エッセイ「普通に考えてみると(二)」

@SyakujiiOusin

第1話

          普通に考えてみると(二)


                              百神井応身


1.米寿


 草津の、表通りを外れた道沿い数十メートルにわたって、多様なダリアの花が咲き乱れておりました。

 足を止めて眺めていると、咲き終わった花や枯れた葉を手入れしていたおばあさんが生鋏片手に近寄ってきて、ひとつひとつの花を説明してくれました。

 傘寿(80)を迎えたのを機会に、何か記念になるものを残そうと思い立ち、道沿いの荒地を、今日は1メートル次の日もまた1メートルと耕して、好きなダリアの球根を植えつけたのだという。

 88歳になった今も、毎日こうして世話をしているのだけれど、葉っぱがウドンコ病になってしまうのが避けられないのだとか。

 でも、花が終わってからの作業が大変で、この多量の花の球根を全部掘り上げて乾燥させ、来年5月にはまた植えつけるのだと、大変といいながら嬉しそうな顔をしていました。

 まだまだ種類を増やしたいので、秋には町田のダリア園に行ってここにないものを選ぶのだというが、草津から出向く意欲をこの年で尚持っているとは凄い。



2.便りがあるのも良い便り


 友人が重責ある役職をを勤め上げて、身軽になったとの案内をいただきました。

 お互い、そろそろ引退を考える年回りになった。

 いかに大切に仕事をしてきたかが行間から溢れんばかりの文面でしたから、ことほどさように奥方が大事に思ってくれるのは、蓋し当然のことかも知れません。

 当方はまだまだその境地に到るには、修行がかなり必要かと思いますが、いずれの日にかはと臍をかためて励むことにいたします。

 少し前には、違う友人からも便りを頂きました。

 責任感と気概に富んだ文面は、私を叱咤せずにはおかぬものにて、先日来会ったり話したりする度ごとに、わが同級生は怪物が多いと思わずにいられません。

 カンボジアに学校を建てようとの志を立て、それを成し遂げたのもその一人です。

 応援せずにはいられません。

 万里の波濤を乗り越えて、気宇壮大にいかまいかな(信州弁)と、励んでいます。



3.法る


 「法る」をなんと読むか?

  これを「かたどる」と読めた人は、かなり武道の嗜みがある。極意書などによく出てくるようです。

 では、「人相」などという場合の「相」とは何のことなのでしょう?

 相とは、心が形に表れたものということ。

 ここまでが前置きです。


 遅い昼食を摂りに出かけたところ、お店の前に設えられた喫煙場所の灰皿のところで、かなりイカレタ格好をしたニイチャンが二人でタバコを吸っておりました。

通りかかった外人さんが手を挙げて、二人にニッコリ笑いかけながら通り抜けたので、さすが横浜、知り合いなのかと思ったのだけれど、どうもそうではないらしい。

「今の外人、なんで笑いかけて行ったんだろうね?」

「外人にだってオカシイ奴はわかるんじゃねえの?」


 うん、若いのに冷静に自己分析ができている。



4.夜重


 大先輩のオジイサンたちが集まる会に行ってきました。

 Poleが柔らかい爺さんは、とてものこと野獣(爺柔)なんて呼ぶあたわず、夜が重なるにつれて動きが鈍ってきたが、それを補って余りある口数の多さには参った。(行ってまいりましたの参るじゃなくて降参のほう)

 砲砲の体でかわしていても、いつのまにか傍に寄ってきているから、話題を合わせての相槌も大変だったのであります。(い~いじいさんはつーれられて言っちゃった。)

 むかし一緒に旅行に行ったとき、迷子になってジャングルに放り出されたときでも、どう見たって固い肉は旨そうじゃないし、猫またぎということもあるから、残置したとしても虎またぎで命をながらえた。(ウソ・・柵の中には入らなかったからです)

 そんなわけで野生化もしないうちに見つけ出した。

 お年寄り相手は気を遣う。でも、そこはそれ気は短くても力持ちの私としては、歯捏ねのやまも神奈川県と自重して面胴診たのです。

 テンコーセンヲムナシュウスルナカレ トキニハンレイナキニシモアラズ

 これからの季節、忘年会で遅くなる夜が重なりそうです。



5.半熟


 卵なら、たいそうおいしいのだけれど、中途半端?って意味合いで・・・。

 まぁどっちでもいいし、うるさく言って拘るほどのことでもないが、徹底するってのは難しいっていうおはなし。


 会社の近くに日本料理のお店があって、昼食は格安で提供されている。

 腕だか味だかにはコダワリがあるらしい。

 というのは、調味料というものは一切テーブルの上に置かれていないし、刺身などで必要となる場合の醤油は、必要最小限の量が小皿に注がれて出てくるのみ。

 この味のわからんような客は、来てくれなくて結構という構えなのか知れぬが、そんなに威張るほどの味かどうかっていえば、どう贔屓目にみたってそれ程のものとは思えない。

 来てる客だって、とてものことグルメらしく見えはしない。誰かが言ったことを鵜呑みにして来ているに過ぎないように見える。何故かといえば、二度とその客に会ったことがないからです。

 客あしらいにしたって、丁寧とは言い難い。先日珍しくたて混んだときのことだが、待っている客に「お相席でもよろしいですか?」と尋ねていたけれど、すでに席についている客の方の意向はついぞ尋ねるということなく、席に案内していたというお粗末さ。

 格好を気取るのなら、いろんなところに気をくばれよ、と思わせる。

(まぁ、そうであれば、みすみす来た客を逃がすことになることにやせ我慢したって、大衆食堂ではあるまいに、相席なんてことはしないだろうけど。)

 極めつけは、どう見たって出てきた焼き魚に火が通っていないから、仲居に「これ、焼きなおしてきてよ」というと「板場に聞いてまいります」ときた。

 そんなの、見ただけでわかるだろうに。

 仮の仮に、半生がおすすめなのだとしても、客が好まなければ意味がないじゃないか。(見習いかなんかの手違いで出しちゃったらしいけど)


 おいしいものを一所懸命つくって、お客さんに喜んで貰うためだったら、影で血の滲むような努力を惜しまず、しかもそれを自慢するなんてことなぞ、客に聞かれたってしない、なんてことを望むなんてことは土台無理になっちゃったのかね~。



7.憂国の志士


 なに?幽谷の獅子か夕刻の猪の間違いなんじゃないのかって?

 なにをおっしゃる鵜鷺さん。私は国の行く末に深甚なる危惧を抱いているのでござるよ。


 昨晩ひょんなことで、電車の座席の隙間にカンダ鼻紙を押し込んだ鼻紙女子高生に注意したことを話したのですが、その場に居合わせた大人どもの反応がなんとも情けない。

「気をつけないと、腹いせに痴漢騒ぎをしかけられるかもしれないよ」ってんだから。

 発想がなんともいじましい。大した身でもないのに、我が身かわいさしか考えないのかっ!将来ある若者を正しく育てるのが大人の責任ではないか。

 どうせ華々しい働きも、救国の行動もできるわきゃないんだから、せめて身の回りの小さなことからでも自らの行いを匡し、勇気をだして他の範となるべく率先してみろってんだ。


 壊滅的だといわれたニューヨークの地下鉄の治安が落書きを消すということで持ち直し、暴力が吹き荒れた学校が、割れた窓硝子を修理することが端緒となって正常さをとりもどしたとか聞くと、手始めはちっちゃなことを積み上げていく姿勢があるかどうかということである。それをみんながそうだそうだと支援するかどうかにかかるのだと思われてならない。


 で、注意されたその女子高生はどうしたのか?というご質問への応えですが、丸めた鼻紙は自分でも汚いとの認識があるのか、指先でつまんで、投げ出して足元においてあった鞄を開いて大事な教科書の上に放り込みました。

 もうわしゃ知らん。

 それにしたって、民法の第1条に「私権ハ公共ノ福祉ニシタガウ」ってちゃんと書いてあるけれど、公ってこと以前のことは、親がなんとか躾とけって・・・

世直し爺さんを気取るつもりはないが、その女子高生が立派なレディーに育つきっかけになったら嬉しいではないか。少なくとも、その女子高生が以後は気を付けてくれるだろうと信じる。



8.有城(うじょう)


 友人が同好の志と一緒に城巡りをしたという。

「女城主」なる銘柄の酒を2本も飲んじゃったというから、楽しかったのだと思う。


 国を傾けるほど城づくりに情熱を注いだ結果のノイスバンシュタイン城が、今や観光収入に大いに寄与しているドイツに較べ、日本の城は、明治になると毀されてしまったものが多く、残念なことです。

 僅かに名前が残っているロジョウ(路上ではありません。白鷺城のこと)だとか、ウジョウ(烏城)だとかがありますが、日本全国に広がる田圃と城と神社仏閣を作った高度な技術は、いまもなお残されているらしい。


 覚有情、悟りを求める者というような意味かと思いますが、なかなか先を見据えた手を打っていくのは難しいのかも知れません。



9.河童


 「沼」と「湖」の違いは何か?

 河童がいるかどうか、なんてのはテレビCMの冗談です。


 水深が5メートル以上で、岸辺までしか植物が生えていないのを「湖」という。

水面のいたるところから植物が顔を出しているのを沼というんだそうです。


 魚に衣をつけて油で揚げたのを天ぷら。野菜のそれを揚げ物という。


 トンネルと隧道の違いというのも、割と解らないで使っている。

 両方から掘り進めて中で繋がるのがトンネル。一方向から掘り進めるのが隧道。


 では、カモメとウミネコの違いはどうか?

