵さんはすぐさま華麗なバイクさばきで前方の原付に追いつき追い越すと、上手に幅寄せして相手を道路わきに追い詰めた。

「なんやねん!」

 男は状況が読めず、葵さんに怒鳴る。

「なんやねんやあるかい! おまえ今なにした⁉」

 どこかにスピーカーでも隠しているのかと疑うほど、その潤った唇から出ているとは思えない声量と口調で、葵さんは男を問い詰めた。それは、男の怒鳴り声の何倍も迫力があった。

「なにしたか聞いとるんじゃ!」

 葵さんは今にも男に襲い掛かりそうな勢いだ。

「た、煙草捨てました?」

 毒気を抜かれた男は、葵さんがそれについて云っているのかを確かめるように答えた。

「拾って来い!」

 葵さんはすぐさま煙草を指さす。男はそそくさと、もう遠くなってしまった煙草の吸殻を拾って戻ってきた。

「二度とすんなよ!」

 葵さんは強くそう云うと、はっと何かに気づいて、こちらを向き「お待たせしました」と、ひきつった笑顔を見せた。

「私、ああいうのどうしても許せないんですよ~」

 黒い原付にまたがってもう一度こちらを見ると、そう云ってはにかみながら舌を出した。 

「さ、行きましょ」

 間抜けた顔でものも云えない僕を置いて、葵さんはエンジンをかけた。

「あ、ま、待ってください!」 

 我を取り戻し、僕はあわてて葵さんを追った。

 

 雨上がりの黒いアスファルトをしばらく走る。

 やがて真新しい小ぶりな一戸建ての前に、僕たちはバイクを止めた。

 表札は二つかかっている。ひとつは田中工務店と大きく書かれ、一階が事務所になっているようだ。もうひとつは二階へ続く階段の前の門に掲げられ、鈴木とある。

 機材を両肩にしょって、葵さんに云われたとおり、鈴木と書かれた表札の下にある呼び鈴を鳴らして返事を待った。

「どちらさまですかっ?」

 重そうに扉を開けて顔をのぞかしたのは、眼鏡の装飾が眼にとまる、白髪が少し混ざった上品な女性だった。

「加茂神社のものです」

 葵さんの外向きの声は、とても聞き心地がよく、癒し要素がある。そのゆったりとした低い声は、けして男っぽくはなく、どこかしっとりしていて柔らかい。

「少々お待ちくださいっ」

 気品のある老女は、そう云うと、重そうにしていた扉をいったん閉じた。

 加茂神社とは、今日から僕が働くことになった神社で、正式には「加茂羽肆(かものはし)神社(じんじゃ)」と云う。その名前から、カモノハシのお守りや根付なんかがいっしょに売られているが、調べた限りではそんな由来はもちろんない。

 御祭神は、「加茂(かもの)建(たけ)角(つぬ)身命(みのみこと)」と「天(あめの)御祖(みおや)主命(ぬしのみこと)」。いわゆる「八咫(やた)烏(がらす)」と、もう一つは僕もよく知らない神様だ。「ホツマツタエ」にでてくるらしい。

 とにかく、地元では「加茂神社」で通る。最近は、神器の一つである「毘盧(びる)遮那仏(しゃなぶつ)の涙」という勾玉が、何でも願いをかなえてくれる力を持っているという噂がたって、この小さな神社を賑わせていた。こないだはJBCの地元のテレビ局まで来ていたくらいだ。