 脚がピンク色をしているのがカモメなのだとか。

 カモメは「頭は黒、しっぽは白、くちばしは赤」なのですが、ウミネコは「頭が白、しっぽは黒、くちばしは赤、黒、黄の3色」なのだという。

 ウミネコは「ニャーニャー」と猫のような声で鳴く。

 さらに言へば、カモメは渡り鳥なので、冬にしかおらず、夏にいるのは99.9%ウミネコ。両方ともカモメ科の仲間なのですが、見た目や生態が違う。

 判らないときは「ゴメ」と言っておけばよいと、ガイドさんが教えてくれました。



10.ちゅうちゅうたこかいな


 ちゅうちゅうたこかいな。ちょいちょい蛸食いな。

 なんのことかって?

 もういくつねると、って言うから、おせうがつのことかと思ったら違った。


 お正月には蛸くって、じゃなかった凧あげて・・・。

 いえネ。もういくつって数を数えるとき、ちゅうちゅうたこかいなって指折り数えるけど、なんでなんだろね。

 だるまさんがころんだ、とか、おまけのおまけのきしゃぽっぽ、とかいろいろある。

 指折り数えてお正月を楽しみにしていた頃のことは、懐かしい昔のことになった。



11.ボケ


 けさは、「大丈夫なの?」ってかみさんにいわれちまった。

 こんなことは初めてだけど、そろそろ多少は心配しといたほうがいいかしら?


 玄関を出て、文明の利器「めがね」を忘れたことに気がついた。チャイムをpingpongとやった。

 手渡されて、顔の一部だというのをかけたところ、首の一部がどうも変だと気づきました。なななんとっ!ネクタイを締めてない。

 いろいろ考えなければならないことが多いと、忘れることだってある。(いいわけ)


 ボケ防止には、水分を沢山摂ると良いのだとか。水・お茶・ジュース・味噌汁などなど何でもよいが、アルコール類はそれに含まれないのだと言われました。



12.風樹の嘆


 親孝行、したい時分に親はなし・・・と言います。

 11月21日から、招待されて雪の降り積もった岩手の温泉に浸かり、帰宅した連休最終日の夕刻、母が誕生日を待って一つ年をふやし98歳で旅立ったとの電話をもらった。

 友引だなんだとかがあって、28日に葬儀を済ませ、しばらくの間は歌舞音曲の類は控えあって然る可しということでおりました。

 長く世話になった嫂に、母が「お母さん(嫂のことをお母さんとよぶようになっていた)、そろそろお迎えがきそうだから、一緒に行いかまいかな」というのに「一緒にいくのはまだ、かにしてや(勘弁してねという意味の信州弁)」と言っていると笑っていたのがその半年くらい前の話です。


 孫達がお母さんと呼んでいたのが、いつのころからか母までが嫂をお母さんだと思い込んでしまっていたらしい。


 樹欲静而風不止    樹静かならんと欲すれども風やまず

 子欲養而親不待    子養わんと欲すれども親待たず


 韓詩外伝にある、孝行をしたい時分に親はなし。というお話しだが、省みて親孝行らしいことはしないままであったが、母はまだもう2~3年は生きると思ってました。

 不良ではなく真面目に育ったことをもって堪忍してもらうしかない。



13.時には


 生きていく上で、必要最小限の用が足りればよいという考え方もあるが、時には食卓に花を飾り、良い器でお茶を飲むということも、明日への勇気を沸き立たせます。

 精神性のレベルをあげるのは、突き詰めた考え方と、ゆとりとのバランスがとれてのことなのではないかと思うのです。

 パンも大事ですが、パンのみではないところに喜びが生まれ出るとしたら、それは贅沢とは呼べないものとなる。



14.付言


 きのふ、不尽おっと婦人によるこのような記事が「談話室」に載っていたのが興味深かった。

「子は親の言うとおりにはならず、親のしたとおりになる」。

 毛出し、おっと蓋し名言であると思うのでおじゃりまする。だからどうする、というところまで書かないと、言いっぱなしで終わる。


 言うは易いのですがそれでも尚、自分のことを棚にあげてでも、あるべき姿を指し示して導いていかなければならないのが、親の責任なのではないのかと思うのです。

 自分ができなかったことであれば尚更のこと、期待を込めなければならないと・・・



15.忙中


 忘年会のお誘いがありました。

 案内文にあった「房中歓在り」っていうのいいね~。あたしゃ残念ながら、「房中嘆あり」のほう。

 

 大抵の会には、来賓ていうのが錦上花を添える(花を変換したら洟なんていろけのねーのがでちゃった)のでありますが、ダブルブッキングでは致し方なく、不参加の返事をしました。

 千日回峰行じゃないけど、離意不なしで、死ぬまでやれ~って言われたって、いくら気が多くとも、身は一つなので・・・

「棒寝ん貝」と書くと、あらぬ想像を逞しくして、いろいろ物語を考える人が出るかもしれないので、そうは書きませんでした。

 新年会が済んだら、あとは全部忘年会だっていうが、それにしたって随分早い忘年会の期日案内でした。

 この様子だと、あと何回か忘年会をすることになりそうです。

 第2回目の忘年会は、あとで返事をするのは面倒だから、今のうちに出席ということにしておきました。

 まことに恐れ多いことながら、物忘れがひどい年になってるから、間際になったら念押しして下さるよう、物覚えのいい幹事さんにお願いしときました。

 なんですと、寝言は寝て言えって?

 棒も貝も勃って、おっと立っているのがいいんです。(潮干狩りに行って蛤なんぞを足探りで捕ったことのある人は、お分かりですよね。貝は、砂の中で縦になっています。)



17.余談


 Rome was not built in a day.

 長い積み重ねがあっての余談になるが、書きたいことはいっぱいあるのです。


 幼い頃の遊び歌があった。

  あ~ぶらたった にえたった にえたかどうだか たべてみよ~

  まだにえぬ

  あ~ぶらたった にえたった にえたかどうだか たべてみよ~

  もうにえた

  おひるのおかずにとっといて

  つ~ばなつばな いっぽんぬいてキ~リキリ・・・


 このツバナとは、チガヤの穂のこと。チガヤの根は、漢方の利尿剤なんだとか。


 信州の枕詞「みすずかる」の“みすず”とは、チガヤのことかと思っていましたが、

ミスズは篠竹のことなんだと言われて、信州にはそんなに篠竹があったっけかと思ったことがありました。

 シナノの「シナ」は「科」のことだから、カホンカ植物そのもののチガヤだと思っていても不思議ないと思うのですが。



18.歴史


 柄にもなく、クラシック音楽を聴きに行ったり、クラシックバレエを観に行ったりすることがあります。

 かなり以前観たバレエで、ルジマトフがアルブレヒトを演じたジゼル等は、記憶に残っている。

 極限まで踊りを鍛え、神の領域を感じさせる雰囲気を、客席に濃厚に伝えてました。

 別段バレエのファンというわけでもないけれど、年に何回かは足を運びます。

 拍なんてのを数えて躍ってるようなのや、芯が通ってないような踊りは、素人にだって不自然感を与えるけれど、長い鍛錬により至る境地は、圧倒的な存在感と説得力を持つ。

 精神性の高まりを滲ませるものは、芸事であれ絵画であれ彫刻であれ書であれ、共通するものがあるように思える。


 文化として残る歴史の重みは、素直に感じればよいと思うのだけれど、事実かどうかの公平な検証があやふやなものが歴史の真実のように教え込まれているものってないだろうか、と考えてしまった。

 きっかけは「猿の惑星」の、猿に支配された人類という設定が、実は日本人に支配された白人を暗に想定したものであり、ちょっとしたジャーナリストなら知っている話しだと聞いたこと。

 そういえば、歴史って征服者が都合のよいように被征服者のことを書くのであって、違うんじゃないかなんて異を唱えるのが難しいと思っているうちに既定事実のようになるんだった。

 神話にしても、織田・豊臣・徳川の流れにしても消された歴史って多いのかも知れない。



19.漏れ聞くところによると


 口パクで済ましているのでは?ということについて、以前からその噂はありました。

 体力を使うでしょうから、体調が悪いのを押しての公演であれば致し方なきことと思わぬでもないけれど、高額なチケットを購入しての観客にしてみれば納得いかないのかも。

 私は、基本的にオペラはどうもって口です。歌で物語が進行するからまだるっこしいということもありますが、大体の場合、女性が可哀そう過ぎる物語が多いからでもあります。

 「リゴレット」のレーザーディスクを持っていますが、パバロッティが演ずるマントヴァ公爵がなんとも憎たらしい。

 ジルダ役は、もうソプラノではピカイチのエディタ・グルベローヴァです。ソプラノのピアニッシモは、も~う絶品だと、オペラ苦手の私をして思わされます。

 これを書いていて、グルベローヴァの「夜の女王」を聞きたくなっちまったけれど、今日はこれから竜宮城?まで行くことになってるから・・・



20.いらない報道もある


 正当な選挙により樹立されたのではない国の政府、例えば易姓革命・軍事クーデター・棚ぼた式独立などは、前政権の徹底的な否定から始まるのは仕方ない。

 これに齟齬を来すと、その後のお決まりは、教育とプロパガンダにより外に目を逸らす手段をとる。

 その時に恰好な相手として、日本を使っているように感じられてならない。

 そういうことを理解した上でニュースというものを読まないと、判断を間違う。


 どこの国も同じ基準でものを考えるのだと考えて、悪口を言われるのは日本側だけに落ち度があるのではないのか?と思い込んでしまっている正直な人を一喜一憂させ、昔なら外患罪に問われても仕方のないような報道の仕方をすることがあっても、日本ではチェックされることも罪に問われることもない。

 そういう自由な国に住んでいるのだから、賢くあらねばなるまい。


 よその国で勝手に騒いでいることを、いちいち報道してくれなくても良いと思うことが沢山ある。

 何らかの思惑があって、自分たちの主張の方向にリードしたい勢力というのがあるみたいに感じられ、いったいどこの国の人が尻馬に乗ってしている報道なのかと疑ってしまうようなものもある。


 読んで不快だと感じたら、それはきっと自分が正しい判断をしているからなのだと思う。

 強く出られれば引くというのが、日本人だと見透かされているのかも知れない。



21.インフラ


 インフラとは、インフラストラクチャー(infrastructure)の略で、もともとは「下部構造」という意味であるのだと思う。

 これが転じて「産業や生活の基盤として整備される施設」を指すようになった。

 狭い意味では、道路・堤防・橋梁・鉄道・上下水道・送電網・港湾・ダム・通信施設など「産業の基盤となる施設」を指していると思うが、広い意味では学校・病院・公園・福祉施設など「生活の基盤となる施設」も指している。

 このいずれの場合も「社会で共有する性格」を持っている点が特徴であるといえる。


 新幹線や高速道路などもインフラだと思えるが、これを整備しようとして予算を計上しようとすると、必ずといっていいほど反対論議をする勢力というのがある。

「予算と収入がペイしない」だとか「物より人だ」とかである。

 尤もらしい意見であり、引きずられそうになることもあるが、インフラというのは投入資金を回収することができることが目的なのだろうか?

 それが有ることによって、長期に渡って経済を発展させたり、国民の安全性や利便性を図るためのものではないのか?

 インフラが整備されていることが及ぼす波及効果は、計算できないほど大きいのではないのか。

 限られた予算の範囲内でのことであれば、優先順位というものはあって然るべきだとは思うが、短期・目先の観点からだけで見てよいものとは思えない。



22.オーストリアを見習え


 「日本はドイツを見習え」と二言目には言う国がある。

 本当にそうしても良いと思っているのだろうか?

 日本への嫌がらせが先に立ってのことであって、実情・実態・真実を知っての上で言っているのではなさそうである。ドイツは、ナチスの犯罪については謝罪したが、日本のように戦争に対しての謝罪や賠償をしているようには思えない。

 日本人の多くも勘違いしているようであるが、実際とは大きく違うようである。


 ドイツが為した戦後処理とは、一体どのようなものであったのか・・・

 ちょっと調べてみるだけで、おおよそのことはすぐわかる。

 ドイツは、侵略戦争に関する国家賠償は一切していない。

 「ドイツは、謝ったではないか」とすぐ言う人がいるが、ドイツの行った謝罪と個人賠償は、ユダヤ人虐殺に関連したものだけである。

 終戦後すぐに、ドイツはベルリンの壁が出来て、東西ドイツに分断された。

 そのこともあって、ドイツに対する戦時賠償は、東西が統一されるまで棚上げされた。

 その間、西ドイツはユダヤ人に対しては個人賠償と謝罪を行ったが、戦争責任や戦争犯罪については一切謝罪も賠償も行っていない。

 道義的責任における対個人賠償だけ行っているということになる。

 ここが国家賠償をしてきた日本とは、大きく異なっている点である。


 1990年にようやく東西ドイツが統一されて以降、ドイツに戦争の賠償金を求める動きが各国から出てきたことから、この動きに呼応して統一ドイツ成立の条約を各国と結んだ。

 ところがこの条約では戦時賠償に言及しておらず、ドイツ政府も交戦各国に戦時賠償を認定していない。

 従って、ドイツ政府は今日に到るも対戦国に賠償金は一切払っていない、というのが現実である。

 ありようを言えば、選挙によって選ばれた政権下のことであったにも拘らず、全てをナチスに責任転嫁し、国家の戦争責任さえも認めていない、ということになる。

 一方、韓国と同じように、オーストリアは1938年に6年間ドイツに強制併合されていた。

 そのことから、戦時中はナチスドイツと共に連合軍と戦い、ユダヤ人虐殺にも加担した。

 戦後、ナチスドイツの戦争犯罪やユダヤ人大虐殺が問題化したとき、オーストリアは「戦時中わが国はドイツに強制的に併合されていたから、わが国はナチス政権の最初の犠牲国だ」と、一貫して主張していたが、史実を調べれば、オーストリアもナチスの戦争遂行もユダヤ人大虐殺にも積極的に加担してきたことが判明することになる。

 このことから、当時のフランツ・フラ二ツキー首相はイスラエルを訪問し『オーストリアにもナチスの戦争犯罪の責任がある』としてユダヤ人に対して初めての謝罪を表明した。


 韓国は厚顔にも戦勝国面をしているが、いつ日本と戦ったというのか?

 オーストリアを見習うべき立場なのではないのか。

 中国も、日本と戦ったのは国民党軍であり、現政権の元である八路軍(共産党軍)は逃げ回っていただけで、日本軍とまともに戦っていないではないか。

 日本軍が中国軍に負けたということは寡聞にして知らない。

 日本は、有史以来初めて、アメリカにだけ負けたのである。

 有色人種でありながら唯一白人に与した中国は、勝ったと言ってはいるが、連合国側にいたというだけではないのか。

 ルーズベルトは日本人の皆殺しを図ったらしいが、そんなことはできるはずもなかった。

 韓国がやたらうるさいからちょっと調べてみただけで、そんなことがここ最近解ってきた。言われっぱなしでいることには飽きもきている。



23.その道のプロ


 スケートの羽生結弦さんが、「できなかったらできるまでやる」「できるようになったら完璧にできるようになるまでやる」「完璧にできるようになったら何度でも完璧にできるようになるまでやる」と仰っているのを聞いて、若いのにその域に達していることに感銘を覚えました。

 これが、その仕事でお金を貰うプロということになると、まだその先があるようです。

 プロというのは、携わっている仕事を素人が見たとき、自分でもできそうに思わせるくらい、いとも簡単にやっているように見え、しかもその姿が楽しんでやっているように見えねば駄目なのだと思っているらしいのです。

 その裏にある厳しい修練が、垣間見えるようではまだまだなのだというのです。


 その仕事に興味を覚えたり、現に携わっていてより極めたいと思っていて、そのプロに教えを乞うと、意外に真髄と思えることをさわりの部分とはいえ教えることがあるという。

 ただ、口で言ってもすぐに理解できるとまでは期待していない。


 教えを受けた側が、絶対に言ってはならない言葉というのがある。

 それは「参考になりました。」という言葉である。

 そういうことを口にした人を弟子にとることはないし、二度と教えることはないという。

 真剣にとらえる人は、まず言われた通りやることから始める。

 参考にするというくらいでは、自分の殻を打ち破って先に進もうとする覚悟はないのだ、と見極められて、その先の教えを受けることができなくなるということです。

 言葉一つでも、真剣に捉える人でないと、道を究めることは難しいということになる。



24.ただ知れば良い


 自分は右翼でも左翼でもなくて、極めて中道的な人間であると思っている。

 しかし、生まれ育った日本の国を愛しているし、よりよい国になって欲しいと人一倍願っている。

 ところで、「愛国心」というのは禁句なのだそうである。

 どこの国であっても、その国の国民は愛国心を持っていることが前提で、いろんな意見を戦わせているのだと思うが、ひとり日本国のみは、日本人でありながら日本のことが嫌いで、平気で反日的なことを主張して憚らないばかりか、それが通用している人たちが多いのが不思議でならない。


 イデオロギー的に偏っていないとは言っても、民主主義国家に在っては暴力革命による以外に政権をとれない共産主義は、ちょっと違うんじゃないかとは思っている。

 反日的な日本人が多いことは、ちょっとものを調べてみれば解からないことでもない。

 戦後7年間のGHQ政策が大成功した例なのだと理解している。

 日本が侵略戦争をした悪い国だとしなければ、戦勝国側も収まりがつかなかったのだ、ということは想像に難くない。

 西欧諸国がアジア諸国になした侵略は、日本の比ではなかろう。それを棚上げにして歴史を語るのはアンフェアだと思うが、負けた以上従わざるを得なかったということになる。

 表面上は負けたが、掲げた理想である植民地の排除という目的からみれば、どちらが勝ったのかわからないが、そんなことを言い立ててみても始まらない。

 マッカーサー元帥が、日本の戦争は安全保障上の問題であったと後に米議会で証言したというが、我々はいろんな事実を、ただ知ればよいだけのことであり、それによって取り戻せる誇りというのは大きい。

 困難を乗り越え、戦後の復興を黙々と成し遂げたのは、大和魂を教育された先人たちであることは紛れもあるまい。

 わが国は、そもそも「シラス国」ということで成り立っていた。

 目に見えないことでも畏まるということができていた国である。

「お蔭様」「お互い様」「お天道様に恥じない」ということが徳目として共通していた。

 性善説に立つということだと思うが「罰が当たる」ということで、自らを律することができていたことだけをもってしても、凄い国なのだと思う。

 昔のことを蒸し返してどうこうしようというのではない。勿論、戦争を肯定しようと言うのでもない。

 知らせない自由どころか、故意に伏せられてきた歴史というのも沢山ありそうだが、今は知りたいと思えば、大抵のことはネット上にある。

 仮令、良い悪いの判断はしなくても、「ただ知れば良い」ということは、キーワード足り得ると思っている。



25.とかく文句を言う人


 文句ばかり言う人は、小さな懇親会でもよいから、お世話役となって自分で企画し、案内状を発送し、出席人数を確認し、会場を決め、飲食の内容を確かめ、事前チェックをする等々をやってみると良い。

 自分でやったことのない人は、自分ではできもしないのに、小さな不備であっても細かに文句をつけることが多い。

 それに対しやったことのある人は、幹事役の苦労を労うことの方が多い。


 これに限らず、何事にも文句をつけないと気が済まない人というのは居る。

 文句の種を見つけたり気づいたりできるということは、自分の中にそれと同様なものがあるからである。なければ気づけない。

 そこから先が大きく人を分ける。

 人を責め立てることばかりしている人は、敬遠というより嫌遠されるようになり、人が段々寄り付かなくなるが、手落ちをさりげなくカバーしたり慰めたりできる人は、いずれは重きを置かれるようになり信用も増して、多方面から協力をえられるようになる。