「お待ちしておりました。わざわざありがとうございます」

 一度閉じられた扉は、しばらくして大きく開き、中から年配の男性が現れた。白髪が目立ち、笑顔に刻まれたしわも深い。紳士だが、どこか疲れが感じられる。 

「いつもお世話になっています」

 葵さんは男性に深々と頭をさげる。田中工務店と云えば、昔から加茂神社の氏子さんで、社殿修復工事にも、多大なお布施をされているし、工事自体も請け負っていたはずだ。

 葵さんと僕は、男性に案内されて階段を昇り中に入った。

 ばあちゃんちのニオイがする。

 素人の僕ははじめにそう感じたが、葵さんは玄関に入ると、霊能師らしくゆっくりとひととおり辺りを見渡した。

 僕は葵さんの真似をして見回してみるが、人数分の履物が並べられているだけで、玄関周りはとても簡素に片付いていた。残念ながら、霊的なものは全く感じられない。

「なにか、感じられますか」

 男性は、やはり葵さんのその様子が気になるのか、思わず口から出たようだった。男性の後ろには、おそらく奥様であろう、さっきの女性が心配そうな顔で葵さんを見ていた。

「今の段階ではなんとも」

 葵さんはそう云って、ヒールの高い黒のショートブーツのジッパーに手をかけた。

「とりあえず、こちらへ」

 と、入って右側のリビングに案内される。リビングは左奥のダイニングキッチンと一体になっていて、広さで云うと十畳ほどだろうか。とてもよく整理されて、モデルルームのような印象があった。

「どうぞ、おかけになってください」

 男性は右のL字型のソファの奥へ葵さんと僕を誘導した。

 ソファの向こうにはテレビ台があり、大画面のテレビがあった。

 その前に、小さな写真立てが置かれ、若い男女が赤ちゃんを抱いて笑顔で写っている。

 葵さんはリビングに入っても、ひとまわり、やや天井の方を気にしながら見渡した。その様子は、やはり何かを感じ取っているように見えた。

「私は、加茂神社の葵しおりと申します。いつもお世話になります。こちらは助手の鴨野です。早速ですが、詳しくお話していただけますか?」

 葵さんはソファにかける前に自己紹介をはじめた。僕は葵さんの話に合わせて頭を下げ、肩にかけた機材でない方の自分のカバンから急いでメモを取り出す。

「あぁ、こちらがお電話を差し上げました妻の幸恵です。私は田中秀雄といいます」

 L字ソファの手前に座った田中さんは、後ろに立つ先ほどの老淑女を紹介する。

「お前も座れや」

 田中さんは、自分の隣を幸恵さんにすすめた。

 幸恵さんは「はい」と返事をして田中さんの隣にかけた。

「三か月前やったかな?」

 田中さんは幸恵さんに確認するように話をはじめた。

「家鳴りいうんですか、なんや、家のあちこちで急にパチパチと鳴りはじめたんです」

 僕は、田中さんの話をメモに記録していく。云われたわけではないが、覚えるのが苦手な僕の習慣みたいなものだった。

「最初はそないに気にならんかったんですけど、そのうちバキバキと音が大きい時もあったり、知らん間にモノが移動してることがあったりしだして」

 葵さんは田中さんの話を黙って聞いていた。僕が口をはさむのもなんだと思い、黙って聞くことにした。

「一番の問題は、ちょうどそのころから孫娘がおかしなりまして、とうとう最近引きこもってまいまして……」

 田中さんの手が少し震えているのがわかるが、緊張しているようには見えない。

「孫は、鈴木螢といいます。この子が、昔からちょっと変わったとこがありまして、霊感いいますか、見えることがあるらしんです。ほんで、いっぺんお祓いしてもらおかいうことになりまして」

 ほんの少し間があって、葵さんが顔をあげた。

「ご覧になったのは螢ちゃんだけですか?」

 田中さんは葵さんの方を向いて答える。

「いや、私も実は顔はわからんのですが、何度か男がおるのを見まして、螢の友達かと思ったんですが…… そういう時、螢は決まって学校へ行ってましたし、家内も買いもんにでていたり、私が一人の時ばかりでして、ほかにこの家に誰かおるはずがないんですわ」

 テーブルに乗せた田中さんの手は、もう震えてはいなかった。

「失礼ですけど、螢ちゃんのお父様は……? 娘さんの旦那様はお亡くなりになっておられますか?」

 田中さんは驚いた様子で答えた。

「やっぱりわからはるんですか? この子の父親はたしかに他界しております」

 また少し間が開いた。今度は田中さんが待ちきれない様子で聞いた。

「先生、やっぱり螢の父親が原因ですか? そうやないか思って頼んだんです! なんせ急やったし、酷い状況でしたから、思い残すこともあったやろうと……」

 葵さんは表情を変えることはない。

「事故があったのはいつですか?」

「えっと、螢の十才の誕生日やったから…… 事故なんもわかるんですか!」

「ちょうど五年前ですっ」

 田中さんが指を折って数えている横で、幸恵さんが答えた。

「五年前の六月十一日ですね。父親が、螢の誕生日プレゼントに蛍を用意してたんですが、当日になってみな死んでしもてて、ほんで蛍採りに行ったんですわ。その帰りにトラックと衝突してもうて……」 