 それができる人というのは、和やかな顔つきをしている。

 世の中に、完全にできて当たり前というものは滅多にない。



26.ファーライト


 グローバルスタンダードだのボーダーレスだのを唱えていた国々は、現実にはテロリストを含む難民や、違法入国者の流入に対処しきれなくなって、米国や英国をはじめ欧州各国でも問題になっているように見える。

 難民の受け入れが、その国の国力を超え、同化は難しいことになっていることもあろう。


 その国に来た人々がその国の法律やルールを遵守するならまだしも、文化まで破壊しそうな勢いを見せるから、愛国運動というのが起こっても不思議はない。

 そういう動きをファーライト(極右)だとリベラル?派は一括りにして批判するが、それらはコンサーバティブ(保守)といってもいいほどまだ穏やかな段階に見える。

 何らかの協調策ができ、合意をすることができなければ、下手をすれば内戦にまでなりかねない。

 慎重に物事を考えて対応を図らないと、単なる人道主義だけでは、後に大きな紛争を起しかねないと思うのだが、良い智慧というのはないのだろうか。

 簡単な問題でないのは確かである。



27.フェアかアンフェアか


 いろいろ読んだり調べたりしていると、暗澹たる気持ちに陥りそうになる。

 紛争を解決できるような確立したシステムが、世界にないからだと感じます。

 圧倒的な強国を無視することは現実的にできないし、声を大きくして叫ぶ国に対しては、問題が多少あっても、とりあえず譲歩して聞くという姿勢になりがちである。

 しかし、自分が同じことをやっているのに他を責めるというのはフェアではない。

 しかもそれが捏造に基づくものであったり、根拠もなく自分側にのみ都合の良い主張であれば尚更のことであろう。譲ったことで解決には結びつかないし、問題が余計ややこしくなる。

 少なくともフェアかアンフェアかが議論の出発点になるべきだと思うが、これがまた難しい。

 世界は、法治国家ばかりではないし、建前上は法治国家を名乗っていても独裁主義国であったり、法はあってもないと同然な国もある。

 国際法は批准していても守られるとは限らないし、それを強制的に守らせることは不可能に近い。

 そんな構造が世界にはない。国連もそんな働きはできない。


 絶対公正の神様でも降臨して、誰もがそれに従わなければならないようになれば別であろうが、目先にとらわれて、イデオロギー論争に近いことをやっていれば、そんな世界の現出はまず無理だろうと思う。宗教とイデオロギーは、決して主張を譲らないから、のっけから噛み合わないに決まっている。



28.マナー意識


 「郷に入っては郷に従え」といいます。その地に行ったら、そこで培われたしきたりや暗黙の裡に守るルールがあるからです。そういう文化を敬い認めるというのはマナーです。このマナーが守れないというよりはそういう概念が欠落している国というのは現実にあるのです。民度が違うのです。


 海外旅行に行ってレストランなどに入ったとき、こちらが日本人だと判ると、途端に愛想が良くなり奥の席に案内してくれることを度々経験しました。

 先人たちのお陰もあって、日本人は好かれている。

 店の入り口付近で、大声をあげて喋っている人たちを見て、肩を竦める仕草つきのことが多い。


 去年、縁あって皇居の参拝をしたことがありました。

 案内役の人が、立ち入りをしないで下さいという場所が所々にあり、それを守りながらの見学でしたが、それを無視して平気でずかずかと足を踏み入れ、大声で外国語を話している人たちも沢山いました。

 日本人は恐れ多い処として敬う場所ですから、誰一人としてそれを破ることはありませんでした。


 日本では殆どの家庭で幼少期に基本的なマナーを躾けられる。

 損得ではなく基本的な素養として身についている。

 国内にいるだけで、周りも皆同じ行動で咎められることもないというならそれで済ませられるが、外国に行ったら顰蹙を買うし国の威厳も損なう。

 民度としてのそれを親の年代ができないことであれば、学校で教えるしかないだろうが、今更ながら難しさを実感しているだろう。

 マナーが自然にふるまえるようになるには、一朝一夕ではいかない。



29.やむを得ないこと


 日本画の画伯の公演と作品についての説明があるという個展に招待されて、さる美術館に行きました。

 会場には学芸員が沢山立ち会っていて、その数は異常と思える程でした。

 引かれている白線の中に入いらないようにとの注意が最初にありました。


 私はこの手の絵画展で写真撮影することはまずない。殆どの場合、注意される。

 しかし、中の一人が写真を撮ったところ、すかさず絵画の著作権上の問題がありますので、写真撮影はしないで下さいと、皆に聞こえる大声で注意されていた。

 それでありながら、講師の説明について回っていたとき、学芸員がその様子を何枚も写真に撮っていたので、言っていることとやっていることが違うのではないかと尋ねると、返事に困ったのか、上席者という人のところに通された。

 「著作権と肖像権はどちらが重いのか?」と聞くと「写真はホームページなどにアップすることはしないし、あくまで内部資料だ」という。

 「しかし、写真を撮るなと言った側がそれを破るのはいかがなものか。ヨーロッパの美術館などでは余ほどのことがないかぎり、ルネッサンスの絵画だって撮影可能だし、絵画のすぐ近くで鑑賞することができる。せっかく美術に興味を持った人たちの意欲を削ぐのは、貴方たち学芸員の意識によるところが多いのだから、観客への接し方は気を付けた方が良いのではないのか?」

 といったところ、その人は良く解っていて、気を付けるようにするとのことであった。


 事実、日本の他の美術館では、来場者を不愉快にさせない配慮をしているところも多い。

 先日行った美術館では、見学に来ていた小学生たちに、女性の学芸員が絵画の見方などを優しく懇切丁寧に説明して、絵に対する興味を引き出そうと努めていた。 小学生たちもそれに真剣に応え、口々に質問などをしている様子が好ましかった。


 民度が育っていないのだとしたら、学校で絵画の鑑賞の仕方を教えるのも美術の時間に取り入れると良いと思うが。



30.リテラシー


 機関誌であるなら何を書いても勝手だが、一般の新聞などの報道は公平さを求められる。

 旗幟を鮮明にして、どういう傾向の内容であるか宣言した方がよさそうな新聞もあるが、簡単にそうはいくまい。

 そこで、自分に都合が良いようにつぎはぎした記事というのが時々生まれる。

 しかし、賢明な読者からは「リテラ記事」とすぐに見透かされる。国民を見くびってはいけません。


 リテラシー(英: literacy)とは、原義では「読解記述力」を指し、転じて現代では「( 何らかのカタチで表現されたものを)適切に理解・解釈・分析し、改めて記述・表現する」 という意味に使われるようになった。

 読む・聞くだけで、自分の意見を述べる場所がなかった多くの人たちが、近年はネットというツールを得た。

 それによって自分の意見を発表するようになった。元記事の意に反する書き込みを「ネトウヨ」と決めつけ、躍起になって封じ込めようとしたが、読む側にしてみれば多様な意見を目にするわけだから、まともな意見であればどちらが良いかはすぐに理解する。

 思考能力が高まっていて、取捨選択することができるようになってきているということである。

 左翼でも右翼でもまともなことをいうのならよいが、レッテル貼りをして封じ込めようとするのには無理な時代になったということか。

 国民は無知蒙昧ではないから、マスコミ側の思惑でミスリードは難しい。まかり間違えば、自分たちが崩壊しかねない。侮ることはできないのである。



31.わからないこと


 常在菌というのがある。

 身体についている有用菌というのもあるのだと思うが、清潔の為だということで神経質になって滅菌・殺菌をしてしまうことによる弊害というのは無いのだろうか?

 何もかも根こそぎにするのが良いのだとは、とても思えない。人間のためになる菌も、一緒に構わず殺菌してしまっているということなのだろうか。

 それは、人間がひ弱になってきた原因とはなっていないのだろうか?


 医学のことに詳しいわけではないので判らないが、そういうことを解説している医者は余りいないようである。

 手足や口は、雑菌が付いていない方が良かろうということで、一応の対応はしているが・・・


 昔は聞いたことがなかったが、小麦アレルギーというのがあるらしい。

 しかし、古代種であるスペルト小麦では、それが起こらないのだとも聞く。

 小麦に限らず、アレルギーのために食べられない食材があるということは、人の命に関わることだけに大変なことである。

 収穫量を上げるために薬剤を使ったり、品種改良をしてくる上で、何らかの無理をしてしまっているのだとしたら、対策は講じられそうだが・・・

 毒物ならいざ知らず、自然界の物に拒否反応を起こしてしまう体というのが理解しにくいが、それが身を守るためなのだとしたら、放っておくわけにもいくまい。

 個人差があるらしいが、人間の体は、微妙な変化を起こしてきているのだとしたら、それは容易なことではなくなる。

 何の心配もせず美味しいものを美味しく食べて健康でいられることは有り難いことです。



32.悪だくみ


 「悪だくみ」というのを漢字で書くとどうなるか?という解説をしているのを見ました。

 「悪巧み」と書くのが正解だという。

 「巧み」というのは、上手にやるということのほかに、工夫するという意味があるからだという。

 しかし、ちょっと待って欲しい。

 そもそもは、「悪事を企む」ということから来ているのだから、「わるだくみ」ではなくて「わるだくらみ」という言い方の方が正しいのではないのか?

「悪企み」が本来のことばの筈だが、PCで変換すると、「悪巧み」は出てきても「悪企み」は変換されない。

 日本語が変わってしまったのかもしれないが、上手に悪事をするとか、工夫して悪事をするというのは一体なんなのだろう?

 考えてみれば、人間とは悲しいものである。善いことをするために生を受けたのだと思いたい。



33.安全保障政策


 いろいろ偉そうなことを並べ立てても、安全保障政策がないのでは、政権政党とは言えまい。

 話し合いも結構だが、中立非武装では、現実問題として世界で通用しない。

 命を落としてしまうことを含めて、何をされても甘受するというなら別だが、基本中の基本である生存権というのを放棄できる人は、国民の中に殆どいないのではないだろうか。

 だとしたら、綺麗ごとばかり口にしたところで、それを守る手立てのない如何なる主張も空論でしかないということになる。

「話し合い、話し合い」と言っている人たちが話し合いをしているのを見たことがない。話し合いをするのは自分ではなくて誰か他の人であり、それがうまくいかなかったら、それはその人のせいというのでは無責任すぎる。

 それを言う人たちは、一体誰の利益を狙ってのことかが疑わしいと感じるようになってきている。自分の身は、自分で守るのが生物の基本原則である。

 人間はそれを理性で乗り越えるのだというのは、理想ではあっても現実的ではあるまい。

 滅びてしまったら何ともならない。一定の力を保持していなくては、話し合いの場さえ持てないのではないのか?



34.永住権


 永住権とは、外国人が在留期間を制限されることなく滞在国に永住できる権利のこと。

 出入国管理及び難民認定法第22条では永住許可と呼ばれ、これは在留資格を有する外国人が永住国への在留資格の変更を希望する場合に、法務大臣が与える許可を指す。

 滞在国で永住権を持つ外国人や永住許可を受けた外国人を永住者と呼ぶ。

 永住者が享受できる権利は、その国の国民における権利とは全く同じにはならず、ある程度制限されたものになる。

 制限される内容は、選挙権、被選挙権、軍、警察、役所など公的機関への就職、土地の所有、パスポートの取得などにおいて一定の制限を受けるといったものである。

 他に、一定期間を超えてその国から離れると、永住権が剥奪あるいは消滅する事になっている国も存在する。


 その他に特別永住権というのがあって、これの扱いを問題視することがある。

 朝鮮半島・台湾から戦前・戦中に日本に移住し、サンフランシスコ講和条約に基づき、日本国籍を失った人々に対して、平成3年(1991)に与えられた資格である。

「特別永住権」は、入管特例法によるもので、他の外国人と異なり、在留資格に制限がなく、母国は勿論、日本での経済活動も全く自由である。

 また、5年以内であれば、母国と日本の間を自由に往来することもできる。再入国審査も楽にできる。

 その上、内乱罪・外患罪など、日本の国益を害する重大な犯罪を犯さない限り、国外に退去強制させられることがない。

 日本のこれは、世界的に類例がないほど、恵まれた地位である。

 不思議なことにこの特権は、子孫にいたるまで無期限に与えられている。

 出入国管理及び難民認定法の第22条2項に、「特別永住者の配偶者又は子である場合においては、次の各号に適合することを要しない。

一 素行が善良であること。

二 独立の生計を営むに足りる資産又は技能を有すること」と定められている。

つまり、犯罪歴があり、生活能力のない者であっても、日本に永住し続けられる事を法律が保証しているということである。

 日本の国籍は血統主義であり、出生地主義をとっていないから、帰化して日本国籍をとり、仲良く暮らしていくことを考えたほうがよさそうに思うが、何故かそれをしない人が多い。特権としてなんらかの利益を享受しているからだと、それを指摘されもする。

 権利は天与のものであり、当たり前のこととして感謝することもないし、果たさねばならない義務については自らが言及もしないから、特権ではないのかとしていろいろ言われるが、彼らが意に介しているとは見えない。


 社会保障は手厚いし、逆差別ではないかといわれる所以であるが、どうなのだろう?

 今までそんなことに意識を向けることもなく過ごしてきたが、同じ国で一緒に住むのなら、信頼関係を築ける制度でないと、この先軋轢が生じると思うのだが。



35.皆殺しの対象


 これを書くには、勇気が必要であった。しかし、知ることが悪いことだとは思えない。

 現実の歴史というのは、いかに隠蔽糊塗しようとしても、いずれ表れてくる。

 外国人が、日本が隠蔽しているとして日本を責め立ててみても、大した証拠はでてこないが、逆の物ならいくらでも出てきそうである。

 そんなことを言うのは国粋主義だと言われたら心外であるが、敗戦したが故に伏せられてしまっている事実は、かなり沢山なものであると思われる。

 かといって、廃棄処分されたわけではないから、大して手間をかけなくても資料を調べることは可能であろう。

 歴史を修正しようなどという意図もさらさらない。


 400年にわたる植民地支配に敢然と立ち向かい、人種差別撤廃やら五族協和やらを唱える日本は、列強にとってさぞ憎かったであろう。

 日本国内に差別がなかったとは言わないが、人間を獣扱いし、殺して構わないという思想はなかった。

 歴史上皆殺しの対象となったのは、ユダヤ人と日本人。嘘ではなく本当の話である。

 日本人がそんなことになっていたとは知らない人が殆どであろうが、実際はそうであったようである。

 有色人種としてただ1国、価値観を異とする白人世界と戦ったのである。

 それをする日本は、アジア・アフリカ諸国の希望の星であった。(唯一白人側についたC 国というのもあったが・・・)


 戦争というのは、ありようをいえば相手を殺すこと。

 しかし、それだけに、それにもルールはある。太平洋戦争の実情は、相手国の方が残虐であったことが枚挙にいとまなく出てくる。

 なぜなら、黄色人種である日本人は人ではないから、彼らは何をしても神に許されると信じ込んでいたため、隠すこともしないで野放しにしていた資料が出てきてしまうからである。

 「ねずみとり業者」とか「狩猟許可証」とかのステッカーを貼った軍服を着用し、「唯一良いジャップは死んだジャップ」と公言して、アメリカインディアンを狩ったときを再現した。

 頭蓋骨を置物に、人骨をペーパーナイフに、頭皮を剥いで飾り物にし、郷里への土産にした。そういう写真が残っているのに処分もしないでいる。

 それでも、日本人はそんなものを掘り出してきて、謝罪しろだの賠償しろなどとは言わずにきた。戦争に負けたということはそういうものだとして潔かった。

 ルーズベルト大統領は、選挙公約を破ってでも戦争をしたくてたまらなかったし、トルーマン大統領は、いろいろ言い訳をしているが、原爆を使いたくてたまらなかった。

 そんなことは、隠しようもなく明らかになってしまっている。

 それを蒸し返してみたところで歴史が戻るわけではない。

 惜しむらくは、日本人が日本人を悪しざまに言って憚らないことが、戦後は普通に通ってしまうようになってしまっていることである。日本人でありながら、事実無根のことまで捏造する勢力すらある。


 しかし黙して語らなかった先祖たちの振る舞いをみていて、日本軍が喧伝されるほど悪者だったとは信じられない人たちが大勢いる。

 恨みを晴らそうというのではない。戦争を正当化しようというのでもない。真実を知ることで精神が救済され、誇りを取り戻せると思っているから、せめて事実関係くらいは知りたいと思う人がまた多いに違いないと思うのである。


 戦争の結果どうなったかと言えば、米国が期待した中国での権益は彼らに皆無であったし、日本が理想として掲げた通り、結果的にアジアの植民地が独立するのを防ぐことはできなかった。


 もっと困ったことは、実は日本が共産主義勢力の防波堤だったことに気づいたことであり、自らがその矢面に立たねばならなくなったことであろう。

 朝鮮戦争・ベトナム戦争、それに続く東西冷戦などなど。

 未だに世界各国で収まらない紛争の遠因は、そんなところにもあるのかもしれない。

 でも彼らは、自らが正義であると頑なに信じて疑いもしない。それはそれで仕方ない。


 どれが良くてどれが悪いかは簡単には決められないが、勝ったから・負けたからではなく、事実関係が詳らかになっていくのには、まだまだ長い歴史の時間が必要なのであろう。

 それによって評価が変わるわけではないだろうけれど、知ることだけで人には近づけよう。



36.教育勅語


 ある記事で読んだのであるが、戦後の日本では禁止されてしまった「教育勅語」が英訳されていて、米国では聖書に次いで売れているのだという。


 小学校に上がった頃にはもう学校では教わらなかったが、何故か最初のチンオモウニ ワガコウソコウソウという部分だけ呪文のように覚えている。

 一体どんなことが書かれているのかに興味を覚え、調べてみました。

 以下は教育勅語の読みである。(出展は明治神宮のサイト)


 朕(ちん)惟(おも)フ(う)ニ 我(わ)カ(が)皇祖(こうそ)皇宗(こうそう) 國(くに)ヲ肇(はじ)ムルコト宏遠(こうえん)ニ 德(とく)ヲ樹(た)ツルコト深厚(しんこう)ナリ

我(わ)カ(が)臣民(しんみん) 克(よ)ク忠(ちゅう)ニ 克(よ)ク孝(こう)ニ 億兆(おくちょう)心(こころ)ヲ一(いつ)ニシテ 世(よ)世(よ)厥(そ)ノ美(び)ヲ濟(な)セルハ 此(こ)レ我(わ)カ(が)國體(こくたい)ノ精華(せいか)ニシテ 教育(きょういく)ノ淵源(えんげん)亦(また)實(じつ)ニ此(ここ)ニ存(そん)ス