 幸恵さんがうつむいて話を続ける。

「なんか、名前が螢やからか知らん、毎年用意しとったんです」

 幸恵さんの話によると、居眠り運転のトラックと正面衝突したらしく、現場にはたくさんの蛍がキラキラとあたりを照らしていたという。

 葵さんは少し考える素振りを見せたあと

「少し、家の中を拝見してもよろしいですか?」

 そう云って立ち上がった。

「もちろんです! どうぞ」

 田中さんも立ち上がると案内をはじめた。まずは奥のキッチンへ。広くはないが対面型の使いやすそうなキッチンだ。

「ここがキッチンです」 

 キッチンを左に出ると、玄関からまっすぐ伸びる短い廊下にあたり、その向い側がトイレと風呂場。奥がU字に折れて階段になり、三階へ続いている。

「あがってもよろしいですか?」

 葵さんは風呂場には関心がないように、三階へあがった。

 三階は老夫婦の寝室と、螢ちゃんの部屋、それに螢ちゃんのお母さんが使っている仏壇がおかれた和室が一つあった。

 葵さんは、それぞれの部屋で、何かを読み取るかのようにゆっくりと辺りを見回す。

 僕は、「霊感なんかまったくありません」という葵さんの言葉を思い出す。どうやらあれは謙遜なのだろう。そうでなければたいした役者だ。

 寝室と仏間をすまし、最後に螢ちゃんの部屋の前にきた。

「螢、神社の方が来てくれはったで」

 田中さんは螢ちゃんの部屋の扉を軽くノックした。

 しばらく何の返事もなかったが、田中さんが扉の取っ手に手をかけると異変が起こった。

「さわんな!」 

 扉がドンと大きな音を立てて、中から女の子の叫び声がした。

「じぃじとばぁばはあっちいって!」

 女の子の声を聞いて、田中さんはこちらを向いた。

「こんな調子ですわ。ここ何日も、顔も見せてくれまへんねん。中で、ずっと誰かと会話をしてるんです。電話で友達としゃべってるにしては、なんやおかしいんですわ」

 葵さんはなにもかもわかっているといった様子で、田中さんに笑顔を向ける。

「任せてください」

 葵さんに促されて、田中さん夫妻は仕方なく階下へ降りていった。

「螢ちゃん? おじいちゃんもおばあちゃんも下降りたよ」

 葵さんは扉に顔を近づけて優しく話す。

「ほんま?」

 扉の向こうから、まだあどけなさの残る少女の声が聞こえる。

「ほんまやで」

 葵さんは扉に顔を寄せたまま答える。

「…… たぶ…… 大丈…… やと思う……」

 扉の向こうから、螢ちゃんと誰かがひそひそと何かを話しているのが聞こえる。

 しばらくすると扉がゆっくりと開き、隙間からくりっとした大きな眼がこちらを覗いた。

「螢ちゃん?」

 葵さんが訪ねると、大きな瞳がうなずくのがわかる。

「入れてくれる?」

 もう一度葵さんがそう聞くと、今度は扉が大きく開いた。

 葵さんはなんのためらいもなく扉の向こうへ入っていく。僕は、やや困惑しながら後に続いた。

 田中さんご夫妻はとても穏やかで、その二人に威嚇するように叫んだ螢ちゃんに、大きな違和感を覚えたからだ。そこには、僕の知らない家族間の問題が潜んでいるのかもしれないと予感させた。それだけならまだしも、いるはずのない誰かと会話をするなんて、本当に何かしらとり憑いている可能性だってある。いつか見たエクソシストのワンシーンを思い浮かべながら、螢ちゃんがブリッジして襲いかかって来ないことを祈った。