爾(なんじ)臣民(しんみん) 父母(ふぼ)ニ孝(こう)ニ 兄弟(けいてい)ニ友(ゆう)ニ 夫婦(ふうふ)相(あい)和(わ)シ 朋友(ほうゆう)相(あい)信(しん)シ(じ) 恭儉(きょうけん)己(おの)レヲ持(じ)シ 博愛(はくあい)衆(しゅう)ニ及(およ)ホ(ぼ)シ 學(がく)ヲ修(おさ)メ 業(ぎょう)ヲ習(なら)ヒ(い) 以(もっ)テ智能(ちのう)ヲ啓發(けいはつ)シ 德噐(とくき)ヲ成就(じょうじゅ)シ 進(すすん)テ(で)公益(こうえき)ヲ廣(ひろ)メ 世務(せいむ)ヲ開(ひら)キ 常(つね)ニ國憲(こくけん)ヲ重(おもん)シ(じ) 國法(こくほう)ニ遵(したが)ヒ(い) 一旦(いったん)緩急(かんきゅう)アレハ(ば) 義勇(ぎゆう)公(こう)ニ奉(ほう)シ(じ) 以(もっ)テ天壤(てんじょう)無窮(むきゅう)ノ皇運(こううん)ヲ扶翼(ふよく)スヘ(べ)シ 是(かく)ノ如(ごと)キハ 獨(ひと)リ朕(ちん)カ(が)忠良(ちゅうりょう)ノ臣民(しんみん)タルノミナラス(ず) 又(また)以(もっ)テ爾(なんじ)祖先(そせん)ノ遺風(いふう)ヲ顯彰(けんしょう)スルニ足(た)ラン

斯(こ)ノ道(みち)ハ 實(じつ)ニ我(わ)カ(が)皇祖(こうそ)皇宗(こうそう)ノ遺訓(いくん)ニシテ 子孫(しそん)臣民(しんみん)ノ倶(とも)ニ遵守(じゅんしゅ)スヘ(べ)キ所(ところ) 之(これ)ヲ古今(ここん)ニ通(つう)シ(じ)テ謬(あやま)ラス(ず) 之(これ)ヲ中外(ちゅうがい)ニ施(ほどこ)シテ悖(もと)ラス(ず) 朕(ちん)爾(なんじ)臣民(しんみん)ト倶(とも)ニ 拳拳(けんけん)服膺(ふくよう)シテ 咸(みな)其(その)德(とく)ヲ一(いつ)ニセンコトヲ庶(こい)幾(ねが)フ(う)  明治二十三年十月三十日


 これを今更復活させて教育現場で、ということになったら、多少文言を変えたところで、上を下への大騒動になるであろう。

 日本人が捨て去ってしまったものを外人が拾い上げて、日本の美徳を学ぼうとしているのだとしたら、隔絶の感を禁じえない。



37.曲学阿世


 昔の人がよく言った「曲学阿世の徒」ということばがある。もはや死語に近い。

曲学阿世の意味や解説を調べると、学問の真理に背いて時代の好みにおもねり、世間に 気に入られるような説を唱えること、と出てくる。

 真理を曲げて、真理によらないで世間や時勢に迎合する言動をする こと。

 そういうことをしているのではないかと自らを顧みることもなく、世人を自分の思惑のもとに惑わすが如きを喧伝して憚らない輩を、曲学阿世の徒ということができよう。


 それを唱える人たちは、人々が防衛本能からくる判断や行動を否定しようとでも言うのだろうか?

 その本人自体に危害が及ぼうとしたときには、違うことをやるのではないのか?

 例えば、暴漢が棒をもって襲い掛かってきたとき、両腕をもって防ごうとするのが普通。

 その、防御のためにかざす両手が、自衛隊そのものなのではないのか。

 更には、その人の家族に殴りかかっている人がいたとしたとき、家族を見捨てて助けようともしないとでもいうのだろうか?その助けようとする姿勢が、集団的自衛権そのものだと思うのだが、違う判断があるのだろうか。


 平時に置いて、他から安全を確保されている状況下で、好き勝手を言うのは潔くない。

 平和を守るのは、自分以外の誰かがやるものだとするのでは通らない。

 金科玉条としている憲法第9条が絶対だと思うのなら、世界の共通認識として実効あると思われる働き方を、広く世界に向かってしているというなら別であるが、そんな行動をしている様子は見たことがない。

 ひとり自分だけ、我が国だけが良ければ、とするのでは、誰からも相手にされなくなるのは考えてみるまでもなく解る。

 世界の実情も判らずに、脳天気なことをいう者として、国際的には退けられて終わりであろう。戦争が起こりにくくするにはどうするか?自分でも考えてみなくてはならない。

 厭であろうが嫌いであろうが、仮令命がけとなるにしても、果たさなければならないことというのは有る。自分さえ良ければというわけにいかない。



38.敬老


 老人というのは何歳以上の人のことをさすのか判らない。今は、老人を敬うどころか邪魔者扱いしている人すら居る。

 100歳以上の高齢者が全国に6万1568人いることが厚生労働省の調査で分かった。前年から2748人増え初めて6万人を超えたのだという。

 敬老の日には銀杯がわたされたのだというが、銀杯を貰って喜んだ人が多かったのだとは思えない。それに代わるものというのはないのだろうか?

 そうは言っても、銀杯をなくしたら、それはそれで銀杯業者が困るであろうが・・・


 誰が何と言おうが、現在高齢者と呼ばれている人たちが、寝食を忘れて働いてくれたお陰があって今の日本があることは疑いようもない。

 それなのに、今のお年寄りたちの遇され方というのはどうなのだろうか?

 尊敬されることも大事にされることも滅多になくて、場合によれば邪魔者扱いされて、孤独のうちに亡くなっていたというニュースすらある。

 若い人は若い人なりに大変なのだとしても、こんな世の中のままで良いのだろうか?


 先祖や年寄や親、ひいては他人を大切にしない人が、人から大切にされないのは自明の理。

 そういうことを教えなかった先生も、親も、ないがしろにされるようになった。

「我が師の恩」と自信をもって教えられなかったツケかも知れない。

 いったいいつからこんな世の中に変わってきてしまったのだろう?

 権利ばかりを主張し、汗もかかずに手っ取り早く金を稼ぐことを追い求め、さしたる努力もしないで簡単に諦め、社会のせいにして不満だけを抱えて底辺に蹲る。


 食うや食わずの時代には、泣き言をいう前に必死になって働いた。のし上がろうと、自分の居場所と決めた場所で懸命に努力した。

 そういう人たちが成功を収めたのではないだろうか?

 それなのに、気が付いたら、ないがしろにされる場所に立っていた。

 あれをしてくれなかった、これをしてくれなかったと責められるばかりでは、やりきれまい。

 どこでボタンを掛け違えたのだろう?

 及ばなかったとしても、精一杯頑張ってきたのである。


 世の中が豊かになってくると、自分が努力することを忘れる。何もしなくてもなんとかなってしまう。努力をしたことのない人が、努力した人のことを理解できるわけがない。

 「家貧しくして孝子出ず」という格言は、ある意味で本当なのかも知れない。

 他人と比べる前に自分なのだ、ということに立ち返らないと、先が開けてこないように思うのだが・・・老人のたわごとということになってしまうのも、自分のせいか。



39.差別用語


 「土人」というのは蔑称だというが、そもそもは「土着人」を指すことばであって、それが蔑称だとは思えない。

 しかし、土着民が未開人(今は発展途上国人といわないとならないらしいが)という意味もあるだろうから、不便ではあっても他の言葉を使った方が良いとは思う。


 日本人に対する蔑称というのは、よく聞くものにJAP・チョッパリなどがあるが、K国人が日本人にいうチョッパリというのは、日本人が足袋を履いたときに爪先が二つに分かれた姿が豚足に似ているとして付けたらしい。

 言われてもさほど腹は立たない。

 日本人がK国人をチョンと呼ぶのは蔑称であろうが、彼らの姓に「丁」が多かったことから来ているらしい。バカでもチ○ンでもという言い方は、確かに差別用語だと思う。

 しかし、チョンというのは「、」のことであり、江戸時代から使っていたのだという説はある。


 西洋人がK国人への蔑称として使うのは、GOOKであるが、KREANと呼ぶのも、西洋人同士で相手を罵るときの蔑称だという。

 韓国人は自分たちを「朝鮮人」と呼ばれるのを、蔑称だとしてひどく嫌うらしい。

 日帝が付けた名だと勘違いしてのことらしいが、そもそも李氏朝鮮の朝鮮という国名は、明国国王が属国としての李氏に国旗と共に授けた名である。

 意味するところを考えれば、確かに蔑称であろう。朝(貢物)鮮(少ない)ということだからである。

 今は「大韓民国」という立派な国名があるのだから、誇りを持てば良いのに、実はK国には世界中の全ての国に対する蔑称があるのだとも聞く。陰で悪口を言っていても始まらない。それで他国から敬われることは絶対ないし、自分自身の品位を下げることに他ならない。


 普通名詞だったものが、いつの間にやら差別用語として括られたものが増えてきたから、気を付けなくてはならないが、言葉狩りになってしまうのはいかがかとも思う。



40.取捨選択


 「もったいない」という意識は、いつの頃から醸成されてきたのだろう?

 日本が発展してきたことの大元に、これがあるように感じてしまう。


 古くは遣隋使・遣唐使の時代、近くは維新後の西洋文明の取り入れと、他国から多くを学んだが、そのいずれの時代でも、やみくもなんでもかんでも取り入れたのではなく、確実に取捨選択をしている。

 しかも、文物を単に模倣したりパクって終わりではない。

 必ずそこに工夫改善が加わり、当初に入ってきたものより良いものにして生活に馴染ませてしまう。

 鉄砲しかり、時計しかり、文字・思想・宗教しかりであろう。

 入ってくるものが少なければ、大事にするし、壊れれば修理して使うということだから、そこで工夫や改善がなされ、その延長線上には、より良いものを創造してしまう技術に結びつく。

 日本列島の特性として、地震・颱風などの天災が多いが、それら自然の力を捻じ伏せるという方向には意識が向かわず、それらと共生しようとしたことからも、工夫改善はなされたし、皆で協力してことにあたろうとしたことも、与って大きい。

 江戸時代にしてすでに識字率が7割をこえていたともいわれ、これはその時代の世界に例をみない教育水準であった。取捨選択できる能力は、こんなところにもありそうである。

「もったいない」と教育を重視していたのは、そんなことから始まったのだろうと思う。


 我が事のみを考えないとする長い歴史は、広く一般庶民の間に培われ、気が付けばノーベル賞などで評価される下地を醸成していたのだとも感じる。



41.狩猟民族


 動物は、衣は自前の毛皮があるから、食・住が確保できれば、基本的に生きていけるし子孫も残せる。食も必要以上に貪り蓄えるということはない。

 ところが、人間はそうはいかない。

 精神活動をするためには富が必要となるし、持つものの多寡で力関係が生じ、沢山持つことで他を支配できるから、富を蓄えることに貪欲になりがちになる。


 人類は大まかに言って農耕民族と狩猟民族というのに、先祖は分れる。

 どちらも初期の頃は、その日の食べ物を得られれば、それで良しとしていたに違いない。用心のために多少の蓄えをしたとしても、たかが知れている。


 農耕といっても、採取時代から間もなくは石器に頼るしかなかっただろうから、耕作面積は知れていて、生産量が多かったとは思えない。

 しかし、鉄器ができるようになってからは違う。耕地面積を増やすことで圧倒的に生産量はあがった筈だし、富の蓄積ということもできるようになった。

 そうなると、農作業に従事する者ばかりではなく、分業化が始まり、思索に時間を使ったり、道具を工夫することから芸術に発展させたり、武器を作ったり、精神的支柱としての宗教も生まれてきて不思議はない。

 農耕というのは経験がものをいうから、種まきの時期も植え付けの時期も、先達に倣うのが巧く行くコツであるから、誰もが同じ行動をとるのが普通となっていった。


 厄介なのは狩猟民族である。

 獲物が取れなければ、農耕民族を襲って蓄えを奪うのが手っ取り早い。狩猟をすることで、戦いには慣れていた。

 しかしここにも、奪うことを正当化する理屈は必要となったと思われる。

 白色人種の神は、有色人種を人ではないと決めつけることで、殺しても構わない、奪っても構わない、虐げても構わないという理屈を構築した。

 まさか神がそんなことをするわけがないから、神の名を騙る権力者がそれを唱え、従うのが都合の良い人たちがそれに従った。

 農耕民族と違い、人と同じことをやっていては獲物にありつけない。目端の利くリーダーが生まれるようになり、それが群れを支配するようになった。

 大雑把にこう考えてみると、歴史というのは解りやすい。


 植民地主義というものの遠因は、簡単に奪えるというところにありそうに思える。

 平和に暮らしていて武力とは縁遠かった有色人種の国々は、格好の餌食であった。

 そこに住んでいるのは人ではないとする口実も用意されていたから、悪いことだとも思わないですんだ。


 ここに、一人異を唱える国が現れ、これが思いのほか強かった。

 折角築いてきた権益を侵しかねない主張が憎くもあり、これを皆殺しにするよりないとして包囲網を敷いて戦ったのである。

 そして勝つには勝ってあたりを見渡してみたら、時すでに人としての自覚をもって立ち上がる国々が多くなっていた。それにより、植民地政策から退かざるをえなくなっていた。

 人を人として認識しないということは無理がくる。

 理性があって、何が善であるかを感じとれる人たちだって多かった筈だから、植民地がなくなったのは歴史の趨勢であろう。

 しかし、長きにわたって血に染み付いた、あるいはDNAに刻み込まれた人種差別の概念が、そう簡単に消えることはないだろうから、未だに紛争の種となっている。



42.旬の食べ物


 「栗の季節になったら、栗ご飯をたべさせてね」というのが、家内と一緒になるときのただ一つの約束であった。多くを望まれてはいない。

 昔は、何もなくて結婚するのが当たり前の時代があって、蜜柑箱(昔はダンボールではなく、木製の丈夫な箱だった)と鍋一つだけで所帯を持つ人が多かった。

 それらの誰もが、二人で協力して生活を整えていく喜びを共有できていた。


 栗の時季に栗を食べる。旬を大切にしたということでもある。

 人は住んでいる所から200メートル以内で採れる食物を摂っていれば健康でいられるというが、現代社会は年中何でも食べることができるから、多少は体に影響しているのかも知れない。

 今の時季、霜の当たったホウレンソウは柔らかくて美味しいし、葱は甘みを増している。

 獲り入れて休ませた里芋は、皮を薄く剥いて煮て食べると旨い。

 家庭料理として食べるときは皮を薄く剥くが、客などが大勢集まるときは、思い切って厚く剥き、面取りを施して料理した。みんなの角が立たないようにするという配慮をしたのである。


 そのころの主婦は、玄関先に突然の訪問者があると、エプロンをはずし髪を手でなでつけてから応対に出るという配慮をした。

 人に対する気遣いを自然にしていた。



43.新幹線


 正月には特にお世話になる新幹線。


 日本では当たり前だと思っているが、来日した外国人が吃驚してしまうものが沢山あるらしい。

 例えば新幹線がそうなのだとか。

 高速で走行し、しかも乗客の数によって重さが違えば制動距離も違う筈なのに、ホームの乗車位置に乗降口がピッタリ合って止まることや、到着時間が分単位どころか秒単位で運行していて、しかも事故がないということ。

 窓際に立てたコインが、列車が揺れないので倒れない。それを映した動画を見ても、接着剤でも使って立てているのでは?と疑ってしまうらしい。


 新幹線の技術がパクラレただの何だのと心配することはない。システムとしての総合力は、一朝一旦で追いつけるものではあるまい。

 鉄道に関しては、日本が最高だというのが世界の評価。

 乗務員のサービスや、メンテナンス要員への評価も圧倒的に高い。

 駅が清潔なのも信じられないレベルだと感じているという。

 余りに当たり前で普段気にも留めないでいるが、褒められれば我がことのように嬉しい。



44.新南群島


 九段線だなどと訳の分からないことを言って、南沙諸島を自国の物だということにして居座っているが、南シナ海のスプラトリー(南沙)諸島は、元は日本の領土だった。

 柄のないところに柄をすげて、中国は今、南沙諸島で、国際法(国連海洋法条約)に照らして領土にはできない暗礁を勝手に埋め立てて「人工島」を造り、滑走路を造るなど軍事基地化を進め、領土であると強弁している。

 元々が大陸国なのに、海洋に出たいというのでは、覇権主義を疑われてもしかたあるまい。無理をすれば紛争のもととなる。

 南沙諸島の領有権を中国と争っているフィリピン、ベトナムといった沿岸国はもとより、日本や米国など多くの国々が中国を批判しているが、中国は今年1月に入って、人工島の一つ、ファイアリークロス礁に造った滑走路で航空機を離着陸させた。

 中国の傍若無人な振る舞いは、今年も国際社会を悩ませそうだが、これといった対策はなさそうに見える。まさか戦争にまで持ち込むわけにいくまい。


 1952(昭和27)年4月発効のサンフランシスコ平和条約第2条のf項にこうあります。

 「日本国は、新南群島及び西沙群島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」

 ここでいう「新南群島」とは南沙諸島のことである。

 新南群島は、1918(大正7)年に海軍中佐の小倉卯之助という探検家が発見し、島の一つに標柱を立てている。

 いうなれば、南方領土の発見です。ちなみに小倉が探検に使った帆船は、明治時代に千島探検で名を馳せた元海軍大尉、郡司成忠の所有であった。(郡司は幸田露伴の実兄)


 サンフランシスコ講和条約第二条で領土権は放棄したが、未だにどこにも分割していないことを忘れてはならない。

 こういうことについて、日本人は無頓着すぎる。

 この海域を安全に航海できなくなったら、日本の貿易には甚大な被害が及ぶ。



45.世界のことは行ってみないと判らない


 日本人は、海外旅行はともかくとして、自分の在住する県から他の県に一度も行ったことがないという人は殆どいないのではないかと思う。

 むかし、倅がザルツブルグに住んでいたときの知人であり、郊外に構えている方の邸宅に招かれて訪ねたことがある。

 そこに泊めてもらって近辺の城めぐりや観光名所を巡ったのであるが、その時の経験でいうと、国による意識の違いはあるように感じます。

 滞在中は、夜ともなれば彼が行きつけの飲み屋さんで、地元の人たちと仲良く騒ぎ語り合った。(貴族の後裔であるのに、平気で下々ともつきあっていた。)

 彼らの中の何人かは、住んでいる村からさえ出たことがないという。

「こんないいところに住んでいるのに、何でそんな必要があるのだ?」と真顔で言っていた。はっきり言わせてもらえば、不便な田舎町というに近いところである。

 ちょっと出るだけで有名な都市に行けるし、オーストリアと言えばユーロ圏に属しているから隣の国々までなら簡単に行くことができるのにである。

 価値観の相違といえばそれまでだが、満足しているのならとやかくいうこともない。

 飲んで歌って仲良く明るくしているので、すぐに親しくなれた。


 米国の大統領選挙の報道を見ていて思い出したことがあります。

 ユナイテッド・ステイツと言う通り、ステイツと言えば国である。州から一度も出たことがないという人もいるのだと聞いたことがある。

 合衆国という括りでエスタブリッシュに支配されてきたことに不満を持っていた人が多くても不思議はない。

 不満はあっても、今まで一度も選挙に行ったことがないという人も沢山いるのだという。

 日本のように、そこに住んでいれば投票用紙が届くというシステムではなく、申請しなければ投票権を行使できないのだと聞いたが、今回の選挙ではそういう人たちが投票に出かけたというから、選挙結果が予想とはずれた原因のようにも思える。


 外国から見ているだけでは、数少ないニュースに頼るしかなく、生身の感覚は判断できないし、読み取れない。

 よその国のことに口出ししても始まらないが、大国の選挙結果は世界に重大な影響を及ぼすことは確かであろうが致し方ない。

 そうであれば我が国も対応には力を合わせて知恵を絞らねばならないが、どこの国の人かわからないようなことを言っている人が多い状況下では、気がかりでならない。

 こんな危惧を口にするだけで、右翼だと決めつける人の狭量さには、辟易せざるを得ない。人の意見を尊重できなければ議論も成り立つまい。



46.雪山の事故


 北海道積丹町の積丹岳で2009年、道警による救助活動中に遭難者の男性が滑落し死亡した事故をめぐり、男性の両親が道に約8600万円の損害賠償を求めた訴訟で、最高裁第3小法廷(大谷剛彦裁判長)は道側の上告を退ける決定をしたという。

 警察の救助活動に過失を認め、賠償を命じた判決が確定するのは極めて異例。

 男性はスノーボードをするため入山して遭難したというが、立ち入り危険地区に侵入して滑っていたのだとも聞く。

 雪山での救助は、いうまでもなく命がけのことになる。道警の救助隊が発見して下山する途中、男性を乗せたストレッチャーがくくり付けた木から離れ、滑落して死亡したのだというが、これを過失だとして咎められるのかどうか?