 中に入ると、女の子らしい薄いピンクのカーテンは閉め切られ、部屋の中は暗かった。

 とても整頓されていて、中学生の部屋とは思えない。僕が中三の時のことを思い出すと恥ずかしくなる。

 僕の持論だが、いい女の条件と云うのが三つあって、一つが料理がうまい。もう一つが部屋がきれい。最後が朝に強いだ。螢ちゃんは一つ合格。

 そんなくだらないことを考えていると、机に置かれた写真たてが目に入った。

 まだ幼い螢ちゃんと、同い年くらいの女の子と男の子が笑って写っている。仲のいい友達なんだろうか。とても明るい感じが写真から伝わってくる。

 そんな写真の感じとはまったくの別人のように、螢ちゃんは壁を背にベッドの上でうずくまっていた。心なしか顔色も黒く見えた。

 よく見ると、どこかで見たような気がする。

「螢ちゃん? 少しお話聞かせてくれる?」

 葵さんは螢ちゃんの前に横座りすると、泣いている赤ん坊をあやすように云った。

「……」

 返事はない。どこか一点をみつめていて、こちらの話が耳に届いていないようだ。

 葵さんは、そんな螢ちゃんの反応にはお構いなく話をつづけた。

「何か悩んでることある? 友達のこととか?」

 螢ちゃんは、驚いた様子で葵さんを見た。葵さんの質問に面食らったようだった。僕も少しとまどった。変わったことはないか? とか、変なものを見ないか? とか、もっと別のことを聞くのかと思った。

「あの……」

 螢ちゃんは言葉につまりながらもなにか伝えようとしていた。それでも、ふと後ろを向くと、「…… する? …… なす?」など、なにかヒソヒソと誰かとしゃべっている。

 相談相手に止められたのか、螢ちゃんは小さく云った。

「ないです……」

 声に覇気はなく、なにかにとり憑かれているという偏見を持っていれば、そう見えないこともない。長くて綺麗な黒髪は、紺に白の水玉のシュシュで止められていて、その装いがかろうじて女子中学生らしさを残していた。

「いじめられたりは?」

 葵さんの質問に、螢ちゃんは眉間にシワを寄せ表情をさらに暗く変えた。

 そういえば少し前にいじめ自殺の報道があったなと思い出す。この辺ではなかったと記憶しているものの、確か螢ちゃんと同じくらいの男の子だった。

 学校側がいじめ自殺と認めず、大きく取り上げられていた。

最初に記事を書いたのは、僕に加茂神社を紹介してくれた伊藤という記者だ。本人が自慢していたのでよく覚えている。被害者の中学生の家族は、事件を公表したくなかったらしく、記事にしないでほしいと再三頼まれていたというが、伊藤は聞かなかった。

 ご家族は、学校側ともめると大きく報道されてしまうと思い、裁判も取り下げたという。にも拘らず、伊藤は記事を書いた。もちろん名前や学校名など細かなことは伏せられていたようだが、そんなことは今ならすぐに特定できるだろう。

 実は伊藤のことをよく知っているわけではない。

 もともとは高校を卒業してからしばらく、ネットで見つけたバイトで伊藤の雑用をしていたのがきっかけだ。FAXで送られてくる原稿を入力してメールで送るだけのバイトで、誰にも会わずにできるのがよかったのではじめた。人と関わらずに生きていこうと、試行錯誤した結果だった。 

 もともと文学が大好きで、本ばかり読んでいた僕にとって、文字を書くことを仕事にできることはありがたかったこともある。

 バイト自体はひどい記事を書く伊藤とそりが合わず、給料も残念な額だったのですぐに辞めた。

 伊藤が加茂神社を僕に紹介したのも、彼が加茂神社について記事を書こうとしていて、その情報源にしたいだけだろう。実際にそう云われていたが、超常現象が大好きで興味があった僕はそれに乗っかったというわけだ。