 冬山にも何度も登った経験があるが、原則的には自己責任。

 装備も十分に点検して整えるし、危険との表示があれば避けて、事故などを起して人さまに迷惑をかけないようにするのは当然である。

 救難活動には二次被害の危険性が伴うからである。

 気を付けても、自然の猛威の前には抗すことが敵わぬ状況に立ち至ることはあり得るから、危険だと感じたときは躊躇わず下山するのが登山者の心得だと思う。

 遭難者が出れば放ってもおけず、救助に向かう側だって危険地帯に入るのは命がけとなる。寒さが厳しい中で低体温症になって判断力が鈍ったり、行動がままならなくなることは十分ありうる。

 ミスが一つも許されなくて過失が責められるとしたら、救助に出るのを拒否される事態だって今後は想定される。

 救助されて感謝している人の方が多いのだと思うが、今回の訴訟は後味が悪い。



47.素人だからそう思っているだけなのだろうか


 軍事の専門家でもなければ経済問題に詳しいわけでもない普通の人間であるが、一般人でも想像できることはある。あながち的外れでもあるまい。

 普段そんなことを口にする人はいないが、おおかたの人は同じように感覚的に解かっていると思った方が良い。


 尖閣の接続水域に中国の公船が侵入してくるとの報道をよく見る。

 「公船」などというのは漢字変換もしない変な熟語だが、紛らわしい表現で胡麻化すのは何故なのだろう?

 民間の船ではなくて、中国政府の船であり、当然武装しているということを知らせたくないということなのか?

 接続水域というなら、すぐその先は領海ということであるから、武装した船が侵入するということになれば、領海侵犯ということであり、軍事衝突が起こっても不思議はない。

 彼らは、日本国の憲法をよく研究しているらしく、日本は「国の交戦権」が認められていないから挑発しても反撃しないうちに、領土紛争があるという事態を作り出したいということなのか?


 しかし、領海侵犯したら自衛権は発動するだろうし、自衛艦が出てきたら中国の戦艦類は数時間で壊滅させられてしまうということは知っているようでもある。

 勝つためには核を使わねばならなくなるだろうが、もしそんなことをしたら中国は終わりだということも、同じようによく解かっているらしい。

 無理を重ねて世界中から孤立してしまったら、国が成り立たない。


 GDPがとかなんとか言ってはいるが、その実態は国民の内9割は食うや食わずの状態であり、緒戦で艦船が全滅するような敗北を喫したら、海外で爆買いできているのは5パーセントにも満たない階層であるから、その他の階層の不満が一気に噴出する。

 軍隊を維持するどころか、周辺で虐げられていた国も動くに違いないからお手上げになる。

 それでなくても中国軍は、昔から、朝鮮を攻めたとき以外で勝ったためしはあるまい。日本に勝ったなどといってはいるが、日本はアメリカに負けたのであって、中国軍には国・共双方含め一度だって負けていない。


 もっと恐ろしいことには、米国などでも公然の秘密となっているように、「日本は一晩で核兵器を開発してしまう能力を持っている」ということも分析できているに違いない。

 搬送手段としてのロケットはあるし、誘導装置も優秀であるから、反撃されたら目も当てられない。

 日本は法治国家であるから何とかなっているが、いざ戦争になったら、相手としては恐い。

 自衛隊を認めていないのは、数人の議員しかいない政党だけだから、一気に法改正などできてしまう。

 経済的に行き詰まっていることは最早隠しおおせもできないのだから、仲良くする方法を考えたらどうなのかと思ってしまう。

 日本人は、仲良くしようとしたら、本当にそれに応える国なのだと思うが・・・



48.多様性


 多様性を認めるということは大事なことだとは思うし、反対はしない。

 多様性を認めるということで、能力があって経済・技術・産業・芸能・思想などで頭角を現し恵まれた環境を実現できた人たちというのは多いであろう。

 しかし、多様性ということを口実にして、必要以上に騒ぐ人もいて、彼らの話題は取り上げられるから目立つであろうが、自分勝手な言動まで含むのだとは思わない。

 大多数は普通の生活を真面目に過ごしている人たちであり、流れが一定限度を超えると疎外感をもってしまい、不平不満の代弁者を求めるに過ぎないということはありうる。

 素人目で見ての感じだからあまりあてにできる意見ではないが、アメリカの大統領選を見ていてそれを感じる。

 マスコミの報道だけに従えば、どう見たって不利な状況に見えるトランプ氏が、まだ30パーセントを越えるの指示を得ているという。

 過激ではあるが解りやすいことを言っていることを、熱心に支持している層があるということである。

 韓国の大統領だって、支持率は30パーセントを切っているという。


 支持している層が何を以てそうしているのかをニュースとして扱わないから判らないが、重大な要件が潜んでいるかも知れない。

 それでも、多様性の反対のことを置き去りにすると、取り残されたと感じている層による突出した事態に至ることだってありそうに思える。そちらの方がマジョリティーなのである。



49.努力が足りない?


 人は何をやってだって、生きていくだけのことならできる。

 しかし、それで満足することは滅多になくて、望ましい姿の自分を目指す。

 富であったり、名誉であったり、技術であったり、芸能であったり、武道やスポーツであったりと多岐にわたるが、いずれにせよ高みを目指す。

 悪い事ではない。

 もともと才能があったり運がよかったりで、大した努力もなしに達成できる人がいるが、それは数が少なくて、成功するのに大抵は努力を重ねている。


 努力はしたが自分の能力に自ら見極めをつけて、適当なところで折り合いをつけ、平凡に暮らしていければよいとする人が大半なのであろうが、大した努力もしていないのに世間から認められないといって、それは自分のせいではないことにして悶々としている人もまた多い。


 人の3倍も、とまでは言わないが、人の倍の努力をしても達成できないとしたら、それは自分のやり方が悪いということになる。

 信頼できる師匠を真剣に探し、その師匠の言う通りやってみるしかない。師匠の言うことに逆らってみても、今までの自分のやり方が違っていたのだと素直な反省に立って、改めて努力しなおすより他ない。

 今までと同じことをやっていたのでは変わりようがないことは実証されている。

正しい鍛錬を地道に繰り返した多寡が結果的にはものをいう。


 不思議なもので、その努力を重ねていると、周りが放っておけなくなるほどの実力が身についていて、自分が主張しなくても周りが認めてくれるようになり道が開ける。

 そこから先に現れてくるのが個性であって、それ以前にあるのは、いうなれば身勝手な「癖」とも呼ばれるべきものということになる。

 変な学校教育で惑わされているが、隠そうとしても隠しおおすことができなくなるのが個性である。マイナスイメージになるものを個性とは呼ばない。

「素直になれ」といわれるとしたら、そういうことなのだと思った方が良い。



50.刀ばかりではなく


 日本刀が切れるというのは世界の常識かも知れないが、和包丁も切れ味抜群との評価が高い。

 世界の名だたるシェフ達が日本の包丁を認めて持とうとしている理由は、何と言ってもやはりその切れ味であるという。

 鋏も同様である。

 刃物で世界的に有名なツヴァイリングも良く切れるが、ドイツ、ゾーリンゲンのツヴィリングJ.A.ヘンケルス社は最高級ラインの商品を製造する工場を、岐阜県関市に置いている。

 最高の切れ味を実現するには、日本の職人、特に研ぎの技術が必要だからだという。

 ドイツの会社のフラッグシップモデルである洋包丁が、日本で製造されているということは、業界外の人にはあまり知られていないかもしれない。

(因みに、ゾーリンゲンは、地方の名前であり、ツヴァイリング(zwillinge)はそのマークが示すように双子の意)


 日本料理の料理人が愛用する和包丁の産地は、大阪の堺市である。堺市の刃物の全国シェアは約7%と小さいが、プロ用の和包丁に関しては90%以上のシェアを誇っているという。他には燕三条や、日本刀「関の孫六」で知られる関市などがある。

 日本の包丁造りは分業によるが、堺の包丁づくりも同様で、鍛冶、刃付け、柄付けと製造工程が分業化されている。

 意外に多くの人が知らないが、日本の職人の技術は、日本刀にしろ浮世絵にしろ染め物織物にしろ、分業が多い。

 自分の分担するところを工夫し、コツコツ技術を磨き上げ伝えてきたのである。












  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

エッセイ「普通に考えてみると(二)」 @SyakujiiOusin

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る