 そんな伊藤が書いた記事だから、どこまで本当かはわからない。

 また、螢ちゃんは後ろの誰かと相談してから言葉を選ぶように答えた。

「だいじょうぶです……」

 力なく返事をする螢ちゃんを見て、表情を変えたのは、その報道のせいかもしれないなと思った。なぜだか、螢ちゃん自身がいじめられているようには感じなかったからだ。

「そっか」

 葵さんはその返事を予想していたようだ。たいして顔色を変えることもなく小さくうなずいた。

「あのっ!」

「ん?」

 葵さんが次の質問をするよりも先に、螢ちゃんが質問を返してきた。

 なにか、突然生気を取り戻したかに見える。

「毘盧遮那仏の涙って、ほんまにあるんですかっ⁈」

「えっ?」

 次は葵さんの表情が少し変わる。

 螢ちゃんは続けて聞いた。

「今、学校ですごい流行ってて、テレビ出たからかも知れんけど、ほんまにあんのかなって、うちがよく聞かれるんですっ」

「あぁ!」

 今度は僕の方が驚く。そう云えば、地元のテレビが来たとき、インタビューされていたのが螢ちゃんだった。見たことがあるはずだ。

「テレビでてたやんな⁈」

 僕は思わず声を出した。

「本当にあるんですかっ?」

 螢ちゃんは僕の問いかけには答えずで、葵さんにもう一度聞いた。なにか、鬼気迫るものがある。よっぽど気になるんだろう。

 葵さんは、にっこりと笑って螢ちゃんに顔を近づけると、コソコソと云った。

「ほんまにあるで。本殿の中にずっと祀られてるねん」

 葵さんの答えを聞いた螢ちゃんの眼は、らんらんと輝いていた。

「どんなんなんですかっ?」

 うつろだった螢ちゃんの様子は、正反対に変わってきている。

「あんな、勾玉ってわかる? 白と黒の勾玉で、二つ合わせて太極図っていう円になってんねんて」

 螢ちゃんは、しばらく熱心に葵さんの話を聞いていた。

 葵さんは、そのままうまく螢ちゃんを説得し、暗視カメラの設置と、お祓いの約束を取り付けた。

 螢ちゃんは、途中なんども後ろを振り返ってヒソヒソと誰かと相談するような素振りを見せた。

「…… おねぇちゃんは信用できるって」

 螢ちゃんの相談相手は、葵さんのことを信頼したようだった。

「光琉くん?」

 不意に葵さんが僕を呼んだ。

「こことそこに定点カメラを設置してくれます?」

 そう云って、階段を上りきったすぐの廊下と、螢ちゃんの部屋の扉の前を指さした。

 僕は下から例の黒いカバンを取ってくると、すぐに中を出して準備をはじめた。

「田中さん、一応、今晩だけカメラを設置させてください。よろしくおねがいします」

 葵さんは部屋から出ると、心配そうに上がってきていた田中さんの方を向いて、丁寧に頭を下げた。

「やっぱりこの部屋が怪しいですか? 私が男の幽霊を見たんもここなんです」

 田中さんは興奮して聞いた。

「まだ決まったわけではありませんよ」

 葵さんはにっこりと笑う。

 そして機材とてんてこ舞いしている僕のところに来て「大丈夫ですか?」と手伝ってくれた。

 カメラは暗視で取れるものが二つ。それからサーモグラフィが一つ。

「これが厄介なんですよね……」

 葵さんはサーモをセッティングしながらそうつぶやいた。

 もたつく僕とは違い、葵さんは男勝りにテキパキと機材を設置していく。

「こんなん得意なんです」

 僕に配慮してか、そう云って笑う。いいとこを見せたいと思っていた僕の浅はかな考えは失敗に終わった。

 機材を設置し、だいたい全体を見終わると、葵さんは「またね」と螢ちゃんに手を振って笑った。それからリビングに戻った。

「あぁ、お茶もださんで」

 田中さんは気づいたようにキッチンに向かい、お茶の準備をする幸恵さんから湯呑ののったトレーを受け取った。

「お待たせしました。どうぞ」

 田中さんはトレーに湯呑を四つのせてテーブルの上に置き、トレーから湯呑を各人の前に配置していく。最後の一つを幸恵さんの席に置こうとしたとき、湯呑を落とした。

「あぁ!」

 僕はすぐに湯呑を戻し、茶がこぼれた範囲は大きくはならなかった。

「すんません! 最近年のせいか、手があかんのですわ」

 布巾でテーブルを拭きながら、田中さんはそう云って頭を下げる。

「どうぞ、気になさらないでください」

 葵さんはやさしくそう答えた。


「ただいまぁ」

 玄関から声がして、女性がリビングを覗いた。

「もう来てくれてはったんですね」

 女性は、鈴木陽菜と名乗った。螢ちゃんのお母さんだ。僕らがくるので仕事を切り上げて帰ってきたらしかったが、間に合わなかったようだ。

「お父さん大袈裟でしょ? 大丈夫やって何回もゆったんですけどね」

 陽菜さんは怪奇現象や娘の異変に興味はないようで「反抗期ですって。うちもありましたもん」と極めて明るい。

 僕たちは機材を明日取りに来ることを伝え、ほどなく鈴木家を後にした。


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